「暗いね」
と、真田京子が言った。
「何が?」
みゆきは、顔を上げた。「私のこと?」
「みゆきは、ここんとこ、明るいよ」
と、京子は言って、みゆきの前の席に座った。
お昼休みだ。──みゆきは、外へ出なくなっていた。
「そう? 相変らず禁足を食ってるのよ」
「でも、たまには出かけてるって。一緒に出かけてるの、誰なの?」
「うん。──母のお気に入りよ」
みゆきは、曖《あい》昧《まい》に言った。
確かに、みゆきがこのところ明るくなったのは事実だろう。それでも、以前のみゆきほどではないだろうが。
「暗いって、何のこと?」
「新聞見たの。──奥さんを毒殺したって旦那さんの話」
「ああ。お茶に毒入れてたっていうんでしょ?」
「そう。夫婦仲に問題あったみたいね。週刊誌で見たけど、旦那さんがだめになってさ、奥さん、平気で他の男と浮気してたんだってさ。旦那さんも認めてたはずだって」
「屈折してたのよ」
「そうねえ。女房が毎日他の男と寝てるなんて……。いくら自分にも責任があるったって、たまんないわよね」
みゆきは、さりげなく、
「自供したの、ご主人は?」
「してないみたい。否認してるって。でも、言うことが大分混乱してるみたいよ」
そう……。きっと愛していたのだ、あの奥さんを。
奥さんの死そのもののショックで、自分が疑われているということも、分かっていないのかもしれない。
「ほら、この前、歩行者天国で会った刑事さん、いたじゃない」
と、京子が言った。
「麻井さん?」
「そう。そんな名だったね。あの人が現場にいたんだってよ」
「へえ」
「目の前で、奥さんが毒をのむの、見てたらしいの。本人もお茶を出されたんだって。──危機一髪ね。飲んでれば、あの刑事さんも、今ごろは……」
「良かったわね、飲まなくて」
と、みゆきは言った。
「人が死ぬの、目の前で見てるなんて、どんな気持だろ」
と言ってから、京子は、「あ、そうか。みゆきは見てたんだね」
と、気付いた。
「ただ、見てただけよ」
と、みゆきは肩をすくめた。
窓辺に立って行って、校庭を見下ろす。
校門が遠くに見え、そこにポツンと人影があった。──あんな所で、何してるのかしら、とみゆきは、ふと思った。
「──出て来た」
と、麻井は言った。「おい、車を出せ。ゆっくりだ」
車が走り出す。
校門から次々に、何人かずつ連れ立った女学生たちが出て来る。
「同じ制服で見にくいでしょうがね。あの、二人連れの子。赤い袋を下げてる。──分かりますか」
麻井は後部席に座っていた。隣には、不安げな顔の中年の主婦が座っている。
「あの二人の、右の方の女の子です。よく見てください」
車は、道の反対の端に止っていた。
みゆきと京子が、連れ立って歩いて来る。
やがて、車とすれ違った。──二人は見られていることなど、まるで気付く様子もなく、歩いて行った。
「──よし、行け」
と、麻井は命じた。
車は、少しスピードを上げた。
「どうです?」
と、麻井は、中年の主婦へ、「鳴海の所へ来ていた女の子と似てますか」
「そうですねえ……」
と、主婦は困った様子で、「私も、そんなによく見たわけじゃないんですよ。人の顔をジロジロ見るのなんて、失礼なことですものねえ」
「そりゃそうです。感じは似てますか?」
「ええ……。でも、あれぐらいの女の子で、しかも制服を着てるとなると、見たとこ、よく似た子はいくらでもいますからね」
「印象でいいんですよ、漠然とした」
麻井は粘った。
「後で──証言しろ、とか言われません? そんなこと、できませんよ、私」
と、主婦の方は信用していない。
「大丈夫。そのときは否定してくれればいいんですから」
