「もう行かなきゃ」
と、みゆきは、腕時計を見て言った。
「もう?」
純弥が、不満げな声を出す。「まだ少しはいいじゃないか」
「だめよ」
みゆきはベッドを出ると、急いでバスルームへと駆け込んだ。
手早くシャワーを浴びる。──石ケンは使わない。匂《にお》いが残って、母に気付かれるのが怖いのである。
バスタオルで体を拭《ふ》くと、部屋へ戻った。純弥がトロンとした目で、
「じゃ、俺も……」
と、起き上がる。
「いいわよ」
と、みゆきは笑って、「あなた、もう少し眠って行けば? 料金は払ってあるんだから、ここ」
「そうだな……。眠くて──」
と、大欠伸《あくび》をした。
「眠っていって。──ちょっと、向う向いてて!」
「あ──分かったよ」
純弥は、あわててみゆきの方へ背中を向けた。
妙なもので、こういう仲になっても、服を脱いだり着たりするのを見られるのは恥ずかしいのだ。
みゆきは、制服姿である。学校の帰り道、田所佐知子と会ったことにしてある。
もちろん佐知子も承知だ。というよりも、佐知子がここを教えてくれたのである。
まだ、純弥とこうして一つのベッドに入るのに、抵抗もないわけではない。何といっても、まだ一七だ。
妊娠の可能性も常にある。気を付けてはいるが、絶対安全ということはない。
みゆきも、母がこんなに純弥との付合いに反対しなければ、ここまで来なかったかもしれない。ただ、今はこうして会っていられるのも、せいぜい一時間。
短い時間となると、逆にこうして肌を触れ合って、互いを確かめたくなってしまう。
──これでいいのだろうか?
みゆきも、時に自問することがあった。
「どこかへ行かないか」
と、純弥が言った。
「え?」
セーラー服を着終えたみゆきは、ベッドの方を振り向いた。
「二人でさ。──どこかに行って、二人だけで暮すとか」
みゆきは微笑《ほほえ》んだ。
「嬉しいわ。でも──」
と、ベッドの方へ歩み寄ると、軽く純弥にキスした。「とても無理よ」
「なんとかなるよ、働けば」
「だけど、こんなに若くて、二人でいくら働いたって、たかが知れてる。疲れて、お互い、苛《いら》々《いら》して、喧嘩になるのは目に見えてるもの」
「そうかなあ……」
と、純弥は首を振って「君の言う通りかもしれないな」
「もう少し待って」
みゆきは、純弥の頬《ほお》に手を当てた 。「きっとうまく行くから。──ね、我慢して」
「ああ。分かった」
純弥が、みゆきの頭を抱き寄せて、キスした。──このまま、もう一度抱かれたい、とみゆきは思った。
振り切るようにパッと体を起こして、
「行くわ。──じゃ、ゆっくり眠って」
と、ドアの方へ行き、「バイバイ」
と、手を振る。
「今度はいつ──」
「連絡するわ」
みゆきは投げキッスをして、部屋を出た。
廊下を歩いて行き、エレベーターの所まで来た。ボタンを押しておいて、もう一度、セーラー服が乱れていないか確かめる。
母の目は鋭い。女同士は敏感である。
よほど用心してかかる必要があった。──その点、みゆきも母を見ていて、初めて分かるようになった。
母が男と会って来た日は、すぐに分かるのだ。石ケンの匂いが、家のものとは違う。そして何より、雰囲気が違うのだ。
男と会って来たという「空気」が、母の周囲に漂っている。──今の自分も、おそらくそうではないか。
ただ、母は、みゆきが純弥とこうして会っているとは夢にも思っていないから、分からないだけのことなのだ。
用心。用心の上にも、用心だ……。
もう少し──もう少し我慢すれば、何の邪魔もなく、純弥と会うことができる。
ただ、急ぐ必要があった。
みゆきが留学をいやがったせいで、母の方は一層強引になっていた。
