みゆきは、切れた受話器を手にして、ぼんやりと立っていた。
廊下は少し黄昏《たそが》れて、ほの暗くなっている。磨き上げた廊下も、暗くなるとカーペットでも敷きつめたように、真っ黒に見えるのだった。
普通に歩いて来れば、スリッパの音が耳に入るはずだ。みゆきの母親は、そっと足音をたてないようにやって来たのに違いない。
少なくとも、みゆきはそう思った。
「みゆき!」
母の鋭い声が飛んで来て、みゆきはギクリとした。反射的に受話器を置く。
「──誰からの電話だったの?」
母は、スリッパをパタパタいわせながら、歩いて来た。
「知らないわ」
と、みゆきは肩をすくめた。
「出ておいて、知らないはないでしょう」
「だって、分からないんだもの。間違いよ、きっと」
「嘘《うそ》つくのはやめなさい!」
母の声はヒステリックになった。「あの子からでしょう! 正直におっしゃい!」
「やめてよ、お母さん」
みゆきはうんざりして、「牧野君からじゃないわよ」
「だったら、どうしてお母さんに言えないの?」
「知らない人だもの。間違い電話よ」
「間違い電話っていう話し方じゃなかったでしょう」
母にここまで絡まれると、みゆきもムッとした。
「牧野君だったら、どうだっていうの? 私はもう一七よ! 男の子と電話でしゃべってもいけないの?」
「ほらね、やっぱりそうだったのね」
「違うって言ってるでしょう」
「そうむきになることはないでしょ、違うのなら」
「お母さんがしつこいからよ」
「あなたが変にごまかそうとするからよ」
「いつごまかしたって言うの!」
「現に嘘をついているじゃないの」
母の言葉は、まるでクモの糸のように、みゆきをからめ取った。「二度と電話しないという約束よ。約束を破ったからには、警察へ連絡しますからね」
みゆきの顔から血の気がひいた。
「やめてよ、お母さん。──本当に、牧野君じゃないわ。一度も電話して来てない。本当よ!」
「あなたが嘘をついたり、かばったりする限りは、放っておけないわ」
みゆきは、厳しい母の表情の前に屈した。
「──分かったわ」
と、目を伏せる。「ごめんなさい」
「牧野君からの電話だったのね」
「ええ」
「何と言って来たの?」
「別に……。ただ、元気かどうか。声が聞きたかったって……」
みゆきは、母の目を、哀願するように見入った。「お母さん、お願いだから、警察に言わないで」
「二度と嘘をつかないって約束する?」
「するわ」
「嘘はつきません、と言いなさい」
「二度と嘘をついたりしません」
唇《くちびる》を切るような、寒い言葉だった。
「いいわ」
と、母は言った。「今度だけは見逃してあげる。今度かかって来たら、いくらあんたが頼んでも、許さないわよ」
「はい」
「部屋へ行ってなさい。もうすぐ夕ご飯よ」
みゆきは、階段を上がって行った。
新谷尚子は、娘が自分の部屋へ入って行くのを、階段の下から見届けると、居間へと戻って行った。ついでに、廊下の明りをつける。
「──おい」
ソファで夕刊を広げていた新谷が、尚子を見て言った。「みゆきにきつ過ぎるんじゃないか?」
「いいのよ、あれくらいで」
と、尚子は考えもせずに言った。「ああいう不良は、ちょっとやそっとじゃ諦《あきら》めないのよ。ビシッとやってやらなくちゃ」
「しかし、却《かえ》ってみゆきが反発するんじゃないか」
「あなたは、すぐそんな甘い顔を見せて!」
と、尚子は夫をにらんだ。「それだから、みゆきも真剣に反省しないのよ」
「だけど──」
「みゆきのことは私に任せて」
と、尚子は遮った。「自由にさせておいたから、あんなことになったんですからね」
新谷は、ため息をつくと、夕刊の紙面に目を戻した。──任せて、と言われれば、もう自分の責任ではないのだ。
養子の身としては、それはそれで気が楽であった。少なくとも、あなたのせいよ、と妻の尚子にわめかれるよりは、ずっといい。
みゆきにとって、どうなのか。──それはあえて考えないことにした。
──殺したら?
