「おじいさん……」
小百合《さゆり》は、頭にグルグル包帯を巻いた祖父に、そっと声をかけた。
何だか——怖かったのだ。大きな声で呼びかけると、おじいさんがこわれてしまいそうな気がして。
でも、もちろんそんなことはない。おじいさんは固そうなベッドに寝ていたが、小百合のかすかな声に、すぐ目を開いたのだった……。
「小百合か」
「どう?」
「ああ。——どうってことないんだ。大げさに、こんな包帯を巻きやがって」
と、君《きみ》原《はら》耕《こう》治《じ》は文句を言った。「高くふんだくろうってんだ、きっと」
「そんなこと言って」
ホッとしながら、小百合は笑った。
良かった。——この元気なら、大丈夫。
「おじいさん、法《のり》子《こ》がついて来てくれたのよ」
と、小百合が言うと、少し離れて立っていた法子が、前に出て、
「びっくりしました。オートバイにぶつかった、ってうかがって」
「ああ、全く、もう年齢《とし》だね。みっともなくて、人にゃ言えない」
と、君原は照れたように言って、「——あんたのおじいさんが……」
「え?」
「いや……。何だったかな」
と、君原は眉《まゆ》を寄せた。「確か、おじいさんが……。松永さんだったね」
「そうです。祖父がいつもお会いしたいと言ってます」
「そう……。それはありがたい。いや、うちの小百合には苦労させてるからね。全く可哀《かわい》そうな奴《やつ》で。気にかけてもらって、ありがたいよ」
「おじいさん、よしてよ」
と、小百合が赤くなる。
「そうか。本人の前で言うことじゃなかったな」
君原は、ちょっと笑って、それから顔をしかめた。
「痛むの?」
「大したことはない。石頭だからな。お前だって知ってるだろ」
と、君原は言ったが……。
何だったろう? この松永法子の祖父のことを、どこかで耳にしたような気がするのだが……。どうしても思い出せない。
「私、ちょっとお医者さんと話して来る」
と、小百合は言って、病室から廊下へと出た。
「——大したことないみたいで、良かったわね」
と、続いて出て来た法子が言う。
「うん……」
小百合は肯いたが、急に涙が溢《あふ》れて来て、法子に背を向けて歩き出した。
「小百合!」
法子がびっくりして、追いかける。「——大丈夫?」
「ごめん……。あんな風に寝てるおじいさんを見たの、初めてだったから……。何だかたまんなくなっちゃって……。ごめん、びっくりさせて。もう平気」
小百合はハンカチを出して、涙を拭《ぬぐ》った。
「優しいね、小百合って」
「そんなことないよ」
と、小百合は首を振った。
それから、通りかかった看護婦さんに、祖父の具合をどの先生に聞けばいいのか、たずねてみた。
——正直なところ、病院へ法子と二人で駆けつけて来た小百合は、祖父が血の気のひいた顔で、頭に包帯を巻いてベッドに横たわっているのを見た時、膝《ひざ》が震えたのだった。
——おじいさんが死んじゃう!
もちろん、そんなことはない、と看護婦さんに言われたのだが、小百合にとっては、祖父が「死ぬかもしれない」と一瞬でも感じたことは、大きなショックだった。
当然いつか——小百合よりも先に、祖父は死ぬだろうと頭では分っていても、そんな日はまだまだずっと遠い先のことと思っていたのだ。それがいきなり「現実」として目の前に現われたので、小百合は怖くなったのである。
そして、タクシーの中で、こんな日にけがをした祖父に腹を立てていた自分を、恥じたのだった。どうして、あんなことを考えられたんだろう?
