「初めまして」
こんなときは、堂々とふるまうに限るのだ。
もっとも、鳴海も、こんな事態に出くわしたのは初めてだった。
「鳴海といいます。──佐知子さんに招待されまして」
「ああ……。そうかね」
田所は、呆気《あつけ》に取られている。
それは当然だろう。三十代も半ばという男が、娘と一緒に別荘にいたのでは。
「ええと……これが家内だ」
と、予史子を紹介したりしている。
どうやら、毒気をぬかれて、腹を立てるとか、怒鳴りつけるという気になれないらしい。鳴海の狙《ねら》いは当ったわけである。
「どうも」
と、鳴海が会釈すると、予史子の方は、ただ無表情に頭を下げただけだった。
眺めていた佐知子が、ホッとしたように笑顔になる。
「お父さんたち、夕ご飯まだなの? じゃ、私、何か温めるわ」
と、佐知子が言うと、
「いえ、私がやります」
予史子が、ぶっきらぼうに言った。「佐知子さんは座っていて」
「だって、ここは私の方が慣れてるもの」
「私は母親だもの。ご飯の仕度をするのは母親の仕事よ」
二人がやり合うのを見て、
「おい、そうこじれるなよ。二人でやりゃいいじゃないか」
と、田所が、うんざりしたように言った。
「あなた」
と、予史子が言った。「佐知子さんに手を出さないようにおっしゃって」
「何よ、大きな顔して!」
と、佐知子の方も頭に来たようだ。
「おい、佐知子。お前も──ちょっと手伝うぐらいにしときゃいいじゃないか」
「手伝うったって──」
と、予史子がチラリと佐知子へ冷ややかな目を向けて、「何もできないんじゃありませんか。せいぜい、電子レンジで冷凍食品を温めるくらいでしょ」
「何よ、その言い方!」
一触即発、というところだ。
「まあ、落ち着いて」
と、鳴海が間に入った。「佐知子、君はもう食事も済んだんだ。お母さんがご主人の食事を作る。それには手を出さない方がいいよ」
佐知子は、ちょっと口を尖《とが》らしたが、
「分かったわ」
と、肩をすくめ、「二階に行ってる!」
と、居間を出て行ってしまった。
予史子の方は、
「じゃ、二人分でよろしいんですね」
と言って、台所へ入って行った。
「──やれやれ」
田所は、ホッとした様子で鳴海の方を向くと、「いや、ありがとう。おかげで何とかおさまった」
と、笑った。
「いえ……」
「かけたまえ。一杯やるか」
「いただきましょう」
「ウイスキー?」
「水割りで。あまり強くないので」
──田所は自分と鳴海のグラスを手にしてやって来ると、
「さあ。──乾杯しよう」
「乾杯ですか」
「佐知子が女になったからさ。もう当然、そうなっとるんだろう?」
鳴海は、ちょっと目を伏せて、
「はあ。──申し訳ありません」
「いや。今の子はあれぐらいの年齢なら、もう大人だ。仕方ないよ」
と、田所もソファに座って、「まあ、このところ、どうも様子がおかしいとは思ってたんだ」
案の定、言い出した。鳴海は内心ニヤリと笑った。
「さすがに父親ですね」
と、持ち上げてやると、
「うん。娘ってのは特別だからな」
と、田所は満足気である。「君は──いくつだ」
「三七です」
「二十も違うのか。しかし若いね」
「そうですか」
「私と一回り近くも離れてるんだな。見た目はもっと若い」
「あなたも、とてもそうは見えませんよ」
と、鳴海はかなり無理をした。
「自由業かね」
「ええ。よくお分かりですね」
「独特の雰囲気があるよ。──イラストレーターとか、そんなものかね?」
こればかりは本当のことを言うわけにいかない。
「色々なイベントのアレンジをやっています」
何だか自分でもよく分からない説明だ。
「ああ、なるほど。大変だね、なかなか」
田所の言葉に、吹き出しそうになるのを何とかこらえて、
「ええ、おかげさまで何とかやっています」
わけの分からない対話は、まだしばらく続いた。
「──あなた。食事の仕度が」
と、予史子が入って来る。
「そうか。君は──何といったかな」
「鳴海です」
「そう。鳴海君だったね。もう食事は? じゃ、佐知子の所にでも行ってやっててくれ。ともかく、一人っ子なので、我ままで困るんだよ」
「はあ」
「じゃ、また後で」
と、田所は食堂へ歩いて行った。