みゆきの頭の中に、あの奇妙な言葉が、こだまのように飛び交っていた。
しかも、普通のこだまとは違って、そのこだまは、はね返り、呼び交わす度に大きくなって来るようだ。
二階に上がって、自分の部屋へ入ったみゆきは、ベッドへ突っ伏すと、柔らかい枕《まくら》の中へ、顔をねじ込むようにして、思い切り叫び声を上げた。そして枕を、強く強く、歯でかみしめた。布の裂ける音がした。
仰向けになって、暗い天井を見ながら、みゆきは激しく呼吸をした。──そうしたところで、母への怒り、憤りは消えなかった。
悔しかった。しかし、涙は出ない。泣ければ、却って気持は楽になったかもしれないのに。
果しない屈辱感と憎しみだけが、内へ内へと凝縮されていくのを、みゆき自身、感じていた。それは、たまらなくいやなことだったが、しかし、母がみゆきを信じない限り、それはいつまでも続くに違いないのだ。
「お母さんの──馬鹿!」
取りあえず、そう口に出して言ってみる。
取りあえず、だ。そんなもの、何の効果もありはしないのだけれど。
──見当違いなのだ。
さっきの電話は、本当に牧野純弥からではなかったのだ。それなのに……。
自分の方が正しいと分かっているのに、母の前で膝《ひざ》を屈し、嘘をつきません、と口に出して言わされたのが、みゆきを深く傷つけたのは当然のことだ。
母はきっと、娘に勝ったと思っていることだろう。──やっぱり私が正しかったのよ、と。
そうではない。みゆきが謝らなければ、母は警察に電話をして、親《しん》戚《せき》に当る警部へ、牧野純弥がまた娘に手を出そうとした、と訴えるに違いなかった。
そうなれば、保護観察中の牧野純弥は、極めてまずいことになる。
部屋は、少しずつ、少しずつ、暗さを増していた。夜に満たされつつあった。
明りをつける気にもなれない。何をする気もない。──ただ、早くこの時間が過ぎ去ってくれればいい。
そして……母も。そう。お母さんなんて、いなくなってしまえばいい。
みゆきは目をつぶった。開いていても、つぶっていても、ほとんど変らないくらい、部屋は暗くなっていた。
「殺したら?」
──あれは何だったのだろう?
誰の、そして、どういう意味の言葉だったのか。
いや、本当に聞こえたのだろうか? それとも、聞こえたような気がしただけなのか。他の言葉を、聞き間違えたのか。
しかし、確かに電話は鳴ったのである。
「はい、新谷です。──もしもし。──どちら様ですか? 新谷ですが」
そう何度も、みゆきは名乗った。向うが、間違えていたはずはない。
「もしもし、こちらは──」
と、みゆきが言いかけたとき、聞こえたのである。
「──殺したら?」
という声が。
分からない……。あれは何だったのか?
たった一度、「殺したら?」と言っただけで切れてしまったのは、なぜなのだろう?
万一、あれが他の言葉だったとしても、たった一言だけ言って、切ってしまうというのはおかしい。
女性の声だった。それも、たぶん若い女性……。みゆきとそう変らない年齢の子ではないか。
一言だけでは、はっきりしたことは言えないが、何となく、みゆきはそう感じたのである。
もちろん、そんな電話をかけて来る友だちの心当りはない。
たった一言の電話。──それに何の意味があるのだろう?
みゆきは、しかし怖かったのだ。
怯《おび》えていた。──あの言葉が、まるで自分の内から発せられたような気がして。
「みゆき!」
ぼんやりと窓から校庭を眺めていたみゆきは、ふと我に返った。
「──呼んだ?」
と、友人の真田京子の顔を見て訊《き》く。
「呼んだわよ」
「ごめん。──ちょっと考えごとしてたの」
真田京子は、中学のころから、ずっとこの女子校で一緒だった親友である。美人とはいえないが、カラッとした明るい性格で、誰からも好かれている。
教師たちにも人気があった。もっとも京子の方では、数学や物理の教師は、
「人はともかく、教えてるものが最悪よ!」
というわけで、敬遠してしまっている。
「何を考えてたの? また暗いことばっかし?」
と、椅《い》子《す》を引いて座ると、京子が言った。
「さあ。──何考えてたか、忘れちゃった」
と、みゆきは肩をすくめた。
「隠すな」
「隠してないよ」
「あの子のこと? 純弥、だっけ」
「──考えないこともないけどね」
と、みゆきは頬《ほお》杖《づえ》をついた。 「でも、どうにもならないもん。もし会ってる所、見付かったら、退学間違いなし」
「本当にね」
