「マチ子さん」
と、神《かみ》山《やま》絹《きぬ》代《よ》は声をかけた。「もう二時よ。旦那様は、まだおやすみ?」
「はい」
マチ子は、廊下に掃除機をかけていた。
「そう……。もうお起しした方がいいんじゃないかしら」
と、神山絹代は言って、「ちょっと、声をかけてみるわ」
階段を上りかけた絹代へ、マチ子は掃除機のスイッチを切ると、
「起すなと、おっしゃいました」
と、言った。
絹代は振り向いて、
「旦那様が?」
「はい。——疲れたから、起きて来るまでは、放っておいてくれ、と」
「そう……」
絹代は、肯いたが、「でも、もしお具合でも悪いようだと大変。いいわ。叱《しか》られたら、その時に謝ればいいのよ。ちょっと覗いてみるわ」
と、また階段を上って行こうとした。
「でも、起すなとおっしゃったんです!」
マチ子の言葉は、ほとんど叫ぶような激しさだった。
絹代は足を止め、戸惑って、
「どうしたの? マチ子さん、何だか変ね、あなた」
「何も……。ただ、旦那様がおっしゃった通りを言ったんです」
マチ子は、目をそらしていた。
「旦那様がそうおっしゃったのね」
「そうです」
「いつ?」
「おやすみになる時です」
絹代は、少し間を置いて、
「おやすみになったのは、いつごろ?」
と、訊いた。
「五時ごろでした」
「朝の五時?」
「そうです」
絹代は、しばらくマチ子を見ていたが、やがて、階段を下りて来ると、
「分ったわ。それじゃ、もっとおやすみになりたいでしょうね」
と、言った。「法子さんのお部屋にお友だちがみえてるわ」
「はい」
「紅茶か何かお出ししたら?」
「そうします」
マチ子は、掃除機を置いて、台所へと入って行った。
——神山絹代は、もうこの松永家に二十年も通って来ている。松永のことは、家族同様によく分っているつもりだった。
朝の五時。——そんな時間に寝るというのは、普通ではなかった。
特に、年齢《とし》を取ってから、松永は睡眠を規則的に取るようにしていたのだ。それなのに……。
マチ子が、それを知《ヽ》っ《ヽ》て《ヽ》い《ヽ》た《ヽ》、ということも、気になった。
もちろん、六十過ぎとはいえ、松永は男で、マチ子は女だ。しかし、いくら何でも……。
だが、今日のマチ子の様子は、明らかにおかしい。
居間へ入って、絹代は、出ていた新聞を片付け始めた。——門のインタホンが鳴った。
誰だろう? 絹代は急いでインタホンに出た。
「はい、どちら様でしょう?」
「警察の者ですが」
と、若い男の声が言った。
絹代は、緊張した。——警察が何の用だろう。
「ご用件は?」
「松永——彰三さんは、いらっしゃいますか」
「まだおやすみです」
「そうですか。申し訳ありませんが、ちょっとお話を伺いたいので、取り次いでいただきたいのですが」
絹代はためらった。しかし、相手の言葉はていねいだが、引き退《さ》がるようではない。
警察の用となれば、仕方がないだろう。
「どうぞ、お入り下さい」
絹代はロックを外した。「——マチ子さん」
「はい」
マチ子が台所から出て来た。
「警察の人が、旦那様に、と。お起しして来るわ。応接へ通しておいて」
絹代が歩き出すと、マチ子は突然階段へと駆けて行き、
「私が起します!」
と、言って、駆け上って行った。
絹代は呆《あつ》気《け》に取られて、それを見送っていたが……。
おそらく……。そうだ。旦那様は、マチ子に、手《ヽ》を《ヽ》つ《ヽ》け《ヽ》た《ヽ》。
何てことだろう!
玄関のドアをノックする音がして、絹代は足早に玄関へと向った。
「おやすみのところ、恐縮です」
と、年長の方の刑事が言った。「林田と申します。こちらはこの町の水口刑事です」
水口刑事は、若いせいもあるだろうが、大分緊張していた。
「お待たせして」
と、松永は言った。「——で、用件というのは?」
マチ子が、お茶を運んで来た。
「この時計ですが」
と、林田がテーブルに、ビニールの袋に入れた腕時計を置いた。「見憶えはありますか」
松永は、ちょっと眉を寄せて、
「私のものと同じ型ではないかな」
と、言った。
「実は、松永さんのお名前が裏に入っていまして」
と、水口が口を挟んだ。「それで、こうして伺ったわけです」
林田がチラッと水口を見た。余計な口を出されて、迷惑している様子だ。
「そうでしたか、いや……」
松永は首をかしげた。
マチ子は、二人の刑事へ、
「どうぞ」
と、お茶を出した。
「恐縮です」
と、林田は言って、一口お茶を飲んだ。
「——苦かったでしょうか」
と、マチ子は、林田がちょっと顔をしかめるのを見て、言った。
「いや……。目が覚めて結構」
と、林田は息をついた。「それで——」
「旦那様」
と、マチ子が言った。
「うん?」
「この間、どこだかで失くしたとおっしゃっていたのが、この時計じゃございませんでしたか?」
松永は、ちょっと時計を見つめて、
「——うん、そうらしいな。いや、沢山持っていますので、大して気にもしていなかったんですが」
「失くした、と?」
「失くしたのか、盗《と》られたのか……。ともかく、いつの間にか、失くなっていたんですよ」
と、肩をすくめる。
「どこで失くされたんですか?」
と、林田が訊いた。
「さて……。いつの間にやら、なかった、というわけでね」
