人の話が耳に入るときというのは、たいてい、肝《かん》心《じん》の点は抜《ぬ》けているものである。
「星沢夏美——」
という名前が、本堂千絵の耳に飛び込《こ》んで来たのは、学校帰りの電車の中だった。
いつも一《いつ》緒《しよ》に帰る近《ちか》子《こ》が、ともかくおしゃべりなので、他人の話が耳に入ることは珍《めずら》しい。
「だからさ、私、言ってやったのよね、それちょっとおかしいんじゃない、って。そしたら、あいつったら——」
うん、うん、と肯《うなず》きながら、千絵のほうは、まるで近子の話が頭に入っていなかった。
星沢夏美がどうしたのかしら?
もちろん、今や「国民的」とすら言われるアイドルである。人の話に夏美の名前が出て少しもおかしいことはない。
しかし、今の話し方は、どことなく気になった。話そのものは分からなくても、声の調子や、しゃべり方で、いい話か、悪い話かは見当がつくものだ。
そして、今、耳にしたのは、何だかあまりいい話とは思えなかったのである。
「——ね、ドロップなめる?」
と、千絵は近子の話を遮《さえぎ》って言った。
「うん」
千絵は、鞄《かばん》からドロップの缶《かん》を出した。その間は、近子の話も途《と》切《ぎ》れるというものである。
「——きっとTVのレポーターなんかが殺《さつ》到《とう》してんだろうな」
「決ってるよ、大《おお》騒《さわ》ぎだぜ」
しゃべっているのは、大学生らしい男の子二人だった。——やはり何かあったらしい。
「原因、分かんねえんだろ?」
「ノイローゼじゃねえの? 可愛《かわい》い子ぶってっけど、本当は分かんねえからな」
「失恋かなあ」
「失恋で死ぬほど純情じゃねえだろ」
死ぬ? 死ぬ、って——。千絵はギクリとした。星沢夏美が死んだ?
「あれ、お前、ファンのくせして冷たいじゃない」
「スターなんて、作られた虚《きよ》像《ぞう》じゃねえか。こっちも、それを承知でファンになってんだからさ」
「へえ、冷《さ》めてんな、お前!」
「でも、自殺未《み》遂《すい》なんて、やるだけ、人間らしいじゃないか」
自殺未遂! 千絵は息を飲んだ。近子がまた、
「そんでさ——」
と話し始めたが、千絵は黙《だま》っていられなくなって、二人の大学生の方へ向くと、
「すみません、星沢夏美がどうかしたんですか?」
と訊《き》いた。
大学生たちは、ちょっと面《めん》食《く》らったように千絵を見たが、
「——うん。手首を剃《かみ》刀《そり》で切って、自殺を図《はか》ったんだ。さっき、ニュースでやってたよ」
「手首を……」
千絵は呟《つぶや》くように言って、「で、具合、どうなんですか」
「知らないよ。命には別状ないみたいだったよ、そのときの話じゃ」
「そうですか」
千絵は、ホッと息をついた。「どうもすみません」
「いいや、構わないよ。君、ファンなの?」
「兄が大ファンなんです」
千絵は、そう言って、もう一度、「どうも」
と、くり返した。
「——千絵、どうしたの?」
さすがに、近子も、不《ふ》思《し》議《ぎ》そうな顔をしている。
「ううん。ちょっと気になってることがあるの」
と、千絵は言って、窓の外の風景に目をやった。
星沢夏美が手首を切った。——きっと、週刊誌などが大《おお》騒《さわ》ぎするだろう。
それにしても、と千絵は思った。兄が彼女のマンションのベランダに忍《しの》び込《こ》んで、あの不思議な歌声を録音して来た、その次の日に、自殺を図《はか》ったというのは、果して偶《ぐう》然《ぜん》だろうか?
