「おい、君!」
その声に、みゆきはまるで憶えがなかった。一緒に歩いていた真田京子が、チラッと振り向いて、
「変なおじさんが、こっちへ手を振ってるわよ」
と、声をひそめた。「聞こえないふりして行っちゃおう」
「うん」
みゆきも、そういうことに関るのは苦手だった。一《いつ》旦《たん》つかまってしまうと、強引に逃げるというほどの度胸もない。
だからここは「逃げ」の一手。──みゆきと京子は足を早めた。
しかし、休日の新宿である。歩行者天国とはいえ、道の混みようは不思議なくらい、いつもと変らない。それだけ人出が多いということだ。
急いで歩きたくても、人に邪魔されて、思うように進めないのである。
「おい!」
と、男の声が追って来る。
「いやねえ」
と、京子が顔をしかめた。「何を売りつけようっていうのかしら」
「京子、お願いよ」
「いやよ。みゆきこそ──」
と、二人で用心棒の押し付け合いをやっていると、
「新谷君だろう!」
──え? みゆきは、びっくりして振り向いた。誰だっけ、この人?
「新谷みゆき君じゃないかな。もし間違っていたら、勘弁してくれ」
「新谷ですけど……。ああ、刑事さん!」
「麻井だよ。憶えててくれたか」
「どうもすみません。──何か変な人が声をかけて来たのかと思ったんで」
と、みゆきは頭をかいた。
「いや、遠くから見たんで、別の子かな、とも思ったんだが、見れば見るほどよく似ていたんでね。──友だち?」
「ええ」
みゆきは、京子のことを紹介した。京子の方は、刑事と話をしているというので、好奇心で目を輝かせている。
「──凄《すご》い人出だね」
と、麻井は周囲を見回して、「どうだね、何か甘いものでも。──といっても、どの店も混んでるだろうが」
「わあ、おごって下さるんですか?」
と、みゆきは笑顔になった。「それなら、穴場を知ってますよ」
「ほう。じゃ、そこへ行こう」
と、麻井が肯《うなず》いた。
──しかし、麻井も、まさかこんな店とは思わなかったろう。
ピンクと白の内装。女の子──それも高校生ぐらいの子ばっかり。
男は麻井ただ一人という状態だった。せめて若者ならともかく……。
「──すみません、こんな所へ連れて来ちゃって」
と、みゆきも少々気にしている。「いつもは、もう少し男の子もいるんですけど」
「いや、大丈夫」
麻井は、コーヒーを飲みながら、「顔の皮は相当厚くできてるからね。そうでないと、刑事なんかやってられん」
「ねえ、みゆき、どうして知り合ったの?」
京子は、さっきからそれが訊《き》きたくて、うずうずしていたのだ。
みゆきは、鳴海が刺されて死んだ事件について京子へ話してやった。──あの事件のことは、親友にも詳しい話をしていなかったのである。
「──麻井さん」
みゆきは京子に話し終わると、麻井の方へ向いて、「あの犯人、見付かったんですか」
と、訊いた。
麻井は、ゆっくりと首を振った。
「まだだ。──手を尽くしてはいるんだがね」
「そうですか」
「ともかく、あいつの場合は、敵が多すぎたよ」
と、麻井は言った。「仕事とはいえ、人殺しを商売にしていたんだからな」
「殺し屋なんて、凄い!」
と、京子は一人で興奮している。
「私が何か見ていれば良かったんですけど……」
と、みゆきが言うと、麻井は微笑《ほほえ》んで、
「いや、見ていなくて良かったよ」
「どうしてですか?」
「もし、あいつを消した人間を君が見ていたとしたら、今ごろは消されているかもしれないからね」
「怖い!」
と、京子が楽しげに(?)身を震わせた。
「犯人は──やっぱり、そういう関係の人でしょうか」
と、みゆきは訊いた。
「手口から見てね。そういう連中は、一つ仕事が済むとどこかへ消えて、ほとぼりがさめたころ戻って来る。──捜査する側にとっても、苦しいところだよ」
「大変ですね」
と、みゆきは言って、溶けかかったストロベリーパフェを食べ続けた。
もし──もし、ここで言ったらどう思うだろう。
私、犯人を知ってます。名前も分かりますと……。
麻井はびっくりするだろう。何といっても、犯人がみゆきと同じ女学生だとは、思ってもいないのだから。
