大内朱子は、久しぶりの休日を、ただあてもなくぶらついて過ごした。
どこかへ行くにも、もう、予定に追いまくられる毎日に慣れ切ってしまって、足が向かないのだ。
本当なら、朱子は、部《へ》屋《や》の中で、じっとしていたい性格である。しかし、自分が出かけたほうが、夏美はよく休めるだろう。そう思って、出て来たのである。
ただ——正直なところ、ちょっと気になっていた。
ゆうべ、夏美がいやに神経質になっていたからである。何かあったのかと訊《き》いてみたのだが、否定するばかりだった。
これだけ生活を共にしていると、夏美のことは、家族以上に、よく分かっているつもりである。
人間は、疲《つか》れて、苛《いら》々《いら》したとき、つい本《ほん》音《ね》が出る。夏美のような若い女の子なら、それが当然だ。
そのために、朱子がいるのである。ヒステリーやわがままをぶつけさせるのも、朱子の仕事の一つなのだ。
だが、昨日《きのう》は、ちょっと様子が違《ちが》っていた。——何かあったことは確かなのに、朱子に隠《かく》しているし、苛々をぶつけても来ないのだ。
あんなことは珍《めずら》しい。いや、初めてかもしれない。
だから、朱子は気になっていたのである。
ぶらぶらと、六《ろつ》本《ぽん》木《ぎ》を歩きながら、途《と》中《ちゆう》、何度もマンションへ電話してやろうかと思ったが、もし夏美が眠《ねむ》ってでもいたら、と、ためらってしまう。
午後も四時になって、朱子は、マンションへ戻《もど》ることにした。
たぶん、夏美ももう起きているだろう。
タクシーでマンションまで戻ると、朱子はロビーへ入って行き、
「あら」
と、声を上げた。
ロビーには、ちょっとした客となら、話が済《す》むように、簡単な応接セットが置いてある。そこの椅子《いす》に、マネージャーの永原が座っていたのだ。
背広は着ているが、その下は、スポーツシャツだった。夏美が久しぶりの休日なので、永原のほうも休みを取ったのだろう。
それでいて、何をしに来たのか。——そして、どうしてここで眠《ねむ》っているのだろう?
朱子は、そばへ行って、永原の肩《かた》をポンと叩《たた》いた。
「ん……。ああ、何だ……」
永原は目を開いて、朱子を見ると、大きく息を吐《は》き出し、頭を振《ふ》った。
「こんな所で、何してるんですか?」
と、朱子は訊《き》いた。
「昼《ひる》寝《ね》しに来たわけじゃないよ。もちろん、我がお姫《ひめ》様《さま》のご機《き》嫌《げん》をうかがいにだ」
永原が、こんな冗《じよう》談《だん》を言うのは珍《めずら》しい。笑いたくなるほどの冗談じゃないけど、気分がいいのは結構だわ、と朱子は思った。
「お休みですよ、今日は」
「分かってる。ただ、急に取材の申し込《こ》みがあってね」
「そんな……」
朱子は顔をしかめた。「明日にすりゃいいのに」
「間に合わない、って言うんだ。社長を通して来たんだよ。これじゃ断れない」
「そこをうまく断るのが、永原さんの腕《うで》じゃありませんか」
「無茶言うなよ。俺《おれ》だってクビになりたくないからな」
こういうセリフが、本《ほん》音《ね》に聞こえると、ちょっと惨《みじ》めだが、永原は、ややおっとりした性格のせいか、あまり嫌《いや》味《み》ではない。
朱子としては、永原がいくらかは本当に夏美の健康を心配しているのを承知していたから、そう悪い印象を持ってはいなかった。その点、計算高い安中とは、ちょっと違《ちが》う。
「それなら、どうしてこんな所に座ってるんですか?」
「降りて来るのを待ってるのさ。——だけど」
と、永原は腕時計を見た。「あれ、もう三十分もたってるな」
「それぐらいかかりますよ。特に一人じゃ。——ちょっと見て来ます」
「頼《たの》む。そろそろ出ないと間に合わない」
エレベーターに乗ると、
「勝手ばっかり言って、もう!」
と、朱子は口に出して言った。
たとえ五分や十分のインタビューだって、当然写真を撮《と》るのだから、ちゃんと化《け》粧《しよう》もし、服を選んで、頭もきちんと整えなくてはならない。それが、依《い》頼《らい》して来るほうには分かっていないのだ。
