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殺人はそよ風のように13

时间: 2018-09-06    进入日语论坛
核心提示:12 夜のオフィス 朱子は、十二時二十分に、やっと目的地へ辿《たど》り着いた。 「どうも」 タクシーを降り、料金を払《はら
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 12 夜のオフィス
 
 朱子は、十二時二十分に、やっと目的地へ辿《たど》り着いた。
 「どうも」
 タクシーを降り、料金を払《はら》って、やっと息をつく。
 用心のために、少し手前で降りたので、事務所のあるビルまで歩かなくてはならない。夏美はもう待ちくたびれているだろう。
 どこかのバーから出て来たらしい酔《すい》客《きやく》が、ふらふらとすれ違《ちが》って行く。
 事務所のあるビルといっても、大きなものではない。八階建《だて》の雑居ビルというやつである。
 この辺《あた》りは、その手の小さなビルが、ひしめき合っている。しかし、どこももう真夜中となれば静かなものだ。
 朱子は少し足を早めた。
 ちゃんと間に合うようにマンションを出たのだが、どうやら、隠《かく》れて見ていたらしいバイクに尾《び》行《こう》され、タクシーを三回も乗り継《つ》いで、ひどい遠回りをしてやっとここへ来たのだ。
 「全《まつた》く、ヒマな連中なんだから!」
 朱子は思わず口に出していた。
 ビルが見えて来た。——もちろん、どのフロアも真っ暗である。
 プロダクションはこのビルの三、四階に入っている。一応、二《ツー》フロアを借り切っているのだ。
 でも、最初は、三階の、それも一角の一部《へ》屋《や》を使っていたに過ぎない。夏美の人気が上《じよう》昇《しよう》するにつれ、事務所の面積も広がった。
 今では、新しいビルに移ろうという話も出ている。だが、このところプロダクションが苦しいので、その話もストップしたままだった。
 もちろん、一週間後の——いや、六日後の夏美のリサイタルが成功して、ライブ盤《ばん》やビデオが売れれば、楽々、新しい事務所へ移れるだろう。しかし、もし、リサイタルが中止になるようなことがあれば、ここの事務所だって、閉《へい》鎖《さ》——つまり、倒《とう》産《さん》ということになりかねない。
 全く、その意味では「水もの」の世界だ。そこが面《おも》白《しろ》くもあって、一度こういう商売で味をしめると、やめられなくなるのだろうが……。
 ビルの前まで来て、朱子は周囲を見回した。——人の気配はない。
 どこへ行ったんだろう? 二十分遅《おく》れたからといって、帰ってしまうような夏美ではないが。
 夏美は、事務所の鍵《かぎ》を持っていないから、中で待っていることもあるまい。
 朱子は、少し待ってみることにした。
 それにしても、夏美がこの事務所に何の用だろう?
 もちろん、夏美はこのプロの所属だから、ここへ来ることもある。しかし、月にせいぜい二度か三度、顔を出すだけだ。
 ここはあくまで「事務所」だから、タレントは用がない。だから、夏美がここにどんな目的で入ろうというのか、朱子には分からないのである。
 十二時四十分になった。——どうしたものかと迷《まよ》っていると、足音がした。
 顔を向けると、若者が一人、歩いて来た。男じゃ、どう見ても夏美ではない。
 朱子は、もう一度腕《うで》時計を見た。
 「——大内さんですね」
 と、その若者が言った。
 「ええ。あなたは?」
 「一人ですか? 尾《つ》けられませんでした?」
 「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。でも——夏美さんは——」
 若者がちょっと手を上げて見せると、道の向かい側の、ビルの細い隙《すき》間《ま》から、夏美がヒョイと出て来た。
 「そんな所にいたの! びっくりしたわ」
 朱子はホッと息をついた。
 「ごめん。あなたが少し遅《おく》れたから、その向こうの通りで、コーヒー飲んでたの」
 「見違《ちが》えたわ」
 朱子は、夏美の格《かつ》好《こう》を見直して笑った。
 「借り物なのよ」
