三矢絹子の視線は、どことなく皮肉っぽく、人をからかっているようなところがあった。
いつもそうなのだが、この日は特にそうだったのだ。
「──やあ」
アパートへ入って、廊下で絹子に出くわした鳴海は、そう言って微笑《ほほえ》んだ。
「あら、もうお帰り?」
「仕事がなくてね。半分自由業みたいなものだから」
と、鳴海は言った。「ご主人は出張ですか?」
「今日は家にいるわ。──ね、お客さんよ」
「客? 僕に?」
「そう。私の部屋で待ってるわ」
見当がつかなかったわけではない。
「──こんにちは」
佐知子が、彼の声を聞きつけたのか、廊下に出て来た。
「やあ」
鳴海は微笑んだ。「来るのなら、電話してくれればいいのに」
「急に気が向いて」
佐知子は、いたずらっぽく言って、「──ご迷惑かけてすみません」
と、絹子の方へ頭を下げる。
「いいえ、いいのよ」
絹子は至って愛想がいい。──果して内心どう思っているのやら、鳴海にも見当がつかなかった。
「──入れよ」
鳴海はドアを開けて、促した。
「失礼します」
神妙に中へ入って、好奇の目で眺め回すと、「へえ。男一人にしちゃ、割と片付いてるのね」
「割と、はないだろ。こう見えても、きれい好きだ」
鳴海はドアを閉めた。「学校をさぼって来たのか。──よくないな」
「人を殺すのと、どっちが?」
佐知子が言い返す。「いいのよ。誰だってさぼってんだもの」
「そんなもんか」
鳴海は、台所へ行った。「何か飲むか?」
「あ、いいわ。やるから!」
佐知子は学生鞄《かばん》を置くと、急いでやって来た。 「コーヒー、淹《い》れてあげに来たんだから」
「何だ、そんなこと忘れてたよ」
「座ってて。私、ちゃんとコーヒーの豆も買って来たの」
と、小さな紙袋を持ち上げて見せた。
「じゃ、頼もうか」
鳴海は、畳に寝そべった。「──どれくらい待った?」
「三十分くらいかな」
佐知子は、ヤカンをガスの火にかけると、「あの奥さん、面白い人ね」
「そうだろう? 色々訊《き》かれなかったか?」
「別に。──ただ、珍しそうにジロジロ見てたけど」
「暇を持て余してるのさ」
「──色っぽい人ね」
佐知子の言葉に、鳴海は笑った。
「分かったようなことを言うじゃないか」
「笑うことないでしょ」
と、佐知子は鳴海をにらんだ。「あなた、あの奥さんと寝たことあるんでしょ」
「──どうしてそう思う?」
「私が、『親戚の娘です』って言ったときの、あの人の目つき。分かるわよ、一度でも男の人と寝ると」
「なるほど。──あの女は博愛主義者なんだよ」
鳴海が絹子のことを話してやると、佐知子は面白がった。そういう「きわどい」話が、佐知子などには新鮮なのかもしれない。
コーヒーができ、二人で飲んだ。──なるほど、なかなか旨《うま》い。
「つまんないの」
と、佐知子は、部屋の中を見回した。
「何が?」
「もっと汚なくて、変な匂《にお》いがして、埃《ほこり》がつもっているのかと思ってた。掃除して、見ちがえるようにしてやろうと思って、張り切って来たのに」
「変なことで張り切るんだな」
「私、お掃除って好きなんだもの。お料理はだめだけど」
「コーヒーだけか」
「それと、カップラーメンの名手」
佐知子はそう言って笑った。「──ね、どうだった? 彼女、現われた?」
コーヒーとラーメンの話から、急に殺人の話になって、少しも違和感がない。そういう世代なのだろうか。
「うん。君のお父さんも一緒だった」
「父と? なんだ、男とでも待ち合わせてるんだと思った」
鳴海は迷っていた。
実際に見たあの予史子という女、この佐知子の話と、あまりに違うイメージなのである。
もちろん、佐知子にとっては継母であり、初めから色メガネで見ているところはあるだろうが、それにしても少し違いすぎるような気がした。
「お父さんも忙しそうな人だね」
と、鳴海が言った。「今夜から、また出張だとか言ってるのが聞こえたよ」
「出張? 本当?──いやだ、またあの女と二人」
佐知子は、顔をしかめた。「ねえ、どうかしら?」
「何が?」
「うまくやれそう? 私、どんなことでもするわ」
「やってできないことはないさ」