「でも、嘘《うそ》の証言をしたとか言われるし……。はっきり言って、私には分かりません。似ているようでもあるし、違うようでもあるし。──そっくりかもしれないし、全然違うかも……。それだけです」
「分かりました」
麻井は、ため息をついた。「どうもお手間をとらせました」
「近くの駅前で降ろして下さい。電車で帰りますから」
主婦は、あくまで麻井の誠意を信じていないようだった。
主婦を駅前で降ろすと、運転していた田口刑事が、振り返った。
「どうします?」
「ともかく、前に行くよ」
麻井が助手席へ移った。「いや、参ったな。──もともと、はっきりした証言は期待してなかったが……」
「あんまり関り合いになりたくないんでしょうね」
と、田口は車をスタートさせながら言った。「署へ戻りますか?」
「そうだな」
麻井は時計を見た。「戻らんと、課長がうるさい」
車を走らせながら、田口が言った。
「麻井さん、本当にあの女の子──何ていいましたっけ」
「新谷みゆきだ」
「ああ、そうか。何か歌手みたいな名前だったな、と思ったんだ」
と、田口は呑《のん》気《き》なことを言っている 。「本当にあの子が、鳴海を殺《や》ったと思ってるんですか?」
「分からん」
と、麻井は首を振った。「ただ、どうも、話以上に、何かを知っているような気がする」
「それはあるかもしれませんね。──真面目な子かと思ってたら、結構、暴走族と付合ってるとか……」
「うん。──しかし、それはどうでもいいんだ」
そんな男と付合うというのは、むしろあのみゆきという子が、妙に計算高くないからとも言える。
今時、もっと利口な子は、自分にとってマイナスになるような相手は、初めから選ばないものである。
その点、ちょっと不思議ではあったが、麻井は新谷みゆきに好感を抱いていて、それは少しも変らなかった。正直な子だ、と思っていた。
嘘をつかないという意味ではない。人間、誰だって──特に若いころは、自分を守るために、すぐ嘘をつく。
しかし、みゆきは少なくともその結果を自分で背負うことからは、決して逃げたりしない。麻井はそう思っていた。
「大体、妙ですよ」
と、田口が言った。「鳴海が死ぬのを、ずっとそばに座って見てた、なんて。──普通の女の子なら逃げ出してる。やっぱり、嘘をついてるんですよ」
「うん……」
確かにその点で、みゆきは何かを隠している、と麻井も思っていた。
しかし、鳴海のそばに座って、彼が死ぬのを見守っていたのは、事実ではないか。
後で、他人が考えれば不合理なことでも、その場にいればごく当り前のような気がする。──そんなことはよくあるものだ。
田口のような若い刑事には、その辺のことは分かるまいが……。
正直なところ、麻井も難しい立場だった。
鳴海が殺された事件に、あまり深入りするのは、上司がいい顔をしない。
そんな人手があれば、もっと「善良な市民」のために働け、というわけだ。──鳴海は殺し屋だった。
その鳴海が殺されたところで、別にどうということはない。──麻井も、もし昔から鳴海のことをよく知っていなければ、そう思ったかもしれない……。
鳴海とのことを、もっと早く三矢絹子に訊《き》いておけば良かった、と麻井は悔んでいた。他の事件にかかっていて、ずっと遅くなってしまったのだ。
そして、三矢絹子は目の前で死んでしまった。──毒殺。
自殺という可能性はない。麻井の目の前で、ああしてしゃべっていたのだから。
危いところだった。麻井自身あのお茶を飲もうとしていたのだ。
もし飲んでいれば、とても助からなかっただろう。
後の処置についても、解剖所見では、麻井がやった以上のことは誰にもできなかった、と言われた。何をやっても、手遅れだったろう。
麻井はそう聞いてホッとした。自分の処置が悪かったのではないかと悩んでいたからだ。
しかし──三矢絹子は、なぜ殺されたのだろう?
