「お父さん──」
と、みゆきは言った。「お父さん」
新谷が、ふっと我に返って、
「ん? ああ──いや、ごめん」
と、笑顔を作った。
「何だか変ね。ぼんやりしてる」
「いや、考えごとをしてたんだ。──何か話があるのか?」
みゆきは首を振った。
「そうか……」
新谷は、空になった皿を見下ろして、「あと、もう一つ、何かデザートを取ったらどうだ?」
「もうお腹一杯よ」
と、みゆきは笑った。
「そうか」
──二人は、小さな湖を見下ろす、ホテルのレストランに入っていた。
車で一時間ほどのドライブ。──父はもっと遠くでもいい、と言ったのだが、みゆきが、
「それじゃ、ドライブだけでくたびれちゃうよ」
と言ったのだった。
土曜日の午後からだ。このホテルへ入ったときはもう夜になっていた。
二人でツインルームを取って、泊ることにした。
「──だめだな」
と、新谷が、呟《つぶや》くように言った。
「え?」
紅茶を飲んでいたみゆきは、顔を上げた。「何がだめなの、お父さん?」
「うん……。久しぶりに、こうやって、みゆきと二人で出かけてきたのに、こうやって食事をしてても、話すことがない。──だめな父親だ」
「そんなこと……。私、楽しいわ」
と、みゆきは言った。
「そうか?」
「うん」
新谷が、少しホッとしたように、笑顔になる。
「──三人で一緒だと、もっと良かったのにな」
「しょうがないわ。お母さん、忙しいんだもの」
「ああ……。お前も、寂しいだろう。お父さんもお母さんも、ろくにお前のことに構ってやらなかった」
「そんなことないよ。──一人だと、それはそれで面白いこともあるし」
「お母さんも、昔からああだったわけじゃないんだが……」
新谷は、遠くの灯に目をやった。
窓際のテーブルなので、横を向くと、遠く広がる夜景と、そこにぼんやりと映る自分の顔が見えた。
みゆきは、田所佐知子の笑顔を思い浮かべた。──みゆきの肩を、軽く叩《たた》いて、
「任せておいて。あなたのためなら、それぐらい簡単だわ」
「でも……。本当に大丈夫?」
「心配いらないわ。あなたは遠くのホテルにお父さんと二人。──一人で留守番していた母親が、泥棒に入られて、殺される。よくある話よ」
「あなたがやるの?」
「もちろん」
と、佐知子は平然と言った。「私のこと、あなたのお母さん、信用し切っているわ」
「そうね」
「夜遅くでも、訪ねて行けば、喜んで入れてくれるわよ」
確かにその通りだ。
しかし、みゆきの中に、まだためらいがあったことは事実だった。
「彼との生活を考えるのよ。誰にも邪魔されずに会えるわ」
と、佐知子は言った。
そうだ。──純弥との生活。もう母に見張られて、びくびくしながら会う必要はなくなるんだ。
みゆきは、ひたすら、母を憎いと思った時のことを思い出そうとした。
母が、若い男とホテルへ行っていることも、考えた。──そうだ。どうなったって、母の自業自得なんだ。
もう、今さらやめられない。
遠い灯を眺めながら、みゆきは思った。今さら、佐知子を止めることはできないのだ……。
「みゆき」
と、父が言った。
「うん?」
「お前……。何とかいう男の子と、付合ってるのか?」
「牧野純弥?」
「そうだ。──好きなのか」
「うん」
みゆきは、ちょっと目を伏せた。「好きなの」
「そうか。いいなあ、若いってことは」
新谷は肯《うなず》いて 、「お前、その男と──寝たんだろ?」
みゆきはびっくりして顔を上げた。
「いいんだ。分かってる。いつか、お前の顔を見て、分かったよ。帰って来たときの」
「お父さん──」
「若い内は、そんなこともあるさ。しかし、自分の体を大事にしろよ」
父のそんな言葉を、みゆきは初めて聞いた。それに、父が自分と純弥とのことに気付いていたのも、思いがけない話だった。
「お父さん……。心配かけて、ごめん」
と、みゆきは言った。「でも──真剣なのよ。本当よ。彼も愛してくれてる」
「そうか。お前は、小さいころから、真面目すぎるくらい真面目な子だった」
と、新谷は微笑した。
「きっとお父さんに似たのよ」
みゆきの言葉で、二人は一緒に笑った。
「──お父さん……」
と、みゆきは言った。「お母さん、浮気してるわ」
なぜこんなことを言い出したのか、自分でもよく分からなかった。