と、京子が首を振って、「みゆきみたいな子が、ボーイフレンドのことで、学校から厳重注意なんて、間違ってるわよ」
「別にいいの。何を言われても」
「愛を貫き通す?──ワア、カッコいい!」
京子の言い方に、みゆきは怒るよりも、笑い出してしまった。
「──変だよね。ホテルに行ったとか、タバコすったとかいうんじゃなくて、ただ、お茶飲んでしゃべったりしてただけなのに」
「みゆきだから、問題になるのよ。私なら、最初から期待されない」
と、京子が肯《うなず》いた。
「私だから?」
「そう。だって、みゆきは我が校の代表なんだもの、何にしても」
「そうかなあ……。ただ、おとなしくて、言うことをよく聞くだけのお嬢様なんて、人間じゃなくて、お人形じゃない」
「仕方ないよ。学校が、そういうお人形を求めてるんだから」
そう。──みゆきにも、その点はよく分かっていた。
純弥との付合いがばれて──隠していなかったのだから、ばれて当然なのだが──暴走族との付合いなどとんでもない、と注意を受けながら、それ以上の処分にならなかったのは、みゆきが成績ではトップを争い、かつ、この女子校の優等生の典型だったからだということ……。
だからこそ、ますます、いやになってしまうのだ。学校も。そして、「いい子」でいる自分のことも。
「学校出たら、好きなことしよう!」
と、京子が言った。「──ね、そういえば、今日じゃなかったっけ?」
「何が?」
「ほら、他校訪問の取材」
「ああ……」
そうだった。すっかり忘れていた。
「いやね。どうしてこんな学校、選んだのかしら」
と、みゆきは言った。
他の女子高校の新聞部が、この学校を取材に来るのである。そして〈生徒へのインタビュー〉に選ばれたのが、みゆきだったのだ。
「でも、あれは、注意を受ける前よ」
と、みゆきは言った。「誰か他の人にするんじゃないの?」
「そんなことないよ」
と、京子が言い切る。
「どうして分かるの?」
と、みゆきは訊き返した。
「だって、新聞部の部長の母親と、うちの母、仲良しなんだよね」
「ああ、そうだったわね」
「話してるの、聞いたもの。みゆきがいいって、向うのご指名だったんだってよ」
みゆきには初耳だった。
「どうして? 私、知らないわよ、あんな学校の子」
「理由は分かんないけど。──みゆき、結構有名なんじゃない?」
「まさか」
みゆきは、顔をしかめた。
「──あと十分か。お昼休みって、どうしてこんなに短いの?」
「知らないわよ」
「そんなに人に当らないで下さい。優等生のみゆきさん」
「殴るぞ!」
と、拳を振り上げて、みゆきは笑い出してしまった。
京子といると、何だか楽しくなってしまうのである。──友だちというものは、本当にありがたい。
そのとき、
「新谷さん」
と呼ばれて、みゆきは顔を上げた。
「はい」
「お電話よ。事務の受付」
事務室の女性だった。
「はい、すみません」
みゆきは、ちょっと不安だった。もしかして、牧野君かも……。まさか学校へ電話したりはして来ないと思うけれども。
事務室へと急いだ。しかし、廊下を走ってはいけないことになっているので、気持は焦っても、ただ、急いで歩くしかないのである。
「──失礼します」
と、事務室の戸を開けて、受付のカウンターの電話へと急ぐ。
「あ、新谷さん。その電話よ」
顔を見知っている事務の女性が、笑顔で言った。──もちろん、みゆきが学校から厳重注意を受けたことは、みんな知っているはずだが、誰もかげ口などきかないのは、みゆきが好かれているからだろう。
「どうも」
みゆきは、受話器を取った。「もしもし。新谷ですが」
少し間があった。家からだろうか?
「もしもし?」
と、みゆきはくり返した。
「殺したら?」
と、囁《ささや》くような声が聞こえて、そして電話は切れた。
みゆきは、しばらく受話器を握ったまま、立ち尽くしていた。──誰なの? 一体誰が……。
「──あら、出ない?」
と、事務の女性が、声をかけて来る。
「あ──いえ、切れちゃったんです」
「あら、そう。名前、聞かなかったのよ。女の人で、お友だちだって言ってたけど」
「ええ、いいんです。またかけて来ると思います」
みゆきは、受話器を戻した。
廊下へ出て、ふっと息をつく。──あれは空耳でも何でもない。本当に、本当に聞こえたのだ。
誰がかけて来たのだろう?
家への電話だけなら、当てずっぽうのいたずらとも思えるが、この学校へ、しかも名指しでかけて来ているのだ。
あの声の女性は、みゆきのことを知っている。──何を知っているのか? どこまで?
