「旦《だん》那《な》様」
居間のソファに身を沈めていた松永彰三は、じっと眼を閉じて、身動きしなかった。
——神《かみ》山《やま》絹《きぬ》代《よ》は、二度声をかけようとはせず、ドアを閉めようとした。
「何だ」
と、松永が言った。
「旦那様。——おやすみかと思いました」
「眠っちゃいない。少しぼんやりしていただけだ。何か用事か?」
と、松永は訊いた。
「あの……」
神山絹代は、少しためらいながら、ソファの方へやって来た。珍しいことだ。何でも、思ったことは口に出すのが、絹代のやり方なのだ。
「ゆうべ、お加減がお悪かったそうなので、夕食に、何がよろしいかと存じまして」
「何でもいい」
松永はあっさりと言った。「別に腹をこわしているわけじゃないからな」
「かしこまりました。——何か、消化のよろしいものに——」
「任せるよ」
松永は、ゆっくりと顔を上げて、絹代を見た。——絹代は眼を合せるのを、避けている。
「何か、言いたいことがあるんじゃないのか?」
「いいえ——」
「隠すな。顔に書いてある」
そう言って、松永はちょっと笑った。
「旦那様」
思い切ったように顔を上げ、「マチ子さんのことです」
「マチ子? あれがどうかしたか?」
「辞めてもらった方がいいかと存じまして」
松永は、ちょっとの間、黙して絹代を見ていた。絹代は、しっかりと松永の視線を受け止めている。
「——理由があるか」
と、松永は訊いた。
「よろしくありません」
と、絹代は、両手を固く握り合せ、「家の中に愛人を置くのは、お嬢様のためにも、よくないと存じます。——何でしたら、どこか外に」
松永は、軽く息をついた。
「そんなことを言われるとは思わなかったぞ」
「お気にさわりましたら、申し訳ありません」
「確かに、俺はあの子に手をつけたが……。深入りしたわけじゃない」
「でも、あの子は初めてだったのではございませんか」
「ああ。——初めてだった」
松永は、立ち上ると、窓の方へと歩いて行った。そして、庭へ目をやりながら、
「どっちなんだ。マチ子に同情しているのか。それとも、怒っているのか」
「それは……。旦那様とあの子との間のことに、私は口を挟むつもりはございません」
と、絹代は言った。「ただ……けじめが必要です。特に男と女の仲については。このまま、中途半端な形で、マチ子さんを置いておくのは、誰にとっても、良くないと存じまして。——差し出がましいことを申して……」
庭の木の枝の間を、何か黒い鳥らしいものが、ゆっくりと動いて行く。
あんなにゆっくり? あんな風にはばたく鳥がいるだろうか?
ふと、松永はあの鳥を、前にも見た、と思った。つい昨日だったか、それとも何十年も前だったか。
「旦那様」
と、絹代が言った。
「よく分った」
と、松永は肯いた。「——いや、お前の言う通りかもしれん」
絹代が、ホッと息をついた。
「失礼を承知で、申し上げました」
「うん。俺もどうかしていたんだ」
と、松永は首を振って、「全く、お前の言う通りだ。もし、法子に知られでもしたら、とんでもないショックだろうからな」
「私も、それが心配でした」
「マチ子はどこにいる?」
「今、買物に出ています」
「今、行ったのか。じゃ、まだしばらく戻らんな」
「はい」
「今、何時だ?」
「四時を少し回っております」
「大内が来ることになっていたな」
「五時のお約束です。あの方は正確でございますから」
「ああ。几《き》帳《ちよう》面《めん》な奴だからな」
と、松永は笑った。「——どうだ、ちょっと腰をもんでくれないか」
「え?」
「前はよくやってくれたじゃないか」
「はい。でも——もうあまり力もございませんが……」
「構わん。久しぶりだ。ちょっとやってみてくれ」
「はあ……。では、ここで?」
「ソファって奴は横になるには向かんな」
と、松永は顔をしかめて、「上に行こう。やっぱりベッドだ」
「はい」
「夕食の仕度は、もう少し後でいいんだろう?」
「はい、大丈夫でございます」
「じゃ、頼む」
階段を、松永は先に上って行く。絹代は数歩遅れて、ついて来た。
「亭主は元気か」
「はい、おかげさまで」
「二軒分の家事ってのも大変だろう」
「家では手を抜きます」
「そうか」
と、松永は笑って、寝室のドアを開けた。
「旦那様、ではうつ伏せに」
「ああ……。気持がいいと眠っちまうかもしれんな」
「どうぞ、大内さんがおみえになったら、お起しいたします」
「そうしてくれ。——もし、眠ったらな」
松永は、ベッドに横になった。傍《そば》に絹代が立つ。
「旦那様。仰向けに寝られては、腰をおもみできませんわ」
と、絹代が笑って言った。「うつ伏せになって下さいませんと」
「そうか?」
松永は、体をゆっくりと起して、「じゃ俺の方がお前の腰をもんでやろう」
と、言った。