夫がやった、と担当の刑事は考えているようだし、麻井も、その可能性が小さくないことは分かっていた。
いくら女房のほうは割り切っているつもりでも、夫の側からすれば、やり切れなかったろう。容疑者の第一に、夫が挙げられるのは当然といえる。
ただ、麻井は、絹子が例の鳴海の所へ来ていた女学生のことを話していて、
「ついさっき──」
と言いかけたことと、そしてそのまま絶命してしまったことに引っかかっていたのである。
ついさっき……。
絹子は、言いかけたまま、悶《もだ》え苦しんで死んでしまったが、もしあれが 、「ついさっき、その子を見たわ」とでも言うところだったとしたら……。
その女学生が、鳴海のいないあのアパートに現われる理由はあるだろうか?──もし、留守中に、三矢絹子の部屋に上がって、あの急須の中へ毒を入れたとしたら……。
夫が、朝、行きがけに入れていった、と考えることも、もちろんできる。一度使っただけで、お茶の葉を捨ててしまったりしない絹子の性格を知っていれば。
しかし、鳴海を殺したのが、もしその女学生だとすれば(みゆきかどうかは別として)、自分の顔を知っている三矢絹子を殺そうと考えても、不思議ではない。
だが……。まさか、という思いがある。
あんな女子高生に、鳴海のようなプロの殺し屋がやられたりするものだろうか。
いくら油断していたとしても……。
「これから、どうします?」
と、田口が言った。
「署へ戻るんだろ?」
「いや、あの新谷みゆきのことですよ」
「そうか。──いや、迷ってるんだ。どうしたもんかと思ってな」
「やられたのが殺し屋だとしても、殺人は殺人ですからね」
「うん。──といって、あの子を逮捕して、夜通し訊《じん》問《もん》するというわけにもいかん」
「大問題になりますよ、もし見当違いだったら」
新谷みゆきがやったという証拠があれば、もちろん麻井とて、ためらわずに訊問でも何でもする。しかし、麻井の勘は、別に犯人がいると告げていた。
麻井も、まさか「二人の女学生」がいたとは、思ってもいないのである……。
「──いいお話があるのよ」
と、尚子が言った。
「何なの?」
みゆきは、あまり気のない様子で言った。
夕食の席で、どこか今夜は雰囲気が違うな、とみゆきも感じていた。
いつも忙しくて、夕食の時間に帰宅していたことのない父が、珍しくテーブルについている。
「どうしたの、お父さん?」
と、みゆきは思わず訊いてしまったくらいだ。
「ともかく──食事を済まそう」
と、父が言った。
「もったいぶらないで、聞かせてよ」
と、みゆきは言った。
「そうね。最近は、みゆきも大分いい子になって来たし」
と、尚子が言った。
お母さんのおかげでね、と、みゆきは心の中で呟《つぶや》いた。
みゆきは、もう母への無力感に悩むことはなかった。
牧野純弥と結ばれたのだ、という思い。そして母は全くそんなことに気付いていないということ。加えて、母の浮気を、みゆきは承知している。
今は、むしろみゆきの方が優位に立っているのである。
よく娘のことを見ている母親なら、処女でなくなって帰ってくれば気が付くものだ、とか、本で読んだことがあった。でも、尚子はまるで気付いた様子もない。
みゆきは、正面切って、母親を笑ってやりたいと思った……。
「禁足を解いてあげるわ。ただし、出かけるときは、必ず誰とどこへ行くかを、はっきり言っていくのよ」
みゆきは、素直に、
「はい」
と、答えておいた。
そんなことで──当り前のことで、感謝して手にキスでもしろ、と言うのかしら?