学期や学年の変り目を待たずに、アメリカへ行かせようとしている。準備が整い次第、ということらしい。
受け入れ先、向うでの生活の環境など、母はコネをフルに利用して、駆け回っている様子だった。おかげで、みゆきの方はあまり母と顔を会わさなくても済むようになっていたのだが。
エレベーターが来た。みゆきは、ちょっと髪を直して、エレベーターに乗った。
──部屋に残っていた純弥は、みゆきに言われた通り、ベッドでウトウトしていた。
ぐっすり眠り込んでいたら、たぶん少々のことでは目を覚まさなかっただろう。
ドアを叩《たた》く音で、ふっと目を開く。
「何だ。──忘れ物かい?」
てっきり、みゆきだと思っている。それも当然だ。
ベッドを出て、その辺に投げ出してあったズボンを捜した。
「あれ?」
ソファの上に、きちんと純弥の服がたたんであった。──もちろん、みゆきがたたんだのである。
「あいつらしいや……」
と、純弥は呟《つぶや》いて、ともかくパンツとズボンだけ身につけた。
またドアを叩く音。
「今、開けるよ」
純弥は、ドアの方へ歩いて行った。
ウトウトしたので、本当は十分近くたっているのだが、純弥はすぐにみゆきが戻ったのだと思い込んでいた。
「──どうしたんだ?」
と、ドアを開けて、面食らった。
目の前に、いかつい男が二人、立っている。──刑事だ、とすぐに分かった。
「入れ」
と、一人が言った。
「何だよ、おい……」
純弥は、いっぺんに目が覚めてしまった。
「ともかく、服を着なよ」
若い方の刑事が言った。「麻井さん、どうします?」
「俺が話そう」
と、麻井は言った。
若い方の刑事は田口である。
「俺──何もしてないぜ」
と、純弥は言った。
「早く服を着ろ」
と、麻井は言った。
純弥は、あわててシャツを着た。──麻井は、椅《い》子《す》を一つ引張って来ると、腰をおろした。
「ねえ、刑事さん……」
「相手は一七だぞ」
と、麻井は言った。「子供みたいな女の子に、よくこんなことをするもんだな」
「そいつは誤解だよ。彼女だって、ちゃんと承知の上で──」
「そうだろうな」
と、麻井は肯《うなず》いた 。「大方、お前と同《どう》棲《せい》してたモデル上がりの女のことも承知の上だろう」
純弥の顔がこわばった。
「あれは──昔のことだよ」
「あの子は知ってるのか?」
「いいや……」
純弥は肩をすくめて、「済んだことだもの。話すことないと思って」
「ふざけるな!」
麻井が怒鳴りつけると、純弥は思わず手を上げて、殴られるのを防ぐような身ぶりをした。──全く、情けない奴だ。
麻井は無性に腹が立っていた。みゆきのことが、気になっているのである。
「麻井さん」
と、田口が声をかけて、麻井もやっと平静に戻った。
「──ちゃんと分かってるんだ」
と、麻井は言った。「お前が今でも、小づかいをせびりに、その女の所へ行ってるってことがな」
純弥は口を尖《とが》らして、
「金がないんだ。しようがないじゃないかよ……」
「ついでに寝るのもか?」
「だって──ただ、金もらうわけにもいかねえだろう」
「仕方ない、仕方ない、か。──お前らは、何でも他人のせいにして済ましちまうんだからな」
純弥は、ベッドに腰をおろすと、
「何の用だよ?」
と言った。
麻井は、少し間を置いて、
「新谷みゆきとは、時々会ってるのか?」
と訊《き》いた。
「たまにだけど……。お袋さんがうるさくって、出られないんだよ」
「何度目だ?」
「何度目って?」
「一緒に寝るのが、さ」
「ええと──まだそんなじゃないよ。四回目かな」
「初めてはいつだった?」
「たぶん……二か月くらい前」