大内は、一階へ下りて、ロビーを歩いて行った。
フロントの男が、会釈をした。
「お出かけですか」
「仕事だよ。——もう、すっかり片付いたのか?」
と、大内が少し声を低くする。
「はあ、ご迷惑をおかけして」
「あの社長、亡くなったって?」
「完全に手遅れとか。——色々訊かれましたが」
と、フロントの男は苦笑した。「お泊りは一人のはずだ、と言い張りまして、連れがあったとしても、見かけませんでした、と」
「なるほど」
大内は笑って、「それで通すしかないね」
「あの女の子は?」
「俺の部屋で寝てるよ」
と、大内は言って、「サンドイッチを食べて、ごく自然に眠り込んだだけさ。誤解しないでくれよ」
「ご迷惑をかけました」
と、フロントの男はくり返した。
「起きたら勝手に帰るだろう。別に盗《と》られるものもないし。——じゃ、キーを頼む」
「行ってらっしゃいませ」
——大内は、駐車場へ下りて行って、レンタカーに乗り込んだ。
あの子の白い足……。スカートの裾《すそ》を乱してスヤスヤ眠り込んでしまった、あの無神経さ!
少し早かったが、大内がこうして出て来たのは、あの少女に手を出してしまいそうだったからだ。
一旦手を出したら、止められないかもしれない。それが怖かった。
あの部屋ではだめだ。——フロントの男は、少女の顔も知っている。
もちろん……もし、あの少女と、どこか別《ヽ》の《ヽ》場所ででも会ったとしたら、話は違うが。
いや、帰った時には、もうあの少女は部屋を出て行っているだろう。大内はそれを望んでいた。
車で、松永の屋敷へ向う。
運転に集中して、あの少女のことは考えまいとした。
何てことだ!——昼間、追いかけた少女のことが忘れられないくせに、目の前に少女の白いふくらはぎや腿《もも》を見ると、心が騒ぐのである。
——頼む、出て行っといてくれよ。
俺とお前と、二《ヽ》人《ヽ》の《ヽ》ためにも……。
ほぼ計画通り、松永邸の前に車を乗りつけたのは、五時にあと数分というところだった。門は開いている。
車を中へ入れて、わきのスペースに停《と》める。今年は、おそらく松永も車を買うだろう。去年から、車がなくて不便しているはずだ。
自分では運転しないので、運転手を雇っていたのだが、その運転手が辞めてしまって、後がなかなか見付からず、車も邪魔だからと処分してしまったのである。
今はハイヤーを使っているはずだが、やはり何かと不便だという感想は、松永も洩《も》らすことがあった。新車を売り込むいい機会である。
しかし、売るといっても、運転手付きというわけにはいかない。そこが問題だった。
いかに大内が優秀なセールスマンでも、いい運転手を見付けるのは容易ではない。
まあ、ともかく話してみよう。電話で話した感触は悪くなかったが。
玄関のチャイムを鳴らして、しばらく待つ。——遅いな。
物音がして、ドアが開いた。
「これはどうも」
大内はびっくりした。当の松永本人が、立っていたのである。
「入ってくれ」
と、松永は促して、居間の方へと歩いて行く。
大内は、もうこの家の中はよく分っているので、自分でスリッパを出して、松永の後をついて行く。
「神山さんはお休みですか」
と、大内は、居間へ入って言った。
「いや、ちょっと今、手が離せない」
松永は少しぶっきら棒な口調で言って、「まあ、かけろ」
「お邪魔いたします。——埼玉工場の完成、おめでとうございます」
「うん? ああ、そうか。俺も忘れてたよ」
と、松永は笑って、「君の方がよく憶えてるな」
「とんでもございません。もう少し頭が良ければ、もっと出世しておるのでございますが」
と、大内は言って、「今年はお誕生日がございますね」
「うむ。あんまり嬉しくはないけどな」
二月二十九日なので、四年に一度しか、誕生日はやって来ないのである。
「今年はお誕生日の記念に一台、いかがですか」
「タダでくれるのなら、もらってやるぞ」
と、松永は笑った。「——帰ったのか」
居間の入口に、マチ子が立っていた。
「マチ子というんだ。大内君だ。四年に一度の定期便だな。——お茶をいれてくれ」
「かしこまりました」
マチ子は頭を下げて、姿を消した。
「冷えますねえ、この時期は」
と、大内は言った。「これが新しい型のカタログでございます」
と、アタッシェケースから出して、テーブルに置くと、
「ご覧いただくだけでも……。ちょっとお手洗いを拝借いたします」
「ああ、構わん」
「失礼して——あ、場所は存じておりますから」
大内は、居間を出た。
なぜか、落ちつかなかった。理由は分らなかったが、不安にも似た波立ちが、胸を騒がせている。
あのマチ子という娘は初めて見たが、およそ大内の目をひく存在ではない。それ以外には、特に変ったことがあるわけでもないというのに……。このもやもやした不安感はどこから来るのだろう?