「ほんの五分だから——」
「ワンカット撮るだけ、十秒もありゃ」
と、気安く言ってくれるが、そのためには一時間も仕《し》度《たく》にかかっているのである。
疲《つか》れているときは、化粧のの《ヽ》り《ヽ》も悪いし、無理に作った、不自然な笑《え》顔《がお》になってしまう。——できることなら、今日はゆっくり休ませてやりたかった。
朱子も、そう沢《たく》山《さん》のタレントや歌手たちを知っているわけではない。ただ、夏美について行って、控《ひかえ》室《しつ》やスタジオで、他《ほか》のタレントたちを見かけることもあった。
今の歌手やタレント、特にアイドルと呼ばれる子たち——本当に「子たち」である——の中では、夏美が、一《いつ》風《ぷう》変って見えることに、朱子は気付いていた。
同年《ねん》齢《れい》の、TVの人気者たちが、一《いつ》旦《たん》、画面から外れると、わがまま放題に、付《つき》人《びと》に当たり散らしているのに比べて、夏美は至って穏《おだ》やかだった。
やはりトップスターという意識のせいもあっただろうが、それだけではないように、朱子には思えた。
よく、他のタレントの付人から、
「いいわねえ、あんた」
と、羨《うらや》ましがられる。
もちろん、夏美だって、不《ふ》機《き》嫌《げん》になることも、わがままを言うこともある。しかし、感情をむき出しにして、周囲へぶつけて来ることはなかった。
その点、夏美は、年《ねん》齢《れい》に似ず、大人《おとな》だった。仕事は仕事、と割り切っている雰《ふん》囲《い》気《き》を持っていた。
だからこそ、朱子も何となく夏美から離《はな》れられないのだ。
——エレベーターを降り、部《へ》屋《や》へと急ぐ。
鍵《かぎ》を開けて中へ入りながら、
「——夏美さん。——どこ?」
と、声をかける。
ドアが開いている間、風が抜《ぬ》けた。ベランダへ出る戸が開いているらしい。
暑い、という気候でもないのだが。
「どこにいるの?——夏美さん」
返事がない。
きっと、眠《ねむ》っちゃったんだわ、と思った。
今行くから、と返事をしておいて、ついそのまま眠り込《こ》んでしまうことが、よくある。
いいわ、永原さんは待たせておけば。大体、突《とつ》然《ぜん》こんな話を持ち込むほうが悪いんだから。
寝《しん》室《しつ》のドアを開けて、朱子は初めて戸《と》惑《まど》いの表情を見せた。
ベッドは、起き出したままに乱れていたが、夏美の姿はなかった。
「お風《ふ》呂《ろ》かしら……」
居間を横切り、バスルームのほうへ歩いて行く。
途《と》中《ちゆう》、ちょっと気になってベランダを覗《のぞ》いた。戸がやはり、少し開いていて、カーテンがかすかに風ではためいている。
ベランダに出ることも、めったにない。人にみられることを気にするからだ。
このマンションに、住んでいることが知れたら、ファンやカメラマンがやって来て、しつこく追い回されるのは目に見えている。
だから、朱子もかなり気を使っているのだった。
バスルームのドアを、軽くノックして、
「夏美さん。——入ってる?」
と、声をかけてみる。
返事がない。それに、水音も一向に聞こえて来なかった。
まさか、お風呂へ入ったまま、眠《ねむ》っちゃったわけじゃないだろうけど……。
「夏美さん。——開けるわよ」
朱子はそっとドアを開けた。
——目の前のものが、信じられなかった。立ちすくんで、動けないまま、どれくらい時間がたったか……。
夏美は洗面台の前、浴《よく》槽《そう》のわきに、うずくまるように倒《たお》れていた。
ブルーのTシャツとジーパンという格《かつ》好《こう》は、朱子が、家を出たときのままだ。そして、左の手首が血に濡《ぬ》れて、そこから、タイルの床《ゆか》へと、血が赤黒く広がっていた。
その血《ち》溜《だま》りの中に落ちている、剃《かみ》刀《そり》。——手首を切ったのだ。
「夏美さん!」
朱子は、やっと我に返った。かがみ込《こ》んで、呼びかける。——青ざめたアイドルは、じっと目を閉じて、動かなかった。
「夏美さん……ああ、こんなことして!……一体、どうしたの!」
落ちついて! 冷静になるのよ!