小百合の目は、病院の廊下の時計に向いていた。——五時。
六時には、あのスーパーの前で、関《せき》谷《や》征《まさ》人《と》が待っているのだ……。
「——検査の結果は、まあ異常ないと言っていいと思うね」
と、医師は小百合に言った。「君が、あの人の家族?」
「孫です。二人で暮してるんです」
「そうか。大変だね」
五十歳ぐらいか、温厚な感じの医師は、肯いて言った。「ちょっと心配なのは、かなりひどく地面に頭を打ちつけたんでね、後になって何か症状が出るかもしれない、ってことなんだ」
小百合が青くなるのを見て、医師は、
「いや、そうなる、と言ってるんじゃないよ」
と、あわてて言い足した。「万に一つだ。ただ、検査だけじゃよく分らないこともあるんだよ。——ともかく、今夜だけ、入院して行った方がいい。様子を見て、何もなければ明日は帰れるよ」
「そうですか」
小百合はホッとした。
「ただ、急にひどく頭痛がするとか、吐き気があるとかいう時は、すぐにここへ連れて来てくれ。たとえ本人は『冗談じゃねえ』とわめいてもね」
医師はニッコリ笑った。
きっと祖父が、ここへ運ばれて来て、そう言ったのだろうと思って、小百合は赤くなった……。
「——入院だって?」
と、君原は顔をしかめた。
「一晩だけよ。明日は帰れるって」
「ふん……。一泊いくらだって?」
「おじいさん。ホテルじゃないのよ」
と、小百合は苦笑して言った。
「分ってるさ。しかし……。安かないからな、ここだって」
「お医者さんがそう言ってるんだから、おとなしく、言うことを聞いてよ」
「分ったよ」
と、君原はため息をついた。「お前は帰ってな。何もそばについてることはない」
「明日、日曜日だもの。椅《い》子《す》に座って寝るわよ」
「そんな重病人じゃない」
「分ってるけど、一度やってみたかったの、そういうことも」
君原も、それ以上は言わなかった。
「ともかく、保険証とか、取って来ないといけないから、一《いつ》旦《たん》家に帰るわ。——法子も送って行く」
「ああ。よろしく言ってくれ」
と、君原は言って、「あの子のおじいさんのことで——」
「え?」
「いや……。何だったかな。どうも思い出せない」
と、君原はゆっくり頭を左右へ動かした。
「ゆっくり考えて」
と、小百合は言って、立ち上った。
——五時半を回っていた。
「——ごめんね、法子、付合せちゃって」
と、病院を出ながら言う。
「何言ってんの! タクシー呼んだから乗って行こう」
「ええ? でも——」
「小百合んちに寄って、それから私の家で夕ご飯、食べてらっしゃいよ。電話しといたから、すぐ食べられるわ」
「だって……」
「いいのよ。またこの病院まで、送らせるから」
法子が手を上げると、〈迎車〉という字の出たタクシーがやって来た。「気にしないで、おじいさんの会社につけるんだから」
とても断れなかった。それに、もう大分暗くなっていたし、雨でも降って来そうな空だったのだ。
二人はタクシーに乗り込んだ。
五時三十七分。——本当に来ているだろうか? ただ、冗談でああ言ったのだったら?
タクシーが走り出す。もちろん、小百合の家に向っているのである。
冗談だっていい! もし、今行かなかったら、もうたぶん二度と……二度と、彼《ヽ》に会うことはないだろう。
「どうしたの、小百合?」
と、法子が覗き込むようにして、「何だか怖い顔してる」
「ね、ちょっとスーパーに寄りたいの」
「買物?」
「うん……。そんなもの」
「じゃ、どこか通り道にコンビニエンスがあるんじゃない?」
「いえ——いつも行ってる店の方が。どうせ途中なの」
「ああ、よく買い出しに行く所ね。じゃ、表で待ってるわよ。——すみません、あの信号を右へ」
法子は、道をよく憶《おぼ》えている。
それも小百合が法子にかなわないことの一つだった。法子は、初めての場所を捜して行くのもうまいし、一度行った所は、決して迷わないのだ。
——小百合は、迷っていた。道に、ではない。どうしたものだろう?
もし本当に関谷征人が来ていたら……。いや、来ていなかったら、それに越したことはないのだ。何か適当に買っておくものぐらい見付かるから。
だが、関谷征人が来ていたら、当然、法子に見られることになる。——小百合は恥ずかしかった。自分が恋してるなんてことを、法子に知られたくはなかったのだ。
だって——そう。どうせ……どうせ、私の恋なんて、実らずに終るに決っているのだから。それならいっそ、早く諦《あきら》めた方がいい。彼が来ていなければ、それでいい。
来てほしくない、などとは、これっぽっちも考えていないくせに、小百合は、彼が来ていない方がいいのだ、と自分に納得させようとしていた。
「——おっと。事故だな」
と、運転手が言った。
タクシーが停る。小百合は、前方を見た。赤い灯が見える。パトカー、救急車。
乗用車が一台、歩道へ乗り上げて、ガードレールがまるでボール紙のように、折れ曲ってしまっていた。
「——参ったな。すっかり詰ってる」
と、運転手が舌打ちした。
振り向くと、タクシーの後ろに車がどんどん並んでいる。この渋滞を抜けるのは、かなり厄介な様子だった。
「——一台しか通れないんだ。交互通行だしね。のんびり待つしかないね」
と、運転手は首を振った。
のんびり? いつまで待つの?
小百合は、車のダッシュボードの時計に目をやった。——五時四十八分だ。
五十五分を過ぎても、まだタクシーは、やっと十メートルほど進んだだけだった。
事故の処理に手間取って、しばしば道が完全にストップになるのだ。——六《ヽ》時《ヽ》。六時になって、あの人がスーパーの前にやって来ても……。私はいない。
彼は待っていてくれるだろうか?
五十七分。——五十八分。
「あの——降ります、私」
と、小百合が言った。
「小百合!」
法子がびっくりして、「どうしたの?」
「急ぐの。ちょっと。——ごめんね、法子」
と、早口に言って、「ドア、開けて下さい!」
わけの分らない様子の運転手がドアを開けると、小百合はタクシーを出て、歩道へ上り、駆け出した。法子は、タクシーの中から唖《あ》然《ぜん》として見送っている。
分っていた。とんでもないことをしているのだということは。
法子がせっかく呼んでくれたタクシーなのに。小百合は理由も言わずに飛び出してしまったのだ。
しかし、もうためらっていても仕方なかった。今は——今はもう、急ぐしかない!
