妙なことになったものだ。
鳴海は、大きな遊園地の入口で、ぶらぶらと歩いていた。──平日なので、大して人も出ていない。
平日だろうと休日だろうと、鳴海はこんな所へあまり来たことがない。好きでもないし、大体、大の男が一人で入って、宇宙ロケットだのジェットコースターに乗って喜んでいるというのも、何だか不気味な感じだ。
気持よく晴れた日で、外へ出るだけでも爽《さわ》やかではある。
手持ちぶさたで、鳴海は、チケット売場の前の売店でポップコーンを一袋買って、つまみ始めた。
平日で空いているとはいっても、結構、親子連れ──それも父親が一緒、という家族連れも大分見られた。きっと、鳴海のように、「自由業」なのだろう。それとも、日曜日は出勤のサービス業か何かか……。
殺し屋というのは、半ば自由業みたいなものだが、一《いつ》旦《たん》仕事に入れば、それが終わるまでは休みがない。報酬は出ても、休日出勤手当も、残業手当もない。
全体として考えれば、あまり得な商売とはいえないだろう。
──子供の笑い声が、風に乗って流れて来た。
鳴海は、ごく当り前に家庭を持ちたいと思ったことはなかった。この仕事では、無理な話である。
といって、この仕事をやめるのは、容易ではない。やはり、雇主にとっては、体内に巣食っている病原菌《きん》のようなもので、散々利用しておいて勝手なものだが、不要になれば、捨てるしかない。
ただ捨てるのではなく、「殺菌」するのだ。
そうならないように、うまくこの仕事から抜けるのは、極めてむずかしい。雇主がたまたま死んでしまえば別だが。
逮捕されたのなら、却《かえ》って鳴海にはやばいことになるのだ。
「──来たか」
鳴海は、駅の改札口を出て、急いでやって来る女の姿を見ていた。
田所予史子。佐知子の継母である。
「すみません。遅くなって」
と、息を弾ませてやって来る。「待ちました?」
「二十分くらいかな」
「まあ、すみません。早く出るつもりが、急なお客様で……」
「いや、いいですよ」
と、鳴海は首を振った。「僕にとっちゃ、待つのも仕事の内です」
予史子は、鳴海が夫に雇われた探偵と思い込んでいるのだ。そう思っていてくれなくては、鳴海にとっても困る。
「すみません、本当に」
と、予史子はもう一度謝った。
よく謝る女だ、と鳴海は思った。性格というものなのだろう。
「それはいいけど──」
と、鳴海は、周囲を見回して、「どこへ行くんです?」
遊園地の前、ということで待ち合わせをしたのだが、周囲には、ろくな喫茶店一軒ない。正に、この私鉄の駅そのものが、この遊園地の客のために作られたようなものなのだ。
「どこって……ここですわ、もちろん」
予史子が、ちょっと目をパチクリさせて、遊園地の入口の方を指さした。
「ここ?──遊園地に行くんですか?」
と、思わず訊《き》き返す。
「ええ。私、大好きなんですの。あ、入場券は私、買いますから」
と、予史子はさっさと窓口の方へ行ってしまう。
「どうなってるんだ?」
鳴海は、首をかしげながら呟《つぶや》くと、ポップコーンを一つまみ口の中へ放り込んだ。
「──平日だと空いてていいわ」
予史子は、馬鹿でかい花壇が、陽射しを受けて輝いているのを眺めて、「きれいな色! ねえ、そう思いません?」
と、感嘆の声を上げた。
「そうですね」
確かに、その色がきれいだということは、鳴海も否定しない。しかし……。
殺そうとして調べている、当の相手と一緒に遊園地を歩くというのも、どうにも妙な気分ではあった。
「あ、園内の遊覧列車があるわ。ねえ、あれでまず一周しましょうよ」
「いいですな」
と、鳴海は肯《うなず》いた。
そうとでも言うしかないじゃないか!
