「私、田所佐知子」
と、少女は言った。
「さち子?」
鳴海は訊《き》き返した。 「『幸福』の『幸』?」
「ううん。『佐賀』の『佐』と、『知る』っていう字」
「佐知子か」
鳴海は、呟《つぶや》くように言って、 「ホルンはうまいもんだな」
「あら。ずっと眠っていたくせに」
と、田所佐知子は、ちょっと笑った。
「知ってたのか?」
「ロビーで見たわ、始まる前に。だからステージで席につくときも、あなたを捜してたの」
鳴海は苦笑した。
「全く、人をびっくりさせる奴だな」
「あら」
佐知子は、裸の胸を鳴海の胸にすり寄せて行った。「何か他にも、びっくりすることがあった?」
「びっくりすることばっかりさ」
鳴海は、佐知子の細い体を抱き寄せた。「これが初めてだ、ってことにもびっくりしたよ」
「図々しかった?」
「いや、可愛《かわい》いよ」
鳴海は微笑《ほほえ》んだ。 「それに、こんな所にホテルがあるのにも、びっくりした」
「だって、街道沿いだもの。ドライブの帰りなんかに寄るようになってるのよ」
「こんな所、よく知ってたな」
「あのホールへ行くとき、何度か車で、この前を通ったの」
──一体、何を考えているのか。
鳴海は、自分でもわけが分からないくらい、愉快な気分だった。こんな、子供のような娘に手玉に取られている自分が、考えてみると面白かったのである。
ホテルの部屋は、都心のそれのように派手ではなかったが、ただ泊るだけなら充分だった。
「──私、つまんなかった?」
と佐知子は訊いた。
「いや。──初めての娘を相手にしたのは初めてだ」
「ややこしいのね」
「しかし──」
と言いかけて、鳴海は言葉を切った。
「どうして、って訊きたいの?」
「まあね」
「命を助けてほしいからじゃないの。本当よ」
「もし、そうでも、必要なら殺す」
「そうでしょうね。お仕事なんでしょう」
「まあね」
俺は何をしてるんだ? 目撃者を消すためにやって来たというのに……。
「寒くないか?」
と、鳴海は訊いた。
「少し」
佐知子は、鳴海にすがりつくようにして、「抱いて」
と、言った……。
シャワーを浴びた佐知子が、ブカブカのローブを着て出て来たのを見て、鳴海は笑い出してしまった。
「笑わないでよ」
と、佐知子は赤くなった。「これ、大っきすぎるわ」
「食べるものを取っといたよ」
鳴海は、ポットからコーヒーを注ぎながら言った。「こんなものしかないそうだ」
「わあ、ありがとう。お腹空いてたの」
佐知子は、サンドイッチを早速つまみ始めた。「──でも、まあまあよ」
「そうか?」
鳴海は、奇妙な生きものを見るような気持で、この不思議な少女を眺めていた。
「──君はいくつ?」
「一七」
「一七歳か。──若いな」
「私と寝たから、あなたは逮捕されても文句言えないのよ」
「そうか。未成年だな」
鳴海は笑った。
「脅迫して、小づかいをせびろうかな」
「殺し屋を脅迫する奴があるか」
「それもそうね」
佐知子は、コーヒーを飲んで、「──まずい!」
と、顔をしかめた。
「そうか?」
「いつも、こんなまずいので我慢してるの? 私がおいしく淹《い》れてあげるわ。うまいのよ、コーヒー淹れるの」
「それはそうと──もう十二時だよ」
と、鳴海は時計を見た。「夜中に帰っても大丈夫なのか」
「帰してくれるの? ここで殺されるのかと思ったわ」
鳴海は呆《あき》れて、佐知子を眺めた。大胆というのか、それとも少しおかしいのか……。
「怖くないのか?」
と、鳴海は訊いた。
「この間、私がどうしてあんな林の中に入って行ったか分かる?」
と、佐知子は訊き返した。
「いいや」
「死のうと思ってたの」
鳴海はハッとした。そんなことは、考えてもいなかった。
「なるほど」
「でも、あなたが人を殺してるところを見て、びっくりして逃げちゃった」
「そりゃ当然だよ」
「あの後で、考え直したの。死ぬことはないって」
「そうか」
「私が死ぬことないんだわ。──他に道がないと思い詰めてたんだけど、もう一つあるってことに気付いたの」
「もう一つ?」
「そう。──私の悩みの原因になってる人がいる。その人のために私が死ぬか。でなければ、私がその人を殺すか……」
佐知子はサンドイッチを一つ、丸ごと口へ入れて、モグモグさせ始めた。
「君が殺すのか」
佐知子は、口の中が一杯なので、ただ肯いた。
「それはすすめないね。殺すのは大変だ」
「でも、そうしないと、私が死ぬことになるの」
