「そうじゃないってば。何でもないのよ」
新谷みゆきは、いい加減苛《いら》々《いら》して来て、電話口の向うの母親の不機嫌な声を遮った。 「どうしてこんなに時間がかかるのか、私だって分かんないわよ。警察の人に訊《き》いて。──学校の方には連絡してもらってるし。──え? だって、そうしなきゃ、休みになっちゃうよ。──うん。でも、別に私が何かしたってわけじゃないし……」
みゆきは疲れて来た。母親にとっては、子供が警察へ呼ばれて行ったというだけでも、我慢できないほど恥ずかしいことなのである。
しかも、無断欠席にならないように、警察の人に頼んで、学校の方へ連絡してもらったのも、母親には面白くないらしい。
「どうして、うちへ電話しなかったの!」
と、突き刺さりそうな、とげのある声を出す母親へ、
「電話したわよ。いなかったじゃない」
と、みゆきは言い返した。
「お昼過ぎには帰ってたわよ」
「それまで学校に連絡しなかったら、学校の方が心配するわ」
みゆきは私立の女子校へ通っているから、休みや遅刻の場合には、必ず始業前に電話することになっている。誘拐という点を、学校側は一番心配しているからだ。
「ともかく……もう、連絡しちゃったのは仕方ないわ。早く帰ってらっしゃい」
「だから、待っててくれって言われてるの。勝手に帰れないじゃない」
みゆきはもう、うんざりして来た。
「ともかく、家で心配してるから、と言って帰ってらっしゃい。分かったわね」
「だけど──」
電話はパッと切れてしまった。みゆきは腹が立ったが、もう何を言っても向うには聞こえないのだから、仕方ない。
みゆきの母は、学校でPTAの役員をしている。だから、理由はどうあれ、娘が警察に連れて行かれたというのが知れ渡ることを、いやがっているのである。
母にとっては、人が一人死んだなんてことは、どうでもいいのだ。みゆきはそう思って、ますます苛々して来た。
「すみません」
と、みゆきは、通りかかった人を捕まえて言った。「私、もう三時間も待っているんですけど、いつまでいればいいんですか?」
「え? 何の用で?」
と、相手はキョトンとしている。
「いいんです」
みゆきは、またベンチに腰をおろした。
いい加減くたびれている。──あれこれしつこく訊かれて、何度も住所を書かされて、そのあげくが、このベンチに座って待っててくれ、と言われて、それっきり。
警察ってとこも、中は普通のお役所みたいだわ、とみゆきは思った。ただ、お役所は大体のんびりしているけど、ここは少し忙しそうだ。
電話があちこちでひっきりなしに鳴っている。自然、話す声も大きくなるから、やかましいのである。
「──やあ、ごめんね、待たせて」
と、若い刑事が、小走りにやって来る。
「あの──」
と、立ち上がりかけると、
「もう来ると思うんだ。もうちょっとここで待ってて。悪いけどね」
みゆきは、がっくり来て、また腰をおろした。お尻《しり》が痛くなって来る。
──帰っちゃおうかな。こんなに放っとかれたんじゃ、参っちゃう!
もう午後の三時。学校でも、授業が終わるころだ。
みゆきは、ふくれっつらになって、座っていた。すると、何だかやけにドタドタと足音を立ててやってくる男がいた。
「おい、どこだ!」
と、やって来るなり、部屋中に響き渡るような大声を出す。
「あ、麻井さん」
と、一人が立ってやって来ると、「誰ですか、捜してるのは?」
「女の子だ」
麻井と呼ばれたその男、もう五十は過ぎているだろう。頭の禿《は》げ具合は、みゆきの父と同じくらいだった。
「鳴海の死んでるのを見付けたって子だ。ここにいると聞いて、飛んで来たんだぞ」
麻井という男、本当に走って来たのか、肩でハアハア息をしている。
「それじゃ、そこに座っている子じゃないですか。田口の奴が見てたんだけど……どこに行っちゃったのかな」
みゆきは、麻井という男のギョロッとした大きな目に見つめられて、ドキリとした。
「──君か」
と、みゆきの目の前にやって来て、「鳴海が死んだとき、そばにいたというのは」
みゆきは、少しためらってから、
「あの人、『なるみ』っていうんですか? よく知らないんです」
と言った。
「そうか。聞いてないのか。──そうだろうな」
麻井は、少し落ちついた声で言って、肯《うなず》いた。 「君、名前は?」
「新谷みゆきです。もう何度も答えました」
「そうだろうな。──大分待ったかね」
「ここに三時間座ってます」
「三時間? そりゃ悪かった。急いで来たんだが、ともかく山の中にいたんでね」