予史子が、鳴海の方を振り返る。
「──佐知子さんの部屋は、どこです?」
と、鳴海が訊《き》く。
「ご案内しますわ」
と、予史子が階段の方へと歩き出した。
鳴海はそれについて行く。
階段を上がりかけた所で、予史子は振り返った。
「あなた、これは──」
「しっ!」
と、鳴海は抑えて、「聞かれるよ。今はまずい」
「──分かったわ」
予史子は息をついて、「それじゃ、どうぞ」
と、また階段を上がり始めた。
「傑作だった! あの父の顔!」
ベッドに寝転がった佐知子が、クスクス笑いながら、「──大分、話が弾んだみたいだったわね」
「聞いてたのか?」
「少しね。階段の途中まで下りて行ったの。あなたって口がうまいのね」
「必死だよ。殴られちゃかなわないからね」
と、鳴海は苦笑した。
「感心しちゃった。あんなにうまく切り抜けるなんて」
「冷汗をかいたんだぞ」
「そう?──ご苦労さま」
佐知子は、ベッドから出て来ると、布ばりのデッキチェアに腰をおろした鳴海へとキスした。
「今夜は別々に寝た方がよさそうだ」
と、鳴海が言った。
「あら、でも、父は承知してるんでしょ?」
「それでも、あまり刺激しない方がいいよ」
「そう? つまんないな」
と、佐知子は口を尖らした。
「無事にすんだだけでも見つけもんさ」
「あ!」
と、佐知子が鳴海をにらむ。「さては!」
「何だい?」
「あの女の所へ行くんでしょ」
「まさか! 君のお父さんが一緒だぞ。それこそ夫婦なんだ。あっちは何の遠慮もなく、一緒に寝られる」
「でも──変な具合になっちゃったわね」
と、佐知子はベッドに座ると、ウーンと両手を上に伸ばした。
「全くだ。これじゃ、後がやりにくい」
──もちろん鳴海とて、こんな商売をしていると、何かと思いがけない事態に出くわすことが、ないでもない。
しかし、こんなにややこしいことは初めてである。
「あの人、どう思ってるかしら」
「さあね……」
鳴海も、それが気になっていた。──鳴海が裏切った、と予史子が受け取るか。それとも、夫を殺してほしいと頼んだので、鳴海が佐知子に近づいた、と取るか。
しかし、田所を殺すことと、佐知子に近づくことは、どうもうまくつながらない。
こいつは、やはりうまくない。
やめるべきだ、と鳴海は思った。ここは仕方ない、何とかうまく切り抜けて、東京へ戻ったら、この二人から手を引こう。
鳴海はそう決心した。
「──何を考えてるの?」
佐知子が、ベッドに仰向けになって、シャツをまくり上げた。
「おい──」
「大丈夫よ。今まだ食事中でしょ?」
「危いよ」
「だって、夜は別々なんだもの。──つまんないわ。ね?」
やれやれ……。
苦笑しながら、誘いに乗ってしまう方も悪い。──しかし、これが最後になるだろうと思うと、確かにもう一度抱いておきたいような気もしていたのである。
だが──早い内でよかった。
何かドスン、という音がした。──下である。
「何だろう?」
鳴海は顔を上げた。
「お茶《ちや》碗《わん》でも落としたんじゃない?」
と、佐知子は大して気にしていない様子。「ねえ、早く──」
「いや、待てよ」
鳴海は、その音を思い出していた。──仕事柄、物音には敏感だ。
「あれは人の倒れた音だ」
「まさか」
「いや、本当だ」
鳴海は起き上がって、「見て来る」
と、ドアの方へ急いだ。
「私も行く!」
佐知子がシャツを引張りながら、飛び起きて来た。
階段を足早に下りて居間へ入ると、鳴海は足を止めた。
「おお、君か」
田所が振り向く。「上まで聞こえたかね。邪魔してすまんね」
大分、酔っていた。
「お父さん……」
と、入って来た佐知子が、目をみはる。
予史子が倒れていた。──仰向けに倒れて動かない。
「どうしたんです?」
鳴海は、急いで予史子の方へ駆け寄って、しゃがみ込んだ。──予史子の頬《ほお》に、赤い手の跡が残っている。
「殴ったんですね」
「ああ。そしたら、呆気なく気絶した。──だらしのない奴だ」
「一体どうしたの?」
と、佐知子が訊いた。
「他の男とできてたのさ」
鳴海は、ギクリとした。──あの遊園地で二人を見たという知人が、告げ口をしたのだろうか?