麻井のびっくりする顔を、見てみたいとも思った。しかし──今になって話したら、なぜずっと黙っていたのか、と訊かれるだろう。
いや、それよりも、信じてもらえないかもしれない。
麻井はともかく、他の刑事や、検事、裁判官……。みゆきの証言以外に、何の証拠もないのだから。
田所佐知子を犯人だと告発しても、裁判で有罪にはできないだろう。無罪放免になったら……。今度こそ、みゆきは殺される。
だめだ。──話すわけにはいかない。
「元気がないね」
と、麻井が言った。
「あ──いえ、すみません。つい、考えごとをしてて」
みゆきは急いで言った。京子が口を挟んだ。
「悩みごとがあるんです、みゆき」
「ほう」
「京子──」
「みゆき、暴走族にいた子と付合ってて、学校から訓告処分を受けちゃったんです。今は暴走族じゃないし、誰と付合おうと構わないと思うんだけど」
「やめなさいよ、京子。麻井さん、ご迷惑よ」
と、みゆきは肘《ひじ》でつついた。
「いや、そりゃ大変だったね」
と、麻井は言った。「ああいう連中も千差万別だ。一つにくくって、放り出せば簡単だが、中にはいい奴も大勢いるんだよ」
「そうですね」
「そういう奴は、やがて自分で抜けて行く。迷いの一つなんだな。──その男の子とは、まだ付合っているのかい?」
「いいえ」
みゆきは、ちょっと目を伏せた。
「みゆきのとこ、お母さんがうるさいんです。だから、とっても──」
うるさい?──うるさいなんてもんじゃないわ。あんな人──死んじゃえばいい!
殺したら?
あの声が、頭の中に響く。田所佐知子の声が……。
「そうか」
麻井は、よく分かっている様子だった。ゆっくりと肯いて、
「大人になるまで、待つんだね。今の君には長いだろうが、大人になってしまえば、ああ、ほんのわずかの間だったんだ、と思えるようになるよ」
と、言ってくれた。
みゆきは、嬉《うれ》しかった。麻井の気持が、である。
もちろん、その「気持」だけでは、何の役にも立たないことも分かり切っているのだが……。
「──ただいま」
玄関を入ったみゆきは、女ものの靴があるのを見て、誰だろう、と思った。
「みゆき、お帰りなさい」
と、母の尚子が、急いで出て来る。「お客様よ」
「私に?」
みゆきは驚いた。そんな心当りはないが。
「そう。近くへおいでになったからって。──早くリビングへ行きなさい」
「はい」
誰だろう?──母がいやに気をつかっている様子なのが、気になった。
学校の先生だろうか? それなら、「お客様」などと言わずに「先生」と言うだろう。
居間へ入ると、若い女性が背中を見せて、庭を眺めて立っていた。
「あの──お待たせしました」
と、みゆきが声をかけると、その女性が振り向いて、メガネをちょっと直した。
「どうも先日は」
と、田所佐知子は微笑んだ。
みゆきは、母の声を背に聞いて、やっと我に返った。
「何を突っ立ってるの。失礼じゃないの、みゆき」
尚子は、紅茶をいれて来たのだった。「どうもお待たせして。──友だちと遊びに出ると、さっぱり帰って来ないものですからね、本当に」
「いえ、どうぞ、お構いなく」
佐知子は、ソファに腰をおろして、「私が勝手にお邪魔したのですから」
「どうぞごゆっくりなさって下さいな」
と、尚子は愛想良く言った。「田所さん──とおっしゃいましたかしら」
「田所佐知子です」
「娘をよろしく。──みゆき」
「はい」
「私、少し出かけて来るから。失礼のないようにね」
「分かったわ」
「じゃあ、ちょっと失礼します」
と、佐知子の方へ会釈してから、「ちょっといらっしゃい」
と、みゆきに小さく声をかける。
母について居間に行くと、
「どちらの学校の方?」
「ええと……どこだったかしら。忘れたわ。新聞部のインタビューで、うちの学校へ来たのよ」
「そう。──とても上品なお嬢さんじゃないの。きっとおうちがいいのね」
「知らないわ、そんなことまで」
と、肩をすくめる。
「また、いらしていただきなさい」
母は上機嫌だった。「──二、三時間で帰るわ。夕食の用意は帰ってからでいいでしょ?」
「うん」
「じゃ、リビングへ戻っていなさい」
