「——どうなるんでしょう」
と、安中が言った。
「俺《おれ》に訊《き》くな」
社長の松江がジロリと安中をにらむ。「俺はこのマンションから、一歩も出られん。出りゃ、集中攻《こう》撃《げき》だ」
「しかし、どこへ消えちまったんでしょうね?」
「俺に訊くな!」
松江が怒《ど》鳴《な》った。アルコールも入っているのである。
「リサイタルのほうはどうしますか」
「やるしかない」
「準備の規模です。万一のことを考えて、少しでも被《ひ》害《がい》を小さく食い止めるようにしては?」
「どうするんだ?」
「セットとか、バンドの編成とかを小さくするんです。あんまり節約にはなりませんが、いくらかは……」
「むだだ」
と、松江は手を振《ふ》った。「どうせ倒《とう》産《さん》するなら同じことだ。万に一つ、夏美が現われる可能性に賭《か》けて、最初の予定通りにしておけ!」
「分かりました」
「全《まつた》く、ろくなことがない」
と、松江が舌打ちする。「永原の女《によう》房《ぼう》まであんなことになるんだからな! 具合はどうなんだ?」
「まだ意識不明です。刺《さ》されて、出血多量ってことで……」
「犯人はまだ挙《あ》がらんのだろう」
「そのようです」
「警察は何をやってるんだ!」
と、松江は八つ当たり気味に言った。「もし、永原の女房が死ねば、それもうちにはマイナス材料になるぞ」
「そうですね。——同じ病院にいますから、家内にも様子を訊《き》かせています」
と、安中は言った。
「で、——夏美を見付ける手だては?」
「当たってみたんですが……。もともと、素《す》姓《じよう》のよく分からん娘《むすめ》でしたから」
「怠《たい》慢《まん》だぞ! トップスターの過去もよく知らんとは!」
「申し訳ありません」
と、安中が首をすぼめる。
「都内のホテルは?」
「全部、手を回してあります。ボーイの、かなり上のほうの者に話をつけておきました。それらしい客がいたら、通報してくれるはずです」
「そうか。——病院はどうだ? 偽《ぎ》名《めい》で入院しているかもしれんぞ」
「大きな病院には当たってみました。しかし、個人の病院までとなると、とても……」
「うむ。えらい数だろうな。——分かった。ともかく、後は天に祈《いの》るだけだ」
松江は、グイとウィスキーをあおった。
「——早野さん」
と、安中貴代は声をかけた。
「あら、奥《おく》さん。ご気分はいかがですか?」
看護婦、早野岐子は、にこやかに言った。
「ちょっと、屋《おく》上《じよう》へ出たいんだけど」
「構いませんよ。たまにはいい空気に当たられたほうが」
「ついて行ってくれる?」
「そうですね。今ならいいでしょう」
と、早野岐子は肯《うなず》いた。
——二人は屋上へ出た。
「風が気持いいこと」
と、早野岐子が帽《ぼう》子《し》を取って、息をついた。
「早野さん」
と、貴代は言った。
「何ですか?」
「いつか言ってた——お金のことだけど」
「ええ。急ぎませんよ。でも、忘れたころじゃ困りますけど」
「半分ずつにしてよ」
と、貴代は言った。「一度に百万も引き出すと、主人がうるさいの」
「結構ですわ」
「そう」
貴代は、ホッと息をして、「じゃ、今夜、半分渡すわ。何時にあけるの?」
「十時です」
「じゃ——十時半に、ここで」
「屋《おく》上《じよう》で?」
「見られちゃまずいでしょう。私も困るわ、もし主人に知れたら……」
「いいですよ。雨天順延ってことはないでしょうね」
早野岐子は、声を上げて笑った。「——じゃ、どうぞごゆっくり」
戻《もど》って行く早野岐子の後ろ姿を、貴代は、厳《きび》しい目で、じっと見つめていた。
風が、貴代の髪《かみ》をかき乱して行く。
「すみませんね、仁科さん」
と、克彦は言った。
「いいんだよ」
仁科は、のんびりとコーヒーを飲みながら、
「どうせ、いつまでもいる気じゃなかったんだ」
——Cタイムスのビル、一階の喫《きつ》茶《さ》店《てん》である。
「だけど、仁科さん、行くところ、あるんですか?」
「おい、いやなことを訊《き》くなよ」
「すみません」
「ま、行くあてのないのは、事実だけどね」
「じゃあ、大変じゃありませんか」
「僕は独《ひと》り者だし、何とか食って行けるさ」
仁科は肩《かた》をすくめた。「それで——何を訊きたいんだって?」
「実は——永原を殺した犯人のことなんですが」
「何だ、犯人捜《さが》しかい? 星沢夏美を捜してるのかと思ったよ」