でも——もし、偶然でないとしたら……。
「じゃ、俺《おれ》のせいだって言うのか!」
克彦が、食《く》ってかかるように言った。
「そんなこと言ってないじゃないの」
「じゃ、何だって言うんだ! 俺は何もしちゃいないんだぞ!」
克彦は、ふてくされた顔で、ベッドに横になっていた。——千絵は、椅子《いす》に腰《こし》かけると、言った。
「そうやって、すぐ怒《おこ》るのは、気にしてる証《しよう》拠《こ》じゃないの」
克彦は、ちょっと妹のほうをにらんだが、やがてヒョイと肩《かた》をすくめて、天《てん》井《じよう》に目をやった。
「だって……俺《おれ》が、あれをテープにとったこと、彼女は知りゃしないんだぞ」
「そう?」
「そうさ! 気付かれた、と思って、すぐにウォークマン、ポケットに突《つ》っ込《こ》んだんだから。あんな物、持ってちゃ、非常階段に飛び移れないからな」
「そうか。——でも、彼女、お兄さんのこと、見たんでしょ?」
「よせよ」
と、克彦は、ちょっと笑った。「そんなにのんびりしてないぜ、俺」
——ベランダから、非常階段へ飛び移ったとき、ベランダの戸が開いた。そして、克彦が振《ふ》り向くと、夏美が室内の明りに照らされて立っていたのだ。
二人の目が合った。——夏美にも、克彦の姿が見えたはずだ。二人は、見つめ合っていた。
克彦は、あのときの、彼女の顔が、忘れられない。それは、「アイドル」の星沢夏美ではなかった。
紛《まぎ》れもなく同じ顔で、それでいて、他人のようだった。
あの表情は何だったのだろう?——驚《おどろ》きだけではない。びっくりしたように、克彦を見ていたのは、ほんの一《いつ》瞬《しゆん》で、すぐに表情は変化した。
そして、克彦は戸《と》惑《まど》った……。
「ともかく、心配なんでしょ、彼《かの》女《じよ》のこと?」
と、千絵が訊《き》く。
「当たり前だ」
「じゃ、お見《み》舞《ま》いに行ったら?」
「会えっこないよ」
「そこを会うのが、熱狂的ファン、ってものでしょ」
「病院の周囲は、TV《テレビ》局や記者で一杯だぜ。近づけないよ」
あの表情……。
普《ふ》通《つう》なら、勝手にベランダへ侵《しん》入《にゆう》した男を見て、怒《おこ》るに違《ちが》いない、キッとにらみつけて来るのが当然だろう。
しかし、夏美の表情は、少しも怒っていなかった。何だか、ホッとしたような、というか——ちょっと妙《みよう》だと克彦自身も思ったのだが——むしろ感謝さえしているように思えたのである。
もちろん、それは、克彦の勝手な想《そう》像《ぞう》かもしれない。都合のいい解釈をするな、と怒られそうだ。
だが、あの反《はん》応《のう》が、どう見てもまともでないことは確かである。やはり、何かあるのだ。
「——おい、千絵」
「何よ?」
「入院してる病院、どこだ?」
「行くの?」
と、千絵は目を輝《かがや》かせた。
「もし、俺《おれ》が何か——俺のしたことで、彼《かの》女《じよ》がどうかしたのなら、黙《だま》ってるわけにいかないもんな」
「だからって、どうしてあげることもできないんじゃない? お医者さんじゃないんだから」
「お前が行け、って言ったんじゃないか」
「もちろん、行くべきよ」
と、千絵は肯《うなず》いた。「私も一《いつ》緒《しよ》にね」
大内朱子は、椅子《いす》にかけたまま、頭をガクッと前に垂れて、ハッと目を覚ました。——眠《ねむ》っちゃったのか。
でも、ほんの十分そこそこだ。
朱子は、腰《こし》を浮《う》かして、ベッドの夏美の方へと身を乗り出した。
夏美は、目を閉じて、静かな息づかいをしている。——落ちついたようだ。
朱子はホッとした。
もちろん、ここへ運び込《こ》んだ時点で、命に別状ないということは分かっていたが、それでも、やはり気が気ではなかった。
輸血をして、少し熱が出たようだ。
ベッドの上に出ている左手——その手首の白い包帯が痛々しい。
「可哀《かわい》そうに……」
朱子がそう呟《つぶや》くのは、もう何度目かになる。
夏美が、意識を取り戻《もど》さない——鎮《ちん》静《せい》剤《ざい》を射《う》たれているせいもあるが——ので、こんなことをした動機を、直接聞くことはできないでいる。
ともかく、忙《いそが》しすぎる日々の集積が、原因の一つになっていることは間《ま》違《ちが》いない、と朱子は思っていた。
これを機会に、少し休ませなくては。
病室のドアを、いきなりノックする音がして、朱子はびっくりして飛び上がりそうになった。——何て無神経な!