みゆきは、母がいやに気ぜわしく出かけて行くのを、ぼんやりと見送っていた。
居間へ入って行くと、佐知子が顔を上げた。
「──お母様は?」
「今、出かけたわ」
「そう」
佐知子はメガネを外した。
「何しに来たの?」
「そんな怖い目で見ることないわ」
佐知子は、足を組んで寛いだ。「あなたのお母さん、名門のお嬢様がお好きでいらっしゃるのね」
「もともとよ」
みゆきは、ソファに座って、母がいれておいてくれた紅茶を飲んだ。
全く、いい気なものだ。母親のことである。
この「お嬢さま」が、娘に母親殺しをけしかけているとは、思ってもいない。
「あれじゃ、あなたも大変だ」
と、佐知子は言った。「彼氏が暴走族じゃ、ヒステリーを起こすわね、お母さん」
「もう済んだことよ。──それより、どういうつもり、こんな所へやって来て?」
佐知子は、ゆっくりと自分の紅茶を飲み干した。
「──色々考えたの」
と、カップを戻し、「あなたは母親を憎んでる。でも、殺してやりたいほど憎いっていうのと、本当に殺そうというのとじゃ、大分違うわ」
「そんな話、聞きたくない」
と、みゆきは言って、少しさめかけた紅茶を、一気に飲み干した。「私は、人を殺す気なんてないの」
「そう思ってね」
と、佐知子は肯いた。「やっぱり、あなたを殺すしかないって思ったの」
みゆきは、体を固くして佐知子を見つめた。
「今から警戒しても手遅れよ」
と、佐知子は言った。
「母が、あなたのことを見てるのよ」
「そうね。でも、どうせあなたには関係ないわ」
佐知子は左手を差し出して、テーブルの上でクルリと返して見せた。──ポトンと落ちたのは、空になった小さなカプセルだった。
「紅茶、少し苦くなかった?」
と、佐知子は言った。
みゆきは、青ざめた。手で口を押さえる。
「──もう遅いかもね」
佐知子は微笑《ほほえ》んだ。 「助かる方法はただ一つ。──思い切り水を飲むこと。毒が薄まって、意識を失ったぐらいですむかもよ。ただし、急がないと……」
みゆきは、胸をしめつけられるようで、激しく呼吸をしながら立ち上がった。
「死ぬつもり? それとも、やってみる?」
佐知子は愉しげに眺めている。
みゆきは、居間を飛び出して、台所へと駆け込んだ。蛇口を一杯にひねって、コップをつかむ。一杯、一気に飲み干した。もう一杯。もう一杯。
気管に水が入って、ひどくむせた。こぼれた水が、顎《あご》から胸へと流れ続けた。
甲高い笑い声がした。──振り向くと、台所の入口で、佐知子が笑い転げている。
「本気にして! 嘘《うそ》よ! でたらめよ!──ああ、おかしい!」
みゆきの手からコップが落ちた。
体が震える。──次の瞬間、みゆきは佐知子に向って、飛びかかっていた。
「アッ!」
みゆきは、左の胸に鋭い痛みを感じて、うずくまった。
「──前を見て歩きなさいよ」
佐知子の手に、ナイフが握られていた。「大丈夫。ちょっと刺しただけよ」
佐知子は、みゆきの腕をつかんで、引っ張って立たせた。みゆきのセーターの、胸の辺りに、赤くしみが広がっていた。
「痛い?」
と、佐知子は言った。「もう少し勢いよくぶつかってたら、心臓を一突きよ。命は大事にしなきゃ」
みゆきは、佐知子に押されるまま、ダイニングの椅《い》子《す》に座った。佐知子は、救急箱を棚の上に見付けて持って来た。
「さあ、脱いで。どうせ水で濡《ぬ》れたし、着がえるんでしょ」
みゆきは、黙ってセーターを脱いだ。
佐知子は、ナイフをテーブルに刺しておくと、みゆきの上半身を裸にした。みゆきは身震いして、両腕を前で組んだ。
「傷の手当てができないわよ、それじゃ。──女同士じゃない。恥ずかしいってこともないでしょ」
佐知子は、みゆきの左の乳房の傷を消毒して、ガーゼをテープでとめた。みゆきは、逆らう気力もなく、されるに任せている。
「──可愛《かわい》いけど、まだ子供の体ね」
と、佐知子は言った。「その暴走族の彼とは寝なかったの?」
「キスもしてないわ」
「へえ!──あなた、博物館に入れば?」
と、佐知子は笑った。「これでよし、と。──さあ、服を着てらっしゃい。出かけましょうよ」
みゆきは、佐知子を見た。
「どこへ?」
「散歩よ」