「彼女、どうだった?」
純弥は苦笑いして、
「どう、って……。ともかく、慣れてないから」
「前に経験してたのか?」
「みゆき? いいや、俺とのときが正真正銘、初めてだった」
麻井と田口は、顔を見合わせた。
「──確かか?」
「うん。出血してたしな。それに、今にも死にそうなくらい、緊張してた」
「なるほど」
麻井は、少しホッとしていた。
みゆきが、二か月前に初めて男というものを知ったのなら、鳴海のアパートへ訪ねて行っていた女学生は、みゆきではないと考えてもいい。
鳴海との間に何もなかった、ということも、考えられないではないが。
「──色々話すか?」
と、麻井は言った。
「彼女と?──そうだね。あんまり時間がないけど」
「鳴海って名前、彼女から聞いたことは?」
「なるみ?」
「『鳴る海』と書くんだ。どうだ、憶えはないか?」
「さあ……」
「刺されて死んだ男だ。駅のホームで、彼女がそばにいた」
「ああ、その話なら聞いたよ。でも、名前まで知らない」
「そのときのこと、聞いた通りに話してみろ」
「そんなに憶えてないけど……」
──純弥の話は、麻井が聞いている、みゆきの話とほぼ同じで、新しいことは一つもなかった。
「その男のこと、それ以外に話したことはないか?」
「さあ。──なかったと思うけど」
「そうか」
麻井は、立ち上がった。
「それだけ?」
「お前は、みゆきをどう思ってるんだ?」
と、麻井は言った。
「俺? そうだなあ……。可愛いよ。純情だしさ」
「それで?」
「うん……」
「正直に言え。お前が色々やってること、全部つかんでるぞ」
と、田口が口を挟む。
「そうおどかさないでよ」
と、情けない顔になる。「ただ……。みゆきもいい子だけど、思い詰めてんだ。もう、命がけだよ。こっちはちょっと重荷なんだけど」
「そういう子なんだろう」
「うん。──どうせ母親が反対してるから、その内、切れちゃうと思うけど」
いい加減な奴だ、と麻井は苦笑した。
みゆきの方は、真剣にこの男に恋しているのだが、男の方は「真剣になること」が怖いのである。
「ま、近々、うまく行くからって、彼女言ってたけど、どうかな」
と、純弥は首をかしげた。
「うまく行く?」
麻井は、眉《まゆ》を寄せた 。「そいつはどういう意味だ?」
「さあ。分かんないよ」
「母親が、少し折れて来たってことか」
「どうかな。とてもそんなこと、ありそうもないよ。ともかく凄《すご》いお袋さんなんだ」
すると、うまく行くというのは、どういうことなのだろう?
「二人で逃げようとかいう話は?」
「俺が言ったけど、彼女の方がいやだって」
「ふむ。──それで、『うまく行く』と?」
「そう。どういうことなのか、訊いてみたけど、何も言わないんだ」
「そうか」
麻井は肯いた。「──よし、分かった」
「あの……もう、いいの?」
「ああ」
「でも──どうしてあの子のこと、訊くんだい?」
「お前の知ったことじゃない」
麻井は、ドアを開けると、「いいか、今日のことは彼女に言うなよ」
と、念を押した。
「分かったよ」
麻井に続いて、田口が部屋を出る。ドアを閉めようとする手を止めて、
「あの子はな、殺しの犯人かもしれないんだ。用心しろよ」
と言った。
──ドアが閉ると、純弥は、ポカンとしていたが──。
「殺し?──みゆきが?」
と呟くと、青くなった。
──麻井は、エレベーターの所まで来ると、
「余計なことを言うな」
と、田口をにらんだ。
「すみません」
田口は首をすぼめて、「しかし、あんな小心な奴、ああ言っときゃ、逃げ出しますよ」
「そりゃそうかもしれんが」