しかし、父が、
「うん。知ってる」
と、肯いたのは、意外だった。
「お父さん……」
「分かるよ。──夫婦だからな」
と、新谷は肩をすくめた。「いつも同じ部屋で寝てるんだ。お母さんの寝言も、耳に入るし……」
みゆきは、目を伏せて、
「なぜ黙ってるの?」
と、言った。「どうして、お母さんと正面から話し合わないの」
「うん……。むずかしいな」
「夫婦でしょう。──愛し合っていないのなら、別れるべきだわ」
少し強い口調で、みゆきは言って、「──ごめんなさい。別に怒ってるわけじゃないんだけど……。私だって、純弥君とホテルへ行ったんだから」
「高かったか?」
「え?」
「小づかい、足りたのか」
「変なこと心配して」
と、みゆきは笑った。
「そうだな」
「お父さんは、あんなホテルなんて、知らないんでしょう?」
と、ぬるくなった紅茶を、ゆっくりと飲み干す。「真面目人間だものね」
「──知ってる」
「うそ」
と、つい反射的に、「お父さん──それじゃ……」
「ああ。お父さんも浮気してるのさ」
みゆきは、愕《がく》然《ぜん》とした。──あり得ないことではないと思っても、信じられなかった。
「誰と?」
「会社の、若い女の子だ。二四、五、かな……」
新谷は、外の夜景へ目をやった。「どっちが先だったのかな。──たぶん、お母さんにも分からないだろう。お互い、相手のいることは、ずっと前から知っているんだよ」
「それで──でも、それなのに、どうして毎日平気で顔を合わせていられるの?」
「信じられないだろうな、お前には」
「私のために、二人とも我慢してる、なんて言わないでね。口実にされるの、ごめんだわ、私」
「ああ、分かってる。──二人とも、もし話し合えば、たぶん、お前のことを引き合いに出すだろうな。しかし、お前がそれをいやがるのは、分かってるよ」
「じゃ……二人とも、恋人がいるのね。ただの──遊び相手なの? 向うもそう思ってるの?」
「いや……。彼女は真剣だ。結婚したいと言ってる」
「お父さんは、どうするつもりなの? お金をあげて、別れるの?」
「分からない」
新谷は首を振った。「考えてるんだ。──お前とお母さんがアメリカへ行ったら、その間に、ゆっくり考えたい」
アメリカへは行かないのよ。みゆきは心の中で言った。──お母さんは、今夜死ぬんだから!
「──忙しすぎたからな」
と、新谷は、独り言のように呟いた。「毎日、帰りは夜中で、休日も出勤。お母さんも寂しかったんだ」
──私だって。私だって、寂しかったわ。
二人は言葉もなく、遠い夜の奥の小さないくつかの灯を眺めて、しばらく座っていた……。
目を閉じて、静かに息をついていたが、もちろん、みゆきは眠ったわけではなかった。
眠れるわけがない。──今、この瞬間にも、田所佐知子が母を殺しているかもしれないというのに。
──父の話が、さらにみゆきの中に波紋を広げていた。
父も母も、それぞれに楽しんでいたのかもしれない。そう思った。
しかし──もう手遅れだ。
ふと、父の起き上がる気配があった。
みゆきは、目を閉じたまま、眠ったふりをしていた。
父がベッドから出る。トイレにでも行くのか、と思った。
そして、父がみゆきのベッドの方へ近付いて来た。父が、みゆきの上にかがみ込んで、様子を見ているのを感じた。
目を開けて、声をかけようかと思ったが、そのとき父が離れて行った。
が、父は、トイレに行くのでも、ベッドに戻るのでもなかった。洋服ダンスの戸を、そっと開ける音がしたのだ。
何をしているんだろう? みゆきは、いぶかしげに、じっと耳を澄ましていた。
カチカチと、ハンガーの揺れる音。服を外している。服を着ているのだ。こんな時間に……。
どこへ出かけようとしているのだろう?
みゆきを起こすまいと気をつかって、ゆっくり服を着ているのだが、もともと少し無器用な方だ。ストン、と何かを落っことしたりして、その度に、みゆきが目を覚まさないかと様子をうかがっている。
──やっと服を着終えたらしい。
ドアが静かに開いて、廊下の光が部屋の中へ射し込んで来る。
カチャリ、と音がしてドアが閉ると、みゆきは起き上がった。
時計を見る。──もうすぐ午前0時になるところだ。こんな時間に、どこへ行くんだろう?
