重苦しい日曜日だった。
それはつまり、いつもの通りの日曜日だった、ということである。みゆきにとっては。
朝から、目は覚めていた。もちろん、学校へ行く日よりは遅いが、それでも八時ごろには体の方が自然に目覚めてしまうのだ。
どうしてだろう? 心はこんなに疲れ、諦《あきら》めと苛《いら》立《だ》ちの間で、老け込んでしまっているのに……。なぜ、体だけは若いのだろう。
いっそ、病気ならいい。不治の病で、あと一年の命、とでも聞かされたら、お母さんだって、少しは私の好きなようにさせてくれるかも……。
そんなことを考えてはいけないのだ。本当に病に伏している人が聞けば、腹を立てるだろう。
しかし、みゆきは、ついそう思わずにはいられなかった。──健康そのもので、休日に、外が爽やかに晴れ上がっているとなれば、ごく自然に、出歩いてみたくなるのが当然のことだ。それが許されないとなれば、健康そのものが、辛い拷《ごう》問《もん》になる。
みゆきは、目覚めてからも、二時間近くベッドを出なかった。
父は、今日も出勤らしい。階下では、父が軽く何か食べて出て行く物音が聞こえていた。
行ってらっしゃい。お気の毒に。お母さんは、さぞ喜んでいるでしょう。またあの若い男とホテルへ行ける、って……。
何も知らずに、黙々と会社へ行って働き続ける父は、哀れを通り越して、道化ですらあった。しかし、それを当人に教えてやるのは、もっと残酷かもしれない。
父が出て行く物音がして、少ししてから、母はどこかへ電話をかけた。──二階と共通の線なので、階下でかけると、二階の電話も小さく鳴るのだ。
男にかけているのかもしれない。主人、出かけたのよ。今日、会えない?
みゆきは、声を立てずに笑った。あの若い男──どう見ても二五、六だ──が、内心母のことをどう思っているのか。
よほど何か得になることがあるのだろう。そうでもなければ、母と浮気しようという物好きがいるとは、とても思えない。当人はそう思っていないとしても。
それを考えると、母もまた、こっけいだ。哀れでもあった。もちろん、同情する気など、まるでなかったが。
牧野純弥と秘かに会ったことが知られて、みゆきは外出を禁じられてしまった。学校の行き帰りには、みゆきの一番嫌いな、教師の子飼いの生徒がついて歩いていた。
そして、休日はこうして、家から一歩も出られない。──もちろん、その気になれば、みゆきだって子供じゃないのだ。出て行くのは簡単だ。
ただそうすると、牧野純弥がみゆきをそそのかした、というわけで、純弥は警察に呼び出される。──みゆきとしては、こうしてじっと家にいる他はないのだ。
その内に、純弥のことを忘れるだろうと思っている母の考えが、みゆきには信じられなかった。
母から見れば、みゆきの純弥への気持は、ちょっとした病気のようなもので、しばらくすれば、ケロリと治ってしまうものなのだろう。
みゆきは、自分の中に、母への憎しみが、少しずつ、少しずつ沈《ちん》澱《でん》しているのを感じていた……。
十時ごろになっていただろうか。──誰かが玄関へやって来た様子だった。
母の足音が二階へ上がって来ると、みゆきの部屋のドアが開いた。
入るわよ、と一言声をかけるでもないのだ。
「まあ、まだ寝てるの? 何時だと思ってるの!」
母の尚子が、さっさと窓のカーテンを開ける。まぶしい光が、部屋に溢《あふ》れた。
「何なの?」
みゆきは、ベッドに起き上がった。
「お客様よ。早く起きなさい」
「お客って……誰?」
みゆきは目をこすった。
「田所さんよ。この前、うちへみえた方」
みゆきは、目が覚めてしまった。──田所佐知子が来た。一体何の用だろう?