 「でも、サングラスなんかかけるより、ずっと垢《あか》抜《ぬ》けしてるわ」
 克彦は、これを聞いたら、千絵がさぞ得意がるだろうな、と思った。
 夏美が、克彦を朱子に紹《しよう》介《かい》した。もちろん、千絵のことには触《ふ》れなかったが、
 「——あなたとあそこで待ち合わせたことを、誰《だれ》か聞いてたような人はいる?」
 と、夏美は訊《き》いた。
 「いいえ。私、一人で部《へ》屋《や》にいたし……。どうして?」
 「いいえ、何でもないの。——鍵《かぎ》はある? じゃ、行こうか」
 克彦は、朱子が千絵の誘《ゆう》拐《かい》にかかわってはいない、と思った。少しでもごまかしていれば、こんなにあっさりと否定したりしないのではないか。
 暗い階段を、三人は上がり始めた。
 「——明りってないの?」
 と、克彦は言った。
 「ビルの管理してる人がケチでね。昼間なら充《じゆう》分《ぶん》明るいし、夜もネオンの光で足《あし》下《もと》ぐらいは見える、って……」
 と、朱子が説明する。
 「でも、ネオンが消えたら——」
 「自分が案内に立つ気でしょ」
 「え?」
 「その人、きれいに禿《は》げてんの」
 克彦は、朱子という女性がすっかり気に入った。
 夏美に比べると、丈《じよう》夫《ぶ》そうでしっかり者のイメージがあり、何となく怖《こわ》そうだが、気のいい女性のようだ。夏美が絶対に信用できると言ったのが、よく分かった。
 「三階に行くの?」
 と、朱子が訊《き》く。
 「四階。永原さんの机は四階だったでしょう?」
 「そうね。——夏美さん、あなた、こんな所に来てどうする気?」
 「捜《さが》し物」
 「何、それ?」
 「私にも分からないの」
 「じゃ、私には捜せないわね」
 と、朱子は苦笑した。
 三階へ来た。相変らず暗い階段を、あと一階だ。
 何しろ狭《せま》い階段で、しかも真っ暗と来ているから、朱子、夏美、克彦の順に、一列で四階へ。
 最後に上がりかけた克彦は、ふと、何か物音がしたような気がして、足を止め、振《ふ》り向いた。三階の事務所の入口。分厚い波ガラスの窓のあるドアが、少し白っぽく見えている。
 何の音だろう?——あのドアの向《ヽ》こ《ヽ》う《ヽ》か《ヽ》ら《ヽ》聞こえて来たような気がする。
 気のせいかな……。
 朱子と夏美がどんどん上がって行ってしまうので、克彦は、取り残されては大変、と、あわてて後を追った。
 「本当に暗いわね」
 と、朱子が言った。「——今、鍵《かぎ》を開けるわ。待ってて」
 ガチャガチャと金具の触《ふ》れ合う音。
 「どこが鍵《かぎ》穴《あな》なのか、よく分からないわ。——あ、ここだ。——あら?」
 「どうしたの?」
 「変だわ。——このドア、鍵がかかってないわよ」
 「まさか」
 「本当よ。開けたつもりで鍵を回したら、閉まっちゃった。元に戻《もど》したら——ほら、この通り」
 ドアが開いて来た。
 「本当だ。——何やってんのかしら。きっと誰《だれ》かが、かけ忘れて帰ったのね」
 「ともかく入りましょう。明りを点《つ》けるわ」
 「待って」
 と、夏美が止めた。「そんなことしたら、表から見えるわ。泥《どろ》棒《ぼう》かと思われるわよ」
 「似たようなもんだけどね」
 と克彦が言うと、夏美がふき出してしまった。
 克彦としては、別に意《い》図《と》していたわけではないのだが、何となく重苦しい雰《ふん》囲《い》気《き》が一《いつ》掃《そう》されるという、予期しない効果があったようだ。
 「——懐《かい》中《ちゆう》電灯が、どこかドアのわきのほうになかった?——あ、そこの白っぽく光ってるの、そうじゃない?」
 「これか。——電池入ってるのかしら?」
 朱子が外して、スイッチを押《お》すと、いささか頼《たよ》りなげではあったが、光が走った。
 「窓のほうへ向けないで。——永原さんの机ってどこだっけ?」
 「ええと……待ってね」
 朱子が額にしわを寄せて考え込《こ》んでいる。
 「いつも、大して気にもしないで見てるから、分からないわね。——確か壁《かべ》のほうだわ。そう、向こうの……たぶん真ん中じゃない?」
 「そうね、その辺《へん》だったかな」
 足《あし》下《もと》を照らしながら、朱子が歩いて行く。