と、鳴海は言った。「ただ、容易なことじゃない。それを覚悟しておかなきゃな」
「分かってるわ」
「──少し時間をくれ。あの女に当ってみる。習慣や、好みや、細かいことを知っておく必要がある」
「調べるのなら、私がやるわ」
「うん。──俺も仕事があるからな。タバコを喫《す》うか?」
「あの女《ひと》? たまにね。父がいるときは、あんまりやらないみたい」
「酒は?」
「ワインぐらいね」
「車の運転は?」
「できないみたい」
「すると車の事故ってわけにもいかないな。──外出は多いのか?」
「たぶん。父がよく出張してるから、自由な時間がいくらでもあるわ」
「なるほど」
鳴海にとって、必ずしも、殺す相手のくせだの好みなどを知る必要はない。色々調べ回れば、当然それが相手に知られて、怪しまれる可能性もあるからだ。
大体、仕事の依頼は、「至急」のことが多くて、たっぷり下調べの時間があるなんてことは、まず考えられない。
それでも、何とかやってしまわなくては、仕事にならないのだ。
危険はあっても一番手っ取り早いのは、相手の後を尾《つ》けて行って、走って来るトラックや電車の前に突き飛ばすことだ。これなら、相手の習慣も好みも関係ない。
しかし、その手でやるには、大胆さと、チャンスを見極める勘が必要だ。
とても、佐知子のような女の子にはできっこない。
「仕事、忙しいの?」
と、佐知子が言った。「何だか、悪いみたい。無理言って」
「そんなことはないさ。──ただ、すぐにはできないかもしれないな」
「いいの。待つわ、私」
コーヒーを飲み終えると、佐知子は、あぐらをかいた鳴海の前に、ゆっくりと身を横たえて、頭をその膝《ひざ》の上にのせた。
「──君が学校をさぼってると心配してたぞ、例の女が」
「私のことなんて、気にしちゃいないのよ。ただ、父に、私のことで色々気をつかってるのを、見せておきたいだけ」
「なるほど」
「ね? 大人しくて、哀れな女に見えるでしょ? それが曲者なのよ」
そうかもしれない。──しかし、あれが演技なら、大した役者だと言わざるを得ない。
「ねえ」
と、佐知子が言った。「この間は訊《き》かなかったけど、決まった女の人って、いるの?」
「別にいないよ。その気もないし」
「結婚したこと、ないの?」
「こういう仕事じゃね」
「そうか……」
佐知子は、フフ、と笑った。
「何がおかしいんだ?」
「あなたが、赤ん坊のお守りしてるとこ、想像したの」
「恐ろしいこと、考えるなよ」
と、鳴海は苦笑した。
「また……抱いてくれる?」
佐知子は、囁《ささや》くような声で言った。
「その内ね」
「今は?」
「ここじゃ、危い」
「そう?」
「廊下にもよく声が聞こえる。こんなことで捕まりたくないからね」
と、鳴海は言って、佐知子のすべすべした頬《ほお》に指を触れた。
佐知子が目を閉じる。──奇妙な感じだった。
およそ女とはまだ言えないこの少女に、鳴海は、強く魅《ひ》きつけられるものを感じていたのだ。ただの欲望とは違う何かのようだった……。
結局──「危い」ことは承知で、鳴海は佐知子を抱くことになったのだ。
「いい仕事をしてくれたと、客は喜んでたぞ」
ボスの声は、上機嫌だった。
「そうですか」
鳴海は電話をしながら、気もそぞろというところだった。
「その調子で頼む。今、一つ仕事が来てるんだが、大して難しい仕事じゃないから、お前がやることもあるまい」
「どちらでも……」
と、鳴海はガラス越しに、一人で昼食を取っている予史子を見ながら言った。
「若い奴にやらせてみる。その上で、意外にやりにくそうなら、また連絡する」
と、ボスは言った。
「分かりました」
「今、アパートか?」
「いえ、外です。用事があって」
「そうか。じゃ、明日にでも、また電話をくれ」
「はい。分かりました」
鳴海は、電話を切ろうとした。
「あ、ちょっと待て」
と、ボスが何かを思い出したらしい。
「何です?」
「会計の奴が、この間の計算で、千円、多くついてたそうだぞ。最後の足し算で間違っているらしい」
「そりゃすみません」
「それだけだ。その千円は俺が出しておく」
「はあ」
馬鹿らしくて、礼を言う気にもなれなかった。──千円だって? 冗談じゃないぜ、こっちは命がけで人を殺してるっていうのに……。
