ともかく、どうも調子が狂《くる》うのだった。
別に楽器の話ではない。もっと事態は深刻だ。いや、深刻であるべ《ヽ》き《ヽ》だ。
でもねえ……。
千絵は、欠伸《あくび》をしながら、周囲を見回した。
どうやら、ここは港の倉《そう》庫《こ》の一つらしい。
——今は使われていない、古い倉庫なのだ。
確かに、人を誘拐して、閉じ込めておくにはうってつけである。
「もうちょっと、狭《せま》きゃね」
と、千絵は呟《つぶや》いた。
何しろ広い。——何をしまい込んでいた所なのか知らないけど、学校の体育館ほどもある、と言えば見当がつくだろう。
天《てん》井《じよう》がやたらと高いのも、よく似ている。
——これだけの広さに、千絵一人。
他《ほか》にあるものといえば、今、千絵のお尻《しり》の下で椅子《いす》がわりになっている段ボール。これは、食《しよく》卓《たく》もベッドも兼《か》ねるという、多目的段ボールである。
いや、もちろん、大きな普《ふ》通《つう》の段ボールなのだ。
それ以外には、ただ、何だかわけの分からない板きれだの、空《あき》箱《ばこ》が二、三個転《ころ》がっている。それしかない。
こんな所に閉じ込《こ》めてくれりゃ、運動不足にはなるまいが、しかし、何となく切《せつ》迫《ぱく》した感じがない。
「——お腹、空《す》いたな」
と、千絵は呟《つぶや》いた。
もう、朝になったようだ。屋根のほうには明りとりの窓があるので、中は明るい。
ナイフを突《つ》きつけられ、車へ押《お》し込められて、目かくしをされる、という辺《あた》りは、正統派の誘《ゆう》拐《かい》(?)で、ゾッとしながらも、ワクワクしたのだが、まず相手がこっちを夏美と間《ま》違《ちが》えているのが分かって面《めん》食《く》らった。
いいトシのおじさんではあるが、夏美の顔も知らないなんて! しかも誘拐すべき当人だというのに。
これでいっぺんに相手を馬《ば》鹿《か》にしてしまった。
ここへ入れられて、縛《しば》られるでもなし、猿《さる》ぐつわをかまされるでもなし。まあ、そんなもの、ほしくもないが。
さて、向こうがどう出て来るか。——千絵としては、兄がカッコ良く救いに来てくれるとは、期待していなかった。
大《だい》体《たい》、どこにいるかの手がかりもまるでないのだ。見付けろっていうほうが無理だろう。
問題は、いかにここがだだっ広くても、外ではないから、家に帰るわけにいかないということだ。
そして、人違《ちが》いであることがいつ分かるか。分かったときに、向こうがどうするか。
誘《ゆう》拐《かい》した犯人は、ただ頼《たの》まれたか、命令されただけだろう。とすれば、その依《い》頼《らい》主《ぬし》が、きっとここへやって来る。
そのときが危機である。——顔を見てしまったのだ、殺せ、ということになるかもしれない。
そう。いくら調子が狂《くる》って、のんびりしていても、誘拐は誘拐なのだ。
「気を緩《ゆる》めちゃいけないんだわ」
と、千絵は肯《うなず》いた。「でも、お腹空《す》いたな……」
ガタン、ガタン、と凄《すご》い音がした。
扉《とびら》がゆっくりと開いている。
何しろ倉庫が大きいから、扉だってそれに合わせて背が高い。開けるのも一苦労だろう。
「おい!——朝飯だ!」
ハアハア息を切らしながら、その男は言った。
まだ四十くらいだろう。それにしちゃ体力ないのね。運動不足なんだわ、と千絵は思った。
「お腹ペコペコよ」
「仕方ねえだろ。店が開いてなかったんだから!」
「何だ、ホカホカ弁当なの? お茶ない? 私、お茶なしじゃ食べられないの」
「ぜいたく言うな」
男は渋《しぶ》い顔で言った。
「ま、いいわ」
千絵は、例の段ボールの上に腰《こし》をかけて、弁当を食べ始めた。
「どうせ、スターなんてのは、うまいものを食い慣れてんだろう。まあ、一週間の辛《しん》抱《ぼう》だ。我《が》慢《まん》しろよ」
「いいのよ。スターってね、いつも楽屋とか、スタジオの隅《すみ》で天《てん》丼《どん》やカツ丼ばっかり食べてんだから」
「ふーん、そんなもんか」
「そうよ。見かけほど派手なもんじゃないんだからね」
と、千絵は、分かったようなことを言って、「おじさん、子供いるの?」
と訊《き》いた。
「どうしてだ?」
男は、なぜかギョッとした様子。
「娘《むすめ》がいたら、タレントやスターにきっと憧《あこが》れるわ。でも、だめよ。ろくなことにならないんだから」
「お前……親はいるのか」
「お母さんだけ」
「親父《おやじ》さんは?」
「死んだわ。働き盛《ざか》りに、心臓をやられて……。可哀《かわい》そうだった。家族と会社のためだけに、一生を費《つい》やしたんだもの。自分のしたいことをする間もなく……。どうしたの?」
千絵は面《めん》食《く》らった。
相手が顔を歪《ゆが》めて、怒《おこ》るのかと思えば、泣き出したのである。
「うるせえ……。放っといてくれ!」
——どうやら根っから単純な男らしい。
千絵は、ペロリとお弁当を平らげた。
さあ、これでお腹のほうは大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》!