「人のいない所へ連れていって、殺すの?」
「馬鹿ね」
佐知子は、突然みゆきの方へかがむと、みゆきの額にキスした。「殺しやしないわ。あなたのこと、好きよ」
みゆきは、ただ戸惑って、佐知子を見上げていた……。
「今日、刑事さんに会ったわ」
表を歩きながら、みゆきは言った。
「刑事?」
「ええ。あの人が殺された事件を調べてる人よ」
「鳴海の事件?」
「そう。──あなたのこと、話しちゃおうかと思った」
「──どうして?」
「だって……それが市民の義務でしょ」
「そうじゃなくて、どうして話さなかったの、って訊《き》いたのよ」
みゆきは佐知子を見た。
「話さなかった、ってどうして分かるの?」
「話したのなら、いちいち、そんなこと、私に言わないでしょ」
みゆきは、あ、そうか、と思った。
そして──笑い出した。
自分でも不思議だった。なぜ笑えるんだろう。殺人犯と一緒に歩いているのに。
しかし、笑いたかったのだ。何だか急に、すべてがどうでもいいように思えて来たのである。
佐知子は、興味ありげに、みゆきを見ていた。
「──面白い人ね、あなたも」
と、佐知子は言った。「私たち、似てるわ。そう思わない?」
「ええ。そうかもしれない」
みゆきは本心から、そう言った。
穏やかな午後だった。二人は、まるで姉妹のように、肩を並べてゆっくりと歩いていた……。
「その刑事とは、どこで会ったの?」
と、佐知子は訊いた。
「新宿の歩行者天国よ。どうして?」
「どっちが先に気が付いたの?」
「刑事さんの方。声をかけて来たの。──何か?」
「偶然だったのかしら」
「そりゃそうよ。だって──そう言ってたもの」
「そう言ったからって本当とは限らないわ」
「じゃ、何だっていうの?」
佐知子は、両手を後ろに組んで、まるで哲学者のように歩いている。
「考えたこと、ある? 自分が疑われてるのかもしれないって」
佐知子の言葉は、みゆきにとって、衝撃だった。いや、とても本気には取れなかった。
「私?──私が?」
みゆきは、思わず笑い出した。「やめてよ! まさか私が……」
「どうして?」
佐知子は、訊き返した。「そりゃ、よく知ってる人が見れば、私とあなたはまるで別人だけど、でも、たまにチラッと見るぐらいの人には、ただ若い女の子、としか写らないわよ。──似たようなもんだわ、あなたも私もね」
「あなたの言いたいのは──」
「当然、警察は、鳴海のアパートを調べてるはずでしょ。近所の人の聞き込みもしてるでしょう」
「私、あの人のアパートなんて、知らないわよ」
「私は知ってるもの」
と、佐知子は言った。「何度も行ったし。アパートの人とも何度か顔を合わせたわ」
「なら、向うが憶えてるでしょう」
「いいえ、そうは思わない。アパートの廊下なんて、薄暗いもの。ただ、いやに若い女の子だな、ぐらいの印象しかないはずだわ」
「だけど──若い女の子なんて、いくらでもいるじゃないの」
「想像力を働かせなさいよ」
佐知子は、みゆきの肩に手をかけた。「刑事にしてみれば、鳴海の死んだ現場にいたのは、あなた一人なのよ。つまり、他には若い女の子なんて知らないの。そして、アパートに時々若い、高校生ぐらいの女の子が来ていたと聞いたら、あなたのことを連想して当然じゃないの」
「だって……。私が通報したのよ。殺しておいて、逃げもしないで──」
「それは理屈。現実の犯人は、そう理屈通りに行動しないわ。──つまり、あなたが犯人かどうかはともかく、あなたが鳴海のアパートに出入りしていた女の子かもしれないと考えるのが当り前よ」
「そうかしら」
「そのことを訊きもしないっていうのが、おかしいわ。──もし、あなたを犯人じゃないと思っているのなら、あなたと鳴海の関係を、もっとあなたに直接訊くはずだわ」
「何も訊かれないわ」
「それは、あなたのことを疑ってるからだわ」
思いもかけないことだ。──みゆきは半信半疑だった。
確かに、佐知子の言うことも分かるが、しかし、それならなぜ麻井がわざわざ声をかけて来たりしたのだろう。
私はただ、見も知らない男の死に際を、みとってやっただけなのだ……。