「それに、もうそんなに長いことじゃないしね」
母の言葉に、みゆきは食事の手を止めた。
「──どういう意味?」
「あなた、アメリカへ留学しなさい」
みゆきは、母の言葉がしばらく理解できなかった。──何を言ってるんだろう、お母さんったら。
「お父さんとも相談して決めたの」
と、尚子は言った。「あなたぐらいの年齢で、一度は外国の生活を経験しておくのは悪いことじゃないわ」
「決めた、って……」
みゆきは、やっと驚きから我に返って、「私──そんなのいやよ。行きたいなんて、言ったことないでしょ!」
「何を言ってるの。みんな行きたくたって、行けないのよ。それをやってあげようと言ってるのに」
「私の意志を無視して決めるなんて──」
「あなたは子供よ」
と、尚子が、ピシャリと遮った。「──いいこと? 今年の秋から、アメリカへ行くの。心配しなくてもいいわ。私も初めの何か月かは一緒に行っててあげるから」
みゆきは青ざめた。──手が怒りで震えた。
「問答無用ね。私が何でも言うことを聞くと思って──」
「当然よ。あなたは私の娘なんだから」
「私だって、自分のやりたいこと、進みたい道があるわ!」
尚子は、冷ややかにみゆきを見ていた。
「──喜ぶと思ったのにな」
と、父が言った。「みゆきも、日本でテストテストに追いまくられているよりいいんじゃないのか?」
「そうじゃないのよ」
と、尚子が言った。「ね、みゆき」
「何よ」
「あなたがアメリカへ行くのを嫌がってるのは、例の不良のせいね」
「牧野君とどういう関係があるの」
「ないわけないでしょ。誰だって大喜びするはずよ。まだ未練があるのね」
みゆきはカッとなった。──若い男とホテルに行く母。それを棚に上げて、子供には自分の決めたことを押し付けるのだ。
「いけない? いくらお母さんでも、私の心まで管理できないわよ!」
みゆきは、立ち上がった。
「座りなさい」
「絶対に、アメリカなんか行かない!」
「座りなさい、みゆき」
──みゆきは、ゆっくりと腰をおろした。いけない。ここで怒ったら負けだ。
みゆきはじっと抑えた。──抑えに抑えて、その押し込められた力が、いつか爆発する。そのときの力が、二倍にも三倍にもなるように、と……。
「アメリカに行くのはいやなの?」
「ええ」
「じゃ、牧野って子を、訴えてもいいのね」
「牧野君は何もしてない」
「あんな子なんか、どうにだってなるわ。あなたから引き離すのなんて、簡単よ」
みゆきは、最後の最後で、父親の方へ、救いを求めた。そこまでは、やりたくないのだ。そこまでは……。だから、お父さん、何か言って!
が、新谷は、みゆきから目をそらしてしまった。
父親でしょう! 何か言ってよ!
「お父さん──」
と、みゆきが言うと、
「お母さんの言う通りにしたらどうだ」
と、新谷は言った。「今は恨んでも、きっと後で感謝するようになる」
父は、決定的なことを言ってしまったのだ。自分でもそれと知らずに。
「──そう」
みゆきは目を伏せた。もう、誰も味方はいない。
純弥は、もちろんみゆきの味方でも、いつでも会いに来てくれるわけではない。
「分かったの?──どうなの?」
尚子が問い詰めるように言った。
お母さん。あなた自身なのよ。私にこうさせるのは。──私を恨まないでね。
みゆきが目を上げたとき、電話が鳴った。
「出るわ」
と、尚子が立って行く。
あの電話は……おそらく……。
「──まあ、どうも。いつもみゆきが色々と……。ええ、ちょっとお待ち下さい」
母が、「みゆき」
と呼んだ。
「はい」
「田所さんよ」
やはりそうか。──不思議な子だ。
まるで、うちの様子をじっと見守っているかのように、みごとなタイミングで電話をかけて来る。
「──もしもし」
「あら、元気のない声ね」
と、佐知子は言った。「この間はご苦労さま」
「いいえ」
「そちらはどう?」
「ええ……」
みゆきは、チラッと食堂の方へ目をやった。さすがに母も立ち聞きしてはいないようだ。
「──ひどいわ」
と、低い声で、みゆきは言った。
「最悪?」
「ええ」
「考えてみた?」
みゆきは、ちょっと間を置いて、
「考えたわ」
と、言った。「やってみる」
「そう。──決心したのね」
「ええ」
「じゃ、さっそく相談しましょ」
「そうね」
「手伝うわ。──私たち、もう切っても切れない仲よ。お互い、共犯者なんだから」
「そうね」
と、みゆきは言った。「──そうね」
くり返して、みゆきは、そっと食堂の方へもう一度目を向けた。
母を殺す。──そんな話をしているのだとは、まさか父も母も、思ってもいないだろう……。