記者か何かだったら、けっとばしてやろう、と朱子は勇ましいことを考えていた。
ドアを開けると、常務の安中が立っている。
「まあ、やっとおいでになったんですか」
朱子は、ちょっと咎《とが》め立てするように言った。安中は、事件以来、初めて病院にやって来たのである。
「忙《いそが》しかったんだ」
安中はぶっきら棒《ぼう》に言った。「どうだ、具合は?」
「お医者さんと話していただいたほうがいいと思いますけど」
朱子の言《こと》葉《ば》に、安中はムッとした様子で、
「君に訊《き》いてるんだ!」
と言った。
「病院ですよ。大きな声を出さないで下さい」
朱子は負けていない。
ともかく、別にクビになったって、朱子としては一向に惜《お》しくもないのだ。安中にいくらにらまれても、ちっとも怖《こわ》くない。
「分かった。——医者はどこだ?」
「あちらの看護婦さんの所で訊《き》いて下さい」
「退院は時間がかかりそうか?」
「そう簡単には——」
「君がちゃんと見ててくれなきゃ困る。こんな事件で、スター生命が終りになることもあるんだ」
朱子は、怒《いか》りがこみ上げて来るのをこらえながら、
「問題は原因でしょう。誰《だれ》だって、彼女に二十四時間ついてるわけにはいかないんですから」
と言い返した。
朱子は、安中が真《ま》っ赤《か》になって怒《ど》鳴《な》りつけて来るのではないかと思った。——が、意外なことに、安中は朱子から逃《に》げるように目をそらせた。
そして、目を病室のドアのほうへと向けて、
「何か言ったか」
と訊《き》いた。
「え?」
「どうしてあんなことをしたのか、話したのか?」
「いいえ。まだ鎮《ちん》静《せい》剤《ざい》がきいていて、目を覚ましません」
「そうか」
安中は、ちょっと息をつくと、「じゃ、医者と話をして来る」
と、歩いて行きかけて、足を止めた。
そして振《ふ》り向くと、
「夏美を頼《たの》むよ」
と言った。
朱子は、ちょっと呆《あつ》気《け》に取られていた。
どうして、急に安中の態度が変ったのだろう? 最後の言《こと》葉《ば》では、本《ヽ》当《ヽ》に《ヽ》夏美のことを気づかっているように聞こえた。
もちろん、夏美はプロダクションのドル箱《ばこ》なのだから、安中が心配するのは当たり前のことだ。しかし、それはあくまで、「収入源」としての夏美でしかない。
ただ、今の安中の言葉には、それを超《こ》えたものがあったように、朱子には思えたのである……。
そっとドアを開け、病室の中へ戻《もど》る。
音をたてないように気を付けながら、ドアを閉めると、
「朱子さん」
と呼ばれて、キャッと声を上げた。
「——ああ、びっくりした。目が覚めたの?」
「うん」
「気分は?」
「何だか——半分眠《ねむ》ってるみたい」
病室の中は、明りを消してあるので、薄《うす》暗《ぐら》い。
「眠ればいいわ。まだ夜中よ」
「そう……」
夏美は、静かに息をついた。——また寝《ね》入《い》ったのかと思っていると、
「ごめんね」
と、囁《ささや》くような声。「大変だったでしょう」
「こっちがショックで倒《たお》れるかと思ったわ」
と、朱子は明るい調子で言って、椅子《いす》に座った。「何か欲しいもの、ある?」
「お水、ちょうだい」
朱子が水のコップを渡してやると、夏美は少し体を起こして、ゆっくりと水を飲んだ。
「食べたいもの、ある?」
「今はいいわ。——ありがとう」
夏美は、半分ほど残ったコップを返して、「TV《テレビ》や週刊誌が来てる?」
と訊《き》いた。
「山ほどね」
と、朱子は肯《うなず》いた。「今は大分引き上げたんじゃない? でも、大《だい》体《たい》各社一人や二人は残って、粘《ねば》ってるようよ」
「そう」
夏美は、ちょっと笑ったようだった。「ニュースを提供しちゃったわね」
「これで週刊誌は当分困らないわ」
「——さっき、声がしてたのは、安中さん?」
「そうよ。今ごろやって来て、仕方ないわね、全く!」
「何か言ってた?」
「一応、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》か、とは訊いてたけど……」
朱子は、ちょっと夏美のほうへ顔を寄せて、
「あんまり話すと疲《つか》れるわ。また明日にしたら?」
「そうね……」
夏美は、軽く息を吐《つ》いた。「——朱子さん」
「うん?」
「ごめんね」
「いいのよ。ともかく、今は寝《ね》なさい」
「うん……」
