「小百合!——小百合!」
その声は、肌を切るような冷たい風と一緒に、聞こえて来た。
君原小百合は、もちろん自分が呼ばれたのだということを、知っていた。
小百合という名が、決して学校で一人だけでないことは、よく分っていたが、呼んでいる声が誰のものかを、ちゃんと分っていたのだから、間違いようはない。
それでも、小百合が歩みを緩めなかったのは、意地悪からではなかった。いや、そうだったのだろうか?
「ね、小百合! 待ってよ」
と、追いついて来た松《まつ》永《なが》法《のり》子《こ》は、小百合の肩をつかんだ。「帰っちゃうの? ねえ」
小百合は、鞄を、湯タンポか何かみたいにかかえ込んだ。
「寒いじゃない、こんな所で立ち話じゃ」
と、言った。「帰って夕ご飯の仕度しないと」
「だって——どうしても調べてかなきゃいけないのよ。ねえ、お願い。急ぐから」
と、法子は、小百合のオーバーの袖《そで》をつかんで、引きちぎりそうだ。
「ちょっと、破かないでよ。法子のとこみたいな金持じゃないんだからね、うちは」
「あ、ごめん! ごめんね」
と、法子はまたあわてて手を離す。
「どうして、いつも私を引張り出すの? 誰かいるでしょ、他《ほか》にも」
と、小百合は言ってやる。
分っているのである。自分がついて行かなきゃだめなのだってことが。でも、小百合はわざと迷惑顔をして見せる。
「そんなこと言って……。意地悪なんだから!」
と、法子は口を尖らす。
「ええ、私は意地悪よ。だから他の親切なお友だちを捜しなさいよ」
と、あげ足を取ってやると、
「ごめん! ねえ、そんなの本気じゃないのよ! ね、小百合、お願い」
と、法子は拝み倒さんばかり。
ま、これぐらいでOKするのが、今日の寒空の下ではいいタイミングかもしれない。
「分ったわよ、ついてってあげる」
「やった! やっぱり小百合って優しい!」
と、腕なんか組んで来るので、
「ベタベタ、くっつかないでよ。いつも男の子にからかわれてるでしょ」
小百合は顔をしかめて見せる。
「いいじゃない! 寒いから、こうやってる方があったかいし。それに、男の子はもうみんな帰ったよ」
仕方ない。まるで「恋人同士」って感じで二人は校門を出て、駅の方へと向う代りに、市立図書館へ足を向ける。
「——寂しい道ね、ここ」
と、法子は、並木道を通り抜けながら、もう同じことを何十回言っただろう。
もちろん、小百合だって同感だ。特に、二月の半ばを過ぎて、少し日は長くなったが、寒さは一段と深く、体の芯《しん》まで食い込んで来る。この並木道だって、新緑のころ、枝一杯に目に鮮やかな緑が爆発するころになれば、同じ二人で——あるいは一人きりで——下校時に歩いていれば、少しも「寂しい道」ではないのだ。
今は、葉もすっかり落ちて、裸になった木々が、枝を寒さに身震いするようにうち鳴らしているばかり。——左右に、まだ家らしい家も少なく、風のわたる空地と、さびついた鉄条網で囲った〈建設予定地〉が交互に並んでいるこの辺りは、小百合たちの通う高校の先生たちも、
「一人では通らないように」
と、年中呼びかけている「危険地域」なのだ。
でも——もちろん、まだ明るいのだし、市立図書館までは歩いて七、八分にすぎない。
「ねえ」
と、法子が言った。
「何よ?」
「ついてってくれるから、帰りに、何かおごる。何がいい?」
小百合は黙って肩をすくめる。法子が、
「何でも、小百合の好きなもんでいい」
と、念を押す。
「じゃ、駅まで出てから決める」
「うん!」
——帰って夕食の仕度をしなきゃ、というさっきの小百合の言葉とは矛盾することになるのだが、法子は、もちろんそんなささいな点を気には止めないのである。
まあ、普通に考えれば……。小百合の方がずっと得をしていることになる。
図書館までついて行って、中で法子が世界史のノートのために調べものをしている間、雑誌でも読んで時間をつぶし、待っているだけでいいのだ。それで帰りには駅前で、何でも好きなものをおごらせる。
小百合は、こうなることを、ちゃんと知っていて、初めは渋って見せたのだ。——これも、小百合と法子の二人にとっては、いわば、「ゲーム」みたいなものなのである。
——図書館に入ると、法子は、
「じゃ、小百合、雑誌、見てる?」
「うん」
「三十分ですむと思うわ。——この前みたいにコピーの機械が壊れてなきゃいいんだけど……」
法子は、利用カードを出して、奥へ入って行く。小百合は、カード不要の〈雑誌・新聞〉の部屋へ入って行った。
中には、時間を持て余したような老人が三人、座っているだけだった。その内の二人は、よく見ると眠っている。