しかし、そのこと自体が奇妙に思えるかもしれないという点は、みゆきも考えたことがあった。
刺された男のそばに、じっと座っている。──普通なら、考えられないことだろう。
みゆきも、あの場、あのときでなければ、とてもそんなことをするとは考えられなかった。
「心配することないわ」
と、佐知子は言った。「何もしていないんだから。証拠がなきゃ、逮捕したくてもできないわよ」
「元気づけてるつもり?」
と、みゆきは苦笑した。「どこに行くの?」
「もう少し」
と、佐知子は言った。「──この辺、来たことある?」
「駅のこっち側は、あんまり……」
駅前の、にぎやかな商店街。そのアーケードは、みゆきも小さいころから、よく通っている。しかし、それを抜けてガードをくぐり、駅の反対側へ出ると、少しさびれた感じになるのだ。
いや、夜になれば、却《かえ》ってこっちのほうがにぎやかなのかもしれない。バーやスナックが雑然と軒を並べているからだ。
みゆきがあまり歩きたくなるような道ではない。
「──こんなもの、いつ出来たのかしら」
みゆきは足を止めて、真新しいホテルを見上げた。「ここ……確か、古いお店があったんじゃなかったかしら。雑貨屋さんか何かが」
「今はホテル。結構繁盛してるようじゃないの」
確かにそうだ。──こんな中途半端な時間なのに、〈満室〉というランプが赤く灯っている。
「こんな所に、よく入るわね」
と、みゆきは言った。
「そういうことは、あまり言わない方がいいわよ。あなただって、恋人ができたら、入る気になるかもしれないわ」
と、佐知子は笑顔で言った。
「このホテルを見に来たの?」
「そう。正確に言うと、ここのお客をね」
「お客?」
「知っている人が、今、ここに入っているはずよ」
「ここに?」
みゆきは、改めて、派手な装飾のホテルの外観を見上げた。「──誰のこと?」
佐知子は、楽しそうな目でみゆきを見て、言った。
「あなたのお母さん」
みゆきが、玄関へ入って行くと、
「あら、帰ったの?」
と、母の尚子が出て来た。「いないから、どこへ行ったのかと思って……」
「あの子を送って来たの」
みゆきは、そう言って上がると、「お母さんによろしくって」
「そう。とても頭も良さそうじゃないの」
「そうね」
と、みゆきは、母から目をそらして言った。「お母さん──」
「なあに?」
みゆきは、少し間を置いて、
「何でもない」
と言うと、階段を二階へと駆け上がった。
母の声が、
「もうすぐご飯よ」
と、追いかけて来る。
無理しなくてもいいわよ。疲れてるんじゃないの? あんな若い男と張り切って来た後じゃ。
みゆきは、机の前に座って、ぼんやりしていた。──父は、仕事で日曜出勤。
哀れなものだ。養子の身で、妻には口答え一つできず、くたくたになるまで働かされて……。あげくに、妻には浮気される。
もし、父が妻の浮気を知って問い詰めたとしても、尚子はきっと、
「あなたが私のことを放っておくからよ」
と、言い返すに違いない。
みゆきにも、父と母の会話が、手に取るように想像できた。──夢も暖かさも、かけらほどもない想像ではあったが。
外は、ほとんど暗くなりかけていた。
カーテンを閉めよう、と立ち上がって、窓から表を見下ろしたみゆきは、こっちを見上げている顔に、アッと声を上げそうになった。
「牧野君……」
道に立って、向うもみゆきに気付いたらしい。ちょっと手を上げて見せる。
みゆきは、手で待っていて、と合図すると、カーテンを引いた。財布をつかんで部屋を出る。
階段を下りると、
「お母さん」
と、台所の方へ声をかける。
「どうしたの?」
「ちょっとノートがなくなっちゃった。買って来るわ」
「もうすぐご飯だから」
「うん。すぐ戻る」
みゆきは、サンダルを引っかけて、玄関を出た。
──このときまで、母はどう思っていたか知らないが、みゆきにとって牧野純弥は、ただ男の子の友だちの一人、というだけの存在だったのだ。
しかし──道を歩いて行ったみゆきが、薄暮の中に、ヒョロリとした牧野純弥のシルエットを見付けたとき、胸に激しく熱いものがふき上げて来た。
このとき、初めて──皮肉なことだったが──みゆきは牧野純弥に恋をしたのである……。