「——変だわ」
夏美は受話器を置いた。
永原の自《じ》宅《たく》の近くで、もう一度電話してみたのだが、今度はさっぱり出て来ないのである。
「行ってみる?」
と、克彦が言った。「いなきゃいないで、帰って来りゃいいし」
「お兄さんったら。もし、向こうで警察でも待ってたら、どうするのよ」
と千絵がにらんで、「でも——それなら、当然電話に出るか」
「自分で言って、自分で否定してりゃ、世話ないや」
と、克彦がからかった。
「ともかく時間が……」
と、夏美は言った。「朱子さんと一時に待ち合わせたのに、もう十五分しかないわ」
「だから、行ってみようよ」
と、克彦が言った。
「ねえ、私が、その朱子さんって人のほうに行ってあげる」
と、千絵が言った。
「え? でも——」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ。ちょっと遅《おく》れて来るって伝えれば、待っててくれるでしょう。そうでないと、場合が場合だから、来ないのかと思って、帰っちゃうかもしれない」
「じゃ、申し訳ないけど、お願いできる?」
「任《まか》しといて。行けば、分かるでしょ」
夏美から場所を聞いて、千絵は、足早に駆《か》け出して行った。
「じゃ、行ってみましょうか」
と、夏美は言った。
「うん」
歩き出して、克彦は、「その奥《おく》さんが何か知ってる、と思ってんだね?」
と訊《き》いた。
「たぶん……。奥さんといっても、実際は永原さんの秘書みたいなものだったの」
「秘書?」
「そう。浜子さんというんだけど、面《おも》白《しろ》い人なのよ。——私、デビュー前、少しの間だったけど、あの家にお世話になったことがあるの」
「なるほど。ご主人が殺されて、がっくりしてるところに訪《たず》ねて行くってのも、何だか悪いみたいだね」
「そうね。でも——」
と、夏美は首をかしげた。「でも普《ふ》通《つう》の夫《ふう》婦《ふ》ほどには、ね」
「普通の、って?」
「あの二人、法律上だけの夫婦なの」
「法律上だけ……?」
克彦が、キョトンとしている。
「永原さんは、男だけの恋人しか持てなかった人。浜子さんは逆《ぎやく》に女だけの恋人しか持てない人なんだもの」
「そ、それじゃ——」
克彦は、赤くなって、どきまぎした。
「照れないで。こういうこと、この世界じゃ珍《めずら》しくないのよ。永原さんたちは、だから、お互《たが》いに、便《べん》宜《ぎ》的《てき》に夫婦になってただけなの」
「へえ」
克彦は首を振《ふ》った。「やっぱり、ちょっと変った世界だねえ」
「そう」
夏美は、ちょっと笑って、「あんまり深入りすると、夢《ゆめ》も希望もなくなるわよ」
と言った。
「どの家だい?」
「ええと——あの角を曲がったところよ。確か、曲がってすぐだったと思うわ」
「待った!」
克彦が、夏美の腕《うで》をつかんだ。「見ろよ」
角から、警官が出て来た。歩いて来るのではなく、その辺をぶらついている感じだった。
「警官ね」
「何だか、おかしいと思わない?」
克彦と夏美は、顔を見合わせた。
「まさか——」
夏美の口から、言《こと》葉《ば》が勝手に出て来た。「まさか、奥《おく》さんまで——」
「君はここにいて。ちょっと僕《ぼく》、様子を見て来る」
克彦も、やっと少し探《たん》偵《てい》気分になって来た。
何気なく歩いて行って、角を曲がる。
「分からねえのか、この野郎!」
いきなり罵《ば》声《せい》が飛んで来て、克彦はギョッとした。——が、見れば、何のことはない、要するに、軽自動車とオートバイが接《せつ》触《しよく》して、ドライバー同士が大喧《げん》嘩《か》をしているのだ。
オートバイのほうは革《かわ》ジャンパーの若者、自動車のほうは、どこかの商店の親父《おやじ》さんというところだ。
「まあ、少し二人とも頭を冷やして——」
と、警官が困ったように言った。
「冗《じよう》談《だん》じゃねえよ! こっちは商売道具なんだ、傷《きず》つけられちゃ、たまったもんじゃーねえ!」
「何だ、そんなボロ車! もともと傷だらけじゃないか」
「何だと、てめえ——」
と、つかみかかる。
「やめろってば! おい!」
——克彦は、待っていた夏美の所へ戻《もど》って、事情を説明した。
「よかった! まさか、とは思ったけど……」
と、夏美が胸を撫《な》でおろす。「じゃ、行きましょう」
二人が角を曲がって歩いて行くと、例の二人は、まだ怒《ど》鳴《な》り合っていた。
「この家だわ」
ごく当たり前の——というか、むしろ最近ではあまり見ない、日本的な古い木造の家である。
もちろん、近年は木造のほうが豪《ごう》華《か》ということになっているが、これはそんな家ではない。ただ、古ぼけているだけだ。
格《こう》子《し》戸《ど》の玄《げん》関《かん》へ入ると、
「ごめん下さい」
と、夏美は声をかけた。
「はあい」
すぐに返事があって、出て来たのは、かなり太った、呑《のん》気《き》そうな女性。黒いスーツが、やけに窮《きゆう》屈《くつ》そうだった。
「まあ、夏美さん! 見《み》違《ちが》えちゃったわ。そういう格《かつ》好《こう》してると、分からないわね」
「すみません、お電話したんですけど、お出にならないので、来ちゃいました」
「ああ、ごめんなさい。私、買物を忘れちゃって、外へ出てたの。さあ、上がって」
と、言って、克彦に気付き、「あら、この子は?」
「彼《かの》女《じよ》のファンの一人です」
と、克彦は、至って謙《けん》虚《きよ》な言い方をした。
「ちょっと事情があって、助けていただいてるんです」
「まあ、そうなの。私、またどこかのニューアイドルかと思ったわ。さあ、どうぞ」
克彦は、この一言で永原浜子のことがすっかり気に入ってしまった!