「美術展があるから、って、誘いに来て下さったのよ」
と、尚子は言った。「お待たせしちゃ失礼よ。早く顔を洗って」
「はい」
みゆきは興奮を押し隠して、「でも、私出かけちゃいけないんでしょ」
と、諦《あきら》め切ったような声を出した。
「ああいう方となら、構わないわよ」
みゆきの胸はときめいた。しかし、それを表には出さずに、
「美術展なんて──退屈だわ」
と、肩をすくめる。「でも、出られるだけいいか」
「ちゃんと、お勉強してらっしゃい」
と、尚子はみゆきの部屋を出て行きかけて、「お母さんも少し出かけるから、夕ご飯までに帰ればいいわよ」
と言った。
母が出て行くと、みゆきは、ベッドに顔を伏せて、声を押し殺して笑った。
そう。母だって、内心困っていたに違いないのだ。みゆきに外出を禁じたのはいいけれど、自分も恋人に会いに出かけにくくなったわけだから。
田所佐知子がね。──みゆきは、弾む思いで顔を洗い、着替えをした。
殺人犯に会うというのに、ためらいも恐怖もない。みゆきは田所佐知子に、どこか自分と似たところがある、と感じていたのだ。
「──お待たせして」
と、居間へ入って行くと、田所佐知子が取り澄ました顔でソファに座っている。
「突然でごめんなさい」
と、佐知子は言った。
もちろん、母の前だ。「優等生」「いい家のお嬢さん」の仮面をつけている。いや、「仮面」ではない。本当に佐知子は頭もいいし、家も豊かなのだ。
ただ、「一つの顔」を隠しているというだけなのである。
「本当にやることがのんびりしていて……。じゃ、みゆき、お母さんの言ったこと、憶えてるわね」
と、尚子が念を押す。
「はい」
みゆきは目を伏せたまま答えた。目が合ったら、ベエと舌でも出してしまいそうだ。
「じゃ、出かけます」
と、佐知子が立ち上がって、「突然お邪魔して──」
「いいえ。またいらして下さいね」
尚子は、もみ手でもしかねない愛想の良さだった。
──表に出て、歩き出すと、みゆきは、
「ありがとう」
と言った。「息が詰りそうだったの」
「知ってるわ。だから連れ出してあげようと思ってね」
佐知子は、ポシェットからガムを出して、みゆきにすすめた。「──禁足を食らっているんでしょ」
「座敷牢《ろう》に入ってるみたいよ」
みゆきは、大きく深呼吸した。「ああ、気持いい!──ねえ、どこに行くの?」
「あら、言ったでしょ。美術展よ」
「本当に?」
「私、こう見えても、音楽や絵は得意なの。嫌い?」
「そんなことないけど……。いいわ。どこでも、出られれば」
と、みゆきは微笑んだ。
美術館に着くころには、昼を過ぎていた。
付属の食堂で、安い代りに旨《うま》くもない昼食を取ってから館内を回った。
みゆきは、田所佐知子が本当に絵画に相当の知識を持っているらしいのを知って、ちょっとびっくりした。みゆきはせいぜい学校の美術で習ったものか、たまに家の美術全集でめくってみる作品ぐらいしか知らないのだが、佐知子は、片隅の方へ押しやられた、あまり有名でない画家のものも熱心に見ていた。
「──デッサンとか、下描きが面白いのよ。本音がね、却《かえ》って出るときがあって」
「本音?」
「そう。好感を持った相手を描くのと、ただお金のために大嫌いな人を描くのじゃ、筆の勢いが違って来るでしょ」
「それはそうでしょうね」
「その辺がね、下描きを見ると、よく出てるのよ。──ほら、見て、この線を」
佐知子が説明してくれると、本当にそんな風に思えて来て、みゆきはいつの間にか、一つ一つの絵に熱心に見入っていた。
妙なものだ。絵など大して好きでもなく、ただ出歩けるというだけで充分だと思っていたのだが。
佐知子には、そういう不思議な魅力があった。みゆきは、佐知子の磁力に取り込まれて行く自分を感じた。
一方で、佐知子の秘密を知っているだけに、それは危険な香りを漂わせて、いっそう麻薬のように、みゆきを捉《とら》えて行った。母への反抗、大人への背伸び……。
「──二時だわ」
と、佐知子が腕時計を見て、言った。「出ましょう」
「もう? だって、半分も見てないわよ」
「いいから」
と、いたずらっぽく笑って、みゆきの腕を取る。「ほら、早く」
「なあに?──どうして急ぐの? まだ帰らなくていいのに」
「分かってるわよ。忙しいの、今日は」
わけが分からない内に、美術館を出て、引っ張られるままに、裏手の公園へ入って行く。
「散歩でもするの?」
と、みゆきが訊くと、佐知子は足を止めて、
「ほら、待ってる人がいるわよ」
と、視線を遠くへ向けた。
みゆきは、その方へ目をやって……信じられない思いで、こっちへやって来る牧野純弥を見ていた。
「後も用事があるの」
と、佐知子は言った。「一時間ね。──一時間したら、ここへ戻って来て。分かった?」
みゆきは、ただ黙って肯いた。何も言えない。佐知子は、ポンとみゆきの肩を叩いて、
「じゃ、頑張って」
と一声、足早に立ち去った。
純弥のヒョロリとした姿が近付いて来て、みゆきは自分の方から、その胸へ飛び込んで行った。
