とても住む気にはなれない町だった。
もちろん、それは住んでいる人間の責任じゃない。町がまだまだ出来上がっていない、というだけのことだ。
しかし、誰かが車でここを通りかかったとしても、まず停めて降りてみたいとは思わないに違いない。
殺風景な町である。緑が沢山残っていれば、それはそれなりに風情もあろう。しかし、ここにはそれすらもない。
木は全部抜き去られて、のっぺりとした空地に変っているが、家が数えるほどしか建っていないので、それ以外の土地は、ただ砂《すな》埃《ぼこり》の原因にしかなっていないのである。
鳴海は散々歩き回った末に、くたびれて小さなスナックに入った。
昼間は、喫茶店と食堂を兼ねているらしい。
一応、食べるものもある。鳴海はホッとした。
「カレーとコーヒー」
面白くもない注文をして、埃で白くなった窓から、閑散とした通りを眺めた。
ここへ、あの子たちは何をしに来たのだろう?
鳴海は、あの殺しをやった場所から、道を辿《たど》って来たのだ。自転車に乗った三人は、よっぽど遠くから来たのでない限り、この町から、あの道を通って駅の方へと出たはずである。
しかし、この町で、あの子たちは何をしていたのだろう。
殺しをやってから、一週間たっていた。死体が見付かったのは四日後のことで、たまたま犬があの辺に逃げ込んだのを、飼主が捜していて見付けたのだった。
まあ、鳴海としては四日間もあれば、充分だった。人の記憶も、はっきりしているのはせいぜい一日で、今ごろ警察がいくら調べたところで、まず何もつかめまい。
ボスもご機嫌で、報酬の他に、いくらか小遣いをもらった。ほんのいくらかである。しかし、あの「ケチ」としては、思い切ったことだ。
もちろん、鳴海はあの少女のことを言っていない。賞められただけに、ますます言い辛くなってしまった。
あの少女は、鳴海を見たことを警察に届けていない。きっと関り合いになるのがいやなのだろう。
それとも、鳴海がはっきり見たほどには、向うはよく見ていないのかもしれない。
普通の女の子の心理としては、早く忘れて、誰にも言わずにおきたい、というところだろう。それなら、鳴海にとっても好都合ではある。
だが……。万が一。──これが、鳴海には一番怖い言葉だった。
もしあの少女が、遅ればせながら、市民の義務を果すべきだと思い直して、警察へ行ったとしたら……。
当然、向うは前科のある連中、犯人の可能性があると目をつけている顔を、次から次へと少女に見せる。
見分けられないという可能性もあるが、もし、よく憶えていたとすれば──その中に、鳴海の顔があるのは確実なのだから、少女はきちんと見分け、これです、と指さすかもしれない。
そうなれば、もう鳴海はアウトである。
警察にも、知った顔がいくらもいる。麻井のように、何となくうまが合って、仕事でさえなきゃ、会っていて楽しい奴もいるが、それは例外で、一《いつ》旦《たん》鳴海がやったと分かれば、とことん追ってくる。
そうなると、鳴海はボスからも見放されてしまう。それどころか、口封じに消されるかもしれない。──ギャング映画だけのことじゃないのである。
やはり、何とかしてあの少女を見付け、始末しなくてはならない。しくじったら、却《かえ》って大変なことになるが、まず大丈夫。
ただ問題は、いかにして見付けるか、である。
「──お待たせしました」
と、太ったおばさんが、カレーとコーヒーを同時に運んで来た。
窓の外から視線を戻した鳴海は、食べながら、ぼんやりと店の中を見回した。
──そのポスターを、もう何度も鳴海は見ていたはずだった。
〈××市特別コンサート〉
音楽会か。──それにしても貧弱なポスターである。写真の一枚もない、ただ文字だけのポスター。
きっと古いのを、そのまま貼《は》ってあるのだろうと思った。だが日時を見ると、今週の末だ。
音楽会。──楽器か。
そう。もしかすると……。
「こんな所でコンサートがあるんだね」
皿を下げに来たおばさんに、鳴海はさり気なく言った。
「ええ。年に二回くらいね。でも、割と評判いいんですよ」
と、おばさんが言った。「知ってる人の娘さんが出てるもんで、ポスターを貼ってくれって、頼まれててね」
「どこのオーケストラなんだい?」
ポスターは〈××市立オーケストラ〉とある。
「ああ、あれはね」
と、おばさんは笑って、「このコンサートのときだけ。素人ばっかりですよ」
「へえ。しかし、素人だけで、よくオーケストラがやれるもんだね」
コーヒーを飲んで、鳴海は苦さに顔をしかめた。いくら砂糖を入れても、これじゃだめだろう。
「学生さんを借りてるんですよ」
と、おばさんが言った。
「学生を?」
「ええ、高校生とか大学生とかね。半分くらいは学生さん。ほら、今は私立だと、結構オーケストラがあるんですって」