「この人が?」
「そう。──おい、佐知子、お前は知らんでいい」
「もう聞いちゃったわよ」
佐知子は、しかしやはり女同士なのか、倒れた予史子の方が気になるらしかった。
「──どう?」
「うん」
鳴海は、予史子の脈を取っていた。「大丈夫。気を失ってるんだ。ソファに運ぼう」
「手伝うわ」
二人して、予史子をソファへ寝かせた。
「──タオルを濡《ぬ》らして持ってきてくれ」
と、鳴海は言った。
「うん」
佐知子がバスルームの方へと走って行く。
鳴海が、予史子の顔に手を当てていると、いつの間にか田所がそばに来て立っていた。
「──大丈夫そうかね」
と、少し心配そうな声を出す。
「ええ。しかし、かなり派手に殴ったもんですね」
「気絶したふりをしているのかと思ったんだよ……。そんなに強く殴ったつもりはなかった」
「あなたは酔っていたんでしょう。酔うと、力の加減が分からなくなるもんです」
「そう……かね」
酔いも少しさめてしまったらしい。田所は急に気弱な様子になり、ソファにくたびれたように腰をおろした。
「持って来たわ」
と、佐知子がタオルを広げながら、戻って来た。
濡れた冷たいタオルを額に当ててやると、予史子の瞼《まぶた》が、かすかに震えた。赤くなった頬へタオルを当てると、痛いのか、ちょっと顔をしかめる。
「──お父さん」
と、佐知子は言った。「下手したら、殺すところよ」
「うん……。すまん」
「馬鹿らしい! この女《ひと》を殺して、刑務所へ行くつもり?」
「つい、カッとなってな」
「だから言ったでしょ、私が。そういう人なのよ」
「──よく考える」
と、田所は言った。
「そうしてちょうだい。私、いやよ。お父さんが先に死んで、この人と二人で取り残されるなんて」
それだけ言うと、佐知子はさっさと居間を出て行った。
田所が鳴海を見て、ふと苦笑いした。
「気が強くてね。──言いたいことをポンポン言うんだ」
と、ため息をつく。「親に遠慮ってものをしない」
「子供なんて、そんなものでしょう」
鳴海が珍しく、教訓めいたセリフを吐いた。「ともかく、後はもう少し寝かしておけば──」
「病院へ運ばなくても大丈夫かね」
「よく分かりませんがね。──倒れたときに、頭でも強く打ちましたか?」
「いや、特別に……。そのカーペットの上に倒れたから」
「じゃ、大丈夫でしょう。あんまり長く意識が戻らないようなら……」
「すまんね。すっかり手間をかけてしまった」
「いや。別に……。大丈夫ですか、田所さんは」
「私?──私は何でもない」
そうはとても見えなかった。──鳴海は意外な思いで、田所を見ていた。
すっかり打ちのめされているようだ。あの喫茶店で初めて見かけたときの、あの自分勝手な、しかし自信に溢《あふ》れた田所とは別人のようだった。
「──私はもう若くない」
と、田所は言った。
「まだ五十前じゃありませんか」
「しかし、予史子は三四だよ。それに私は疲れている。──年中、仕事で外国を駆け回って、はた目には、タフなビジネスマンに見えるかもしれんがね」
田所は髪へ手をやった。「これも染めているんだ。もう大分白くなっているんだよ……」
鳴海は動くに動けず、ソファに腰をおろした。──他人の独白を聞くのは、趣味でない。
「三十代──君ぐらいのころは、本当に一睡もせずにニューヨークへ飛んで、飛行機の中で資料を読み漁《あさ》り、向うへ着くなり一日中駆け回ったもんだ」
鳴海は肯《うなず》いた。そうするしかあるまい。
「だが、もうだめだ」
田所は深々と息をついた。「四十代も後半になって、体に無理もきかなくなる。それに──友だちで、死ぬ奴が出て来る。これがショックだよ」