六時に。六時に。
きっと、あの人は待ってる!
歩いても、十五分ほどの距離だったろう。小百合は、喘《あえ》ぐように息をしながら、あのスーパーの前で、足を止めた。冷たい空気が激しく出入りして、喉《のど》がひりひりと痛んだ。
関谷征人の姿はなかった……。
時計を見る。六時七分。
もし、来ていたら、これぐらいの時間までは待っているだろう。それとも、彼の方も遅れているのか。
小百合は、左右を見回した。——いつもながらの買物風景。主婦たちの群。
スーパーに流してある、十年一日の如《ごと》くのBGM。〈今日の特売品〉を売る店員のかけ声……。
ペタッ、と顔に冷たいものが当った。見上げる間もなく、雨が降って来た。
客たちがあわてて傘を広げる。道を行く人が、スーパーの入口の、濡《ぬ》れない場所に飛び込んで来た。
小百合も、濡れない位置まで退《さ》がったが、それでもぎりぎり前に出て、道の左右が見渡せるようにした。やって来る人々の流れ。
こんなに大勢の人がいるのに、どうして彼がいないのだろう? そんなの、不公平じゃないの。ひどいじゃないの。
急激に気温も下ったようだった。吐く息は白く、かすかに顔にかかる雨の細かいしぶきも、刺すように冷たい。もう六時十五分だ。
来ないのだ。——やっぱり。どうせこうなるはずだったのだ。
肩をポンと叩《たた》かれた。——まさか。彼のはずがない。きっと、誰か人違いをしてるんだわ。
「来てたのか」
と、関谷征人が言った。「いや、ちょっと遅れてさ。いないから、中で買物してるのかと思ったんだ」
小百合は、瞬《まばた》きもしないで、関谷征人を見つめていた。瞬きすると、消えてしまうんじゃないかしら、と思ったからだ……。
「——どうした? 忘れた? 昨日《きのう》さ、ここで——」
「憶えてるわよ、もちろん」
と、小百合は言って、「あの——おじいさんが事故で入院しちゃったの」
「ええ? ひどいのかい」
「そうでもないけど……。今夜だけ入院するの。それで来るのが遅れて……」
言いわけなんかいらない。そうなんだ。好きだと言って、何が恥ずかしいもんか!
「会えて嬉《うれ》しい」
と、小百合は言った。
愛してます、なんてセリフは、少女漫画の中でもなきゃ、言えやしないじゃないの。こう言うだけだって、小百合の体は、この寒さの中で、カッと燃えるように熱くなるのだから……。
「僕もだよ」
と、征人は言った。「雨だね」
「ゆうべは、遅くまで盛り上ったの?」
と小百合は訊いた。
今日会ったら、こう訊こうと、ずっと考えていたのだ。
「ゆうべ? ああ、クラブの集り? 寝たのが三時半」
「朝の? 凄《すご》いわねえ」
「まだ頭がボーッとしてる」
「そうだ、昨日のレモンのお金、渡すの忘れちゃってたの」
「そうだっけ? いいよ。クラブの金だし、いくらでもないさ」
「でも、いやなの。受け取って」
と、財布を出そうとする。
「分った。でも、どこかで何か飲もうよ。こんな寒い所じゃなくてさ」
征人も傘を持っていなかった。
「そこが近い。混《こ》んでるけど」
「ともかく、入るか」
「うん。走って行けば——」
と、道の向い側へ眼《め》をやって、小百合は法子が傘をさして立っているのを見付けた。
「法子……」
「小百合ったら! いきなり走ってっちゃうから」
「ごめん。ちょっと——約束があったんだ」
と、小百合は言った。
法子は楽しげだった。怒っている様子はない。
「こうならこうと言えばいいのに!」
「うん……」
「松永法子です」
と、法子は、征人の方へ会釈して、「小百合の友だちです」
「——やあ」
征人は、フッと我に返ったように言った。「関谷征人っていうんだ。K学園の三年生。君は高一?」
「小百合と同じ」
「そうか。少し上みたいに見えるね」
と、征人は言った。
征人。——征人。どうして私のことを見ないの? 法子の方ばっかり見ないで!
「この傘、タクシーの運転手さんに借りたのよ」
と、法子は言った。「そっちでタクシーが待ってる。——良かったら家に。いいですか?」
「君の家に? 僕はいいけど……」
やめて……。やめてよ、法子。
私《ヽ》の《ヽ》恋《ヽ》人《ヽ》を《ヽ》と《ヽ》ら《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》で《ヽ》!
「じゃ、待ってて。タクシーをこの前につけるから」
法子が走って行く。——見送った征人は、
「きれいな子だね」
と、言った。
小百合は、闇《やみ》の中に一人取り残される自分を、じっと見つめていた。
——そうだ。分っていたんだ。こうなることは。
昨《ヽ》日《ヽ》、私はこの場面を見てしまったんだ……。