「彼《かの》女《じよ》なら——」
と言いかけて、あわてて、「つまり——ともかく、彼女の疑いを晴らすのが先決だと思ったんです。そうすれば、彼女もきっと姿を現わすと——」
「それはそうだな。しかし、警察も一《いつ》向《こう》に、容《よう》疑《ぎ》者《しや》を割り出せないらしいじゃないか」
「それは、夏美さんを疑ってるからじゃないんですか?」
仁科は、ちょっと考えて、
「いや、それがそうでもないらしいんだ」
と言った。
「というと?」
「いや、なまじ、担当を外されたもんだから、却《かえ》って、警察担当の奴《やつ》なんかが、気楽に話してくれるんだよ。どうやら、門倉って刑《けい》事《じ》は、夏美をシロだと思ってるらしい」
「そりゃ結構ですね。でも——」
「そうなんだ。理由が何なのか、さっぱり分からない。つまり、他《ほか》に、犯人の目星をつけているんじゃないかと思うんだが、一向にその気配もない、というんだ」
「大《だい》体《たい》変った刑事ですものね」
と、克彦は肯《うなず》いた。
「うん、そうらしい」
と言って、仁科は不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに、「どうして、そんなこと、知ってるんだい?」
「いえ——噂《うわさ》ですよ、噂」
克彦は、あわてて言って、すぐに続けた。「ちょっと、他のファンから聞いたんですが、永原って人は、男《ヽ》の《ヽ》恋人がいたんだとか」
仁科は目をパチクリさせて、
「よく知ってるね!」
と言った。「まあ、この世界じゃ、珍《めずら》しい話ではないけどね」
「そういうことが——つまり、ややこしい感情のもつれが、動機になったんじゃありませんか?」
「うん、可能性はあるね。警察も、その事実は知らないんじゃないかな。永原には、ちゃんと奥《おく》さんもいたしね」
「永原の恋人って、誰《だれ》だったんでしょう? 噂《うわさ》とか、ありませんでした?」
「さあ……。誰だったのかなあ。——ともかく、永原自身、そう目立つ人じゃなかったし、スターのことならともかく、そのマネージャーのことじゃ、あんまりみんな関心を抱《いだ》かないよ」
それもそうだ。
「じゃあ、全然知られてなかったんですか」
克彦は、ちょっとがっかりして、言った。
「うん。もし知ってるとすれば、当の星沢夏美だろうね」
「彼《かの》女《じよ》が? でも、スターがマネージャーの私《し》生《せい》活《かつ》まで知ってますか?」
「あの二人は、ただ単純に、マネージャーとスターというだけじゃないんだよ」
克彦は、戸《と》惑《まど》った。
「どういう意味ですか、それ?」
「うん……。これは、みんな知らないことなんだけど——」
「教えて下さい」
と、克彦は身を乗り出した。
「いいよ。——僕《ぼく》みたいな、もともとと《ヽ》ろ《ヽ》い《ヽ》記者が、どうして、星沢夏美の担当になったか、知ってるかい?」
「いいえ」
「あのプロダクションは、彼女が来るまで、全く無名の、小さなプロダクションだった。僕はそのころの大スターの取材はやらせてもらえず、専《もつぱ》ら小物のスターやタレントの取材をしていた。そのとき、永原ともちょくちょく会ってたんだ」
仁科は、冷《さ》めたコーヒーを一口飲んで、顔をしかめた。「——あれは気のいい男だった。もちろん、小さいプロダクションなんかだと、自分の所のタレントの記事を書いてもらいたいから、僕みたいな記者にも愛《あい》想《そ》がいい。でも、永原は、もともと人がいいという感じで、下心がないだけ、こっちも気が楽だったんだ」
「それで——」
「うん。ある晩、永原に呼ばれてね、あるホテルへ行った。そこのコーヒーラウンジへ行くと、永原はもう来て、待っていた……」
「やあ、仁科さん、すまんね、忙《いそが》しいのに」
「いや、どうせ大した仕事もないんだ。構いませんよ」
と、仁科は言って、永原と向かい合った席に、腰《こし》をおろした。
コーヒーを頼《たの》んで、仁科は、もう一つ、空《から》になったアイスコーヒーのグラスがあるのに気付いた。
「もう一人?」
「うん。今、ちょっとトイレに行ってるんだ」
永原は、何だか落ちつかない様子だった。
「——どうなんですか」
と、仁科は言った。「危いって噂《うわさ》、昨日《きのう》も聞いたけど」
「うん」