「なるほど」
「そのショックを、表には出せないで、平気な顔で仕事をする。──しかし、飛行機の中で眠れないと、次の日は仕事にならない。徹夜すれば、三日はボーッとしている。情けない話だ」
「誰だって年齢《とし》は取りますよ」
「うん……。睡眠薬を使い始めた。この二年ほどだ。──量も段々ふえて来た」
「ストレス解消は?」
「何もない」
と、肩をすくめる。「仕事一筋。──今思うと馬鹿な話だが、それが充実した人生だと思っていたんだからな……。全く、お話にならん」
「たいていの人間はそんなもんですよ」
「うん……。そうかもしれんな」
田所は、呟《つぶや》くように言って、立ち上がった 。「君……。何といったっけね」
「鳴海です」
「ああ、そうだ。鳴海君か。──どうだ、女房は?」
「はあ?」
「なかなか可愛いだろう」
「ええ……。きれいな奥さんですね。大事にしなくちゃ」
「全くだ。──殴って悪いことをしたよ」
と、肩を落とす。「君、もし良かったら……」
「何です?」
「今夜、家内と寝てやってくれないかね?」
これには、鳴海もびっくりした。田所もすぐ気付いたらしく、
「ああ──いや、すまん。妙な話をして。そうだった。佐知子の奴が怒るな、そんなことをしたら」
と、笑って、「いや──どうも睡眠薬のせいか、最近は予史子と寝ても、どうもだめでね。こいつが浮気したくなるのも分かるんだよ。──じゃ、先に休ませてもらう」
「どうぞ。もう少し、奥さんの様子を見ていましょう」
「そうか? いや、すまんね」
田所は、居間を出て行った。その後ろ姿は急に老け込んで見えた。
予史子が、かすかに声を立てた。しかし、まだ意識を取り戻してはいないようだ。
やれやれだ……。
田所も、哀れなものだ。あの自信に満ちた態度は、虚勢に過ぎなかったのだろう。
内心では、自分の衰えをいかにして悟られないかとヒヤヒヤしていた。──それが、予史子の浮気を知って、この暴力になったのだ。
エリートなんてものも、結構大変なものなんだな、と鳴海は思った。
──少しして、佐知子が入って来た。
「どう?」
「気になるのか」
「まあね……」
佐知子は、コーヒーカップを手にしていた。「これ、持って来た」
「やあ、ありがたい」
鳴海はカップを受けとった。「親父さんは?」
「寝たみたい」
「そうか。大分参ってたようだ」
「そうね。──父ももう年齢《とし》なんだな」
「子供には分からない辛さがあるのさ」
「分かったようなこと言ってる」
と、佐知子は笑った。
「──君も寝たらどうだ?」
鳴海はコーヒーをゆっくりと飲んだ。
「うん……。あなたは?」
「もう少しそばにいるよ」
「浮気しちゃだめよ」
「よせよ」
と、鳴海は苦笑した。
「──じゃ、私、先に寝る」
「ああ。おやすみ」
「おやすみなさい」
佐知子は鳴海の頬にキスして、歩いて行く。
「──おい」
「ん? なあに?」
「コーヒー、少し苦いぞ」
「そう? 考え過ぎなのよ」
そう言って佐知子は微笑《ほほえ》むと、居間を出て行った。
鳴海はソファにゆっくりと身を任せて、まだ気を失っている予史子を眺めていた。
──まあ、これで佐知子も、この継母を殺す気をなくすかもしれない。
そうなれば──そして、田所も虚勢を張らずに、もっと素直に妻に休らぎを求めれば、この三人の家族は、やり直せるかもしれない。
「──何とね!」
と、鳴海はコーヒーを飲み干して、呟いた。「殺し屋が人生相談をやっちまったぜ!」
どこかでベルが鳴った。──ハッと鳴海は目を覚ました。
何だ? どうしたんだ?