──ガタゴト、と小さな列車が走り出す。
客席は半分ほどしか埋っていない。しかもほとんどは家族連れで、それ以外はせいぜい高校生ぐらいのカップル。
どこをどう捜しても、三十代の男女だけという組合わせは、見当らない。
予史子は、指示された通りに、前の座席の背につけてある握り棒をつかんで、フフ、と笑った。
「ごめんなさい。──迷惑でしょ?」
鳴海は笑って、
「よく謝る人だな。別にこっちは構いませんよ」
「でも、馬鹿らしい、って顔をなさっているもの」
「そんなことありませんよ。ただ、特別楽しくもないから……」
予史子は、高架のレールを走る列車から、園内の風景を見下ろしながら、
「私、ずっと前から、一度こうしてのんびりと遊園地に来てみたかったんです」
と言った。
「その気になれば来られるでしょう」
「ええ。でも──一人では」
と、肩をすくめ、「こういう所、一人で乗物に乗っても、ちっとも面白くありませんもの」
「そりゃそうだ」
「今なら、あなたが仕事で私について歩いてらっしゃるし、一人でなく遊園地を歩けるって思い付いたんです。──変かしら?」
真剣に訊くので、鳴海も答えないわけにいかない。
「尾行している探偵と遊園地で遊ぶ、というのは、やはり、あまりまともとは思えませんね」
「それもそうね」
二人は一緒に笑った。
予史子は、三四歳にしては老けているのだが、こうして笑うと、むしろ若々しい。それが却って哀愁を感じさせた。
「──主人はまた出張です」
と、予史子は言った。「佐知子さんは相変らず、私のことを無視してるし」
「遊園地の話題には、ふさわしくありませんね」
と、鳴海は言った。
「そうね。本当にそうだわ」
予史子は大きく息を吸い込んで、「今日は、夫のことも、娘のことも忘れて、一日過ごすことにしたんだわ!」
と、声を上げた。
「あのね──」
と、鳴海は予史子をつついた。「『夫のことを忘れて』って大声で言わない方が。不自然ですよ」
「あら、本当だ」
予史子はおかしそうに笑い出した。子供のような、弾けるような笑い声だった。
佐知子が一七歳にしては大人びた話し方をするのと、対照的だった。いや、そんなものなのかもしれない。
一方は早く大人になりたいと思い、一方は子供に戻りたがっている。──どちらも不可能なことなのだが。
「この券は、乗物も乗れるんですか?」
と、鳴海は〈フリーきっぷ〉と書かれた大きな券を見ながら言った。
「ええ、好きなものに、何度でも」
「じゃ、全部を乗ってやろう」
と、鳴海は言った、「一番の目玉は何です?」
「あれ」
と、予史子は、ゴーッと音のする方を指さした。「ジャイアントコースター。完全に一回転して、逆転して、ひねりがあるんですよ」
「面白い! ちょっとした戦闘機乗りですな。あいつから手始めに行きましょう」
と、鳴海は肯いて言った。
「──大丈夫?」
と、予史子が心配そうに覗《のぞ》き込んでいる。
「もう……大丈夫です」
鳴海は青い顔をして、ベンチに腰かけていた。
「冷たいジュースでも買ってきましょうか」
「いや、本当に……。奥さん、どうぞ好きなものに乗ってらして下さい」
「でも、一人では……。いいですわ、ご気分が戻るまで座ってますから」
と、ベンチの隣に腰をおろす。
「いや……面目ない」
鳴海は、かのジャイアントコースターで、降りたらすっかり目が回り、フラフラになってしまったのである。
全く、見っともない話だ。殺し屋が遊園地の乗物で酔ったなんて……。
とてもじゃないが、ハードボイルドにはならない!
「すみません、無理に引っ張って行ったから」
と、予史子が言った。
「あなたは謝り過ぎです。──こっちは大の大人ですよ。勝手に乗って、勝手に気分が悪くなったんだから、放っときゃいいんです!」
「でも……」
鳴海は、フーッと息をついて、
「すみません。どこかでコーヒーを買って来ていただけますか」
強がって見せたところで、仕方がない。
「はい」
予史子は楽しげに笑って、急いで歩いて行った。
「やれやれ……」
困ったもんだ。──人を殺すのに、ジェットコースターの上が向いていないことだけはよく分かった。
まずいコーヒーでも、コーヒーはコーヒーだ。半分ほど飲んで、大分スッキリした気分になった。苦さのせいかもしれない。
「──もう大丈夫。どこかへ行きましょうか」
「でも、もう少しお休みになった方が……」
「少し歩いていれば完全ですよ」
二人は、ぶらぶらと、色々な乗物の間を、歩き出した。
コーヒーか……。佐知子は、確かにコーヒーをいれるのは上手だ。
しかし……。どうしたものだろう。
佐知子は、この継母を憎んでいるようだ。しかし、少なくとも鳴海の見る限り、予史子はむしろ「被害者」である。
それとも佐知子の言うように、この人妻は猫をかぶっているだけなのだろうか。
「──この木馬に乗ろうかしら」
と、予史子は言った。
「どうぞ。僕は待ってますよ」
「そうね。じゃ、ちょっと乗って来ますわ」
これなら、鳴海も大丈夫だろうが、ちょっと男が一人で乗るには、かなりの勇気を要する、超お子様向きの乗物である。
鳴海は、予史子を乗せた木馬が、のんびりとコースを辿《たど》って行くのを見送って、少し離れたベンチに行って腰をおろした。
──迷いがあるときは、やるのをやめる。
これが「殺し」の鉄則である。今まで生きて来られたのも、それを守っていたからだ。
佐知子、予史子、それぞれに言い分はあるとしても……。
これは、やはり手を引いた方がいい、と鳴海は思った。佐知子とも手を切る。何か方法はあるだろう。
ただ佐知子は、鳴海の殺しの目撃者である。
別れるとなれば、消すしかない。
できるだろうか? いささかの愛着を抱いている鳴海は、そう自分へ問いかけた。
──予史子が戻って来た。
「やあ、いかがでした」
と顔を上げて、面食らった。
予史子が、青ざめた顔で、
「行きましょう」
と言ったのである。
あの木馬で酔ったのか?──まさか!