朱子は自分に言い聞かせた。——そう。私だって、看護婦になりたかったんじゃないの。こんなとき、取り乱していちゃ仕方ないわ。
朱子は、夏美の右の手首の脈をみた。——打っている。まだ生きてる!
急いでタオルをつかむと、それで、切った左手の上《じよう》膊《はく》部《ぶ》を強く縛《しば》った。
「救急車だわ」
居間へ飛び込んで、電話を引ったくるようにつかんだ。
——救急車がどこの病院へ連れて行くかも問題だった。
この近くで、しっかりした病院でなくては。
朱子は、インタホンで、一階の受付を呼び出し、永原を呼んでもらった。
——待つほどもなく、玄関のドアが開く。
「おい、まだ仕《し》度《たく》ができないのかい?」
と、のんびり声をかけて来る。
「永原さん。夏美さんが手首を切ったんです」
永原はポカンとしている。朱子は続けた。
「今、救急車が来るわ。下にいて下さい。大きな病院へ運び込まないと、後が大変だと思いますから、急いで、心当たりの病院へ、受け入れてくれるかどうか、当たってみて下さい。いいですね?」
「おい、何の話だい? 救急車だの入院だのって——」
「来て下さい」
苛《いら》々《いら》して、朱子は、永原の腕《うで》をつかんで引っ張った。
「おい——転《ころ》ぶじゃないか! 靴《くつ》をはいたままだぞ!」
永原は文句を言った。しかし、バスルームの中を見て、もう何も言わなかった。
「——早く、どこの病院へ運ぶか、決めなくちゃ」
と、朱子は言った。
「ああ。——えらいこった」
永原のほうも真っ青になっている。
「社長さんに訊《き》いて、病院を手配していただいたほうがいいんじゃありませんか」
「そう。——そうだな。よし、すぐ電話する」
永原は、口の中で、えらいこった、と呟《つぶや》きながら、居間へと戻《もど》って行った。
朱子は、タイルに膝《ひざ》をつくと、夏美の上にかがみ込《こ》んだ。
可哀《かわい》そうに……。疲《つか》れ切ってたのね。
「私に八つ当りすればよかったのに……」
そっと、夏美の額にかかった髪《かみ》をのけてやる。
すると——夏美の瞼《まぶた》が細かく震《ふる》えた。
「夏美さん……。聞こえる?」
と、朱子は、そっと囁《ささや》きかけた。
アイドルが目を開いた。だが、朱子を見ているのかどうか、定かでない。
「夏美さん——」
「うみ……」
と、唇《くちびる》から言《こと》葉《ば》が洩《も》れた。
「え?」
朱子が耳をそばだてる。「何なの?」
夏美の唇から、かすかな言葉が、細い糸のように、洩れ出て来た。
「海の……底……」
と。
そして、また瞼《まぶた》が閉じられた。
海の底?——何のことだろう?
確かに、そう聞こえたけれど。
「——はい、——はい、かしこまりました」
居間のほうから、永原の声が聞こえる。「——申し訳ありません。——はい、そっちの対策は何とか——」
何も、あの人が謝《あやま》ることはないのに、と朱子は思った。謝るのなら、みんなが夏美に謝るべきなのだ。
朱子は、サイレンの音に気付いた。——来たらしい。
「永原さん」
と、朱子は声をかけた。「救急車が」
「分かった。——社長、今、救急車が来たようです。——はあ、後で連《れん》絡《らく》します。——では、よろしく」
永原は、額一杯の汗《あせ》を拭《ぬぐ》った。「やれやれ……。俺《おれ》は血を見るとゾッとするんだ」
「誰《だれ》だってそうですわ」
と、朱子は言った。「下へ行って、話をして来て下さい」
「分かった」
永原が急いで出て行く。
朱子は、ベランダへ出て、通りを見下ろした。救急車が、マンションの前に停《と》まって、白衣の男たちが降りて来る。
何だか、いやにのんびりしているように見えて腹が立ったが、考えてみれば、向こうにとってはただ日常的な仕事に過ぎないのだ。
朱子は大きく何度か深呼吸をした。——ずっと夏美についていてやらなくてはならない。
ベランダから中へ入ろうとして、朱子の目は、ふと、路上に停《と》まっている、バイクに止まった。
ミニバイクというやつだ。——ちょうど、ゆうべ、車の後ろをつけて来たような。
でも、あんなバイク、道を歩けば二、三台は出くわすのだから、別に気にすることもないのだろう……。
朱子はバスルームへと、しっかりした足取りで戻《もど》って行った。