「──ごめんなさい!」
みゆきは息を弾ませて、ベンチに座っている佐知子の前に立った。
佐知子は、ジロッとみゆきをにらんで、
「二十分、遅刻」
と言ってから、フフ、と笑った。「早かったじゃない。一時間は遅れて来ると思ってたわ」
みゆきはホッとして、
「急いだんだけど……」
「ブラウスのボタンが外れてるわよ」
みゆきはあわてて見下ろした。
「引っかかった」
と、佐知子は笑って、「純情ねえ、あなたって」
「いじめないでよ」
顔を赤らめて、みゆきは言った。
「部屋、あったの?」
「──ええ」
「じゃ、無事に済んだわけね」
みゆきは肯いた。──時間がない、と思うと、ためらっている余裕もなかった。
初めての体験はあわただしく終わったが、みゆきは後悔していなかった……。
「──動いても大丈夫?」
と、佐知子が立ち上がって言った。
「うん。どこへ行くの?」
「手伝ってほしいことがあるの」
「何でもやるわ」
と、みゆきは言った。
「何でも?」
「ええ」
「人殺しでも?」
みゆきは、佐知子の視線を受け止めた。──冗談を言っているのではない。本気なのだ。
「いいわ」
と、みゆきは肯いた。「手伝う。誰を殺すの?」
佐知子はニッコリ笑って、みゆきの肩に手を回して、歩き出した。
今日は誰もいない。
つまらないわ……。三矢絹子は、買物から帰って来て、アパートが見えてくると、ついグチをこぼした。
もちろん、まだ夕方なので、サラリーマンは帰って来ないし、大学生だって、こんな時間には帰らない。誰もいないのが当り前だった。
鳴海さんがいてくれたらね、と絹子は思う。あの人とは、何となく気が合った。
それに、細い体なのに、結構あっちの方はタフで、絹子を一番満足させてくれたものだ。
それなのに……。
死んでから、絹子は刑事に、鳴海が「殺し屋」だった、と聞かされた。
「まあ、怖い! そんな人がそばにいたなんて!」
と、一応は反応して見せたのだが、本当のところ、大してびっくりもしなかったのである。
半分自由業とは言っていたが、あの男にはどこか「まともでない」所があった。しかしそれが、ヤクザなどとは違って、鳴海の場合は逆に魅力になっていたのだ。
正直なところ、刑事の話を聞いて、絹子は、自分が殺し屋に抱かれていたのかと思うと、ゾクゾクするような快感を覚えたものである。
人を刺し殺したり、絞め殺したりした、その手で(どんな殺しをやったのか、絹子は詳しいことは聞いていなかったが)、愛《あい》撫《ぶ》されていたと考えただけで、近所の人にしゃべって回りたくなって来る。
まあ、何とかそれだけは思い止まったのだけれども……。
でも、あの人が「殺し屋」ねえ。もっと何度も寝とくんだったわ。
アパートの入口で、女の子とすれ違った。──一七、八だろうか。あまり見かけない顔だ。
見かけない? 絹子は、ふと思い出した。一度、鳴海を訪ねて来た「親《しん》戚《せき》の子」といっていた少女を。
あの子だろうか? 足を止めて振り返ったときには、もう少女の姿は見えなくなっていた。
絹子の部屋は一〇四号室だ。──まだ子供たちは帰って来ていなかった。
部屋へ入り、冷蔵庫へ入れる物をしまい込むと、一息ついた。
お茶でも飲んでから……。朝、二杯ぐらい出しただけのお茶の葉が、急《きゆう》須《す》に残っている。
ヤカンを、ガスの火にかけた。
夫は──今日も遅いはずだ。
絹子は、今夜は誰かの部屋へ行ってみようと思っていた。
夫が、病気がもとで、あっちの方がだめになってから、もう何年たったろう? 本人も辛いだろうが、絹子だって、女盛りの身をもて余してしまう。
夫も承知の上で、アパートの中の男たちと遊ぶようになったのも、成り行き、というものだった。絹子自身は、決して夫が嫌いというわけじゃない。いい人だし、ずっと年を取って、もう男も必要としなくなれば、どこか郊外に小さな家でも買って、二人で余生を送ろう、などと考えてもいるのである。
ただ、それにはまだ少し早すぎる……。
お湯が沸くのを待って、ぼんやり座っていると、ついウトウトしかけてしまう。──ドアを叩く音で、ふっと目が覚めた。
「あら、いやだ」
ヤカンがもう蓋《ふた》をコトコトいわせている。
「はい! ちょっと待って!」
絹子は立ち上がると、ガスの火を消して、玄関のほうへ行った。「どなた?」
セールスマンか何かだったら、追い返してやらなくては。
「警察の者です」
太い男の声がした。──絹子は、ドアを開けた。見たことのある顔だ。
「まあ、この前、鳴海さんの所へみえてた人ね」
と、絹子は言った。
「麻井です。その節はどうも」
と、人の好さそうなその刑事は会釈して、「突然で申し訳ない」
「いいえ。──何か私に?」
「ちょっとお話をうかがいたくてね」
と、その刑事は言った。「忙しければ、出直しますよ」
「忙しく見えます?」
と、絹子は笑った。「どうぞ。──お茶をいれるところだったから」
絹子は、麻井を座らせて、お湯をポットに入れた。──お茶の葉を入れかえようか?