永原は肯《うなず》いた。「実際、危いんだ。まあ、松江社長と安中さんが駆《か》け回って、何とか切り抜《ぬ》けたけどね」
「そりゃ良かった」
「しかし、ここで何とか一人、スターを出さないと、もううちはだめだよ」
「大変ですね」
と、仁科は首を振《ふ》った。「僕《ぼく》も大したことはできないけど、もし力になれることがあれば、言って下さい」
「ありがとう!」
永原は、暑くもないのに、額の汗《あせ》をハンカチで拭《ぬぐ》った。「実は——今日来てもらったのは、そのお願いなんだ」
「そうですか。でもねえ……」
仁科は頭をかいて、「おたくのタレントたちじゃ、僕が記事を書いても、編集長に握《にぎ》り潰《つぶ》されちゃうんですよ。何かこう——いいネタはありませんか。少々脚《きやく》 色《しよく》してあっても構わないから」
「実はね、新人を一人、売り出そうと思うんだ」
仁科は、ちょっとびっくりした。
「新人を? 今からですか?」
「うん、今うちにいる子たちでは、とても見《み》込《こ》みがない。一か八《ばち》か、新しい子に賭《か》けてみようということでね」
「それはいいけど……。人気が出るまで、持ちますか?」
「時間との勝負だよ。その子が成功するか、そうなる前に、うちが潰《つぶ》れるか」
「——どんな子なんです?」
「今、来るよ。この子は将来性があると思うんだ」
「誰《だれ》が見付けて来たんです? 松江社長ですか?」
「いや——」
永原は、ちょっと照れたように、「私が見付けたんだよ」
と言った。
「永原さんが?」
仁科は驚《おどろ》いた。新人をスカウトして来るなどということを、およそやらない人間だと思っていたのだ。
「うん。——なかなかいい、と思ってね。でも、これは内《ない》緒《しよ》だ。私が見付けて来たなんて言うと、それだけで、会ってもらえそうもないからな」
「そんなことはないでしょうけど……。僕《ぼく》は、永原さんの見付けた子なら、喜んで応《おう》援《えん》しますよ」
「ありがとう! そう言ってもらえれば——」
と言いかけて、永原は言《こと》葉《ば》を切った。「ああ、戻《もど》って来た」
仁科は振《ふ》り向いた。
その少女は、ほとんどうつむいたまま、仁科に挨《あい》拶《さつ》した。
「よろしく」
と、仁科は言った。「名前は、何ていうんだい?」
少女は、やっと聞き取れるほどの声で、言った。
「星沢夏美です。よろしくお願いします」
「——じゃ、星沢夏美を見付けて来たのは、永原さんだったんですね」
と、克彦は言った。
「そう。そして、大当たりだった。僕《ぼく》がずっと彼《かの》女《じよ》の担当だったのは、最初に彼女のことを書いたのが、僕だったからさ」
「知りませんでした」
「そりゃそうだよ」
と、仁科は笑った。「その後、彼女はあれよあれよという間にスターになった。もう、僕が書かなくても、どの記者も彼女を追いかけるようになったんだ。もう、彼女は僕のことなんか、憶《おぼ》えてもいまい」
「それで、か……」
「ん? 何が?」
「いえ、何でもありません」
と、克彦は言った。
なぜ、夏美が、あんなに熱心に永原を殺した犯人を捜《さが》しているのか、克彦にもやっと分かったような気がしたのである。
夏美にしてみれば、永原は、自分を見出し、スターにしてくれた恩人なのだ。その永原を殺したと疑われるのはたまらないだろうし、犯人を自分で見付けたいと思うのも無理はない。
「——僕で、何か力になれることがあるかい?」
と、仁科がいった。
電話が鳴って、朱子は、受話器を素早く取った。
「はい!——あ、安中さんですか」
「どうだ?」
「どうだ、って、夏美さんのことですか?」
「他《ほか》に用があるわけないだろう」
「私に当たらないで下さい」
と朱子は言い返した。「何も連《れん》絡《らく》はありませんよ」
「そうか。——もう日がないんだ。何か思い出したことでもあれば、言ってくれ」
「ええ、よく分かってます」
朱子は、ちょっとうんざりしながら、言った。「何かあれば、すぐ連絡しますから。——ええ」
受話器を置いて、
「全《まつた》くうるさいんだから!」
と、文句を言う。
朱子とて、夏美のことは心配だ。特に、永原浜子の後を追って行って、その後、浜子は刺《さ》されて重傷を負った。
それから、夏美からの電話はない。
どうしたのだろう?——あの、ファンだという男の子——何とかいったけど、朱子は名前を忘れてしまった。本田とか——本間だったかしら?