——しばらくして、夏美は寝入ったようだった。規則的な、静かな寝息が聞こえて来た。
朱子は欠伸《あくび》をした。
安心したせいか、眠《ねむ》気《け》がさして来たのだ。ソファででも、少し眠ろうか、と椅子《いす》から立ち上がった。
窓辺に歩いて行って、表を見下ろす。
相変らず、何台かの車が、路上に停《と》まっている。——TV局、週刊誌、スポーツ新聞あたりの人間たちだろう。
夜明かしで、たった一人の女の子のことを見張っているのだ。大《だい》の大人たちが。
ご苦労様なことだわ、と朱子はおかしくなった。
遠くから、救急車のサイレンが聞こえて来た。
どうやら、こっちへ近付いて来る。
もちろん、ここは救急病院なのだから、色々と、急《きゆう》患《かん》が運ばれて来て当然だ。
救急車が見えた。やはりここへ来るのだ。——赤い灯《ひ》が路上を照らす。
救急車が病院の中へと入って来ると、報《ほう》道《どう》陣《じん》の車から、何事かと出て来た者もあった。
そうそうアイドルスターが入院するわけもあるまい。
朱子は、窓から離《はな》れ、病室から静かに廊《ろう》下《か》へ出た。
急患のせいか、廊下の奥《おく》のほうが、何となくざわついている。看護婦も、急ぎ足で下へ降りて行く。
安中が、何だかせかせかした足取りでやって来た。
「どうしたんですか?」
と、朱子が訊《き》くと、ちょっと顔をしかめた。
「医者の話を聞いていたら、急に患者だとか言われて。——しかし、一応大したことはないということだったな」
「少し休ませてあげて下さい」
と、朱子は言った。「いい機会ですよ。ここでちゃんと元気にさせておかないと、また同じことのくり返しになります」
「それは僕の一存じゃ決められんよ」
と、安中は肩《かた》をすくめた。
また、いつもの「計算高い」安中に戻《もど》ったようだ。
「さしあたり、マスコミにはどう言うんですか?」
「頭が痛いよ」
と、安中はため息をついた。「ともかく、自殺未《み》遂《すい》ということで、まだ夏美のイメージにはそう傷がついていない。むしろイメージ・ダウンはプロダクションの側さ」
仕方ないでしょ、言われても。朱子は心の中で呟《つぶや》いた。
「しかし、この一件で、TV《テレビ》のスケジュールは全部狂《くる》った。そのマイナスは大きいぞ。それに、肝《かん》心《じん》のリサイタルがある」
「それで夏美さんを責めちゃ可哀《かわい》そうですよ」
「分かってるよ」
安中は苦笑して、「君は夏美の保護者みたいだね」
「そう思ってますけど、自分では」
「ともかく——誰《だれ》に何を訊《き》かれても、君は答えちゃいかん。分かるな? 一《いつ》切《さい》応じるんじゃないぞ」
「はい」
「こっちから、時期をみて、ちゃんと発表する。訊かれたら、そう言っとけ」
「分かりました」
「永原はどうしたんだ?」
そういえば、姿を見ない。
朱子は、すっかり永原のことなど忘れていた。
「あいつ、夏美のそばについていなきゃいかんのに」
と、安中は不《ふ》機《き》嫌《げん》な顔で言った。
「血を見て、気持悪くなったんじゃありませんか」
「電話してみろ」
「夜中ですよ」
「構わん。明日の朝までのんびり待っていたら、打ち合わせもできん。電話して、ここへ来るように言ってくれ」
よっぽど、ご自分でどうぞ、と言いたくなったが、そこまで逆《さか》らうのも、ちょっと大人《おとな》気《げ》ないような気がして、朱子は電話をかけに、一階へと降りて行った。
入口の近くでは、受けいれた急《きゆう》患《かん》のことで、当直の医師と看護婦が、あれこれ動き回っている。
朱子は、少々気の進まないままに、公衆電話で、永原の家へかけた。
しばらく鳴らすと、
「はい……」
と、眠《ねむ》そうな女の声がした。
「あ、永原さんですか。私、夏美さんに付いてる大内です」
「あ、どうも——」
「ご主人、いらっしゃったら、ちょっとお願いしたいんですけど」
「え?」
と、向こうは当《とう》惑《わく》した様子で、「いませんよ。夏美さんが入院している病院に、今夜はずっと詰《つ》める、と電話がありましたけど……」
「病院に、ですか?」
朱子は面《めん》食《く》らった。
確かに、夏美が入院したとき、永原はついて来た。しかし、その後は、集まって来たマスコミの相手をするばかりで、病室には姿を見せなかったのだ。
「じゃ、そっちへ訊《き》いてみます。すみません、夜中に」
朱子は電話を切った。
おかしい。——永原はどこへ行ってしまったのだろう?