「へえ。そんなもんかね」
「でなきゃ、素人だと、ヴァイオリンとか、そんな楽器ばっかりでしょう。珍しい楽器は、そういう所から借りて来ないと、曲ができないんですって」
「なるほどね」
鳴海は肯《うなず》いて、 「ホールって、どんな所にあるの?」
「少し先ですよ。役所の建物があるでしょ」
「ああ、見たよ。新しい、きれいな建物だろ?」
「そこの中にホールがあるの。結構、きれいで新しくて、大きいんですけどね。──普段は使う人いなくて、奥さんたちがカラオケとか何かやってるんですって」
「それじゃホールが泣くな」
と、鳴海は、笑った。「──ごちそうさん」
店を出ると、鳴海はその市役所へと歩いて行った。
これがそうなのか。──周囲の閑散とした風景にはおよそ合わない、モダンな建物である。周辺がにぎわって、これが目立たなくなるのは、いつのことだろう。
〈ホール〉と書かれた矢印を辿って行くと、裏へ出てしまった。戻って捜して歩くと、途中で矢印が少し上を向いている。階段を上がれということなのだ。
やれやれ……。
全く、役所ってとこは!
ホールは、今日はカラオケ大会もないらしく、入口に鍵《かぎ》をかけてあった。ロビーが、ガラス扉越しに見える。かなり広いようだ。
どんなオーケストラが出来上がるのか知らないが、こんなホールを満員にするほど、客は入るのだろうか?
足音がして、振り向くと、メガネをかけた学校の先生みたいな女性がやってきた。
「ご用ですか?」
と、無表情な声で訊く。
「あの……」
鳴海は、とっさに思いついた。「利用方法についてうかがいたいんですが」
「この市の住人ですか?」
「いえ──」
「じゃ、ご利用にはなれません」
「いや、つまり、知人に頼まれたんです。その──」
「じゃ、どうぞ」
鳴海は、相手の対応に、すっかり呆気《あつけ》に取られていた……。
小さな事務所みたいな部屋へ連れて行かれて、書類を何枚も渡される。
「ここは責任者の名前、ここに印鑑、ここには住所──」
ポンポンと言葉が出て来るので、聞いている方は、ただ肯いているだけである。
全然頭には入っていない。
「で、ホールの空きは……」
「いつご利用?」
「あ……まだ正確には──」
「今のところはですね」
と、分厚いノートを開く。
これが見たかったのだ。鳴海はホッとした。
──一週間前。
〈オーケストラ・リハーサル〉
と、入っている。夕方四時から。
これだ。──やはり、あの女の子たちは、このリハーサルに来ていたのだろう。すると、あの少女もおそらく……。
鳴海は早々に礼を言って、引き上げた。
──その日、鳴海は電車で二時間近くも乗って、都心へ出た。
銀座の大きな楽器店へと足を運んだのである。一階二階はレコードやCDのフロア。
三階へ上がると、ガクンと客の数は減ってしまう。楽譜の売場なのである。
楽器の売場はさらに一つ上だ。こちらはもっと空いている。
ブラブラと歩いてみるが、鳴海には、どうやって音を出すのかわからないような楽器が沢山並んでいて、面白いような退屈なような、だった。
──あれだ。
鳴海は、ガラスのケースの奥に、あの少女が手にしていた、奇妙な形の鞄《かばん》を見付けた。
そうか。あの子が持っていたのは、「ホルン」という楽器なのだ。
金管楽器にしては丸く柔らかいホルンの音が、ホールの中に、快く広がった。
オーケストラがピタリと動きを止め、ホルンだけがメロディを奏する。
そしてもう一度、オーケストラが一斉に鳴って終わった。
ワーッと拍手が起こる。鳴海は、ハッと目を覚ました。
何しろクラシックなど聞いたこともない。始まると、たちまち眠くなってしまった。
目を覚まして、一応拍手はしたが、それよりも周囲を見回して、ほぼ客席が埋っているのにびっくりした。入ったときは、まだパラパラで、これじゃ演奏する方も気の毒だな、と思ったのだが、その後ずいぶん入って来たらしい。
オーケストラも、どうせ小さいんだろうと思っていたのだが、八十人はいる感じだった。ただ学生が多いのは確かなようで、この間ラーメン屋にいた三人も、前の方でヴァイオリンをひいていた。別人のように、神妙な顔をしている。
ホルンは、奥の方で、よく見えなかった。
鳴海は、一階の前の方の席に座っていた。
といっても、あまり前では、向うに見られるし、居眠りするのも見っともない。十列目に座ったのは、別に理由があってのことではなかった。
指揮者は太った中年の男だったが、拍手に応えて頭を下げると、禿《は》げた頭から汗がしたたり落ちた。
指揮ってのはダイエットになるのかな、と鳴海は思った。