麻井は、ちょっと笑顔を見せた。「──ひどいな、しかし。三時間も放ったらかしとは。昼は食べたか?」
「いいえ。お弁当持ってるんですけど、ここじゃ食べられないし」
「何やってるんだ、全く……。いや、そりゃ悪かった。何かおごろう。外に出て、何か食べようじゃないか」
「いえ……。どこか、お弁当食べられるところがあれば──」
「そう言うな。私も昼抜きでペコペコなんだ」
みゆきが立ち上がると、麻井は肩に手をかけて、「──おい! この子を連れて出たと田口の奴に言っといてくれ!」
と、大声を出す。
特定の誰に言ったのでなくても、これだけの声なら、部屋中の人間に聞こえただろう。
警察署を出ると、二人は二、三分歩いて、チェーンレストランに入った。
「こういう所は、大して旨《うま》くないけどな」
と席について、麻井が少し申し訳なさそうに言った。「しかし、あんまり遠くへ行くと、戻るのに大変だ。帰りはちゃんと送らせるからね」
「いいんです。ただ──母が心配していますので」
「そうだろう。三時間もね、いや、すまんね全く」
麻井は、出て来たおしぼりでギュッと顔を拭《ぬぐ》った。
「──やれやれ、真黒だ。採石場で捜査があってね。埃《ほこり》だらけだよ。君、何を食べる?」
みゆきは、メニューも開かずに、
「ビーフカレー」
と言った。「うちの近くにも、この店があるんです」
「そうか。じゃ、同じにしよう」
──オーダーがすむと、麻井は窓越しに表の通りを少し眺めていた。何となく、寂しげな横顔だった。
「あの男の人……」
と、みゆきが言いかけると、麻井はふっと我に返ったようで、
「うん。鳴海というんだ。『鳴る海』と書く。本当の名前かどうかは分からないが……」
本当の名前だ、とあの人、言ってたわ。
僕は鳴海というんだ。鳴海──本当の名だと思ってない奴が多いけど、本当にそういうんだよ。
「ずいぶん長い付合いでね」
と、麻井は言った。「だから、死んだと聞いたとき、本当にびっくりした。まだ、三十代だったはずだ」
「若そうでした」
「もう他の奴に話しただろうが、もう一度、鳴海が死んだときのことを、聞かせてくれないか」
と、麻井は言った。「いや、食べてからにしよう。こっちも腹が鳴るのでうるさくて、話を聞いてられないかもしれない」
みゆきは、その言葉に、ちょっと笑った。
本当はそれどころじゃない──笑っていられるような、そんな気分じゃなかったのだけれど。
人が死ぬのを、そばに座って、じっと見ていたのだから。
でも、その大きなショックは、まだ実感されてはいなかった。たぶん何日かたって、初めて「怖い!」と思うのではないだろうか。
だから割合気楽に、みゆきはカレーを食べ、それから話をすることができた。
「──そうか」
麻井は、肯いて言った。「そりゃ怖かっただろうね。鳴海のそばに、どれくらい座ってたんだい?」
みゆきは、ちょっと考えた。──麻井は、みゆきがどれくらいの時間だったかを考えているのだと思っただろう。しかし、そうじゃなかった。
みゆきは、どれくらいの時間だったと言えば、話さずにすむか、考えていたのだ。
「三十分か……四十分だと思います。正確じゃないですけど」
と、みゆきは言った。
「うん。そうか。それから君は駅の外へ出て──」
「一一〇番と一一九番へかけたんです。でも警察の方からも、救急車を手配してあったんで、二台来ちゃって」
「それはいいんだよ。それが朝のことだね」
「はい。朝のラッシュアワーでした」
「それから今まで、ずっと止めておかれたわけか。すまなかったね、全く。私も話を聞いたのが昼過ぎで……。どこにいるか、つかむのが容易じゃなかったようだ。いつも風来坊なんでね。──何か飲むかね」
「じゃあ、紅茶を」
と、みゆきは言った。
麻井が自分にはコーヒーを注文すると、それから少し身を乗り出すようにして、
「死に際に、鳴海は──その男は何か言わなかったかね」
と、訊いた。
「何かって……どんなことですか」
「何でも──。言い遺したいことがあったかもしれない。あるいは、誰が自分を刺したか、君に言わなかったかな?」
みゆきは、その同じ質問にも、もう何度も答えて来ていた。今になって、答えを変えるわけにはいかない。
「何も」
と、みゆきは首を振った。「特別なことは何も。ただ、そばにいてくれって。それだけでした」
「そうか」
麻井は肯いて、それきり黙っていた。コーヒーが来ると、黙ったままガブ飲みする。
みゆきには意外な気がした。もっとしつこく訊かれるかと思ったのだ。