 「気を付けて。——ゴチャゴチャしてるし、足下に電話線が這《は》い回ってるから。引っかけないようにね」
 芸能プロダクションというと、克彦は、やたらタバコの煙《けむり》の充《じゆう》満《まん》している、ごみごみした所を想《そう》像《ぞう》していた。アメリカなんかは、もっと近代的なビジネスオフィスなのだろうが、日本ではどうしても、もっと暗い感じがある。
 そして——ここは正に克彦の想像通りの場所だった。
 所狭《せま》しと、所属タレントのポスターやら、スチール写真がベタベタ貼《は》ってあり、中にはいい加減古くなって、色のあせたものもある。
 家族写真なんかで、少し色の変ったのなんかは、それなりに味も出るが、アイドルのポスターで変色しているというのは、ただ侘《わび》しいだけだ。
 「この机ね。——あら!」
 と、朱子が声を上げた。
 「どうしたの?」
 返事を聞くまでもなかった。
 懐《かい》中《ちゆう》電灯の光が照らし出したのは——全部の引出しが一杯に飛び出し、中を引っかき回されている机の姿だった。
 克彦も加わって、三人でしばしポカンとそれを眺《なが》めていたが……。
 「誰《だれ》かが先に来たんだわ」
 と、夏美が呟《つぶや》くように言った。
 「——ここに何があったの?」
 と、朱子が訊《き》いた。
 「後で説明するわ。ともかく、もうむだかもしれないけど、一応私たちも中を調べてみましょうよ」
 「でも、ちょっとや《ヽ》ば《ヽ》い《ヽ》んじゃない?」
 と、克彦が言った。「これを明日出勤して来た人が見たら、当然一一〇番するだろ? そうなって、指《し》紋《もん》なんか採《と》られたら、まずいことになるよ」
 「そうか……」
 「調べて、その後、適当に片付けて行けばいいかも——」
 と、克彦は言いかけて、言《こと》葉《ば》を切った。
 「どうしたの?」
 「しっ!——聞いて。サイレンかな?」
 三人が息をつめて、耳を澄《す》ます。
 確かに、遠くからサレインの音が近づいて来るのだ。
 「出よう! ここへ来たら、僕《ぼく》らがやったと思われるよ」
 「でも、どうして警察が?」
 「きっと、ここを本当に荒《あ》らした奴《やつ》が、僕らの入って行くのを見ていて、一一〇番したんだ!——そんなことより早く!」
 三人は、あわてて、机の角にぶつかったり、椅子《いす》をけとばしたりしながら、事務所を出た。
 「その懐《かい》中《ちゆう》電灯は持って行きましょう」
 と、夏美が言った。「階段から転《ころ》がり落ちたくないものね」
 ——正に、危機一《いつ》髪《ぱつ》というところだった。
 三人がビルを出て、手近な露《ろ》地《じ》の中へ飛び込《こ》むのと、ほとんど同時に、パトカーがやって来たのである。
 「——どうなってるの?」
 と、夏美が息をつく。
 「ねえ」
 と、克彦が言った。「もしかしたら、永原さんの奥《おく》さんが、僕らの話を聞いて、自分で先に捜《さが》しに来たんじゃないかな」
 「永原さんの奥さんが?」
 事情の分からない朱子は、ただ面《めん》食《く》らうばかりである。
 「その可能性、あるわね。あの話をして、その直後に、永原さんの机が荒《あ》らされるっていうのは——」
 「偶《ぐう》然《ぜん》にしちゃ、できすぎだよ」
 「永原さんの所へ行ってみましょう。その間に、あなたには説明してあげる」
 と、夏美は朱子の肩《かた》をポンと叩《たた》いた。
 「夏美さん、どうしたの?」
 歩き出しながら、朱子が言った。
 「どうした、って、何が?」
 「凄《すご》く活《い》き活《い》きしてるわ。そんなあなた、見たの初めてよ」
 「そう?」
 「十七歳《さい》っていっても、いつも、あなた二十代の大人だったわ。今は本当に十七歳に見える」
 「サバを読んでるみたいじゃないの、それじゃ」
 と、夏美は笑った。「ともかく、急ぎましょ。もし、永原さんの奥《おく》さんが何か手に入れているとしたら……」
 「どうするだろうね?」
 「分からないわ」
 夏美は肩をすくめた。「こんな時間だから、タクシーで行くしかないわね」
 ——なかなか空車がなく、やっと拾って永原の家に向かったのは、三十分近くたってからだった。