漠然と、よく理由の分からない不安が、みゆきの心に広がっていた。
父の様子、そして夕食の後の父の話……。
父は、思いもよらないようなことは決してしない人だ。だからこそ、こんな時間に部屋を出てどこへ行くのか。それが心配だった。
みゆきは、長くためらってはいなかった。
明りを点けると、手早くパジャマを脱いで、服を着た。
部屋のキーは、もちろん父が持って出ている。
みゆきは、部屋を出た。
都心のホテルなら、深夜まで営業しているバーもあるかもしれないが、こういうリゾート地のホテルは、せいぜい十時か十一時で、何もかも閉ってしまう。
廊下を歩いて行くと、どのドアからか、愛し合う男女の声が洩《も》れて来る。──私も、あんな風に声を出したのだろうか。
みゆきは、カッと頬《ほお》が熱くなった。
エレベーターを呼ぼうとしてボタンを押す。
エレベーターは地下まで下っていた。
父が乗って下りたのだろうか。もしそうなら……。地下の駐車場?
車で、どこかへ出かけるのかしら?
しかし、なぜ夜中に、みゆきに知られたくないように、こっそりと出かけるのだろう?
──ともかく、地下一階へと下りてみることにした。
駐車場は、ガランとして、半分ほどのスペースに車が入っていた。父と着いたとき、どこへ車を入れたかしら?
そう……。あそこが入口。──こう入って来て……。
一風変った、ワゴン風の車が、目に入った。
そう! あの車のすぐ向うだ。
みゆきは、足音を響かせながら、走って行った。──そのスペースは、空になっていた。
やはり、やはり出て行ったのだ。
さっき話していた「恋人」のところへ行ったのだろうか?
しかし、わざわざこんな所から?──会社の女の子だというから、どこに住んでいるにしても、そう近くはないはずだ。
でなければ、どこへ……。
みゆきは、ある想像が胸の内でふくらんで来るのを、感じていた。
まさか!──まさか、とは思うが……。
──みゆきは、エレベーターへと駆け戻って、一階に出た。
フロントも、夜中には人がいない。ベルを押すと出て来るようになっているのである。
みゆきは、どうしたものか、迷った。
ちょうど、ホテルの正面に車が着いた。
タクシーだ。少し酔っているらしい男女が降りて来て、肩を組んで歩いて来る。
みゆきはほとんど無意識の内に、ホテルから走り出ていた。
「──すみません!」
と、タクシーの運転手に声をかける。
「何だい?」
と、初老の運転手は目をパチクリさせて、みゆきを見た。
「都内まで、行ってもらえませんか」
と、みゆきは言った。
「今日はそろそろ終わりにしようと思ってるんだけどね」
「お願いします。急用で」
運転手は、笑顔になると、
「いいよ。じゃ、乗りな」
と言った。
「ありがとう!」
みゆきは後ろの座席に、飛び込むように乗った。
TVを見ている内に、ウトウトしてしまったらしい。
尚子は、ガクッと頭が前に垂れて、ハッと目を覚ました。
「あら、いやだ……」
TVは点《つ》けっ放し。何だか、わけの分からないロックのビデオか何かをやっている。
「もう、こんな時間……」
尚子は立ち上がって、伸びをした。
夫とみゆきは、もうとっくに眠っているだろう。
「こっちものんびりだわ……」
と呟きかけたとき、電話が鳴り出したのだ。「あら」
みゆきかしら。──それにしても……。
こんな時間にかけて来るなんて、思い当らないけど──。
電話は、鳴り続けている。
「──はい」
と、少し用心して、こっちの名は言わなかった。「もしもし?」
「新谷さんのお宅ですか」
「ええ……」
「こんな時間に、申し訳ありません。田所佐知子です」
「まあ、田所さん。──みゆき、今日は旅行に出ているんですよ」
「知っています」
と、田所佐知子は言った。「実は、みゆきさんのことで、お話があるんです。これからうかがってよろしいでしょうか」
「これから?」
尚子はびっくりした。
「ご迷惑とは思いますけど、大事な用件なんです」
田所佐知子の話し方は、はっきりとして、曖《あい》昧《まい》さがない。尚子も佐知子を信頼していた。
あの子が、「大事な用」だというのなら、間違いあるまい。こんな時間に来たいというのだから、よほど緊急の用なのかもしれない……。
「分かりましたわ」
と、尚子は言った。「何時ごろ、おいでになる?」
「一時間ほどしましたら……。構いませんでしょうか」
「ええ、もちろん。どうせ起きていますから。じゃ、お待ちしていますわ」
「恐れ入ります」
と、田所佐知子は、電話を切った。
「一時間、ね……」
大分遅くなってしまうが、尚子も今の電話で目が覚めてしまった。
じゃ、何か出すものを……。お菓子か何かあったかしら?