電話を切ると、鳴海は席へ戻った。
田所予史子は、一人でランチを食べていた。さすがに、一人では所在ないらしく、週刊誌を開いて眺めながら、である。
鳴海は、コーヒーだけだった。いつ店を出て、尾行しなくてはならないかもしれない。
満腹になっていると、眠くなることがあるのだ。歩いて尾行するのなら、まさか眠っちまうことはないが、電車に乗ったりタクシーに乗ったりしたときは、ついウトウトしてしまうこともある。
刑事ではないが、鳴海も尾行にはかなりの経験を積んでいた。
十分ほどして、田所予史子は、食事を終えると立ち上がった。レジでの支払いをすまし、店を出るのを見て、鳴海も立ち上がる。代金は、つりのないようにピッタリと用意してある。
いつか、ホテルのコーヒーハウスで、同じように相手について出ようとしたら、
「サービス料一割」
と言われ、細かいのがちょうどなくなって、焦ったことがある。
ここは大丈夫。──店を出ると、田所予史子の後ろ姿が、人の間に見え隠れしている。
鳴海は、一定の間隔を保って、歩き出した。
平日の午後だが、都心はいつも同じように人出が多い。目立たないので、尾行には好都合である。
あれ?──鳴海は、面食らった。
百メートルと行かない内に、また予史子が喫茶店に入って行ったからである。誰かと待ち合わせでもあるのだろうか?
ともかく、こうなれば鳴海も入るしかない。できるだけ目立たないように、隅の席について、またコーヒー。今度は前の店より、少しはましな味であってほしい。
確かに、コーヒーの淹《い》れ方に関しては、佐知子の腕はなかなかのものだ。──しかし不思議な娘である。
今日はちゃんと学校へ行っているのだろうか?──あれで優等生だというのだから、生来、頭のよく切れる子なのだろう。
それだけに、決めたことはやり抜く意志の強さを持っている。たとえ「殺人」でも、だ……。
そっと目をやると、予史子は手帳を開いて、何やら書き込んでいる。それにしても、なぜこんなに近くの店にまた入ったのだろうか? 別に待ち合わせでもないようだが。
入口の方へ目をやらないのである。待ち合わせなら、誰か出入りする度に目が向くのが普通だ。
誰かが、鳴海のそばに立った。──見上げると、懐しい、しかしちょっと苦手な顔があった。
「麻井さん!」
「久しぶりだな」
麻井は、向いの席にドカッと座った。「誰かと待ち合わせか?」
「いえ……。ちょっと時間潰《つぶ》しにね」
麻井は、人の好さそうな笑顔である。昔からだ。
「元気か」
と、麻井が言った。
「何とかね。太ったんじゃないの、麻井さんは」
「年齢《とし》だ。仕方ないさ」
と、自分の腹をポンと叩《たた》いた。 「貧乏は相変らずなのに、太るんだ。こいつは妙な話だよ」
と笑う。
「──俺に用で?」
「いや、見かけたからだ」
「本当かな」
「それとも、思い当ることでもやっているのか?」
「今は真面目だよ」
「そりゃ結構だ」
麻井は、ウエイトレスに、「おい、ミルクをくれ」
と、声をかけた。「甘いのを入れてな」
「はい」
ウエイトレスが不思議そうな顔で麻井を眺めて行った。
麻井とは、少年時代からのなじみだ。妙に親切にしてくれて、気軽に話せる仲だった。しかし一方では、見かけによらない、優秀な刑事なのである。
充分に用心してかかる必要のある相手だった。
偶然会ったような顔はしているが、どこまで信用できるか……。もちろん向うも、鳴海が警戒していることは百も承知だ。
だが、二人の話は、ほとんど進まなかった。すぐに麻井のポケットで、ベルが鳴り出したのである。
「やれやれ。──かなわんな」
麻井は、電話をかけに立って行った。鳴海は、チラッと目を予史子の方へ向けた。相変らず手帳を眺めている。
麻井はすぐに戻って来た。
「行かなきゃならん」
と、運ばれて来たミルクを一気に飲み干すと、「ゆっくり話がしたかったんだがな。──また会おう」
「お達者で」
と、鳴海は言った。
麻井が出て行って、ホッと鳴海は息をついた。──居座られたら、田所予史子を逃してしまうところだ。
麻井は、本当に、たまたまここにいただけなのだろうか?