用を足して、トイレを出た大内は、ギクリとした。目の前に立っていたのは——。
「これは——神山さん」
と、大内は頭を下げた。
神山絹代のことは、よく知っている。しかし、様子がおかしかった。
まさか大内に会うとは思わなかったのか、ハッと息をのんで、顔を伏せると、パッと駆け出すようにして、廊下の奥へ行ってしまったのだ。
——神山絹代のようなしっかりした女性があんな風に取り乱すとは……。一体何があったんだろう?
居間へ戻って、大内は、入口で足を止めた。
「——この車、悪くないじゃないか」
と、松永は言って肯いた。「まあ、社の方で、いい運転手も見付かりそうなんだ。一台、買うか」
「ありがとうございます」
と、大内は頭を下げた。
「——時間はあるんだろう。晩飯を食べていけよ」
「はあ……」
せっかくですが、今夜は用事が、と言いかけるのを、大内は何とかこらえた。こんなところで逆らえば、松永は気を悪くする。
「今、お茶が入る。ゆっくりしていけ」
と、松永は立ち上って、「ちょっと、電話をして来る」
松永は出て行った。
大内は、ソファに腰をおろした。——膝が震えている。自分でも意外なことだった。なぜだろう?
恐ろしいわけではない。ただ、あまりに意外なことに出くわしたからなのだ。
「——どうぞ」
マチ子という若い女の子が入って来て、大内にお茶を出した。
「どうも」
大内は、すぐに手に取って一口飲むと、苦さに顔をしかめた。
「苦かったですか?」
「いや……。少しばかりね」
「すみません。いくらやっても……」
と、マチ子は恐縮している。
大内は、少し気持がほぐれた。
「まだ、ここに来て、そうたたないの?」
「三か月です」
「そうか。——ここに住み込み?」
「はい」
「そう。いや、神山さんは前からよくお会いしてるんでね。あの人は、通いだったね」
「そうです。ご自分も家族がいらっしゃるんで」
「じゃ——ご主人と?」
「はい。お子さんも二人」
大内は肯いた。
「偉いもんだね。——いや、つまらないことを訊いてごめん」
「いいえ」
マチ子は頭を下げて、出て行った。
大内はお茶を飲み干した。——苦さが、却って救いである。
神山絹代をあんなにも取り乱させていたもの——。乱れた髪、青ざめた顔、まるで寒気がするように、両手を胸の前に重ねた様子……。
間違いない。神山絹代は男に力ずくで犯されたのだ。夫のある身で。
しかも、それは思いもかけない暴力だったことを、あの固くこわばった表情は告げていた。
そして、この居間へ戻った時、突然、大内は眼前に見《ヽ》た《ヽ》のだ。松永がベッドに神山絹代をねじ伏せて、のしかかって行くのを。
「見た」というのは正確ではないかもしれないが、しかしそれは確かに、「見た」と言っていいくらい、はっきりと分ったのである。
松永が? あの温厚な男が、なぜ?
——こんな問いを投げる資格は、自分にないと思いつつ、大内は体を貫いて走る寒気を感じたのだった……。