「お帰りなさいませ」
フロントの、顔なじみの係が、大《おお》内《うち》を見てすぐにルームキーを取り出した。「ご伝言が入っております」
「ありがとう」
大内は息をついて、「いや、歩いて来たら、大分体があったまったよ」
と微《ほほ》笑《え》みながら、キーと、伝言のメモを受け取った。
すぐにメモを開けて読み、ちょっと鼻にしわを寄せると、
「全く、上役ってやつは口やかましいもんだね」
と言って、そのメモを手の中で握りつぶした。「捨てといてくれ」
「かしこまりました」
と、フロントの男は愉快そうに、「どんな職場でも、上役というのは似たようなものでございますね」
「全くだ。——今、三時七分くらい?」
「はい。あと十秒ほどで八分になります」
と、フロントの男は、自分の腕時計で確かめる。「時計の調子が?」
「いや、合ってはいるんだがね」
と、大内は自分の腕時計に目をやって、「一日に一回、確かめないと気がすまない。人との約束に遅れちゃ営業マン失格だからね」
「今日はまたお出かけですか」
「夕方、お得意のお宅へ伺うことになってるんだ。——しかし、三十分くらい眠りたい気分だな」
と、少しためらう。
「お起しいたしますよ」
「いや、起きるのには自信がある。眠れるかどうか心配なんだ。あまり寝つきのいい方じゃないのでね」
と、大内は言った。
「アルコールはやられないんでしたね」
「そうなんだ。こんな時には、寝酒の一杯ぐらい、飲めるようにしておけば良かったと思うよ」
大内はそう言って笑った。
この町に来た時、いつも大内はこのホテルに泊る。——営業マンとしての出張である。高級ホテルに泊っていては、出張手当など消えてしまう。
ここは、いわゆるビジネスホテルの中では、比較的、落ちついてサービスもいいので、知られている。建物などは少し古いが、何より従業員が、一流ホテルでもなかなか望めないほど、よく気をつかってくれるところが良かった。
もちろん、大内がもう何度もここを利用している、ということもあっただろうが、このフロントの男などは、もっとランクの高いホテルでも充分に勤まると思えた。
「——ま、ベッドに入るだけ入ってみるよ」
と、大内は言った。
「もし——」
「何だい?」
と、大内は歩きかけて立ち止った。
「いえ……」
フロントの男は、軽く咳《せき》払《ばら》いした。「大内様、お独りでいらっしゃいましたか」
「独り? 独身ってことかい」
「さようで」
「そう。忙しくて、結婚する暇もないよ。どうして?」
「いえ、大変失礼な話ですが、もし軽い運動をお望みでしたら、適当なお相手をご紹介いたしますが……」
女のことを言っているのだと、やっと分って、大内は笑った。
「何の話かと思ったよ」
「どうも、慣れないことを申し上げますと、汗をかきます」
と、フロントの男は照れている。
「そんなことまで気をつかうの。大変だね」
「そういうご《ヽ》注《ヽ》文《ヽ》をされるお客様もいらっしゃいますので」
「僕は遠慮しておくよ」
と、大内は首を振って、「初めての女性なんて、却《かえ》ってくたびれるだけだ」
すると、ホテルの正面にタクシーが停《とま》って、五十代と見える、大分腹の出た男が降りて来た。フロントの男が、すぐにルームキーを取って来る。
大内は、ちょっと目を見開いた。——その男に続いてタクシーから降りて来たのは、セーラー服に学生鞄《かばん》を下げた、高校生だったのである。
「キーをくれ」
と、男はぶっきら棒に言った。
「お帰りなさいませ」
「部屋にウィスキーを届けてくれ」
「かしこまりました」
後からやって来た少女——どう見ても十六か七——は、丸顔の、まだあどけない印象だったが、
「私、何か食べたい」
と、甘えるように言って、男の腕に手をかけた。
「ルームサービス、やってるのか、この時間は?」
「軽食のみになりますが、サンドイッチ、カレーなどは……」
「サンドイッチとコーラ」
と、少女が言った。
「——一緒に届けてくれ」
と、男は言って、少女を促してエレベーターの方へ歩き出す。
「もっといいホテルかと思ったのに……」
と、少女が言っているのが聞こえて来た。