いや、もし何かで鳴海を疑っているのなら、わざわざ声をかけて来たりしないだろう、普通の刑事なら。
しかし、麻井は普通とは違うのである。もしかすると……。
田所予史子が席を立った。鳴海は、急いでポケットから小銭を出した。
「あ──畜生」
麻井の奴! ミルク代を払って行かなかったぞ。
仕方ない。ミルク代を足して、鳴海はレジへと急いだ。
どうなってるんだ?
鳴海は、わけが分からなかった。喫茶店を出た田所予史子は、また二、三十メートル行ってわき道へ入ると、そこの喫茶店に入って行ったのである。
喫茶店のはしごが趣味なのか?
表から覗《のぞ》くと、予史子が奥の席に、向うを向いて座っているのが目に入った。
今度は何を飲もうか?──ため息をつきながら、鳴海はその店に入った。
「お一人ですか?」
と、ウエイトレスが訊く。
「うん……」
割合に混んでいて、空席が見当らない。すると、
「いいの。私と一緒です」
と、声がした。
田所予史子である。──鳴海は、唖《あ》然《ぜん》とした。
しかしウエイトレスは、すぐ引っ込んでしまったし、他に仕方がない。鳴海は、予史子の向いの席に座った。
「あの……」
と、鳴海が言いかけると、
「分かってます。私を尾行なさってるのね」
と、予史子が言った。
「はあ……」
「わざと三軒、喫茶店に続けて入ったんです。偶然で、こんな風に三回もお見かけするわけはありませんもの」
参った!──鳴海としては立場がない。
まんまと見破られてしまったのだ。
「すみません」
素直に謝ってしまうことにした。頭の中では、どういう話にしようかと考えている。
「お仕事でしょう」
と、予史子が言った。
「まあ、そうです」
「主人はいくら払ったんです?」
と、予史子は言った。
鳴海は、無表情にその言葉を受け止めた。
予史子は、夫が鳴海を雇ったと思っているようだ。それに乗るのもいい、と思った。
「それはちょっと──」
と、ためらってみせる。
「いいわ。私にはどうでもいいことですからね」
予史子は、深々とため息をついた。「でも、お気の毒ですけど、尾行してもむだですよ。私は浮気なんかしていません」
なるほど。──夫の出張中、妻が浮気していないか、見張らせているというわけか。
あの田所という男、若い妻をもらって、気が気でないのだろうか。
「信じられていないって、やり切れないものね」
と、予史子は、独り言のように言った。「そんなに心配なら、もっと私のことを気にかけてくれればいいんだわ。ろくに構ってもくれないで!」
鳴海は、黙って話を聞いていた。──こっちが考えなくても、相手が事情を説明してくれている。
「夫は私のことが気になってるんじゃありません。ただ、自分のものを、他人に盗られるのが心配なだけなんです。それだけなんです!」
「奥さん」
と、鳴海は言った。「声を低くした方が……」
予史子はハッとした様子で、
「ええ……。すみません、ついカッとして」
と、頭を振った。
ウエイトレスがやって来て、予史子の前にオレンジジュースを置いた。
「──ご注文は?」
と、鳴海を見る。
「ああ──それじゃ、コーヒー」
飲まなくてもいいのだが、と思って注文したが、
「体に悪いわ」
と、予史子が言い出した。「ここはアップルティーがおいしいんですよ」
「はあ。じゃ、それを」
素直にそう言って、「──わざわざすみません」
妙なことになってしまった。
「いつも、こんなお仕事を?」
と、予史子が訊く。
口調は穏やかになっていた。
「ええ。──しかし、見破られちゃ仕方ないな」