「他にも方法はあるだろう。家を出るとか」
「出てどこへ行くの? 何をして暮す?──結局、その日その日の食費のために、身をすり減らすことになるもの。いやよ。馬鹿らしいわ」
佐知子は、淡々とした口調で言った。「私、ちゃんと家から学校へ通って、好きな勉強をする権利があるもの」
「それを侵害してる奴がいるのか」
「そう」
「誰なんだ?」
「女。父の再婚相手よ」
「なるほど……」
佐知子は、ちょっと怒ったように、
「分かったように言わないで。私にとっては深刻なの」
と言った。
その怒った表情は、何ともいえず可愛かった。──鳴海は、すっかりこの少女への殺意を失ってしまっていた。
そして、佐知子のことを、もっと知りたいという思いに駆られていたのである。
「君を殺さないよ」
と、鳴海は言った。「密告しないだろう?」
「たぶん、ね」
と、いたずらっぽくウインクして見せる。
「大人をからかうなよ」
「私だって大人よ。あなたが大人にしてくれたんじゃないの」
「それもそうか。──君の目的は?」
「殺し方を教えて」
と、佐知子は言った。
「本気か?」
「もちろん」
「やめた方がいい」
と、首を振って、「俺がやってやってもいいぞ」
「これは私の問題だから」
と、佐知子はきっぱりと言った。
こいつは、普通の娘とは違う。──鳴海はそう思った。
本気なのだ。本気で、人を殺す気でいる。いや──もちろん少し時間がたてば、あるいは、その場になれば怖くなって、やめてしまうかもしれないが、それにしても大した度胸だ。
「でもね」
と、佐知子は続けて、「殺したはいいけど、何年も少年院や刑務所へ入るんじゃ、何にもならないわ」
「同感だね」
「だから、捕まらないように殺したいの」
「言うは易くだな」
「そう?」
「そうだとも」
鳴海は肯《うなず》いて、 「第一に、相手は大人で、君は──子供じゃないとしても、大人でもない。力ずくで殺すのは容易じゃない」
「うん……」
「第二に、俺の場合は、仕事で殺しているから、直接の利害はない」
「動機ってことね」
「その通り。飲み込みがいいな」
「からかわないで」
「本当だよ。──君がもしうまくその女を殺したとしても、殺す動機のあった人間を警察は捜す。君も目をつけられるだろう」
「仲が悪いからね」
「だとしたら、なおさらだ。もし警察に目をつけられたら、おしまいだと思った方がいいね」
「そう?」
「十中八九、だめだ。──アリバイなんて、でっち上げても、その気になりゃすぐに崩される。目をつけられないこと。それが肝心なんだ」
「そうか……」
佐知子は肯いた。
「第三に──」
「まだあるの?」
「ある。良心の問題だ」
佐知子は、ちょっと目をパチクリさせて、それから笑い出した。
「おい、笑うなよ」
「だって──殺し屋のあなたが──」
「良心ってのは、誰にでもあるんだぞ」
と、鳴海は苦笑した。「つまり、ビクつくことさ。いつばれるか、いつ警官が逮捕しに来るかと、びくびくしてなきゃならない。それが一番辛いことだ」
「あなたも?」
「俺は、もう割り切ったよ。しかし、それは何件も殺しをやったからだ。いわば、開き直ったんだな」
「神経は太いつもりよ」
「それだけでもだめだ。──町を歩いていて同じ奴と二度出くわせば、尾行されてるんじゃないかと思うし、警官の姿を見ると、心臓が止るかと思うほどドキッとする。それに堪えられないと、ノイローゼになるぜ」
佐知子は、ゆっくりと肯いた。
「何となくだけど──分かるわ」
「分かりゃしないさ。やった後でなきゃな」
「でも、私、大丈夫だと思う。堪えられると思うわ」
「そうか? 頼もしいな」
「本気にしないの?」
「いや……。君ならやれるかもしれない」
鳴海は、本心からそう言った。
「もし捕まっても、あなたを恨んだりしないわ。密告もしないし」
分かるもんか、と鳴海は思った。少しでも罪を軽くするために、平気で仲間でも売る。人間とは、そういうものなのだ。
「ありがとう」
と、佐知子は立ち上がって、「充分にご忠告を活かして、やってみるわ」
鳴海は、佐知子が背を向けてローブを脱ぎ、服を着るのを、眺めていた。白い、滑らかな肌。そのつやとみずみずしさを帯びた肌は、このほの暗い照明の下でも、輝くようだった。
「──おい」
と、鳴海は言った。
「なあに?」
「一番いい方法を教えてやる」
「どういう方法?」
「誰も殺しだと思わない方法で殺すことだ。殺人とみなされなきゃ、警察も出て来ないからな」
