「ええ、そこに、誰かが隠れてたんです」
と、少女は肯いて、植込みを指さした。
「なるほど」
林《はやし》田《だ》刑事は、肯いて、その小さな公園の中へと入って行った。「——この辺り?」
「もっと植込みの方へ寄って……。今にも道へ出て来るかと思うくらいでした」
林田刑事は、かがみ込んで、その辺の地面を見ていた。
「うん。——確かに誰かが潜んでいた跡があるね」
二月の朝である。晴れてはいたが、それだけに強烈な寒さだった。
「で、君はすぐそばに来るまで、気付かなかったんだね?」
と、林田は訊いた。
「そうです。帰りで、急いで歩いてたし」
と、少女は言った。「ちょうど、反対側から自転車に乗った人が来たんです。それで、その人は出て来るのをやめたんだと思います」
「分るよ」
「その時に、ガサッ、て植込みが動いて……。ギクッとしました。で、そのまま急いで家まで、駆けたんです」
「君の家までは?」
「あと五、六十メートルです」
「そうか。良かったね、ともかく」
「母に、話したんです、今朝。そしたら、やっぱり警察の人に言った方がいい、って」
「そう。その通りだよ。このところ、婦女暴行事件が四、五件もたて続けに起きてるしね。同じ犯人かどうかは分らないが、失敗すると、こういう奴は、ますます苛《いら》々《いら》して、犯行をくり返すもんだ。これが、逮捕のきっかけになるかもしれない」
「あの——」
と、学生鞄を両手で持った少女は、落ちつかない様子で、「もう行っていいですか? 学校に遅れちゃうんで」
「ああ、構わないよ。ありがとう」
林田は、そう言って微笑んで見せた。
「じゃ、失礼します」
ちょっと頭を下げて、少女は足早に歩き出す。林田は、ふと思い付いて、その後ろ姿へ、
「帰りが遅くなる時は、誰かに迎えに来てもらうんだよ」
と、呼びかけた。
少女が振り返って、
「母にもそう言われました!」
と、大声で答える。
少女の笑顔は、この寒い朝を溶かすほど明るく見えた。——バスが来るのが見えて、少女は鞄をわきにかかえて、駆け出して行った。
「——思い過しですかね」
と、若い刑事の佐《さ》川《がわ》が、欠伸《あくび》しながら、言った。
「いや、そうじゃない」
林田は首を振った。「見ろ。——足跡がいくつかある」
佐川がやって来て、しゃがみ込む。
「本当だ。かかとが食い込んだ跡ですね」
「残念ながら、手がかりというほどはっきりはしてないが。それに見ろよ。植込みのこの辺の枝がいくつも折れてる。あの女の子の話は本当だ」
「襲いかかってりゃね。そこへ通りかかった自転車の誰かが、捕まえてくれたかもしれませんね」
佐川の言葉に、林田はちょっと顔をしかめた。
「めったなことを言うな。たとえ未遂に終っても、襲われたなんて恐怖は、女の子にとっちゃ当分消えない。何もなくて良かったんだ」
「はあ」
佐川にはピンと来ないようだ。
林田はもう五十に手の届く年齢で、娘が二人いる。結婚も遅かったので、どちらもまだ十代である。他人事ではなかった。
「目撃者はあんまり期待できませんね」
と、佐川は言った。「この寒いのに、表を眺めてる物好きはいませんからね」
「そうだな。しかし、一応、この公園が見える範囲の家を当ってみよう」
「はい」
と、佐川は歩き出そうとして、「あれ?」
「何だ」
「その植込みの中で、何かキラッと光ったんです、今」
「植込みの中?」
「ええ……。その辺です。何かありませんか?」
枝の間を探ると、何か固い物が林田の手に触れた。つかんで引張ると、細かい枝ごと、手の中に握られていたのは……。
「腕時計だ」
「へえ、どうしてそんな所に?」
「——そいつのだぞ、きっと。この中へ手を突っ込んでいて、枝が引っかかったんだ。止める所が外れて、そのまま手首から抜けちまったんだろう。——よく気が付いたぞ」
「偶然ですよ」
と、佐川は少し照れくさそうだった。「どこの時計です? 何だか高そうだな」
「高級品だ。こんな物、そう売れるもんじゃあるまい」
林田は、腕時計の裏ぶたを見て、ヒューッと口笛を吹いた。「見ろ! 名前が彫ってある!」
「うまく行きすぎですね」
「全くだな。しかし、こんなこともたまにゃあるさ」
林田は名前を読んだ。「松永彰三……。六十歳の祝いに、か」
「すぐ当らせます」
自分が見付けたせいか、佐川が張り切って、言った。
「ああ。会社員なら重役クラスだろうな、少なくとも」
「そんな偉いのが、十六歳の女の子を狙《ねら》うんですかね」