扉《とびら》は、開いたままだ。重いから、いちいち閉めていられないのだろう。
お茶も飲めないんじゃ、やっぱり誘《ゆう》拐《かい》されてるってのも不便だな、と千絵は思った。
いっちょ、逃《に》げ出すか。
「ねえ、おじさん」
「何だよ」
まだグスンと、鼻をすすり上げている。
「トイレに行きたい。ここ、トイレないの?」
「ああ。——困ったな。ここにゃないんだ」
「じゃ、どうするの?」
「その辺《へん》でやれよ」
「やあよ! 女の子にそんなひどいこと——」
「仕方ねえだろ。外へ出すわけにゃいかねえんだから!」
千絵はふくれっつらになって、
「じゃ——いいわよ。その隅《すみ》でするから。でも、あっち向いてて! 目をつぶってよ!」
「ああ、分かったよ」
「絶対よ! ギュッと目をつぶって、いいって言うまでそうしてるのよ」
「いいとも」
男は、千絵のほうへ背を向けた。
「目をつぶった?」
「ああ、つぶってるぜ」
「じゃ、そのままよ。——絶対ね」
千絵は、足音を殺して、出口のほうへ。
「——早くしろよ」
「はいはい」
千絵は、出口の近くまで来ると、一気に駆《か》け出した。
男も、やっと気付いた。
「おい!——待て! こら!」
誰《だれ》が! 千絵は外に出ると、全速力で駆け出した。
もう、朝も十時ぐらいにはなっているだろう。
港の外《はず》れらしい。同じような倉《そう》庫《こ》がズラリと並《なら》んでいるが、人影はなかった。
「待て! こら!」
男の声がする。千絵が走りながら振《ふ》り向くと、男は走るのも弱いようで、どんどん遅《おく》れている。
これなら楽々逃げ切れる! 千絵は一段と足を早めた。何しろ、学校ではリレーの選手なのだ。
少し走って、また振り向いてみて、びっくりした。——あの男が、途《と》中《ちゆう》に倒《たお》れているのだ。
千絵は足を止めた。
男は、もがいている。ただ苦しいというだけではないようだ。
心臓の発《ほつ》作《さ》でも起こしたのだろうか?
「構うこっちゃないや!」
行っちゃえ!——千絵はまた走り出した。
少し行って、止まる。また走って——止まる。
それからまた、走り出す。ただし、逆《ぎやく》の方向へ、だった。
男は、地を這《は》うようにして、悶《もだ》え苦しんである。——芝《しば》居《い》なんかじゃない。
真っ青で、冷《ひや》汗《あせ》が顔一杯に浮《う》かんでいる。
「どうしたの? 大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」
大丈夫なわけがない。男は、喘《あえ》ぎ喘ぎ、
「薬を……」
「え? 薬?——薬って、どこにあるの?」
「こ、この……ケースに……」
見れば、銀色の、シガレットケースみたいなのが、少し先の地面に落ちている。それを拾うこともできないらしい。
「待って!——これね? 何粒《つぶ》服《の》むの?」
「二つ……二つだ……」
「二つ、ね。——はい、ほら、口を開けて——ちゃんと開けて!」
世話が焼けるんだから!