いいわ。別に、刑事にいいお茶出しても仕方ないし……。
「鳴海さんを殺した犯人って、捕まったんですか?」
と、台所から絹子は訊いた。
「いや、それを調べてましてね」
麻井は答えて、「この前は、鳴海の部屋を調べただけだったんですが、やっと時間ができたので、少しお話をうかがいたくて……」
「あの部屋のことも、訊いてくれって言われてたんだわ、私」
絹子は思い出して、「あの部屋、どうなるんですか? 荷物とか、取りに来る人もいないし」
「もう捜査は済んでるんでね」
と、麻井は言った。「誰か借り手がいたのかな」
「見付けるにも、部屋をきれいにしなくては、ってここの持主が。──連絡してやって下さいな。私がいつも言われちゃうんですから……」
絹子は、麻井と自分にもお茶をいれた。
「や、どうも。──じゃ、私から持主の方へ連絡しておきますよ」
「お願いしますわ」
絹子は座り込んで、「──お話って?」
「ええ……。実は、ちょっと噂《うわさ》を耳にしましてね」
「噂?」
「奥さんと、鳴海のことです」
「あら」
と、絹子は湯呑《の》み茶《ぢや》碗《わん》を取り上げて 、「じゃ、ご存知なかったの?」
と言った。
「はあ?」
「とっくにお聞きかと……。そうね。このアパートの人、言いにくいでしょうからね」
と、笑って、「鳴海さんだけじゃないんです。ここの独身の男性、みんなです」
麻井は呆気《あつけ》に取られて、お茶を飲むのも忘れている様子だった。
「つまり……みんなと?」
「家族持ちは別よ。──鳴海さんが一番よかったけど。寂しいわ、だから」
絹子は、夫との件について、麻井に説明した。「主人も分かってるんです。だから、別にどうってことは……」
「なるほど」
麻井は、少々呑まれた格好で、「しかし……いくら病気のせいでも、そう割り切れるものですかね」
「さあ」
絹子は肩をすくめて、お茶をガブ飲みした。喉《のど》が乾いているのだ。
「主人も内心は色々あるのかもしれません。でも、私には何も言わないし、それに、だからといって私、ずっと男なしではいられませんよ。男の人だってそうでしょ?」
「そう……。ま、そうでしょうね」
麻井は、咳《せき》払《ばら》いをして 、「他に、鳴海には女はいませんでしたか」
「女。──女ねえ」
「よく訪ねて来たとか、電話がかかったとか……」
「電話までは知りませんけどね」
と、絹子は言った。「そうね。女学生が一人来てたわね」
「女学生? 女子大生ですか」
「いいえ、高校生よ。制服着ててさ。──親戚の子だって言ってたけど」
「そういう様子ではなかった、と?」
「私はそう思ったわね。もちろん、恋人っていうには若すぎるけど、今の高校生はねえ、結構凄いから」
と、絹子は自分のことは棚に上げて、言った。
「どんな女の子でした?」
と、麻井が訊く。
「そうねえ。──女子高生なんて、みんな似たようなもんでしょ。ああ、でも、ついさっき──」
と言いかけて、絹子は言葉を切ると、胸に手を当てた。
「──どうしました?」
と、麻井が訊く。
「何だか──胸が──苦しい」
と、喘《あえ》いだと思うと、絹子は突然、仰向けに倒れて、手足を突張らした。カッと目を見開いて、指が空をつかもうとしている。
「しまった!」
麻井の顔色が変った。「──奥さん! 畜生! 救急車だ!」
麻井は電話へと飛びついていた。しかし、おそらくもう手遅れだろう。麻井の勘は、そう教えていた……。