そうだわ。ともかく、お湯を沸かして、紅茶でもいれられるようにしておかないと。
一時間あるのだから、そうあわてることもないけど……。
もちろん、尚子は知らなかったのだ。田所佐知子が、この家からほんの十分ほどのところから電話して来たのだということを。
佐知子も、一仕事しなくてはならなかったのである。
──一時間はかからなかった。
五十分ほどして、玄関のチャイムが鳴った。
「──はい」
と、尚子が玄関へ出て行く。
「田所です」
ドア越しに声が聞こえた。本当に、はきはきした口のきき方をする子だわ、と、尚子は思った。
「──まあ、どうも、わざわざすみませんね。上がって下さい」
尚子は、佐知子を居間へ通した。
「──どうぞお構いなく」
と、佐知子は、尚子が紅茶やクッキーを出してくれると、恐縮した様子で言った。
「本当にいつも、みゆきがお世話になって……」
尚子は、やっと自分もソファに落ちついて、「それで──お話というのは?」
「みゆきさんのことです。今、ご旅行ですか?」
「ええ。主人と二人で。今度アメリカへ行くことになって。みゆきからお聞きに?」
「ええ」
と、佐知子は肯いたが、「でも、みゆきさん、アメリカには行かないつもりのようですわ」
「まあ。あの子ったら、まだそんなことを言ってるのかしら。──ともかく、何としてもやらせますわ。あの子のためですもの」
と、尚子はきっぱりと言った。
「私も、みゆきさんにそう言ったんです。お母さんも、あなたのためを思って、色々やって下さっているのだから、と」
「そうなんですの。でも──分かってはくれませんわ」
「きっと、後で感謝されますわ」
と、佐知子は言った。
「そうでしょうか。──そうなるといいんですけどね」
「ただ……」
と、佐知子が眉《まゆ》をくもらせて 、「心配なのは、みゆきさん、暴走族にいた男の子と、まだ会っているようなんです」
尚子が顔をこわばらせた。
「まあ、あの子……。目を光らしているつもりでしたのに」
「私と会って、その帰りに、どこかで会っているようなんです。短い時間でしょうけど、きっとそうだと思います」
「あの男!──今度こそ許さないわ。警察へ届けて、刑務所へでもどこへでも、入れてもらいます」
「それより簡単なのは、お金で話をつけることだと思います」
「──お金?」
「ええ。お金を少しやって、別れてくれと言えば、きっとそんな男の子、さっさと手を切りますわ」
「お金ねえ……」
「みゆきさんも、その男の子に失望して、お母さんの言うことを聞くようになります。無理に引き離そうとしたら、却《かえ》って、その子を美化するだけですわ」
尚子は、ゆっくりと肯いた。
「本当だわ。──いいことをおっしゃって下さって……。本当にそうね。少々のお金で、みゆきが諦《あきら》めてくれれば……」
「私、心配になったんです」
と、佐知子は身を乗り出して、「今日、本当にお父さんと出かけているんですか?」
尚子は戸惑って、
「それはどういう……」
「もしかして、その男の子と、どこかで会っているんじゃないかと思って」
「まさか」
と、尚子は、ちょっと笑顔を作った。「主人の運転する車で行ったんですから」
「でも、お父さんは、みゆきさんに甘いんじゃありませんか?」
「それは──そうですけど」
尚子は、不安になって来た。「でも……。ホテルへ電話してみようかしら」
「その方がいいと思います。みゆきさん、今日の旅行、凄《すご》く楽しそうにしてたんです。ただのお父さんとの旅行にしては、ちょっとおかしいな、と思っていたんです」
「もしかして主人が……」
尚子も、夫が浮気していることは知っている。──もしかすると、夫とみゆき、二人して向うで「恋人」に会っているのかもしれない。
「電話してみますわ」
と、尚子は立ち上がると、電話の所へと急いだ。「番号は控えてあったわ……」
メモを見て、プッシュホンのボタンを押す。
──しかし、ウンともスンとも言わないのだ。
「おかしいわ」
一《いつ》旦《たん》、受話器を戻して、もう一度取ってみる。
「どうしました?」
と、佐知子がやって来た。
「発信音が聞こえないみたい……。故障かしら」
「変ですね」
当然だ。──佐知子が外の電話線を切ったのである。
「おかしいわ」
尚子は首を振った。──佐知子は尚子の背後に忍び寄ると、隠していたナイフをしっかりと握って、
「もう一度やってみたらいかがですか?」
「ええ、そうね……」
佐知子は、尚子の背中を正面に見て、ナイフを振りかざした……。