と、鳴海は頭をかいた。「まだ新米なもので」
「そうですか」
予史子は、ふと微笑んだ。「結婚なさってるの?」
「僕ですか? いえ、独身です。仕事とは関係ありませんけどね」
「そう。でも、いつもこんなことしてると、結婚したくなくなるんじゃありません?」
「それはどうかな」
と、鳴海は肩をすくめた。「いざ、そうなったら、自分だけは別だと思うんじゃないですかね」
「そうね。──そんなものね。人間なんて、みんな」
予史子は、バッグを開けると、タバコを取り出した。──あまり喫わない、ということだったが。
「私も、そうでした」
煙を吐き出して、予史子は言った。「一回り以上も年上の人との結婚。子供は十代の後半。一番難しい年代。──やめた方が、ってみんなに言われましたわ」
「それを押し切って──」
「私は大丈夫、と思ったんです。夫も子供も、私の思っている通りになじんで、一家で仲良くしていける、って……。でも、錯覚でした」
予史子は、鳴海をじっと見て、「この間、夫と二人でいたとき、隣の席にいらしたでしょう」
と言った。
これには鳴海もびっくりした。
「よく憶えてますね」
「あなた、昔私の知っていた人と、よく似ているんです。だから、この間のときも、ふっとお顔を見ていて」
「それで今日も……。なるほど」
予史子は、ちょっと顔を赤らめて、
「それじゃ、この間の主人との話も、お聞きになっていたのね」
「聞こえました」
「ああいう人なんです。──いつでも、自分がしたいように相手も合わせるべきだと信じている……。エゴイストなんです」
鳴海は黙っていた。──予史子は、ちょっと肩をすくめて、
「こんなグチを、他人のあなたへ聞かせても仕方ありませんけど。──そういうエゴイストを選んだのは、自分ですから。よく分かってはいるんですが……」
「いけないな」
と、鳴海は首を振った。
「え?」
「そうやって、すぐに、向うも悪いがこっちも悪い、と思ってちゃ、いつまでたっても同じことですよ。向うが悪いと思ったら、勝手に腹を立てりゃいい。ぶつけてやればいいんです。──あなたは向うが言い返す分まで、自分で考えてしまってるんだ。一人で夫婦喧《げん》嘩《か》してるようなもんですよ。それじゃ、あちらにゃ通じません」
予史子は、ムッとしたように、
「そんな──そんなこと、あなたなんかに言われる憶えはないわ!」
と言い返したが、すぐに笑い出してしまった。「──ごめんなさい。でも、本当にそうなのね。私が一人でくよくよしていて、夫にはさっぱりそれが伝わらない……」
「ま、そんなところでしょう」
アップルティーが来た。いい匂いだ。
そのまま一口飲んで、鳴海は肯いた。
「なるほど、おいしいや。──今度、誰かを尾行していて、ここへ入ったら、アップルティーを注文しましょう」
「そうですね」
笑顔で予史子は言った。「何だか妙な話ね。こんな話をしてるなんて」
「全くですね」
しかし、本当のところ、どんなに妙な話なのか、予史子には分かっていない。
殺す者と殺される者が話をしているということは……。
「──これから、どうするんです?」
と、予史子は訊いた。「まだ尾行なさるの?」
「仕事ですから。──ま、見付かっちまっちゃ、失敗ということですが」
「でも、それじゃお気の毒だわ。別に、ついてらしても構いませんけど。私、買物をして帰りますから」
「じゃ、勝手について歩きます」
と、鳴海は言った。
ついて歩くだけでは終わらなかった。
「ごめんなさい、重いでしょう」