「大変でしたね、永原さんのこと」
と、畳《たたみ》の部《へ》屋《や》にカーペットを敷《し》いた居間に落ちつくと、夏美が言った。
「あなたはよく知ってるでしょ。特別に、悲しいってことはないはずなんだけど……。でも——いい人だったからね。可哀《かわい》そうだとは思うわ」
と、浜子は、お茶を出しながら言った。
「お葬《そう》式《しき》はいつ——?」
「まだ警察が遺体を返してくれないの。たぶん、二、三日かかるんじゃない? 検死解《かい》剖《ぼう》ってやつがあるわけだから」
夏美は肯《うなず》いて、
「たぶん——私はお葬《そう》式《しき》に出られないと思います。すみません」
「いいのよ。気にしないで。それより、あなた自身が大変でしょ」
「私、命を狙《ねら》われてるんです」
「何ですって?」
と、浜子が、ただでさえ大きな目を、もっと見開いた。
夏美が、病院での出来事を説明して、
「——ですから、こんな風に逃《に》げ回ってるんです」
と言った。「本当なら、警察へ行って、正直に話をするべきでしょうけど、きっと信じてくれないと思うんです。あんな風に姿を消してしまったし——」
「そうよ、やめなさい、警察なんて」
と、浜子が顔をしかめた。「はっきりは言わないけど、あんたを疑ってるのよ」
「そうでしょうね」
「刑《けい》事《じ》がね、何度も来たのよ」
と、浜子はもっと渋《しぶ》い顔になった。「何だか——倉——倉倉とかいう——」
「クラクラ?」
と、克彦が思わず訊《き》き返したとき、玄《げん》関《かん》の戸がガラガラと開く音がして、
「失礼! 奥《おく》さん、おいでですか! 門《かど》倉《くら》刑事ですが」
と、ちょっと間のびした声が飛び込《こ》んで来た。
ここじゃないのかな? 千絵はキョロキョロと周囲を見回した。
代々木公園の一角。——あまり人の通ることのない場所である。
夏美から、詳《くわ》しく場所は聞いて来たつもりだった。相手は、若い女性一人。
すぐ分かると思っていたのだが……。
向こうが、何かの都合で遅《おく》れているのかもしれない。少し待ってみよう。
千絵は、コンクリートの花《か》壇《だん》の端《はし》に、チョコンと腰《こし》をおろした。
「——いよいよ謎《なぞ》ね」
女は怖《こわ》いというか、冷静というか、千絵のほうは、兄と違《ちが》って夏美にイカレてるわけではないので、割合に客観的に事態を眺《なが》められる。
もちろん、千絵とて、星沢夏美を助けたいとは思っている。しかし、一方では、全面的に彼《かの》女《じよ》の話を信じる気にはなれないのである。
病院での出来事は事実だろう。特に、屋《おく》上《じよう》で殺されかけたことも。
しかし、それで、夏美が病院を出て来てしまったというところが、どうも引っかかるのである。
人間、そういう時には、冷静な判断ができないのかもしれないが、しかし、自分が疑われる、と思う前に、死体を見付けたりしたら、大声で助けを求めるのが普《ふ》通《つう》じゃないかしら?
しかし、夏美はそうしなかった。そして、病院を脱《ぬ》け出した。——なぜ?
今、警察は、夏美を指名手配してはいない。一応重要参考人にでもするのが当然のような気もするが、なぜか、それもしていないのである。
つまり、本《ヽ》当《ヽ》に《ヽ》夏美が疑われているとは限らないのだ。
でも、夏美は疑われていると思っているらしい。——本当に?
だとすれば、それは何か理由あってのことだ。つまり、夏美に、永原を殺す動機がある、ということである。
だからこそ、夏美は、警察へ行かずに、自分で犯人を見付けたいのではないか。
——もう一つ、夏美が病院を出て来たのは、殺人の容《よう》疑《ぎ》をかけられるからでなく、何か他《ほか》の理由があったため、とも考えられる。
何かは分からない。しかし、何か、外でやっておきたいことがあったのではないか。
千絵には、もちろん他にも色々と妙《みよう》に思われることがある。その辺《へん》は、克彦など、もうきれいさっぱり忘れてしまっている。
第一は、あの、克彦の録《と》って来たテープの歌声である。
あれが本当に、夏美の声だとしたら、なぜ夏美は歌が巧《うま》いのを隠《かく》して、わざと下手《へた》に歌って聞かせているのか。
そして、あのオペラのアリアらしい歌の意味は?