「男は男さ」
林田は、肩をすくめて言うと、「行こう」
と、佐川を促して歩き出した。
寒さも、あまり気にならなくなっていた。
今日はみんなおかしいわ。
松永法子は、首をかしげた。——土曜日というのは、学生なら誰でも多少は浮かれているものかもしれない。でも、今日は特別だったのだ。
「——小百合」
やっと教室へ戻って来た小百合を目にとめて、法子は、駆けて行った。「どこに行ってたの?」
「行ってちゃ悪い?」
「そんなこと言ってないじゃないの」
「じゃ、いいでしょ? まだお昼じゃなかったっけ」
「あと二時間よ。大体、お昼になったら、今日はおしまいよ」
「そうか! 人生は楽しい!」
と、口笛など吹いている小百合に、法子はすっかり面食らってしまった。
「ね、小百合、今日はどうする?」
「今日? 何だっけ」
「昨日、訊いたじゃない。今日、帰りにうちへ寄らないかって」
「そうだっけ」
「忘れちゃったの?」
「で、何て答えた、私?」
「おじいさんと庭の手入れがあるかもしれない、って。——どうなの?」
「おじいさん、出かけてる、朝から。夕方まで帰らないと思うわ」
「じゃ、寄るわね」
「うん。——寄ってやるか」
「偉そうに!」
と、法子は笑った。「夕ご飯は?」
「だめ、買物あるし、夕方には失礼する」
「分ったわ。じゃ、お昼を家で、ね?」
「うん」
始業のチャイムが鳴ると、小百合は、軽くステップなど踏みながら、自分の席へ戻って行く。
「やっぱり、変だ……」
と、法子は首をかしげた。
——今朝も、マチ子さんの様子が変だったし。
ともかく、いつも朝から元気一杯にしているマチ子さんが、今朝はほとんど口もきかずに、黙って朝食の用意をするだけだった。
顔色も青ざめて、目がはれぼったかったのは、泣いたからじゃないだろうか。
どうかしたの、と訊いてみたが、マチ子は、
「早く食べないと遅れます」
と、言っただけだった。
何かあったのは確かだ。でも——何だったのだろう?
法子には見当もつかなかった。
それに比べると、小百合の方は朝からびっくりするくらい「舞い上ってる」。
よほどいいことでもあったのだろうか? でも、昨日、何かありそうだという話は、全然聞いていなかったし。
「——分んないわね」
と、法子は諦《あきら》めて呟いたのだった……。
——四時間目は体育だった。
みんなが体操着に着替えて、ゾロゾロと運動場へ出る。
都心の学校に比べれば、この町ではまだ充分に広い運動場を確保する土地の余裕があった。もっとも、女の子たちにとっては、広くても狭くても大して違いはない。どうせ大したことはやらないのだから。
「——今日は走り幅飛びの測定をやる」
と、体育の先生が言うと、
「ええ——」
「疲れるよお!」
といった声が一斉に上った。
何をやると言っても、反応は同じである。先生の方も取り合わず、
「早く準備しろ! 体育当番!」
と、大声を出す。
高校生の女の子たちの叫び声を上回るには相当大きな声を出す必要があるのである。
男女に分れて、出席番号順で飛ぶことになった。
「やだなあ」
と、法子は顔をしかめた。「小百合、得意でしょ」
小百合が唯一、法子に勝てるのが「体育」の時間。法子の場合は、やはり育ちの良さがひびいていると言えるだろう。
真《ま》面《じ》目《め》だし、精一杯やるのだが、はた目には、何ともおしとやかに映るのだった。
「今日はいい記録が出そうな気がする」
と、小百合はウーンと伸びをして、二、三度膝《ひざ》の屈伸をくり返した。
「おお寒い」
朝の内からみると、少し雲が出て、風が吹いていた。女の子たちは足を出しているから、寒いのも当然だ。
「先生、寒い!」
と、不平を訴える生徒もいた。
「俺のせいじゃない」
と、先生もやり返す。「寒かったら、少し走ってろ。体が固いところで、いきなり飛んだら、肉離れを起すぞ」
「そしたら、先生、家までおぶって帰ってね!」
「馬鹿、甘えるな」
女の子たちはキャーキャーとにぎやかなこと。散々先生に言われて、やっと出席番号の順に砂場で走り幅飛びが始まった。
「小百合、頑張って」
と、法子は手を振って見せた。
小百合は割と前の方だ。
「見ててよ、鳥のように飛んで見せる」
と、小百合は言った。
「大体、今日は舞い上ってるからね、小百合は」
法子が冷やかす。
——鳥のように飛んで? 鳥のように……。
小百合は、ふと、何《ヽ》か《ヽ》を思い出した。鳥?