少々呆《あつ》気《け》に取られて見送っていた大内は、エレベーターの扉が開いて、その不つりあいなカップルがその中へ消えるのを眺めて、首を振った。
「——どう見ても親子じゃないね」
フロントの男は苦笑して、
「全く、どうなっているんだか。うちにも十五歳の娘がいますが、外じゃあんなことやってるのかもしれないと思うと、気が気じゃないです」
と、言った。
そしてルームサービスの注文を、内線電話で係へ連絡する。大内は、フロントの男が受話器を置くのを待って、
「あれは、一回きり、金で買ってるのかい?」
と、訊《き》いた。
「あのお客様の趣味ですね。中小企業のオーナー社長です。大きなホテルだと目立つので、いつもここで……。ばれたらこっちもただじゃすみませんからね。冷汗もんです」
「しかし、大胆だね、女の子の方が」
大内は、ちょっと肩をすくめて、「目が覚めちまったよ」
と、言ったのだった……。
シングルベッドが一つ、小さなテーブルと、少し発色の悪くなったカラーテレビ。
それだけで、もう大して余地のない狭い部屋である。もちろん、一人で寝るだけの部屋だ。大内には、これで充分だった。
部屋へ入って、上《うわ》衣《ぎ》をハンガーにかけ、ネクタイを外す。
松《まつ》永《なが》の家へ行く時は、新しいネクタイにかえて行こう。やはり、金持の家には、それなりの格好で行かなくてはならない。
逆に、平凡なサラリーマンの家に、エルメスのネクタイなどしめて行っては、向うが面《おも》白《しろ》くあるまい。たとえ気付かなくても、そういう気構えは、つい態度にも出てしまうものだ。
「やれやれ……」
大内は、小さな窓から、外を眺めた。
七階なので、結構見晴らしはいい。これくらいの小都会は、そう高い建物がないから、これでも「高い」と感じる。
——どうしよう? 寝るか?
しかし、どうせ一時間もしたら、松永の所へ出かけるのだ。眠れないまでも、ベッドに横になっているだけでも、少しは体が休まるかもしれない……。
カーテンを引くと、部屋が薄暗く、秘密めいた雰囲気になる。ズボンがしわにならないよう気を付けながら、大内はベッドに横になった。
全く。——俺《おれ》としたことが。
一体どうしたというんだろう? 少しも難しい尾行ではなかったのに。少し急げば充分に、あの少女と同じ電車に乗れたというのに……。
昨日と同じ取り合せの二人だった。よほど仲がいいのだろう。一人は、活発で、明るく、生命力が漲《みなぎ》っている。もう一人は落ちついて知的だ。そして端整そのものの顔立ち。
目を閉じると、あの少女の斜め前から見た映像が浮かぶ。浮かぶのに、それでいて、どんな顔だったか、思い出せないのだ。——奇妙な話である。
もちろん、尾行にしくじったからといって、それほどがっかりしているわけではなかった。学校は分っているのだし、また見付けるのは難しくない。まあ、明日は日曜日だから、学校も休みということだが……。
この町には、三、四日滞在しても、会社から文句を言われることはない。何といっても、松永を始め、この町には割合に上得意の客を何人も持っていたからである。
もちろん、怪しまれるほど長く、この町に滞在するわけにはいかない。しかし、何としても、あの少女に会わなくては。——大内は決心していた。
いや、むしろそれはどこか別のところで決っていることのようだった。大内さえ知らない誰《ヽ》か《ヽ》が決めたことなのだ。
二月も末に近くなって、今月の販売実績を少しでも上げるために、どこでも、営業マンは必死になっているだろう。しかし、大内は、普通の営業マンが目標とする台数の車を、もう売ってしまっていた。
月末の日まで、ずっとこの町にいたとしても、特に会社から苦情は来ないだろう。大内にしては、ちょっと物足りない数字、と思われるかもしれないが、いつもいつも目ざましい数字を上げているわけでもない。
あの少女を見付ける時間はいくらでもある。そして、少女を「永遠」の中に封じ込め、あのまぶしいほどの純潔さのままにいさせるようにする時間も、充分にあるのだ……。
——目を、いつの間にか閉じていた。そしてほんの数分間、うとうとしていたらしい。
ドアの開く音で、ハッと目を覚ました。
刑事がやって来たのか? 俺を逮捕しに?