みゆきが母を憎んでいることも、知っているのだろうか……。
廊下を歩いて行くと、
「新谷さん」
と、呼び止められた。
「はい」
振り向くと、生活指導の担当をしている、初老の女教師が、骨だけみたいにやせた足で、歩いて来る。あの足でどうやって歩いているのか不思議だ、と生徒の間では評判であった。
「今日、六時間目は、他校から新聞部の人がインタビューに来ます」
「はい、うかがっています」
「失礼のないように。それから、この学校のことを、正しく伝えて下さいね」
要するに、悪口は言うな、ということだ。
「はい」
と、みゆきは答えた。
インタビューに来たのは、みゆきと同じ高校二年の女の子、二人だった。
一人は、面白くも何ともない、メガネをかけた優等生タイプ。もう一人は、やたらにキョロキョロと学校の中を見回して、話の方にはさっぱり関心がないようだった。
「校庭が少し狭いようですけど、不便はありませんか?」
と、メガネをかけた子が訊く。
「ええ。でも都心の学校に比べれば広い方ですし、女子だけですから、そう不便なこともありません」
と、みゆきは答えた。「それに、狭い場所でも充分に運動できるように、先生が色々工夫して下さいますから」
「そうですか」
馬鹿ていねいにメモを取っている。──こんなこと、どこの女子高でも同じだろうに。
応接室には、教師も一人座って、インタビューに耳を傾けていた。これでは、とても自由に話などできっこない。
四十分ほどでインタビューは終わった。
みゆきもホッとした。まあ、面白くもない時間だったが、やはり疲れる。
「色々ありがとうございました」
と、メガネの子がノートを閉じて礼を言った。
「いいえ」
「一つ、お願いがあるんですけど」
「はい」
「そちらの新聞部の部室を見せていただけませんでしょうか。参考にしたいのですが」
みゆきは、教師の方を見た。教師は少しためらっていたが、
「いいでしょう。新谷さん、ご案内して上げなさい」
「はい」
と、みゆきは立ち上がった。
メガネの子は、もう一人の方へ、
「あなたはいいわ。校門の所で待っていて」
と、声をかけた。「──よろしくお願いします」
「どうぞ」
みゆきは、応接室のドアを開けた。
みゆきとそのメガネの子の二人は、廊下を少し行くと、どちらからともなく顔を見合わせ、笑顔になった。
「驚いたわ」
と、メガネの子が言った。「先生同席って初めて」
「窮屈だったでしょう」
「学校の雰囲気はよく分かるわ」
「そうね」
みゆきは、ちょっと笑った。
「──部室は?」
「一《いつ》旦《たん》外へ出た方が近いわ。裏手の方なの」
「じゃ、出ましょう。寒いっていう時期でもないし」
二人は校庭へ出て、校舎のわきを回って行った。
「──一つ、訊いていい?」
と、みゆきは言った。
「なあに?」
「私のことを、名指しでインタビューの相手に選んだって、本当?」
「どこでそんなことを?」
「ちょっと耳にしたの」
「そう」
メガネの子は肯いて、「事実よ」
「どうして? 私のことを、どこで聞いたの?」
「聞かないわ」
「え?」
「あなたのこと、よく知ってるもの」
みゆきは足を止めた。
「知ってる?──私を?」
「ええ。牧野純弥って暴走族の子と問題を起こして、訓告処分を受けた、とか……」
みゆきは表情を固くして、
「どこでそんなこと──」
「噂《うわさ》は広まるわ。特に私立校同士なんて、たいてい知ってる人の一人や二人はいるんだから」
と、メガネの子は、楽しげに言った。
「それで私を?」
「それだけじゃないの。──もう一度会いたかったのよ」
みゆきは、じっとメガネをかけた、その少女の顔を見ていた。──そうだ。どこかで会ったことがある顔だ。
「以前に……会ったわね」
と、みゆきは言った。
「ええ」
少女はメガネを外した。「正確には三度目よ、これが」
「三度目……?」
「声だけは、聞いてるはずだけど。──殺したら?」
みゆきは、目を見開いた。
「──あなたが!」
「みゆきさん、お母さんを憎んでるでしょ? だから勧めてあげたのよ。殺したら、ってね」
少女は、笑顔のまま、冷ややかな目で、みゆきをじっと見つめていた。
この目!──この顔は──。
「あなたは……」
みゆきはよろけた。「あのときの──あの人を殺した子ね!」
「そうよ」
少女はみゆきの腕をつかむと、顔をぐっとみゆきの顔に寄せて、低く、しかしはっきりと言った。
「いい? 私はいつでもあなたを殺せるのよ」
みゆきは膝が震えて、立っていられなくなった。
「しっかりして! 鳴海の最期をみとったんでしょ? だらしがないわねえ」
「どうして──どうしてここへ?」
「あなたにチャンスを与えようと思ったのよ」
「チャンス?」
「そう。あなたが生きのびるチャンスをね」
「どういう意味なの?」
と、みゆきは言った。
「ゆっくり説明するわよ」
と、少女はまたメガネをかけると、優等生に戻った。「じゃ、新聞部の部室へ案内して下さる?」
みゆきは、ゆっくりと歩き出した。
「自己紹介しておくわね」
と、少女は言った。