鳥のように……。どこかで見たんだわ。
鳥《ヽ》の《ヽ》よ《ヽ》う《ヽ》な《ヽ》何《ヽ》か《ヽ》を《ヽ》。
でも——何だったろう? どこで見たの? 思い出せない。
「——よし、次、君原!」
先生の声で、小百合は我に返った。
「はい!」
「返事はいいな。その元気で飛んでみろ」
「はあい」
小百合は助走の体勢に入った。——鳥のような何か。
頭を振った。そんなこと、いつまで考えてたって、仕方ない。
今日、六時。——そう。今大切なのはそれなんだ。
関《ヽ》谷《ヽ》征《ヽ》人《ヽ》。
小百合は走り出した。踏み切りの線に向って、スピードを上げる。力一杯、大地をけった。小百合の体が宙を飛ぶ。
ワーッと声が上った。
「凄《すご》いぞ! 断然トップだ!」
先生が、珍しく興奮した声を出した。
一瞬、その少女の姿は、双眼鏡の視界から消えてしまった。
びっくりして双眼鏡で追いかける。——凄い勢いで飛んだな、あの子は。
飛び上って、喜んでいる。他の女の子たちが拍手をしたり、歓声を上げる。
拍手の音、甲高い声は、男の耳にも届いて来た。もちろん、車の窓が開いているからこそである。
——そうだ。確かに、あれは昨日見かけた二人の女の子の内の一人だ。
もう一人は、どこかにいるのだろうか? 同じクラスでなければ、いないわけだが。
もう少し見ていよう。
男は、ちょっと双眼鏡をおろして、車の周囲を見回した。誰かが見ているのではないかと、ふと思ったのだ。
しかし、大丈夫だった。何かの倉庫らしい建物の裏手で、車が停っていてもおかしくないし、そこで少し昼寝でもしたところで、誰も不思議に思わない場所だった。
——ゆうべ泊ったホテルで、男はたまたまあの二人と同じ制服の女の子を見かけたのである。学校の名前を聞いて、場所を見付けるのに苦労はしなかった。
おそらく前にもこのそばを通っているはずで、漠然とではあったが、記憶が残っていたのだ。
金網越しに運動場が望める場所で、しばらく双眼鏡で覗いている内に、生徒たちが出て来た。——少女たちのすべすべした白い足を見て楽しんでいる内に、ふと、昨日見たのとよく似た少女を目に止めたのだ。
そんなにうまく行くものか、と思ったが、しかし、これではっきりした。少なくとも一人は確かめた。
次、また次と、少女たちが飛ぶ。しかし、さっきの子と比べると、どの子も、歩いて来てピョンと飛んでいるだけ、という感じだ。
照れたように笑って、しかし、それはそれなりに、少女らしい表情ではあった。
次の子——。スッと立ち上った。その少女の横顔を見た時、男の心臓は鼓動を早めた。
あの子だ! 間違いない!