千絵は、男の頭をかかえると、口を開けたところへ、錠《じよう》剤《ざい》を二つ、落としてやった。
「——どう? 入った?」
男は、肯《うなず》いた。
二、三分すると、少し苦痛がおさまったらしい。ぐったりと、地面に寝《ね》てしまう。
「——心臓? かなりひどいわねえ」
と、千絵は傍《そば》にしゃがみ込《こ》んで、言った。「お医者さんに行ったほうがいいんじゃないの?」
「そんな——金はねえよ」
と、男がかすれた声で言った。「この薬で、何とか——押《おさ》えられる」
「でも、段々、薬も効《き》かなくなるよ。人間、死んだらおしまいじゃない」
男は、千絵を見た。
「どうして——逃《に》げなかったんだ」
「だって、放っといたら、死んじゃいそうだったもの。——もう大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》みたいね」
千絵は立ち上がった。「じゃ、改めて、逃げるわ」
振り向いた千絵は、目の前に誰《だれ》かが立っているのに気付いた。
いきなり下腹を殴《なぐ》られる。
ウッと呻《うめ》いて、苦痛に体を折った。
膝《ひざ》をつく。——痛みが、重く、重く、のしかかって来るようで……千絵は、気を失って地面に伏《ふ》せた。
「あら、おはよう」
と、母の雅子に言われて、
「おはようございます」
と、夏美は頭を下げた。
「ちょっと出かけて来ますから、適当にしていて下さいね」
「はい」
「千絵はまだ寝《ね》てるのかしら。——いい加減に起きろと言って下さいな。それじゃ、私、ちょっと——」
「行ってらっしゃい」
雅子が、いそいそと出かける。
夏美は、憂《ゆう》鬱《うつ》な顔で、ため息をついた。
「——お袋《ふくろ》、出かけた?」
二階から、克彦が降りて来た。
「ええ、今ね」
「じゃ、千絵がいないこと、まだ気付いてないんだな」
「気になるわ、私……」
「でも——今さら言えないよ。誘《ゆう》拐《かい》されて三日もたつんだ、なんて」
「そうね……」
夏美は、台所に来ると、テーブルについて、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。
「ああいう母親も珍《めずら》しいな。子供の姿を三日間見なくても気にしないんだから」
「そんなこと、言うもんじゃないわ」
と、夏美は、ちょっときつい目で克彦を見た。「お母さん、何か気付いてるのかもしれない」
「まさか! だったら、何とか言うさ」
夏美は黙《だま》って首を振《ふ》った。
克彦は新聞を広げた。
「——何か出てる?」
「君のことは出てるよ。〈いぜんとして行《ゆく》方《え》不《ふ》明《めい》——一大イベントはどうなる? タイムリミットまであと四日!〉ってね」
「浜子さんのことは?」
「何も——ああ、記事の中に出てる。まだ意識不明のまま、だってさ」
「じゃ、死んではいないのね。良かった!」
と、夏美は息をついた。
「それにしても……怖《こわ》いね、何だか」
——二人が、あのスタジオへ飛び込《こ》んだとき、中はいきなり真っ暗になった。
そして、誰《だれ》かが、二人を突《つ》き飛ばすようにして、逃《に》げて行ったのである。
やっと明りを点《つ》けて、二階へ上がった二人が見付けたのは、血まみれになって呻《うめ》いている永原浜子だった……。
もちろん、すぐに一一九番し、五分としない内に救急車が駆《か》けつけた。
浜子が運ばれて行くのを、二人は、物《もの》陰《かげ》から見ていた……。
「——やっぱり、君の言った通りだと思うな」
と、克彦が言った。
「え?」
「浜子さんは、何か見付けたんだよ、事務所で。それを相手につきつけて、永原さんを殺したのはあなただろう、と問い詰《つ》めた。それで——」
「たぶん、ね」
と、夏美は肯《うなず》いた。「永原さんを殺したのと同じ犯人でしょうね、やっぱり」
「そういうことになるな」
「私を突き落とそうとしたのは?——あれが分からないの」
「うん……。別の犯人なんだよな、永原さんを殺したのとは」
「動機、犯人、どれも不明か……」
と、夏美は呟《つぶや》いた。
「——これから、どうする?」
「少なくとも、永原さんを殺した犯人は、永原さんの恋《ヽ》人《ヽ》だった男、っていう可能性が強いわけでしょ。そこから探《さぐ》って行くしかないわ」
「どうやって?」
「朱子さんに働いてもらうしかない。だって、そういう関係者だったら、私がどんな格《かつ》好《こう》していたって、すぐにばれてしまうもの」
「そうだね」
と、克彦は肯《うなず》いた。「——ねえ、ちょっと待ってくれよ」
「何?」
「僕の知ってる記者で、Cタイムスの仁科って人がいる。君の担当なんだけど」
「知らないわ」