「ああ、そうか」
「それなら、動機も何もない」
「でも、どうやればいいの?」
「それは個々のケースだ」
鳴海は、一つ息をついて、「──よし、ともかく俺に任せろ」
「だけど──」
「実行はしない。ただ、そのための方法や準備を、考えてやるよ」
佐知子は目を輝かせた。
「本当にやってくれるの?」
「ああ。今夜の礼だ」
鳴海はニヤッと笑って、「その代り──」
「どうすればいい?」
「ホルンってやつを、吹いてみせてくれないか」
佐知子は呆れたように笑った。
──隣の部屋の客は、びっくりしただろう。こんなホテルで、まさかホルンのファンファーレが鳴り渡るとは思っていなかっただろうから……。
こんなこともあるものなのだ。
そう。まるで安手なドラマみたいに。おあつらえ向きの状況に出くわしたりすることが。
──これが現実というものなのである。
鳴海の入った喫茶店は、結構混雑していた。席を選ぶだけの余裕はない。仕方なく、店員に言われた通りの席につく。
一人で、連れもないのに、どの席がいいなどと指定はできない。
そこは店の奥の、少し引っ込んだ所で、肝心の店の入口が見えないのだ。──仕方ない。今日のところは、むだ足に終わるかもしれない。
せいぜい、顔を確認できればいい方だろう。
鳴海は、佐知子からもらった、親子三人の写真を取り出して眺めた。──佐知子と父、それに再婚相手の、例の女、予《よ》史《し》子《こ》である。少なくとも、写真で見る限りではなかなか美人で、人当りの柔らかそうな印象を与える。
「そうなの。見た目がおとなしそうでしょ? これで、みんな騙《だま》されちゃうのよね」
と、この写真を渡した佐知子が、悔しそうに言った。「父の前でも、いつも猫をかぶって、シクシク泣いたりしてるわ。だから父もコロッと騙されてて、従順な、おとなしい妻だと思い込んでるのよ」
──写真でも、田所と妻の予史子は微笑んでいるが、佐知子一人、面白くもないという顔で、レンズの方をにらんでいる。
さて、と……。鳴海は、写真をポケットへ納めると、首をのばして店の入口の方を見た。
今日この店に、この女が現われるはずだと、佐知子が言ったのである。
もちろん、写真だけでも顔ぐらいは分かる。しかし、人間の印象──大柄か小柄か、といった点は個人差が大きい。やはり、その実物を一度見ておくに越したことはないのである。
だから、一度、予史子を見ておこうというので、やって来たのだが……。
ちょうど店の入口を、首をのばして見やったとき、当の田所予史子が入って来たのである。しかも一緒にいるのは夫──つまり佐知子の父親だ!
あまりに好都合で、鳴海は、一瞬目を疑ったくらいだった。
店は相変らず混み合っていて、二人は困ったように立ち尽くしていた。ウエイトレスが、二人を奥の方へと案内して来る。──真直ぐ、鳴海の席の方へだ。
鳴海は、あわてて持っていた週刊誌を開けて、読んでいるふりをした。
「こちらになりますが……」
「ああ、結構」
田所の声がした。──田所と、予史子は、鳴海のすぐ後ろの席についたのだ。
こんなこともあるんだ! 鳴海は楽しくなって、思わず声を上げずに笑っていた。
「こんなところに席があったのね」
と、予史子の声がした。
佐知子の話では三四歳のはずだが、年齢よりはいくらか老けて見えた。着ているものが多少地味なせいかもしれない。
夫が四八歳というので、少し地味な恰《かつ》好《こう》にしているのだろうか。──しかし、はた目にもかなり年齢の違う取り合わせという印象は強かった。
「──どうしたんだ」
と、田所が言った。
いかにも会社の重役というタイプ。どうも冷たい印象があって、鳴海は好きになれないが、佐知子にとっては優しい、大切な父親らしい。
「佐知子さんのことで……」
と、予史子は言った。
「そうか。──明日から出張だ」
田所は、いかにも唐突に言った。
「また?」
「仕方ないだろう。仕事なんだ」
「それは分かってますけど……」
予史子は、少し明るい口調になって、「いつまで?」
「一週間。ニューヨークだ」
「じゃ、今日、帰ったら急いで仕度をします」
「うん、頼む」
「明日は早く出発?」
「今夜の内に成田へ行って、向うのホテルに泊る。仕事の打合わせが残っているから」
「そう。──じゃ、今夜の内に?」
「十時ごろ帰れると思う。それまでに着替えなど詰めといてくれ」
「分かりました」
「車を待たせておいて、すぐに出る」