克彦という名前は憶《おぼ》えているのだが。——ファンクラブの名《めい》簿《ぼ》を調べてみたが、それらしい名前はない。
「仕方ないわね。本当に!」
と、朱子は苛《いら》立《だ》って、呟《つぶや》いた。
肝《かん》心《じん》の名前を忘れてしまった自分にも、一《いつ》向《こう》に連《れん》絡《らく》してくれない夏美にも、腹を立てているのである。
あの克彦という若者だって、夏美は信用しているようだったが、怪《あや》しいものだ。味方のふりをして、夏美を罠《わな》にかけることだって、充《じゆう》分《ぶん》に考えられる。
悪いことばかりを思い付いて、朱子は余計に苛々するのだった。
「ご飯でも食べに行こう!」
いつ、電話がかかるかと、ずっと部《へ》屋《や》から出ないで、出前を取っていたのだが、動かないので、消化不良になりそうだ。
急いで食べてくれば、せいぜい二十分だ。その間に電話がかかることもあるまい。
じゃ、ともかく、急いで——と、財《さい》布《ふ》をつかんで、ついあわてていた。
足で、電話のコードを引っかけていたのだ。
「キャッ!」
と声をあげて引っくり返る。
しかし、本当に悲鳴を上げたかったのは、電話のほうかもしれない。はね飛ばされて、二、三メートルも宙を飛び、木のテーブルに叩《たた》きつけられたのである。
「いやだ! もう……」
朱子は財《さい》布《ふ》を叩きつけた。
苛《いら》々《いら》していると、ろくなことはない。ため息をついて、電話をたぐり寄せたが……。
「ひどい!」
ぶつかったショックで、受話器がパカッと割れてしまっている。——いや、外れるようにできているのかもしれないが、それにしても……。
「使えるのかしら?」
いじくり回していると、何やら、黒い、四角い小さな箱《はこ》のような物が落ちた。——何だろう?
朱子は、それを拾い上げた。部品にしては、どこにもつないでいないのがおかしい。
しばらくそれを眺《なが》めていた朱子は、
「まさか……」
と呟《つぶや》いた。
これと似たような物を見たことがある。同じではないが、しかし……。
もし、これが盗《ヽ》聴《ヽ》機《ヽ》だったら?
ここへかかって来る電話を、誰《だれ》かが盗《とう》聴《ちよう》している。——なぜ?
それははっきりしていた。夏美から、連《れん》絡《らく》が来るのを、キャッチしようとしているのだ。
しかし、誰に、こんな物が仕《し》掛《か》けられただろう? この部《へ》屋《や》へ入れるのは、安中や松江社長だが、彼らは朱子が夏美からの電話を、隠《かく》しているとは思っていまい。
では……そうか!
「坂東だわ!」
坂東はここへやって来た。そして、いとも愛《あい》想《そ》良く、朱子に、力を貸してくれと言っていた……。
あのとき、もしその気があれば、こんな物をセットするのは簡単だったろう。そして、自分の部屋で受信していればいいのだ。
ふと、朱子は、夏美が妙《みよう》なことを言っていたのを、思い出した。
夏美と待ち合わせていたことを、誰かにしゃべらなかったか、と訊《き》かれたのだ。それはつまり、誰かがそれを知っていた、ということではないか。
夏美は、それ以上、何も言おうとしなかったが、しかし、何かあったのだ。でなければ、あんなことは訊くまい。
「あの人……」
坂東に、朱子は猛《もう》烈《れつ》に腹を立てた。——そう、もしかしたら、坂東が夏美をどこかにとじ込《こ》めているのかもしれない!
朱子は、決然として、部《へ》屋《や》を出た。
坂東は六階にいる。もちろん〈坂東〉という表《ひよう》札《さつ》が出ているわけではないが、どの部屋なのか、見当はついていた。
六階の、そこ以外の部屋の人なら、たいてい顔を見知っていたからだ。普《ふ》段《だん》、あまり人の出入りしていない一部屋、あれが坂東の部屋に違《ちが》いない。
朱子は、階段を六階まで降りた。
エレベーターが見える。——あわてて足を止めた。当の坂東が、廊《ろう》下《か》をやって来るところだったのだ。
坂東の後には、何だかパッとしない、中年男がついて来る。
坂東はエレベーターのボタンを押《お》すと、
「いいか、あの娘《むすめ》から、住所を訊《き》き出せ」
と言った。「甘《あま》いことじゃ、口を割らないぞ。少々おどかしてやってもいい」
「はあ」
「体に傷《きず》をつけると後が面《めん》倒《どう》だ。なに、小生意気な娘だが、しょせん子供だ。ちょっと怖《こわ》がらせてやれば、何でもしゃべる」
エレベーターが来た。坂東は、もう一度、
「いいな、今度へまをやったら、放り出すぞ」
と、その男をにらんで、エレベーターに乗った。
エレベーターの扉《とびら》が閉まると、中年男は、困ったような顔で息をついた。
そして、廊《ろう》下《か》を戻《もど》って行く。
坂東が言っていた、「あの娘《むすめ》」というのは誰《だれ》のことだろう?