小百合は、適当に空いた椅《い》子《す》に鞄を置くと週刊誌を取って来た。
静かなものだ。ページをめくる音が、隣の部屋までも聞こえそうである。
——でも、本当に妙だわ、と小百合はいつも思う。
法子が小百合に頼って来る。——この関係は、中学校に入ってすぐ、二人が知り合ったころからのものだ。
はた目には、それこそ「怪しい関係」と見られるくらい、法子は、小百合にくっついて来る。
しかしどう考えても——あらゆる点で、法子は小百合よりも目立つ存在なのである。
松永法子は、もちろん小百合と同じ十六歳だ。——いや、正確に言うと、小百合はまだ十五歳で、あと一週間すると、十六になる。
法子は三か月前に十六になっているから、年齢でも法子の方が少し上ということになっている。
法子は美人である。中学校の文化祭で〈ミス・中学〉に選ばれたりして、それでいて他の女の子から、ねたまれることもない。一番むくれたのは、当人だろう。
しかし、客観的に見て、法子はきりっとした表情の、それなりに「非の打ちどころのない」というタイプの美人なのだ。
それに比べると小百合は——まあ、比べる相手が悪すぎるが——まあ良くても「並」の女の子である。自分では結構魅力があると思っているが、自慢じゃないけど、この年齢《とし》までラブレターの一つももらったことがない。
法子の方は、靴箱にラブレターが入っていない日の方が少ない(というのは、少しオーバーだが)ほど。
成績にしたって、そうである。法子は常に中学三年間、学年のトップだった。小百合から見たって、そうガリ勉型ではなく、夜ふかししてもいないようだが、それでいて、よくできる。——世の中にゃ、こんな人間もいるんだ、と小百合ははなから諦《あきら》めていた。
加えて、法子の家は相当なお金持である。——法子が私立の学校へ入らなかったのは、たぶん両親がいないからで、それにいくらかは、小百合と離れたくない、と親代りの祖父に哀願したせいだろう。
両親がなく、祖父に育てられている、というそのこと。——そもそも小百合と法子を近付けたのは、その「共通点」だったのだろうか?
いや、親しくなった時、二人は互いにそんなことなど知らなかったはずである。今となっては、もう思い出せないが……。
ともかく、法子の祖父、松永彰《しよう》三《ぞう》が、大変な財産家で、お屋敷と呼ぶのがぴったりの家に、法子と、二人のお手伝いさんと暮しているのに比べ、小百合の方の祖父は、元警察官で、今は年金で細々と暮している身。
それだけではとても小百合と二人で生活してはいけない。小百合が亡くなった両親と住んでいた家を、一階二階、別々に人に貸して、そこの家賃で暮しているのである。
だから、当然のことながら、お手伝いさんなどはいないので、小百合は家事一切、自分でやらなくてはならない。
もっとも、祖父の君原耕《こう》治《じ》はずっと家にいるので、掃除ぐらいはやってくれる。
——小百合と法子がいかに正反対の立場にいるか。これだけ並ぶと、却《かえ》って気にもならなくなるのかもしれないが、それにしても、二人の間では、いつも法子が頼り、小百合が頼られる、という仲なのだから……。
人と人との間は、不思議なものである。
——あらかた週刊誌を見終って、小百合は新聞のつづりを持って来て、机の上に広げた。
小百合がよく新聞を読むのは、やはり祖父の影響だろう。——祖父は、いつも社会面での、色々な事件の記事を見ながら、小百合に、自分の手がけた事件について、話してくれる。
君原耕治は、長く、第一線にいた刑事なのだ。そんな時の祖父は、小百合の目にも、目が輝いているように見える……。
ただ——このところ、小百合は少し心配である。
「心配って、何が?」
と、法子が訊《き》く。
「うん……」
今日はおソバ屋さんに入って、とろろそば。——これぐらい食べたって、もちろん夕食はちゃんと食べられる。
法子の方も、小食ではないのだが、どっちかというと肉食。今はざるそばを食べていた。
「具合、悪いの、おじいさん?」
と、法子が言った。
「そうじゃないけどね」
と、小百合は首を振った。「ここんとこ、何か考え込んでるの。無口になってね」
「へえ。——小百合が心配かけてるんじゃないの?」
「この、孝行娘が?——孝行孫、か」
「そんな言葉、あったっけ?」
「今朝は珍しく、新聞見て、話してたけど」
「今朝、何か出てた?」
「ほら、警官殺した犯人が——」
「ああ。逮捕に行った刑事さんが、間違って部下を撃ったって……。TVのニュースでも見たわ」
と、法子が肯《うなず》いた。
「あの人、おじいさんの知ってる人だったのよ」
「撃った人? 撃たれた人?」