それから、夏美が手首を切って、自殺を図《はか》ったこと。
本気ではあったろう。しかし、実際には、ああして、克彦たちと元気に歩き回っているのだ。
考えようによっては、あれは狂《きよう》言《げん》だったのかとも、思えて来る。
「そこまで言っちゃ、気の毒《どく》かな」
と、千絵は呟《つぶや》いた。
でも、推理は非情なのだ。その可能性は否定できない。狂言なら、その理由が何だったのか、という問題は残るが……。
ともかく——これは、一見して単純に見える事件だが、何か裏があるはずだ。見かけ通りの事件でないことだけは、確かである……。
誰《だれ》かが歩いて来た。
来たのかな? 顔を上げると、人違《ちが》いだった。ともかく、男だったのだから、大内朱子のはずがない。
四十がらみの、ちょっとガラの悪い感じの男だった。
千絵は目をそらした。男が足を止める。
千絵は男を見た。
「何ですか?」
「星沢夏美……」
「え?」
千絵がちょっと面《めん》食《く》らって、「じゃ、あなた、大内朱子さんの——?」
「やっぱりそうか」
男は肯《うなず》いて、「さすがに可愛《かわい》いや」
「え?」
千絵は目をパチクリさせた。
「一《いつ》緒《しよ》に来てもらうぜ」
と、男が言った。
「私、人と待ち合わせてるんです」
「こっちにも待ってる人がいてね」
と、男は言った。
ナイフが、千絵のわき腹《ばら》へ、ぐいと突《つ》きつけられた。
「分かったわ」
と、千絵は、さすがに青くなって言った。
まだ、生まれて一度も手術というものを受けたことがないのだ。しかも、こんな素《しろ》人《うと》(?)にお腹《なか》を切られちゃかなわない!
千絵は、男に促《うなが》されて、歩き出した。
「——あの、刑《けい》事《じ》さん」
と、永原浜子が、門倉刑事にお茶を出しながら言った。「夏美さんを犯人だと思ってるんですか?」
門倉は、ちょっと心外という面《おも》持《も》ちで、
「いつ、私がそんなことを言いました?」
と訊《き》き返した。
「いえ——ただ——何となくそう思ったんですの。だって、こんなに度《たび》々《たび》おいでになって、夏美さんのことを、あれこれお訊きになるんですもの」
「これは単に、聞き込《こ》みの一部に過ぎませんよ」
「そうですか」
浜子は、自分も腰《こし》をおろして、「じゃ、今日はどういうことで?」
「お断りしておきますが——」
と、門倉は改《あらた》まって、「警察は、決して単なる勘《かん》で、こいつが犯人だろうという見《み》込《こ》みをつけて、捜《そう》査《さ》しているのではありません」
「はあ……」
「中には、そういう者がいるのは事実です。しかし、少なくとも、この私は違《ちが》います」
門倉は、なぜか胸を張って堂々と(?)言った。そして、手帳を開くと、
「星沢夏美の好きな食べ物は?」
と、言った。
奥《おく》の部《へ》屋《や》で話を聞いていた克彦と、当の夏美は、思わず顔を見合わせた。
「何だい、あの刑《けい》事《じ》?」
と、克彦が訊《き》いた。「あんなこと訊いて、事件と何か関係あるのかなあ」
「シッ! 大きな声出さないで。——分からないわよ、刑事なんて、何を考えてるんだか」
——門倉は、浜子が、
「スパゲッティ、ラーメン、ザルソバ……。そうね、大《だい》体《たい》め《ヽ》ん《ヽ》類が好きでしたよ」
と言うのを、せっせと手帳に書き取っていた。
「ラーメンは、ただのラーメンですか? 塩ラーメン、みそラーメン、チャーシューメンなど色々ありますが」
「その都度、あれこれ……。でも、そんなことが何か役に立つんですの?」
「事件解決の鍵《かぎ》はどこにあるか分からないんですよ」
「はあ。でも——」
「甘《あま》いものと辛《から》いものでは、どっちが好きでしたか?」
門倉は真《ま》面《じ》目《め》に質問を続けた。
「さあ……。あんまり太らない体質のようでしたけど、でも、やっぱり若い子ですから、甘いものも食べてたようです」
「和《わ》菓《が》子《し》とケーキでは?」
「どっちかといえばケーキでしょうか」
浜子は、もはや諦《あきら》め顔である。
「なるほど」
と、門倉は手帳へ、きちんと書きつけ、「では次に着るものについてですが——」
「刑《けい》事《じ》さん」
と、浜子は言った。「下着の色までお訊《き》きになりたいんでしたら、私より、付《つき》人《びと》の大内さんにお訊きになったほうがいいと思いますよ」
「なるほど」
と、門倉は肯《うなず》いて、「しかし、証《しよう》言《げん》は複数で、というのが原則です。——で、彼女の下着の色は?」
——答える前に、浜子は長々とため息をついた。