坂東の言い方からして、夏美ではないようだが、そうはっきりも言い切れない。ともかく調べてみる必要がありそうだ。
それにしても、「おどかしてやれ」とか、「体に傷をつけないように」とか、まるで、やくざのセリフだ。朱子は腹立ちで頬《ほお》を紅《こう》潮《ちよう》させていた。
あの男、坂東に雇《やと》われているらしい。
朱子は、そっと後をつけて行った。やはり、見当をつけていた部屋へ入って行く。
あそこへ、どうにかして入れないだろうか?
朱子は、ちょっと考え込《こ》んだ。
「——無理かなあ……」
でも、やってみるしかない。そうだとも!
こっち側の部《へ》屋《や》は、ベランダがつながっている。うまく行けば……。
朱子は、坂東の隣《となり》の部屋のチャイムを鳴らした。若い奥《おく》さんがいて、ときどき朱子も立ち話をする。
「——はい」
ドアが開く。「あら、あなた……」
「八階の者です」
「ええ、知ってるわ。何か?」
「ちょっと、上から洗《せん》濯《たく》物《もの》を飛ばしちゃって。こちらのベランダ辺《あた》りに落ちたみたいなんですけど、取らせていただけません?」
と、朱子は言った。
「あら、そう? 気が付かなかったけど。——いいわよ。じゃ、捜《さが》してみて」
「すみません、お邪《じや》魔《ま》します」
と、朱子は会釈《えしやく》して、中へ入った。
ベランダへ出る。もちろん、何も落ちているわけはない。朱子は、仕切の向こうへ身を乗り出した。
昼間だというのに、カーテンが閉まっている。
「——どう、見付かった?」
「いえ、お隣《となり》にあるみたい」
「あらそうなの。——隣って、変なおじさんがいるのよ。私、マンションの回覧なんか持って行くけど、凄《すご》く感じが悪いの。諦《あきら》めたほうがいいわよ」
「ここから入ってみます。ちょっと取って来ればいいわけだし」
「ええ? 危いじゃない! もし落ちたら、一巻の終りよ。——じゃ、いいわ、私、頼《たの》んでみてあげる。いらっしゃいよ」
気のいい奥《おく》さんで、朱子を連《つ》れて、隣の坂東の部《へ》屋《や》の玄《げん》関《かん》へ。チャイムを鳴らすと、
「誰《だれ》だ?」
と、さっきの男の声。
「あの、隣の者です。ちょっと洗《せん》濯《たく》物《もの》がお宅《たく》のベランダに——」
言い終らない内に、ドアが開いた。
「こっちの知ったことじゃねえや!」
と、あの男が、かみつきそうな顔で言った。
「そんな言い方ってないでしょう! 同じマンションに住んでる者同士なのに——」
「うるせえ! ともかく俺《おれ》は関係ねえ! 二度と来るな!」
ドアが、叩《たた》きつけられるように閉まった。
「——何でしょうね、本当に」
と、奥《おく》さんが本気で怒《おこ》っている。
「すみません、ご厄《やつ》介《かい》かけて」
と、朱子は謝《あやま》った。
「いいのよ。本当に頭に来るわね」
「——やっぱり他《ほか》に方法、ないと思うんです」
と、朱子は言った。「ベランダ伝いに行ってみます」
「そう? じゃ、用心してね」
「はい。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です」
朱子も、運動神経には自信があった。隣《となり》の部《へ》屋《や》へ戻《もど》ると、
「あの——お願いがあるんですけど」
と、朱子は言った。
「何かしら?」
「もし、私がなかなか戻《もど》って来なかったら、下のガードマンと一《いつ》緒《しよ》に見に来てくれません?」
「いいわよ。でも、何だか、ギャングの本《ほん》拠《きよ》にでも忍《しの》び込《こ》むみたいね」
それに近いんですよ、と朱子は心の中で、呟《つぶや》いた……。