横顔の、整った美しさはどうだろう! 眼《まな》差《ざ》しのひたむきさ、きつく結んだ唇の、まるで赤ん坊のような柔らかな印象。そして形のいい鼻。
緊張した様子で、スタートの姿勢を取り、少し頭を下げて、キッと前方を見据える。
走り出した。スピードが……。しかし、固くなりすぎたのかもしれない。少女は、うまく踏み切ることができなかったようだ。
ちょっと上を向いて、目をつぶり、頭を自分の手でポンと叩《たた》いている。そしてたぶん、あのもう一人の少女の方へ向いて、ニッコリと笑って見せた。
男は身震いした。——あの少女だ。
あの子以外にはいない。たぶん、これからも。
これまでの女の子たちは、この一人の少女に行き着くための、いわば「踏み段」だったのだろう。——もう、決して見逃しはしない。
男は双眼鏡を下ろして、バッグの中へしまい込んだ。時計を見る。
今日は土曜日だ。学校は昼で終り。
この体育の授業が、あと三十分くらいだろう。
男はここに車を置いて行こう、と決めた。持って行かれる心配はない。
学校からの帰り道を、尾行して、あの少女の家を突き止めるのだ。焦ることはない。
家さえ分れば、後はいつでもあの少女を捕まえることはできる。
そうか。——それなら、まだ見ていてもいいんだ。
男は再び双眼鏡を取り出して、ピントを合わせた。——今度はすぐにあの少女を捉《とら》えることができた。
白い足が、まぶしいようだ。軽やかに駆け、笑っている。
まだ、世の中の闇《やみ》も汚れも、本当には知らない。人の裏表や、狂気や、死も、知らない……。
そのままでいてくれ。何も知らないままで。
男は祈るように、思った。——僕が、お前を、き《ヽ》れ《ヽ》い《ヽ》な《ヽ》ままで眠らせてあげるのだから……。
君《きみ》原《はら》耕《こう》治《じ》は、後悔していた。
来るのではなかった。——そうなることは、半ば分り切っていたのではないか。
宮《みや》入《いり》の名を出したことが、却《かえ》って逆効果になったのは、君原にとっても、誤算だった。
もう、署の中では、宮入の名はタブーになり、過去の人間として、葬られてしまっているのだ。
前もって電話をしておいたのに、三十分以上も待たされた。——それも、何か事件で忙しい、というのなら、君原も何時間でも待っただろう。
しかし、そうではなかった。その若い刑事は、悠々と遅刻して現われたのだ。
「どうも。——君《きみ》山《やま》さんだっけ?」
欠伸しながら、その刑事は言った。水《みず》口《ぐち》という刑事で、宮入が、たぶんこの男なら話を聞いてくれる、と言ったのだ。
しかし、当ては外れた。
水口は、君原を単なる暇な年寄り——あれやこれや、思い付きを警察に持ち込んで来るマニアだと思っていることを、隠そうともしなかったのだ。
「二月二十九日ね。——なるほど」
と、一応は肯いて見せたものの、「うるう年に恨みを持っている奴の犯行かな」
と笑ったりした。
君原も、現役時代、確かに「犯罪マニア」とでも言うべき連中に、ずいぶん迷惑した覚えがある。
何か事件があると、すぐに、
「私は真相を知ってる」
と、手紙や電話をよこす手合だ。
忙しい時に、そんな連中の相手をするのは確かに腹が立つし、苛々もする。しかし、君原の場合は元刑事なのだ。
それでも、水口のような若い刑事から見れば、「過去の遺物」であることに変りがないのか……。
「ともかく、四年に一度の割で起っていることは——」
と、君原が言いかけた時、
「おい、水口」
と同僚が声をかけて来た。「電話だ」
「分った。——ま、ご苦労さんでした。話は憶《おぼ》えときますよ」
水口はそう言って、立つと、行ってしまった。——君原は、肩を落とし、首を振ると、新聞のコピーを封筒へしまって、上《うわ》衣《ぎ》の内ポケットへ入れた。
苛立ちと無力感が、君原の内に渦巻いていた。人間、もう自分が何者でもない、と思い知らされるのは、辛《つら》いことである。
「——ああ、なるほど」
水口が、電話でしゃべっている。「名前は?——松永彰三。——はいはい。聞いたことがありますね」
君原は署を出た。
雲が出て、少し寒かった。今夜は冷えるかもしれない。
歩き出してから、ふと、眉《まゆ》を寄せ、
「松永彰三?」
その名は確か……。そうだ、小百合の友だちの——何といったか。法子。——そう、法子の、おじいさんじゃなかったかな。
何のことだろう?
気にしながら、君原は歩き出していた。
誰かが自分の名を呼んだような気がして、君原は振り返った。もちろん空耳だったらしいのだが——。
ともかく、君原は角から飛び出して来たオートバイに全く気付かなかったのである。