拍手が続いて、一《いつ》旦《たん》袖《そで》に引っ込んだ指揮者がまたステージに戻って来る。そして、一度客席の方へ頭を下げると、オーケストラの方を向いて、誰かに、立つように手で合図をした。
ためらいがちに立ち上がったのは、ホルンを手にした少女だった。──あの少女だ。
もちろんセーラー服ではない。白のブラウスと紺のスカート。しかし、顔は間違いなくあの少女だ。
拍手がその少女に浴びせられ、少女は頬《ほお》を紅潮させた。照れながらも、嬉《うれ》しそうだった。
その気持が、客席の鳴海にも手に取るように分かる。──きっと難しい楽器なのだろう。
楽器のことなどさっぱり分からない鳴海だが、その少女のホルンの音が、かなりきれいに鳴って、オーケストラ全体を引き立てていたことは、何となく感じられた。
ヴァイオリンの子たちが、弓で軽くヴァイオリンの胴を叩《たた》いている。あの少女に拍手しているのだと、鳴海にもわかった。
──申し訳ないが、と鳴海は思った。このオーケストラは、新しいホルンの奏者をどこからか見付けて来なくてはいけなくなる。今夜が、その少女の最後の舞台になるのだから。
鳴海は無意識に、上衣の上から、内ポケットのナイフの手触りを確かめた。
──なお、拍手はしばらく続いた。
もちろん、あのホルンをかかえた少女は、もう席に座っていたが、指揮者が手で合図する度に、オーケストラ全員が立ち上がり、あの少女も立ち上がっているのが目に入る。──そのパターンが三回ほどくり返されてから、アンコールの曲が演奏された。
今度は短い曲だし、やたらにぎやかで鳴海でも聞いたことのある曲だったから、眠くはならずにすんだ。今度も、あの少女のホルンの音がオーケストラの響きを貫くように聞こえて来て、正直なところ鳴海はびっくりした。一人だけでも、上手《うま》い奴というのは、他の何十人を合わせたより大きな音が出せるものなのか。
本番の方では大分もたついて、妙な音を出していたトランペットなども、今度はきちんと吹けたらしく、曲は勢いよく突進するように鳴って、終わった。ドッと拍手が湧《わ》く。
面白いもんだ、と鳴海は思った。さっきの拍手は、かなり「義理」という感じもあったのだが、今度ははっきり「賞讃」の拍手になっている。ただの拍手にも、「顔」がある。
──そろそろ帰り始める客もいた。
しかし、大部分は残って拍手を続けている。
予め決められていたのだろう、袖から若い女性が現われて、指揮者に花束を渡した。
まあ、この辺が潮時──というわけか、拍手も次第に静かになり、オーケストラが立ち上がって、袖へと戻って行く。
鳴海は席に座ったまま、あのホルンの少女が、一旦ステージの前の方へ出て来てから、袖に向って歩いて行くのを見ていた。奥の方から出て来るので、どうしても引込むのは最後に近くなる。
すると──花束を手にした若い男が一人、帰りかける客の流れを逆にかき分けて、ステージの方へ駆け寄った。そして、あの少女に花束を差し出したのである。
少女は、ちょっとびっくりして、戸惑っていた。──私に? その顔は、そう訊いていた。
その若者が、あまり高価とは思えないその花束を、少女の方へと高く差し出すと、少女はホルンを左手に持ちかえて、花束を受け取った。口の動きで、ありがとう、と言っているのが分かった。
どうやら、知った顔ではないらしい。それだけに少女は嬉しそうだった……。
──鳴海は、ホールから外へ出た。
風が猛烈に冷たく、頬が痛いようだ。ホールを出た客たちも、外の寒さに震え上がって、駅の方へと急いで歩いて行く。
駅までは近いのだが、電車で帰る人はそう多くない。車で来ている客も多かったようだ。
さて……。どうするか。
鳴海は、楽屋の出入口を、予め下見していた。
駐車場へ出る通路の途中にあり、今は車で帰る客が、ゾロゾロと歩いている。
今夜は無理かもしれないな、と思った。
楽屋の出口辺りは、大勢人が待っている。出演したオーケストラのメンバーの知人や家族なのだろう。特に、あの女学生たちの家族は一緒に帰るだろうから、今日、ここで少女を狙《ねら》うのは難しい。
せめて、学校の名前でも分かるといいのだが……。
ともかく、風を避けて、鳴海は電話ボックスに入った。ちょうど楽屋の出口が見える位置だ。何をしているのかと怪しまれても困るから、一応受話器を取って耳に当て、話しているふりをする。
普通の客たちが帰って、大分閑散として来てから五分ほどたって、楽屋口のドアが開き、手に手に楽器を下げた人たちが出て来る。
一人、また一人と、家族や連れを伴って、駅の方や駐車場へと歩いて行く。──あの女学生たちは、なかなか姿を見せなかった。
きっと、一緒に出て来るのだろう。
少し人の姿が途切れてから、やはり一斉に、女の子たちがガヤガヤ騒ぎながら出て来た。──あの少女は?