「出ましょう」
と、予史子は鳴海の腕を取って、言った。
「出る?」
「ええ。早く」
と、せかせる。
何かあったらしい。──鳴海は、予史子と一緒に、小走りに遊園地の出口へ向った。
かなりの距離である。入ったときとは別の口へ出てきたが、それでも二人とも息を弾ませていた。
「──どうしたんです、一体?」
と、鳴海が訊くと、
「どこかへ行きましょう」
予史子は鳴海の腕をつかんで、引っ張るようにして、タクシー乗場の方へと歩いて行く。
ちょうど一台、待っている車があった。
「──K街道を」
と、乗り込んで、予史子が言った。
タクシーが走り出すと、予史子は、やっと息をついた。
「──すみません」
と、また謝る。
「何事です?」
予史子は、ゆっくりと首を振った。
「運が悪いわ……。主人の古い友だちに会ってしまったんです」
「ご主人の? あなたのことを知ってるんですか」
「年中、家へ来ています。まさかあんな所で会うなんて!」
「家族で?」
「ええ。子供さんを連れて。──私より先に向うが気付いていたんです」
「すると──僕のことを見た?」
「ええ。目つきが……。私を見る目つきで分かりました」
鳴海は、ため息をついた。
「困りましたね、それは。もちろん、僕はご主人に雇われたわけだが、まさか尾行中に一緒に遊園地へ行きました、とは言えませんからね」
──これは、別れる口実になる。
鳴海はそう思っていた。
タクシーがK街道を走って行く。──予史子は、何を考えているのか。鳴海の方へ目を向けず、ただひたすら、じっと前方を凝視していた。
そして──突然、身を乗り出すと、
「そのホテルへ入って」
と、言った。
鳴海は面食らった。街道沿いの、安っぽいけばけばしさが売り物のホテルである。もちろん、ドライブのアベックたちが立ち寄って行く場所だ。
予史子は、鳴海の戸惑いにはお構いなく、タクシーが停ると、料金を払った。
仕方ない。鳴海は、予史子に続いてタクシーをおりた。
予史子は、もうホテルのフロントへ歩いて行って、部屋を取っている。キーを受け取ると、無言で、どんどん歩いて行ってしまうのである。
鳴海は、ついて行った。今さら、やめましょうとも言えない。
「──どうしたんです」
と、廊下を歩きながら、やっと声をかけたが、予史子は返事をしなかった。
予史子は、ドアの前で足を止め、鍵《かぎ》を開けて中へ入って行く。鳴海も続いた。
窓のない部屋である。──暗い方が都合がいいわけだから、なくて当然かもしれない。
明りを点けて、キーをソファの上に投げ出すと、予史子は鳴海に背を向けて、じっと立っていた。
「奥さん」
と、鳴海は言った。「やけを起こしちゃいけませんよ」
予史子は、黙って服を脱ぎ始めた。
──そして、一時間がたちまちの内に過ぎた。
鳴海は、あの佐知子の若々しい肌とは違った、予史子の女盛りの肌に、我を忘れてのめり込んだ。
「──悪いことをしたな」
暗いベッドの中で鳴海が言うと、予史子は、ちょっと笑った。
「──何がおかしい?」
「だって──あなたがよく言うわ。私のこと、謝り過ぎるって」
「ああ、そうか」
鳴海は、予史子の髪を、そっと指ですいた。
「いいのよ」
と、予史子は言った。
「何が?」
「どうせ──あの人たちに見られれば、主人の耳に入るわ。何もしていなくても、主人は信じないもの」
「なるほど。それなら、寝た方が得、か」
「それだけじゃないの。本当よ」
と、予史子は身を乗り出すようにして、鳴海にキスした。「あなたのこと、好きなんだもの」
「ご主人に不満だからじゃないのか」
「心理分析はやめて」
予史子は、鳴海の胸に頬《ほお》をすり寄せた。
何てことだ。──継母と娘、両方と寝ているんだ、俺は。
いつからこんなにもてるようになったのかな……。
「すばらしかったわ」
と、予史子が言って、仰向けに寝た。
「ああ、君もだ」
「君……ね。そう呼んでね、ずっと」
「どうして?」
「『君』って、響きが好きなの」
母も娘も、少し変っているのかもしれない。──共通しているのは、魅力的だということだけである。
だが、すぐに鳴海は、二人にもう一つの共通点を見出すことになる。
「──ねえ」
と、予史子が言った「お願いがあるの」
「僕に?」
「そう。仕事のつもりで、引き受けてもらえない?」
「仕事というと……ご主人の素行でも調べるのかい?」
「いいえ。──主人を殺してほしいの」
と、予史子は言った。