田所は、運ばれて来たコーヒーを一口飲んで、「──それで、君の話は?」
どうにも、夫婦の会話という印象ではなかった。何だか、事務的な手続をしている、という感じだ。
佐知子の話では、父親が後妻に夢中で、いいように弄《もてあそ》ばれているということだったが、鳴海には、とてもそうは思えなかった。
「あの──」
と言いかけて、予史子は少しためらった。「今夜でも、ゆっくりお話ししようと思ったんですけど」
「今夜は暇がない」
「そうね。──佐知子さん、時々、学校をさぼっているようなの」
と、予史子は言った。「今日、学校の方から電話があって、休むときは連絡してくれないと、って……。びっくりしたわ。いつも通りに出ているのに」
「それで、どうしたんだ?」
「迷ったんですけど──一応、途中で気分が悪くなったので、連絡が遅くなりました、と謝っておきました」
「それでいい。──なに、あの年ごろは、学校をさぼりたくなるものだ」
「でも──まさかとは思いますけど……」
「まさか……何だね?」
「もしかして──悪い遊びでも」
「佐知子が?」
「そうでなくても、恋人ができるとか、そんなことだってある年齢ですわ」
田所は、愉快そうに笑って、
「佐知子は、まだ子供だ。そんな心配は早すぎるよ」
「でも──」
「男に興味はあるだろう。そりゃ当然だ。しかし、まだ当分は、お話や映画の中だけのことさ」
おめでたいね、と鳴海は苦笑した。世の父親って奴は、こんなにも甘いものなのか。
すぐそばに、その娘の処女を奪った男が座っていると知ったら、この父親、どうするだろう?
怒って殴りかかるか?──いや、そんなことはあるまい。
この手の男を、昔から鳴海は見て来た。──何でも自分に分からないことはなく、俺はどんなことでもよく理解している、と見栄を張っているタイプだ。
もし鳴海がここで、
「失礼ですが──あなたは間違っていますよ。僕はお嬢さんと寝ました」
と言ってやったとしても、決して怒らないだろう。
こういう男は、「知らなかった」ということを他人に知られるのを一番怖れるのだ。だから、一瞬、ギョッとはするだろうが、すぐに笑って見せて、
「やっぱりそうか。そんなことじゃないかと思っていたよ」
と、言うだろう。
そして、したり顔で、
「まあ、もうあの子も、そろそろ経験していい年ごろだよ」
と、付け加えるに違いない……。
「ともかく──」
と、田所は言っていた。「君が今はあの子の母親だ。注意して見ていてやってくれ」
「ええ……。それは分かってるんです。ただ──佐知子さんが、私に心を開いてくれないので」
「照れているだけさ。私にだって同じことだよ」
「ええ……」
「私よりは君の方が、ずっとあの子に近い年代だ。話だって、きっかけさえうまくつかめば、入って行ける。──まあ、ゆっくりやることだ」
田所の声は大きいので、鳴海にもよく聞こえた。声の大きさで、正しいことを言っているような印象を与えてしまうのである。
ともかく、こう言われてしまったら、予史子の方は何も言えなくなる。
田所はコーヒーを飲み干した。
「──さて、会議まで二時間ある」
と、腕時計を見る。「君はどうするんだ、これから?」
「え?」
予史子は、ちょっと戸惑ったように、「別に……。帰って、夕食の仕度をします」
「家政婦に任せとけ。そのために金を払ってるんだ。安くないんだぞ。金の分は、働いてもらわんとな」
「でも──今の人、あまりお料理は……。佐知子さんのように若い人には合いませんわ」
「じゃ、何か買って帰れ。あの子が好きそうなものを」
「はい。──あなた、佐知子さんのことは──」
「君に任せる。女同士の方が話もしやすいだろう」
勝手な奴だ。──鳴海は、呆れるのを通り越して、笑いたくなってしまった。
「出るか」
と、田所が言った。
「ええ……」
予史子の口調には、はっきり諦《あきら》めが聞き取れた。──何の縁もない鳴海ですら、それが分かるのだ。
「おい、どうだ」
と、田所が言った。
「何か?」
「二時間して会社へ戻ればいいんだ。この裏のホテルに寄って行こう」
「あなた……」
「ここのところ、ごぶさただし、ニューヨークじゃ怖くて女は抱けんからな。さ、行こう」
田所は、立ち上がってさっさと歩き出す。
予史子は、急いで夫の後を追って行った。
──鳴海は、その後ろ姿を見送って、あの女に同情したくなっていた。
どうもいけないな。このところ、人情っぽくなっちまって……。