 「——でも変だわ」
 と、夏美が言った。
 「何が?」
 「もし、あれが浜子さんのやったことなら、私たちがいることを警察へ知らせたのも浜子さん?」
 「そうか……。そこまでやりそうには思えないね」
 「もちろん、人は見かけによらないけど。でも、浜子さんは、そんなに悪い人じゃないと思うわ」
 三人は、タクシーを降りて、永原の家に向かって歩いていた。例によって、念のために少し手前で降りたのだ。
 「その角を曲がったところだったわね」
 と、朱子が言った。
 「そう。でも、浜子さんが無関係だったら、とんでもない時間に叩《たた》き起こすことになるわね」
 と、夏美は言った。
 三人が角を曲がろうとしたとき、車のライトが角の向こうから射《さ》して来た。
 「こっちへ来るよ」
 と、克彦が言った。
 三人が足を止める。タクシーが角を曲がって来た。
 「あ、中に——」
 と、克彦が言った。
 「浜子さんだわ!」
 と、夏美が声を上げた。
 座席に、確かに永原浜子が座っていたのだ。が、タクシーは角を曲がり切ると、一気にスピードを上げて走り去ってしまう。
 「こっちには気付かなかったよ」
 と、克彦が言った。
 「でも、おかしいわ。こんな時間にどこへ行くのかしら?」
 夏美が、小さくなって行くタクシーの灯《ひ》を見ながら首をひねる。
 「ちょっと!」
 克彦が声を上げると、走り出した。
 道路に、ミニバイクが停《と》めてあるのが目についたのだ。
 「これ、鍵《キー》がついたままだ! 乗れるよ! 追いかけてやる!」
 克彦は、エンジンをかけ、走り出した。
 「待って!」
 夏美が走り出す。バイクと並《なら》んで二、三歩駆《か》けたと思うと、克彦の後ろに飛び乗った。
 「夏美さん!」
 びっくりしたのは朱子だ。「無茶しないで!」
 「電話する! マンションに戻《もど》ってて!」
 走り去るバイクから、夏美の声が遠ざかりながら……。
 「——もう! 何やってんのかしら!」
 朱子は、呆《あき》れたように独《ひと》り言《ごと》を言って、ため息をついた。
 ——一方、タクシーをミニバイクで追いかけるという、かなり無理なことをやっている克彦と夏美は、タクシーにどんどん引きはなされながらも、赤信号や、一方通行に助けられて、何とかついて行った。
 「——一人乗りだよ、これ」
 と、克彦は、走らせながら言った。
 「乗り心地の悪いこと! それに、あなた、これを盗《ぬす》んだのよ」
 「黙《だま》って借りたんだよ」
 「同じことよ」
 夏美は笑って、「でも、見直したわ。あなたって意外に行動力があるのね」
 「『意外に』ってのは、傷《きず》つくなあ」
 「ほら! 右へ曲がったわ!」
 「分かってるって、任《まか》しとけよ。君の車だって、これくらいのバイクで、ちゃんと追いかけたんだぜ」
 「人のあと、つけ回すのは得意なのね」
 「どうも引っかかるなあ……」
 「いいのいいの、気にしない。——どの辺《へん》なのかしら?」
 「よく分かんないな。裏通りだからね」
 裏通りのおかげで、タクシーを見失わずに済《す》んでいるのである。
 これが大通りなら、タクシーのスピードにはとてもついて行けないところだ。
 「あら、ここは——」
 と、夏美が言った。
 「知ってるところ?」
 「見たことのあるような……」
 ——克彦としては、眼前のタクシーのテールランプを見失わないように必死である。ともすれば、あの憧《あこが》れのスターが、後ろから自分の体に腕《うで》を回して抱《だ》きついているという、夢《ゆめ》のような事実、そして、背中に、かすかに感じる、胸のふくらみ——そっちのほうへ気を取られそうになる。
 「——停《と》まったよ」
 克彦は、バイクをわきへ寄せた。
 タクシーは、二十メートルほど先に停まって、永原浜子が、料金を払《はら》って降りるところだった。
 「やっぱりそうだわ」
 と、バイクから降りて、夏美が言った。「スタジオよ、あそこ」
 「スタジオ?」
 「レコーディング用の貸スタジオだわ。今はもっと立派な所でやるけど、最初の二、三曲はここで録《と》ったんだもの、よく憶《おぼ》えてる」
 「こんな時間に開いてるの?」
 「場合によってはね。でも今は真っ暗だから、使ってないはずだわ」
