11 絶 望
「——もう行かなくちゃ」
と、小百合は立ち上った。「ごちそうさまでした」
「あら、小百合」
と、法子が戸惑ったように、「もう少し、だめ?」
「おじいさん、入院してるのよ。そばについていてあげなきゃ」
「そうね。——分ったわ。ごめんね。引き止めちゃって」
「僕が送って行くよ」
と、関谷征人が言った。
「いいのよ。一人で帰れる」
と、小百合は言った。
「何言ってんの。私が勝手に連れて来ちゃったんだから。待ってね。すぐタクシーを呼ぶから」
と、法子は自分の机の上の電話に手を伸ばした……。
征人と小百合は、結局松永家に上って、この法子の部屋で、夕食をとることになったのだった。
法子の祖父たちと一緒では気詰りだろうというので、この部屋のカーペットの上に大きな盆を置き、三人はそれを囲んで、思い思いの格好で食事をしたのである。
「凄い家だな」
と、征人は、法子が電話をかけている間に、そっと小百合へ言った。
「そうでしょ? うちとは大違いよ」
小百合は、お茶を飲んで、「——法子と結婚したら、ぜいたくができるわ」
「そりゃいいな」
と、征人は笑った。
「法子、一人っ子で、両親もいないし。でも、おとなしいから、恋人もいないわ」
「もったいない話だね」
「本当、私が男なら、絶対に逃さないけどなあ」
と、小百合は言った。
私は女で、法子も女で、そして征人は男……。どうしたって、一人が余るのよ。
その時は、誰が弾《はじ》き出されるか、そんなのは火を見るより明らかだ……。
「——困ったわ」
と、法子は言った。「タクシーが捕まらないんですって」
「大丈夫よ。適当に帰るから」
「でも、雨が降ってるし……。ごめんね。私が無理に夕ご飯を食べて行けなんて言わなければ——」
「いや、僕がついていくから」
と、征人が遮って、「風《か》邪《ぜ》なんか引かさない。大丈夫だよ」
「分ったわ。それじゃ、小百合をよろしく」
「かしこまりました」
征人がオーバーに頭を下げたので、法子が笑い出した。
——三人は、階段を下りて行った。
「では、早速契約書を作成して、また伺わせていただきますよ」
と、廊下をやって来たのは、大内だった。
「やあ、もう帰るのかね?」
と、松永が、小百合たちを見て、言った。
「小百合のおじいさん、入院なさってるから」
「そうだったね。大事にして——」
「ありがとうございます」
と、小百合は頭を下げた。
「タクシー呼ぼうと思ったけど、いないの」
法子の言葉を聞いて、玄関の方へ行きかけていた大内が振り向いた。
「じゃ、私が送りますよ」
「でも……」
「どうせ一人でホテルに帰るだけですからね。食事もごちそうになりましたし、急ぐこともない。レンタカーですが」
「じゃ……お願いできますか? 小百合、乗せてってもらいなよ」
「うん……。じゃ、よろしく」
「運転手をつとめますよ。どこへなりと」
と、大内は愛想良く言って、「そちらの男性も?」
「じゃ、僕はどこか途中のバス停ででも、降ろして下さい」
と、征人は言った。
「良かった! それじゃ、大内さん、お願いします」
「かしこまりました。——それじゃ、出かけましょう」
「よろしく頼むよ」
と、松永が言った。「大事なお嬢さんだからね」
「けがでもさせたら、切腹してお詫《わ》びしますよ」
と、大内は真《ま》面《じ》目《め》くさって、言った。
玄関から外へ出ると、体の芯《しん》まで冷えるような寒さである。
大内の車に、征人と小百合が乗り込んで、手を振る法子を後に、走り出す。
「法子、門を閉めて来てくれるか」
と、松永は言った。
「うん」
法子は駆けて行って、車が出た後の門を、力をこめて閉じた。
家の中へ戻ると、マチ子が、二階へ上って行くのが見えた。
「私、片付けるの手伝うわ」
と、法子が声をかけると、
「いえ、大丈夫です」
と、マチ子は答えた。
——どこかよそよそしい。
法子にはそんな風に聞こえた。確かに、マチ子には何《ヽ》か《ヽ》あったようだ。
——法子が居間へ入って行くと、松永はウィスキーらしいものを飲んでいる。
「おじいさん、大丈夫なの、そんなものを飲んで?」
「ああ。自分の体のことは分ってるよ。——お前、明日は出かけるのか?」
「小百合のおじいさんのことも心配だし。その具合次第ね」
と言ってから、「——ねえ、おじいさん」
「何だ?」
「マチ子さん、何だかふさぎ込んでない?」
「マチ子が?」
「うん。様子が変よ」
松永は肩をすくめて、
「あれも年ごろだ。色々、悩みもあるさ」
と、言った。
「年ごろ、かあ……。そんなもんかな」
法子は首を振って、「——私、お風《ふ》呂《ろ》に入っちゃおう!」
と言いながら、居間を出て行った。
「何だか……ごめんなさい」