「しかし、六十歳の祝いにと、名前まで入っているんですよ」
「六十歳の時には、確か置時計が三つ、腕時計が五つぐらい来たような気がしますな」
「大したもんですね」
と、水口が呆《あき》れたように言った。
「どこで見付かったんですか?」
「いや、ちょっとある事件がありましてね——」
と、林田はためらった。「その場所に、これが落ちていた、というわけです」
「事件? 泥棒とか、空巣とか?」
「女の子を待ち伏せして襲おうとした奴がいましてね」
と、水口が言った。
「何と……。うちにも十六の孫娘がいます。そういう卑劣な奴は、早く逮捕していただきたい」
「もちろん同感です」
と、林田は肯いた。「しかし手がかりはこれだけでしてね。これを、いつ、どこで失くされたか、思い出していただけませんかね」
「さあ……」
松永は腕を組んで、「マチ子。君は憶えてるか」
「いえ……」
「そうか。——ほとんど無意識に時計を選んでつけていますのでね。たぶん外で失くしたんだとは思うが」
「そうですか」
林田は息をつくと、「——何か思い出されたらご連絡を」
「ああ、もちろんです」
と、松永は肯いた。
「どうもお手間を取らせて」
水口は、しきりに恐縮していた。
林田は立ち上ると、
「まだおやすみだったそうで、すみませんでした」
と、言った。
「ああ、いや。そちらもお仕事ですからな」
「いつも、夜は遅くやすまれるんですか」
「そうとも限りません。気楽な仕事ですからね。気ままにやっていますよ」
「それは羨《うらや》ましい。——ゆうべは何時ごろおやすみに?」
「二時か……三時か。寝つけずに、本を読んでいましてね」
「お出かけというわけではなかったんですか」
松永はちょっと笑って、
「夜遊びをする年齢《とし》でもありませんよ」
と、言った。
——刑事たちが帰って行く。
マチ子は、玄関まで送って、応接間へ戻って来ると、茶碗を片付けた。
松永はソファに座ったままだ。
「マチ子——」
「あの時計は失くされたんです」
と、マチ子は言った。「そうですね?」
「ああ。そうだ」
「私なら、時計一つ失くしたら、大騒ぎしますわ」
マチ子はそう言って、笑った。
松永は手を伸ばして、マチ子の腰の丸みをさすった。マチ子は少し離れて、
「仕事があります」
と、言った。
「そうか」
マチ子は、ドアを開けようとした。松永は、「今夜も行っていいか」
と、言った。
マチ子は答えずに、応接間を出た。電話が鳴り出していた。
「——お待たせしました。松永でございます」
と、マチ子は電話に出て言った。「——はい、小百合さんでしたら、今、うちに。——え?」
マチ子はあわてて、メモを取った。
「——分りました。すぐそちらへ。——はい」
マチ子は、メモを手に、ドタドタと階段を駆け上った。
法子の部屋のドアを叩くと、
「どうぞ」
と、法子の声がした。
「あの——」
とドアを開けると、
「やっぱりマチ子さんか。ドタドタ、凄い音がしたから、きっとマチ子さんだ、って言ってたのよ」
と、法子が言った。「何なの?」
法子がカーペットに膝を立てて座り、小百合は腹《はら》這《ば》いになって、雑誌を広げていた。
「あの——今、病院から電話で」
「病院、どこか悪いの、マチ子さん?」
「そうじゃなくて! 小百合さん、すぐ病院へ行って下さい!」
「私?」
小百合は起き上って「どうしてですか」
「おじいさんが、オートバイとぶつかったんですって」
小百合はポカンとしていた。
「いやだ……。ぶつかるなんて、おじいさん——」
「頭を打って、病院へ運ばれたって。すぐに——」
「分りました……。じゃ、法子、悪いけど私——」
「マチ子さん、タクシー呼んで」
と、法子がパッと立ち上って、「小百合、しっかりして。ついて行くから」
「いいよ。悪いし……」
「何言ってるの! マチ子さん、早く」
「はい!」
マチ子は、またドタドタと足音をたてながら行ってしまう。
「おじいさんたら、ぼんやりしてたのかなあ」
「小百合。鞄とか、忘れないで。きっと大したことないわ。大丈夫よ」
「うん……」
小百合は、まだ実感がない様子だった。
法子もコートをはおって、財布を手に、玄関へ来ると、マチ子が外から戻って来た。
「ちょうど近くにいたのが、今、来ましたよ」
「ありがとう。——電話するわ」
「分りました。大したことないといいですね」
「どうも、すみません」
と、小百合は頭を下げて、玄関を出た。
「小百合、病院のメモは?」
「うん、ここ」
「貸して。——さ、急ごう」
と、法子がせかせる。
二人はタクシーに乗った。
小百合は、ふと思い出した。——六時。
あのスーパーの前。
関谷征人が来るんだ。それなのに……。
小百合は、ギュッと鞄を抱きしめた。
「しっかりしてね」
と、法子が言った。「オートバイぐらいなら、大したけがしないと思うよ」
そうではないのだ。小百合は、祖父のことを怒っているのだった。
よりによって、こんな日に!
おじいさんの馬鹿!
——会いたい。関谷征人に会いたいんだ。
小百合は目をつぶった。
どうか——どうか、六時にあそこへ行けますように。
行けますように?
そうじゃない! 行くんだ!
何があっても。——たとえ、おじいさんが死にそうだって、構うもんか。
小百合は、タクシーの座席に、身じろぎもせずに、座っていた……。