——どうしてそんなことを考えたのか。起き上った大内は、開いたのが自分の部屋のドアでないことを知って、苦笑いした。
何しろ、狭い部屋だ。隣の物音が、まるでこの部屋で聞こえたように思える。
しかし——何だかいやに乱暴なドアの開け方だったが……。
大内は起き上って、ドアまで歩いて行くと、覗《のぞ》き穴に目を当てた。廊下に立っているのは、さっき、あの中年男と一緒にやって来たセーラー服の少女である。
様子がおかしかった。怯《おび》えたようにキョロキョロ周りを見回し、逃げ出そうとして、ためらっている様子だ。何があったのだろう?
大内はドアを開けた。少女が短く声を上げて飛び上った。
「どうしたんだい?」
と、大内は訊いた。
「あの——」
少女は、ポカンとしていて、何と説明していいものやら、分らない様子だ。
「さっき、男の人と一緒だったね。この隣の部屋?」
少女は、肯《うなず》いた。
「どうかしたの?」
「何だか——何がどうなったんだか——」
と、少女は口ごもっている。
隣のドアは半開きのままになっていた。大内は歩いて行って、中を覗いた。
大して驚きはしなかった。珍しい話ではない。
男はベッドに突っ伏して、白目をむき、口を開けたまま、動かなかった。ワイシャツの胸をはだけ、両手で胸をかきむしりかけたまま、ストップモーションの写真のように、こわばっていた。
「あの——」
と、声がして、振り向くと、ウィスキーとサンドイッチ、コーラをのせた盆を手に、ルームサービスの係のボーイが、当惑顔で立っている。
「気の毒だけど、キャンセルだね」
と、大内は言った。「すぐフロントに言って、救急車だ。たぶん、手遅れだろうがね」
キョトンとしていたボーイは、中を覗き込んで、真青になった。
「はい、すぐに。——かしこまりました」
いつものく《ヽ》せ《ヽ》が出てしまうのだろう。早口でそう言うと、エレベーターの方へと急いで戻って行く。
電話した方が早いのに。——大内は、その男の部屋の電話で、フロントへかけた。
「フロントでございます」
「大内だけど」
と、事情を説明してやると、フロントの男は、すぐにそばの誰《だれ》かに、救急車を呼べと言いつけてから、
「困りましたね。——例の女の子は?」
「さて……。廊下に出ていたがね」
「申し訳ありませんが、その女の子を、大内様のお部屋へ入れておいていただけませんでしょうか」
フロントの男の心配も分った。この男が、女子高生を相手にしていて発作で死んだとなると、ホテル側も迷惑するのだ。
「分った。その辺にまだいたら、落ちつかせて、部屋に入れておくよ」
「お願いいたします。私どもは、ともかくお一人でお泊りだったということにしておきたいので——」
「分ってるよ。じゃ、運び出されたら、また——」
大内は電話を切った。
部屋の中を見回すと、あの少女の鞄が置きっ放しになっている。大内はそれを手に、廊下へ出た。しかし、少女の姿はどこかへ消えてしまっていた。
怖くなって、逃げ出したのか。——鞄を置いて行くとはね。
大内は苦笑しながら、自分の部屋へ戻って、足を止めた。
あの少女が、大内の部屋のベッドに、ちょこんと座っていたのである。
「何してるんだ?」
「だって——捕まるのいやだもん」
と、少女は言ってから、「あ、鞄!」
「持って来たよ。救急車が来ても、死んでいるとなったら、警察に連絡が行くだろうからね」
「私、何もしなかったんだ! 本当よ」
と、少女は泣き出しそうになる。「あのおじさんが勝手にハアハアいって……。急に呻《うめ》き出したから、びっくりしちゃって——」
「分ってる、分ってる」
大内はなだめるように言って、「ともかく、騒ぎがおさまるまで、ここにいたまえ。しばらくかかるかもしれない」
大内はドアを閉めた。
少女は、情ない顔で大内を見上げると、
「——ねえ」
「何だい?」
「サンドイッチは? 私、お腹《なか》空《す》いちゃってんの」
大内は、ため息をつくと、フロントへ電話して、急いでさっきのサンドイッチを届けてくれるように頼んだのだった……。