「うん、ちょっと変ってて、あんまりやる気のない人なんだ。でも記者だから、そういう噂《うわさ》話には詳《くわ》しいかもしれない」
「そういう記者ばっかりだと助かるわ」
と、夏美は微《ほほ》笑《え》んだ。
「待っててくれ。仁科さんと話してみる。君はここにいるといいよ」
「何もかもあなたに任《まか》せるわけにはいかないわ」
「いや、新聞も、君のリサイタル絡《がら》みで、毎日、君の記事を載《の》せてるし、プロダクションは懸《けん》賞《しよう》金《きん》つきで君を捜《さが》してる。出て、下手《へた》に見付かったら、大変なことになるよ」
克彦はCタイムスへ電話を入れてみた。
「——仁科です」
「あ、僕《ぼく》、本堂克彦です」
「やあ、君か」
「呑《のん》気《き》ですね。星沢夏美のことで、飛び回ってるのかと思ってましたよ」
「本当ならね」
「また、さぼってんですね?」
「人聞きの悪いこと言うなよ」
と、仁科が笑って言った。「格下げさ。クビになるのも遠くない」
「——冗《じよう》談《だん》でしょう?」
「本当だよ。この間、彼《かの》女《じよ》が病院から脱《ぬ》け出したとき、ちょうどいなかっただろう。あれで、うち一社だけ早い版が間に合わなかったんだ。それで、上のほうは、すっかりおかんむりさ。まあ、無理もないけどね」
「じゃ、僕《ぼく》らのせいで……」
「いや、そんなことはないよ。気にしない、気にしない。ところで、何か用かい?」
「あの——ちょっと、殺された永原って人のことで、聞きたいことがあるんですけど」
「いいよ。じゃ、社へおいで。どうせヒマで困ってんだ」
「じゃ、これから行きます」
——克彦は出かける仕《し》度《たく》をした。
「気の毒《どく》ね、その人」
と、夏美は言った。
「本人があんまり気にしてないんだ。あれだから、出《しゆつ》世《せ》できないんだね。じゃ、僕、出かけて来る。すぐ戻《もど》るよ」
「ええ」
「君はのんびりしてて」
克彦が、弾《はず》むような足取りで、出かけて行く。
夏美は、玄《げん》関《かん》の鍵《かぎ》をかけると、居間へ入って、ソファに身を沈めた。
「このままじゃ……放っておくわけにいかない……」
と、呟《つぶや》くと、電話帳に手をのばした。
「ええと……何番だったかしら」
捜《さが》し当てた番号へ、かける。——すぐに交《こう》換《かん》手《しゆ》が出た。
「Mミュージックでございます」
「社長の坂東さんをお願いします」
「どちら様で?」
「私、愛人の一人です」
「は……」
向こうが、呆《あつ》気《け》に取られている。——ややあって、坂東が出た。
「もしもし? 誰《だれ》だい、一体?」
「坂東さんですか。星沢夏美です」
一《いつ》瞬《しゆん》、向こうが沈《ちん》黙《もく》した。
「——君か! 驚《おどろ》いたな!」
「そんなにびっくりなさるのは、どうしてですか?」
「だって当然だろう。君は——」
「あなたが誘《ゆう》拐《かい》しているはずだから?」
「——何の話だね」
「ごまかさないで。私と間《ま》違《ちが》えて誘拐した子を、帰してやって下さい。何の関係もない子なんですから」
「何のことか分からんね」
「そんなはずはないでしょう。リサイタルを潰《つぶ》せば、私のプロは倒《とう》産《さん》します。そんな手を平気で使うのは、あなただけですわ」
「ずいぶん悪党に見られたもんだね」
「本当に悪党ですもの」
「手きびしいな」
と、坂東は笑った。「——しかし、もし私が君の言うように、誰《だれ》かを君の代《かわ》りに誘拐しているとしたら、君はどうするつもりなんだね?」
「誘拐は重罪ですよ。違う子をさらっても仕方ないでしょう」
「そんなこともあるまい」
「というと?」
「もし、君がリサイタルに出たら、その子を殺す。それなら君は出られまい。同じことだよ、君をさらうのと。——もっとも、これは仮定の話だ。それを忘れずにね」
坂東は、フフ、と笑った。
「——どうすれば、その子を返してもらえますか」
「そうだね。もし私が犯人なら、君と引き換《か》えなら、と言うだろうね」
「それはできません。永原さんを殺した犯人を、自分で見付けるまでは」
「では早く見付けるんだね。また電話してくれ。こういうゲームも面《おも》白《しろ》いもんだ」
坂東は静かに言って、電話を切った。
——夏美は、受話器を置くと、深々と息を吐《は》き出した。
そして、しばらく考え込《こ》んでいたが、やがて何かを決心した様子で立ち上がった。
千絵の、できるだけ可愛《かわい》い服を借りて、メガネをかけ、髪《かみ》をバサバサにする。
「これでいいわ」
と呟《つぶや》くと、夏美は、玄《げん》関《かん》を出て、明るい戸外へと出て行った。
足取りは早く、しっかりしている。