「撃った方。——ベテランで、凄《すご》く優秀な刑事なんだって」
「でも、とっさに部下の若い人を、犯人と間違えたんでしょ?」
「おじいさん、信じられない、って十回ぐらいくり返してたかな」
と、小百合は言った。「——おいしかった! お茶下さい」
と、店の奥へ呼びかける。
「人間だもの、間違いはあるよね」
法子も、そばを食べ終えていた。「——あの事件、この近くじゃなかった?」
「そうよ。ほら、公会堂の裏の方」
「ああ。じゃ、ちょっと離れてるね」
「でも、この町よ。——警官殺しの他にも、一人か二人、殺してるらしいって。そんなのとさ、スーパーとかで買物してる時、会ってるかもしれないんだよね」
「怖いね。——おつゆが手についちゃった。ちょっと洗って来る」
法子が立ち上って、店の奥のトイレに行くと、小百合はついでくれた熱いお茶を、ゆっくりと飲んだ。
二階のテーブルについたので、窓からは駅前のロータリーが見わたせる。
そろそろ夕方で、電車が着く度に、駅の改札口から吐き出されて来る人の数がふえて来る。駆け足でバスに並ぶ人たち。
こんな所でも、走ってなきゃ生きていけないなんて……。見ているだけでも、くたびれてしまいそうだ。
スッと、何かが小百合の視界をかすめて飛んだ。ギクリとした。まるでぶつかりそうなほど、近くに感じたのである。
そんなわけは、もちろん、ない、ガラス窓の向うを、鳥か何かが横切ったのだ。でも——何だかずいぶん大きな鳥だったような……。
少なくとも、スズメやツバメじゃない。もっと大きな鳥だ。どんな色か、どんな形の羽をしていたのか、一瞬のことで、見えなかったけれど。
——法子が戻ったら、もう出よう。
夕食のおかずも買って帰らなくてはいけない。——小百合は、店のマッチを、手の中でいじっていた。箱を引っくり返すと、書きなぐったような字が読めた。——〈死ね〉とあった。
何、これは?
小百合は、急に頭を見えない紐《ひも》できつく締めつけられるような気がして、目をつぶった。
死《ヽ》ね《ヽ》。——誰が? 誰に死ねと言ってるんだろう?
そんないたずら書きを……。目をあける。マッチには、何も書いてなかった。
引っくり返し、何度も見直した。——店の名の印刷と、下手なそばの絵。他には何もない。
今のは……。目がどうかしたんだろうか。
そう。——別に、誰のことも、死んでほしいなんて思っていないんだから。
そうかしら? もし、死んでほしい人がいるとしたら?
自分でも知らない内に、殺したいほど憎んでいる人間がいたら……。
そう。人間には潜在意識ってものがあるのだ。自分が、心から尊敬しているつもりの人間を、無意識の世界では、憎んでいるということだってある。
あの、誤って部下を撃った刑事も、心の奥底で、若い刑事をねたんでいたのかもしれない。その若さ、屈託のなさを……。
小百合は頭を振った。何を考えてるんだろう、私は。——おじいさんが知っているという、そんな年輩の刑事の心の中を、どうして想像することなんかできるだろうか。
しかし、本当に、一瞬のことだったが、小百合はその刑事が引金を引いた瞬間を、「体験」したような、そんな気がしていたのだ。
「ごめんね」
と、法子が戻って来て言った。「行こうか?」
「——うん」
小百合は肯いた。
「じゃ、先に出てて」
と、言いながら、法子は自分の鞄からお財布を出した。
同じ制服のブレザー、同じ学生鞄。でも、あの財布の中身は、ずいぶん違うはずだ。
いくら入ってるんだろう? 一万円? 二万円?——おじいさんに、手を出して、
「おこづかい」
と言えば、いくらでものせてくれるんでしょ、あなたは。
私の財布は、「おこづかい」の財布じゃない。家計を預かっている財布なんだ。
「出ててよ、すぐ行くから」
と、法子に言われて、小百合は、
「うん。鞄、持っててあげる」
「ありがとう」
——どうして、そんなことでお礼を言うのよ、いつもそうしてるじゃないの。
支払いは法子。だから、せめて鞄ぐらいは私が持ってて、待っててあげる。
先に出ててって? ご親切なことね。お金出してるのを、私が見て気にしちゃいけないからって……。貧乏人はすぐひがむからね。お金持は大らかで、寛大に施してくれるのね、あなたみたいに。
「——じゃ。帰ろうか」
と、出て来た法子が、小百合の手から、自分の鞄を受け取る。「ねえ、明日、土曜日ね。うちに遊びに来ない、帰りに?」
いつも、おごった後はすぐに法子が家の話を始める。——分ってるのよ。私がいちいち、
「ごちそうさま」
とか、言うのがいやなのね。
おごっておいて、何か私に悪いことをしたような気持でいる。何てお人《ひと》好《よ》しなの!