と、予史子は申し訳なさそうに言った。
「いや、大丈夫ですよ」
鳴海は、両手一杯に、荷物をかかえていた。
結局、買物のお供をさせられてしまったのである。
「やあ、雨ですね」
──デパートの中にいて分からなかったのだが、外へ出ると、夕暮れの空から大粒の雨が道を叩《たた》くように落ちて来ていた。
「まあ、どうしましょ」
と、予史子が目を丸くした。
突然の雨で、タクシー乗場は凄《すご》い行列だったのだ。しかも、空車は少ない。
「これじゃ、いつ乗れるか分からないわ」
「そうですね。しかし、並ぶしかないんじゃないですか」
予史子は、少し迷っていたが、
「すみません。ちょっと待っていて下さい」
と、公衆電話の方へと駆けて行った。
やれやれ……。
鳴海は、首を振った。殺し屋稼業も長いが、買物の荷物持ちをさせられたのは初めてだ。
予史子の買物の様子は、しかし、至って堅実な主婦のものだった。身につけているものにしても、そう高価なものとは思えない。
どうも、佐知子の話とは大分違うのだ。
しかし、佐知子が、なぜ予史子のことで、鳴海に嘘《うそ》をつく必要があるのだろう?
鳴海にはよく分からなかった。それだけに、仕事を離れても、予史子には興味があったのである。
「──お待たせして」
と、予史子が戻って来た。「今、うちへ電話して、家政婦さんに夕食の仕度を頼みました」
「というと?」
「どこかで食事して帰りましょう。これじゃ、一時間は並ばないと」
「しかし……」
「荷物を運んでいただいてるんですもの。お食事ぐらい、さし上げたいわ」
「妙な話ですなあ、そりゃ」
「どうせここまで妙なら」
と、予史子は言って笑った。「──近くに静かなレストランがあるんです。そう高い所じゃありませんけど」
「いいんですか?」
「ええ。ほとんど濡《ぬ》れずに、地下から行けますわ」
予史子について、鳴海は荷物をかかえて歩いて行った。
雨は一向にやむ気配がない。
──レストランは、ビルの地下にあって、確かに静かで、ちょっと若者向きの感じだった。
「──大学生のころ、よく来たんです」
と、熱いおしぼりで手を拭《ふ》きながら、予史子は中を見回した。 「懐かしいわ。ほとんど変ってない」
古くて、すり切れたようなメニューを見ると、予史子は嬉《うれ》しそうな声を上げた。
「まだ、このメニューなんだわ。私が来てたころでも、もういい加減すり切れかけていたのに」
予史子は、何だか急に若返ったように見えた。「そうだわ。いつもこのスープだったの。味は変ってないかしら」
予史子は、ふと鳴海のことを思い出したように見て、
「ごめんなさい。一人ではしゃいでいて。──何になさる?」
鳴海は、メニューを置いて言った。
「あなたと同じものでいいですよ」
「じゃ、任せて。──同じ味だとしたら、とてもこの値段とは思えませんから」
オーダーしながら、予史子の目は輝いていた。
ついさっきまでの、疲れたような、投げやりな人妻の顔は、どこかに消えてなくなっていた。
「ワイン、お飲みになる?」
と、予史子は訊いた。
「いただきましょう」
グラスに入ったワインが来ると、二人は何となく乾杯するような格好になった。
「そう。お名前をうかがっていなかったわ」
と、予史子が言った。
「鳴海です」
「鳴海さん……。何に乾杯しましょうか」
「そうですね」
と、鳴海は言った。「失敗した尾行に」
予史子は、楽しげに笑った。
二人のグラスが触れて音を立てる。その軽やかで脆《もろ》い音は、鳴海と予史子の間で、もつれ合うように響いた。