「また会ったら、我々のことを新谷みゆきにしゃべるでしょう。追っ払った方が、いいですよ」
理屈だな、と麻井は思った。
しかし、みゆきにとっては、どうか。
結局は、あの子のためになる。──大人が、よく使う言葉だ。
しかし、それはあくまで大人の判断なのだ。そのために傷ついた心までは、大人には見えない。
「──しかし、鳴海のアパートに現われたのは、彼女じゃないようですね」
と、エレベーターの中で、田口が言った。
「そうだな。見当違いだった」
「他に女学生を捜しますか」
「どうやって?──またアパートの聞き込みか。もう無理だろう。それに、みゆきでないとすると、その女学生が鳴海を殺したって可能性も低くなる」
「そうですね」
二人はホテルを出た。
「一つだけ気になるのは、三矢絹子の言葉だよ」
「ええ。──亭主の方は、精神鑑定を受けるようですよ。言うことが、めちゃくちゃらしいです」
「そうか。──子供がいたな」
「二人。親類に預けられているようですよ」
「一緒にか?」
「一人ずつ、別々にです。やっぱり、二人一緒に面倒をみるってのは、大変なんでしょうね」
「一人ずつ、別々か……」
と、麻井は呟くように言った。
「──ただいま」
と、玄関を上がったみゆきは、ちょっと戸惑った。
何だか埃《ほこり》っぽい匂《にお》いがしている。
居間を覗《のぞ》き込んで、びっくりした。大きなトランクが開けて置いてあるのだ。どこにしまい込んでいたものか、みゆきは、まるで憶えていなかった。
「あら、お帰りなさい」
と、母が出て来た。
「どうしたの、これ?」
「ずっとしまい込んでたから、少し風に当てないと、と思ったのよ。気持悪くて、使えないでしょ」
みゆきは、その意味を、やっと悟った。
「もう──行くの?」
「月末にね。早い方が、あちらの生活に早く慣れるわ」
尚子は、そう言って、「着替えてらっしゃい。すぐご飯よ」
と、台所へ戻って行った。
みゆきは、しばらく、パカッと口を開けたトランクを見つめていたが、やがて足早に二階へと上がって行った。
──夕食の席は、父も一緒だった。
「最近、早いのね」
と、みゆきは言った。
「うん。不況で、暇になって来た。──いいような、悪いような、だな」
と、新谷は、のんびり言った。
「私たちが向うへ行ったら、お父さん、食事なんかどうするの?」
「なんとかなるさ」
と、新谷は肩をすくめて、「今だって、たいてい外食だからな」
その父の言い方に、気のせいか、みゆきはかすかに解放される喜びのようなものを聞き取った。
「どうだ」
と、父が言った。「みゆきは当分アメリカだし、その前に三人で旅行しないか。久しぶりじゃないか」
「それもいいわね。でも──」
と、尚子は首を振って、「私はだめ。出発まで日がないのよ。買うものだって、山ほどあるし」
「そうか。残念だな」
と、新谷は、本当にがっかりしている様子だ。
みゆきは、ふと思い付いて、
「じゃ、お父さんと二人で行こうかな。──お母さん、構わないでしょ?」
「ああ、そりゃいい」
と、新谷がすぐに応じた。「二人で旅行か。なあ、どうだ?」
尚子は、一瞬ためらっていたが、
「そうね。──じゃ、行ってくれば?」
と、肩をすくめる。「でも、あんまり遠くは無理よ」
「分かってるわ。学校だって休めないし。土日の一泊でも。──ね、お父さん」
「うん。車で行こう。土曜日の午後から。──どこへ行きたい?」
「うーん。すぐには出て来ないや。少し考える」
「ああ。いいじゃないか。お前の好きな所でいい」
「うん」
みゆきは、笑顔で肯いた。
──父との旅行。母はここで一人になる。
これがチャンスだ。
みゆきは、また食事に取りかかった。