でも、お金があれば、人はたいていお人好しになれる……。
「そうね。おじいさんに訊いてみる」
と、小百合は言った。「もしかしたら、庭の手入れを手伝わなきゃいけないかも」
「うん、分った。——うちのおじいさんも、会いたがってるよ、小百合に」
そうでしょうね。貧しい哀れな娘に、お恵みを、ってね。
「——ねえ」
法子が、駅の方へ歩きながら、小百合の腕を取って来た。
「うん?」
「おじいさんが言ってるんだけど——」
どうして、そんなにべたべたするのよ! 吐き気がするわ!
「何を?」
「ほら、おじいさんと小百合、お誕生日が同じでしょ、しかも四年に一回だし。今度、お宅のおじいさんも一緒に、うちでお祝いの会をやらない?」
いつまで、私はあなたの、その親切ぶったお嬢さん顔と付合ってなきゃいけないのかしら? どうして同じお金持の仲間たちと、付合わないの?
「ええ? だって……」
「大げさじゃなくてさ。一度会いたい、って前から言ってるの。うちのおじいさん、小百合のおじいさんに。孫の話でもしたいんじゃないの」
何て可愛い笑顔!
でも——いつかは、その笑顔が私じゃなくて、どこかのつまらない男の子に向けられるんだわ。
その時には、さぞかしあなたの偉いおじいさんが嘆くでしょうね。
「じゃ、話してみるわ。二十九日に?」
「そう。夕ご飯だけなら、そう時間もとらないし。——お酒、飲むんだっけ、小百合のおじいさん?」
「嫌いじゃないけど、体こわしたから、少しだけなら」
「分った。もしOKだったら、大好きなものとか、教えてね」
でも——そうよ、私だって、好きな男の子が現われる。その時にはいくらあなたがべたべたして来たって……。
「——どうしたの?」
小百合が立ち止ってしまったので、法子は振り返った。
小百合の目には、まるで昨日見た光景のように、鮮やかに見《ヽ》え《ヽ》た《ヽ》のだ。
小百合の「恋人」が、法子を一目見て、見とれてしまう場面が。
小百合と法子。——どっちを選ぶか、誰が見たって分り切ってる。
でも、誰が! 誰がそんなこと、させるもんですか!
もし——もし、私の恋人を奪ったりしたら、あんたを殺してやるから!
「——小百合、どうかした?」
と、法子が心配そうに声をかける。
小百合は激しく頭を振った。法子がびっくりした。
「大丈夫なの?」
「何でもない。ちょっと……めまいがしただけ」
小百合は、大きく息をついて、周囲を見回した。
いつも通りの、駅前の光景。
でも——私は、今、どこに行ってたんだろう?
「気分悪かったら、どこかで休む?」
と、法子の方が青くなっている。「ごめんね、私が引張り回して」
「そんなことないわよ」
何てことを考えたんだろう? 法子を殺してやろう、なんて。
小百合は、はっきり、自分の内に、憎しみが燃え立った、その余熱を感じ取っていた。
ぞっとした。——今まで考えたこともなかったのに。法子のことを、憎むなんて。
それとも……考《ヽ》え《ヽ》て《ヽ》い《ヽ》た《ヽ》の《ヽ》だ《ヽ》ろ《ヽ》う《ヽ》か《ヽ》?
これは運命だ、と男は思った。
同じ制服のブレザーを着た二人の少女と、出会ったのは。
もちろん、出会ったといっても、向うは何も知らない。見知らぬ一人の男が、駅の方から歩いて来て、足を止めたからといって、誰が気にするだろうか。
しかも、男と少女たちとは、十メートル近くも離れていたのだ。——それでも、男は、自分を引きつける、逆らいがたい力を感じ取っていた。
人は誤解している。俺が少女を襲う、と思っている。そうではない。少女が、俺を招いているのだ。
俺はただ、炎の中へ、焼き尽くされるために飛び込んで行く蛾《が》に過ぎない。その都度俺は死に、そして生れ変るのだ。
「——もう平気。行こう」
と、一人の少女が言って、二人は一緒に歩き出した。
どうやっても引き裂くことのできないような二人というのが、いるものだ。あの少女たちも、正にそれだった。
しかし、これも運命だ。
男は、踵《きびす》を返して、少女たちの後から歩き出した。裂くことのできない二人を、裂くことになるとしても、それは仕方ないことだ。
——すべては、運命なのだ。