 タクシーが走り去ると、永原浜子はスタジオの中へ入って行った。
 「開いてたんだな」
 「誰《だれ》かが中にいるんだわ、きっと。待ち合わせてたのよ」
 「——どうする?」
 克彦と夏美は顔を見合わせた。
 「中へ入っても、小さなスタジオだから、すぐ目につくわ。表で様子を見ていましょうよ」
 「よし」
 二人は、そのスタジオの前まで行くと、わきのほうへ寄って、待つことにした。
 「窓に明りが——」
 と、夏美は、二階の窓を指さした。
 カーテンの端《はし》から光が洩《も》れている。
 「あそこは何の部《へ》屋《や》だろう?」
 「さあ。——忘れたわ。たぶん、色々、機械が並《なら》んでるだけだったと思うけど」
 「こんな所で、誰と会ってるのかな」
 「さあ……。もし、あの永原さんの机を荒《あ》らして、何かを見付けたのが浜子さんだったとしたら、当の相手を呼び出したのかもしれないわ」
 「当の相手って……」
 「永原さんの恋《ヽ》人《ヽ》よ。殺す動機があったわけですものね」
 「そうか。——で、こんな人《ひと》気《け》のない所で——。でも、危いことするなあ」
 「そうね」
 夏美は肯《うなず》いた。
 ——何だか、これが現実の出来事のようには思えない。克彦は、夏美の横顔を、そっと眺《なが》めながら、思った。
 永原が殺され、夏美が殺されかけた。そして、千絵が誘《ゆう》拐《かい》されている。
 普《ふ》通《つう》なら、一つだけでも大事件だ。
 でも、何となく、現実感がない。まるでTVのサスペンス物にでも出演してるみたいだ。
 そう。——大《だい》体《たい》、今、こうして、星沢夏美と二人でいるってこと自体、まるで現実感がないのだから。
 「ごめんなさいね」
 と、夏美が低い声で言った。
 「え?」
 「あなたに、すっかり迷《めい》惑《わく》をかけたわ」
 「そんなこと……」
 「千絵さんのことも、心配ね。——何とかして、永原さんを殺した犯人を見付ければ、私、警察へ行くわ。そしたらきっと、千絵さんも帰って来る」
 「うん。あいつは大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だよ」
 兄らしい言《こと》葉《ば》とは言えなかったが、克彦は正直な気持を言った。千絵が知ったら、きっと兄をけとばしたであろう。
 「でも——兄《きよう》妹《だい》って、いいわね」
 と、夏美は言った。
 「君、兄弟はいないの?」
 ごく当たり前のように、克彦は訊《き》いていた。夏美の素《す》姓《じよう》を知りたい、といった心理とは無《む》縁《えん》だった。
 ごく身近な——いや、ついこの間知り合った女の子に、さり気なく、訊いてみた、という感じだった。
 夏美は、ほっと軽く息をついた。
 「いないわ。——いつも、寂《さび》しかった」
 それ以上、何か訊こうと思えば、できただろう。しかし、克彦はそうしなかった。
 夏美は、ちょっと笑った。
 「どうしたんだい?」
 「——あなたって、変ったファンね」
 「そうかな」
 「あなたを見たとき——変だったわね、あんな所で」
 「そうだね。君はベランダに立ってて——」
 「あなたは非常階段にいたわ。変な出会いね」
 「でも、ロミオとジュリエットに、ちょっと似てたよ」
 と、克彦は言った。
 「そう言えばそうだわ」
 と、夏美は微《ほほ》笑《え》んだ。「でも——あれは悲《ひ》劇《げき》よ」
 夏美は、ちょっと背伸《の》びをして、唇《くちびる》を軽く克彦の唇に触《ふ》れた。
 ——車も来ない。人通りもない。
 静かだった。克彦の心臓が、遅《おそ》まきながら、早《はや》鐘《がね》のように鳴り出して、辺《あた》りに響《ひび》き渡った(克彦にはそう思えたのだ)。
 突《とつ》然《ぜん》、激《はげ》しい音を立てて、あの、明りの洩《も》れていた二階の窓ガラスが砕《くだ》けた。
 「——何だろう?」
 「行ってみましょう!」
 夏美は駆《か》け出した。
 克彦があわてて後を追う。
 二人は、古ぼけたビルの中へと駆け込《こ》んで行った。
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