頭を振って、周囲を見回す。
「そうか……。ここは田所の別荘だったっけ……」
思い出した。予史子が田所に殴られて、気を失い、鳴海はそのそばについていたのだ。
居間のソファに座ったまま、眠ってしまったらしい。
ソファの上には、もう予史子の姿はなかった。──それはそうだろう。
もう朝になっている。居間にも、カーテンを通して明るい光が射し込んでいた。
「──一人ぼっちで寝てたのか……」
あのベルは?──電話かな。
しかし、もう鳴っていない。
鳴海は立ち上がって、少しめまいがした。
──妙に頭が重い。変な姿勢で寝ていたせいだろうか。
「──みんなまだ寝てるのかな」
と呟いて、居間を出た。
時計は九時を少し回っている。──みんな二階か。
鳴海は、階段を上りながら、大欠伸《あくび》をした。予史子も、どうということはなかったのだろう。
佐知子の部屋へ行ってみよう。
ドアをかるくノックする。──もっとも若い子は、こんな音では起きないかもしれない。別に、入って行ってまずいこともあるまい。
「──おい、起きろよ」
と、ドアを開けて言ったが……。
ベッドには誰もいなかった。寝た跡もないのだ。
カバーがきっちりとかかっていて、まるで誰も来ていないかのようだ。
「変だな」
帰ったのか? それにしても、俺を置いて行くってことは……。
廊下へ出て、
「おい!──どこだ?」
と、声をかけてみる。
しかし、どこからも返事はなかった。
鳴海は、他のドアを開けてみた。──来客用らしい部屋は、もう長いこと使っていないように白い布で覆われている。
夫婦の寝室は、どうやら広い両開きのドアらしい。ためらうこともなく、鳴海はドアを開けた。
カーテンが閉って、中は薄暗い。鳴海は窓の方へ行って、カーテンを開けた。
ベッドの方へ目をやると、田所の姿が見えた。一人で寝ている。隣に、予史子の姿はない。
田所はパジャマ姿だった。寝ているから当然のことだが、当然でないのは、その胸に広がっている、赤いしみだった。
鳴海は、ベッドへ歩み寄った。──足下に、鋭いナイフ。
田所は、眠ったまま安らかに死んだわけでもないらしい。目は大きく見開かれ、指が虚空をつかんだ形のまま、硬直している。
刺し殺したのだ。──誰が?
鳴海は、呆《ぼう》然《ぜん》としばらく突っ立っていた。
森の静けさを、車の音がかき乱すのが耳に入って、鳴海はハッと我に返った。
窓へ駆け寄り、その端から顔を出して、外の様子をうかがう。
パトカーが、裏手にも回っている。警官が三、四人、足音を忍ばせて、建物の方へ近付いて来た。
鳴海は、顔から血の気が引くのを覚えた。
──畜生!
今はともかく、逃げるしかない。
階段を駆け下りようとすると、玄関の戸を激しく叩《たた》く音がした。壊そうとしている!
しかし、玄関のドアは意外に丈夫だった。
鳴海は、ほとんど何も考えず、とっさに一階へ下りて、横の方の窓に椅子を一つ、叩きつけた。
ガラスが砕ける。──同時に鳴海は、きびすを返して、二階へと駆け上がっていた。
もう一度寝室に飛び込み、窓を開ける。
警官たちが下の、壊れた窓へと駆けつけている。鳴海は、思い切って飛び下りた。
幸い、足も挫《くじ》かなかった。──ほんの何秒かの空白だったろう。
鳴海は、森の中へと駆け込んだ。木の枝に打たれ、引っかかれ、根につまずき、転びながら、ただ必死で森の中を走り続けた……。