「本当に何も言わなかったのか?」
とか、
「よく思い出してくれ」
とか……。
でも麻井は、それ以上訊こうとはしなかったのだ。そして、コーヒーをほとんど飲み干してしまうと、フーッと息をついて、
「あいつは寂しがり屋だったんだ」
と、だけ言った。
「麻井さん──でしたっけ」
と、みゆきは言った。
お腹も一杯になって、少し元気も出て来ていた。
「うん。何だね?」
「鳴海っていう人──」
「うん、奴はね、人を殺すのを仕事にしていたんだ」
と、麻井は言った。「いわゆる『殺し屋』というやつさ」
「そんな風に見えませんでした」
「そりゃそうだよ。本当の殺し屋が、サングラスに革手袋、トレンチコートなんて格好してたら、目立って仕方がない。どこにでもいるような男でなきゃ、相手に近付けないよ」
「そうですね」
「だから、あいつも覚悟はしていたはずだ。いつか消されるだろうと。だから君にも、助けを求めず、ただ一緒にいてくれとだけ頼んだんだと思うよ。あいつらしいことさ」
麻井の言い方は、いかにも好感に溢《あふ》れていて、みゆきを戸惑わせた。
「刑事さんなのに、仲が良かったんですか」
「うん、まあね。──あいつが、まだほんのチンピラのころからの付合いさ。悪さはしても、どことなく憎めない奴だったよ」
麻井は、ゆっくりと首を振った。
「──犯人を、捜さないんですか?」
と、みゆきが訊くと、麻井は真剣な顔で、少しむきになった。
「捜すとも。もちろん見付けてやるさ。ただ、容易じゃあるまいがね」
「やっぱり殺したのも……『殺し屋』っていうような──」
「もちろんさ。背広の上から刺すんじゃなくて、背広をめくって、その下を刺していると言ったろう? すぐには目につかないから、逃げる余裕も充分にある。かなりのベテランの仕事だよ。あいつもベテランだったんだが」
「怖いですね」
と、みゆきは言った。
「まあ──しかし、君には別に何の害も及ばないさ。君はただ、鳴海のそばにいただけだ。びっくりしたろうし、いやな思いもしただろうが、早く忘れることだ」
「はい」
紅茶には、たっぷりミルクを入れて、それで少しぬるめにして、一気に飲んだ。こういう飲み方が好きだ。母親は、もったいない、なんてケチなことを言うが。
「──行こうか」
と、麻井が立ち上がった。
「はい。ごちそうさまでした」
「いや、こんなもんで、悪かったね」
麻井は、少し照れたように言った。
店を出て、二人はまた警察署の方へと戻って行った。
「──すぐに帰れるようにするからね。全く、呑《のん》気《き》で困る。お役所なのでね、警察って所も」
みゆきは、ちょっと笑った。
「──おい、田口!」
麻井が、さっきの若い刑事が署から出てくるのを見て、手を振った。
「あ、麻井さん。どこに行ったのかと……」
「おい、何だ。こんな子を三時間も放っとくとは」
と、文句を言いながら、麻井は大《おお》股《また》に歩いて行く。
みゆきは、遅れて歩いて行った。自分のとは少し違う型のセーラー服を着た女の子が、すれ違って行く。
その少女が自分の方を見たので、みゆきもその子の顔を見た。──何となくこっちを見た、という感じではない。分かっていて、見たのだ。しかし、みゆきは、その少女を知らなかった。
誰だろう? 見たことのない子だ。
とはいえ、顔を合わせたのは、ほんの一瞬のことでしかなかった。それに、少し傾き始めた日射しを背にしていたので、少女の顔は、ややかげになっていた。
みゆきは二、三歩行って、足を止めた。
今の子──どこかで見たことがある。
どこかで……。
「悪かったね」
と、その若い刑事が、頭をかきながらやって来る。「こんなに時間がたってるとは思わなかったんだ。つい忙しくて──。家まで、パトカーで送らせよう」
「いえ、いいんです」
みゆきは、あわてて言った。
パトカーに乗せられて来たなんて、母が知ったら、それこそヒステリーだろう。
「そうかい? じゃ、電車で?」
「ええ。まだそんなに混み出す時間じゃないから、電車の方が」
朝のラッシュとは違って、帰りは、座れるところまではいかなくても、楽に立って本を開くぐらいのゆとりはある。途中から乗って来る人もそう多くはないし……。
みゆきは、ふっとめまいがするほどのショックを覚えた。顔から血の気がひいていただろう。
ただ、麻井と田口は何か他のことを話していたから、気付かなかった。
今の少女──すれ違った少女。あれは、朝、鳴海が刺されたとき、ちょうど表のホームに立っていた少女──鳴海を刺した少女だった!
みゆきは、振り向いた。