鳴海は、目をこらして、女学生たちを見たが、あの少女の顔はなかった。そう、ホルンのケースも見当らないのだ。
何をしているんだろう?──女学生たちも待っていた家族と、次々に姿を消し、楽屋口には誰もいなくなってしまった。
──妙だ。鳴海は少し焦った。
見逃したのだろうか? 注意して見ていたのだが。
もう誰も待っていない。こんなことがあるだろうか。あれだけ活躍していながら、家族や友人が誰も聞きに来ないということが……。
それに、他のヴァイオリンの子たちも、あの子を待とうともしない。──妙な話だった。
だが、そういえばこの間も、あの少女は一人で歩いていたわけだ。他の三人が一緒に自転車で帰っていたのに。
何かわけがあったのかもしれない。
しばらく電話ボックスの中で様子を見ていた鳴海は、楽屋口から誰も一向に出て来る気配がないので、仕方なくボックスから出た。
こんなに出て来るのが遅いわけがない。すると、初めワッと出て来たときに、あの少女も混っていたのかもしれない。大人たちの間に入れば、姿が見えなくても当然かもしれなかった。
仕方がない。諦《あきら》めて帰ろうと歩きかけた鳴海は、急に誰かがホール正面の柱の陰から出て来たので、びっくりして足を止めた。
少女に花束を渡した、あの若者である。鳴海の方をチラッと見ただけで、楽屋口へと歩いて行く。
鳴海は、足を止めて振り返った。若者が楽屋口の前に行って、ためらうようにドアを開けようとすると、いきなりドアが中から開いた。──あの少女が、ホルンのケースを下げ、紺のオーバーを着て出て来たのだった。
「あら──」
少女の声が、風に乗って聞こえて来た。「さっきはありがとう」
花束は、ちゃんと少女の腕に挟んであった。若者の方はおずおずと、
「よかったら、送りますけど……」
と言った。
「ありがとう。でも──」
少女が、少し間を置いてから鳴海の方を見た。鳴海はギクリとした。
しかし、もっと鳴海をびっくりさせたのは、少女が、
「迎えに来てるから」
と言って、鳴海の方へ、「あそこに」
と、視線を向けたことだった。
「そうか……」
若者はがっかりした様子を、極力見せないように、「じゃ、またいつか──」
「ええ。とても嬉しかったわ」
と、少女は言った。
「また、聞かせてほしいな」
「そうね。ぜひ……」
「じゃあ」
「さよなら。わざわざありがとう」
若者が歩き出す。少女は、鳴海の方へと歩いて来て、
「お待たせして」
と言った。「行きましょう」
「うん」
鳴海は、他に仕方なく、少女と調子を合わせて歩き出した。あの若者が見送っているのが、視界の端に見えている。
──何だ、この子は? どういうつもりだ?
ただ、あの若者の誘いを断るためだけに、そばにいた鳴海を利用したのなら、後になって、あの若者と付合っていれば良かったと後悔するに違いない。
ともかく、あの若者が見送っている間は、鳴海としても手が出せないのだ。二人は、肩を並べて歩いていた。──殺す者と殺される者という、奇妙な取り合わせの二人連れは──。
少女は駅へ行くのとは逆の方向へ折れた。
高くなった線路の土手の下、暗い、殺しにはうってつけの場所である。
車輪の音を響かせて、電車が頭の上を駆け抜けて行った。
少女は足を止めると、振り返り、
「──もう見えないわ。大丈夫」
と言った。
鳴海は、何となく気勢をそがれた感じで、少女を見ていた。──薄暗い中で、その黒い瞳が光って見える。
殺人を目撃した、その目である。
「君は──」
と、鳴海が言いかけると、少女は腕に挟んでいた花束をつかんで、鳴海の方へ差し出した。
鳴海が戸惑って、それを受け取ると、少女は言った。
「あなた、私を殺しに来たんでしょう?」