と、小百合は言った。「こんなことになるなんて思わなくて」
「何が?」
征人は面食らったように、「楽しかったよ。いい友だちがいるなあ。羨《うらやま》しいよ」
「ええ……。法子ってすてき」
「そうだな。本当にボーイフレンドもいないの?」
「ええ。本人も、冷めてるっていうのかな」
「君とあの子、いいコンビじゃないか」
「そう? 漫才でもやろうかな」
と、小百合は笑って言った。
大内の車の後部席。——車は、病院へと向っていた。
「——あ、その先で停めて下さい」
と、征人が大内に言った。
「こんな所でいいの?」
「うん。そのバス停の先を入った所なんだ。車は狭くて入れないから」
車が、道のわきへ寄せて停る。征人は車を降りて、
「じゃ、またね」
「うん」
「電話、するよ。——おじいさん、お大事にね」
「ありがとう……」
ドアを閉めて、征人は駆け出して行った。
車が走り出す。——小百合は振り返って、征人の姿をずっと目で追っていたが、ほんの数秒のうちには、見えなくなった。
小百合は、ゆっくりと息を吐き出した。
「——この道でいいね?」
と、大内が訊く。
ハッと我に返って、
「ええ、そうです。すみません、ご迷惑をかけて」
と、急いで言った。
「いや、構わないんだよ」
大内は、運転しながら、「——あの男の子とは、もう長い付き合い?」
と、訊いた。
「いえ……。昨日会ったばっかりです」
「昨日?」
「ええ」
「好きなんだね」
小百合はドキッとした。
「好きなら、そう言った方がいい」
と、大内は続けた。「一人で苦しんでいるよりもね」
小百合は、窓の外へ目をやった。——どうしてこの人は、こんなことを言うんだろう?
もう、手遅れなのに。
法子は、征人を奪って行ってしまった。何でも持っている法子が。——私には、なぜ何も残っていないんだろう?
もう決して——決して、征人は小百合のところへ電話をかけては来ない。
決して。——決して。
小百合は、両手で顔を覆った。
大内は、小百合を病院の前で降ろすと、車をホテルへ向けて走らせた。
——やっと、いつもの自分に戻ったのを感じる。
あの瞬間……。松永の家の廊下で、あ《ヽ》の《ヽ》少《ヽ》女《ヽ》を見た時には、息が止るかと思ったほどだ。
四年前にも、もちろん法子を見てはいるのだが、十二歳から十六歳への変化は、大内の想像力をはるかに超えていたのである。
大内の驚きを、誰も怪しまなかったのは、法子が、あのもう一人の少女と、そして男の子を連れて来ていたからである。
大内は、君原小百合という子に好感を抱いた。
小百合が征人に夢中で、法子にとられるのではないかと不安でたまらない様子が、大内には手に取るように分った。もちろん、大内には何の関係もないことだが。
今はともかく、法子のことが分っただけで満足だった。——機会はまだまだある。
ただ……大内の満足に、多少の影を落としているのは、松永のことだった。
人間というものは、そう簡単には変らないのだ。特に、あれほどの年齢になれば。
それなのに、松永は、以前なら考えられなかったような真《ま》似《ね》をしたのだ。——もし女がほしければ、松永ほどの男なら、いくらでも金で囲っておけるだろう。
それを——わざわざ、夫のある身と知って、神山絹代に……。
奇妙だった。
大内は、ホテルの駐車場に車を入れ、フロントへと上って行った。
「お帰りなさいませ」
フロントの男が、微笑んだ。
「まだ帰らなかったのか」
「もう少しです。——キーを」
「ありがとう」
キーを受け取って、大内は、「あの女の子、帰ったかい?」
と、訊いた。
「はい。六時でしたか。澄まして出て行きましたよ」
「大したもんだね」
と、大内は笑った。「じゃ、今日はもう休むよ。おやすみ」
「おやすみなさいませ」
男の挨《あい》拶《さつ》を背に、大内はエレベーターへと歩いて行った……。
——部屋のドアを開けて、大内はホッと息をつきながら、明りを点《つ》けた。
「お帰りなさい」
大内は、飛び上りそうになった。
あのセーラー服の女学生が、ベッドに寝そべっている。
「君……。帰ったんじゃないのか?」
「一度はね」
と、少女はいたずらっぽく笑って、「そのドア、閉めると、鍵《かぎ》がかかっちゃうでしょ。だから、タオルを挟んで、閉まらないようにしておいて、一旦、フロントの前を通って、外に出たの。それから、駐車場に入って、直接上って来たのよ」
「どうして……」
「だって——稼ぎそこなったんだもの」
と、少女は口を尖《とが》らした。「あのおじさん、結構お金になりそうだったのにさ。少し稼がないと、明日、遊びに行けないし」
「僕の所はやめてくれ。よそを当ったら?」
と、大内は言って、上衣を脱いだ。
「今から、捜すのも面倒。——ね、いいでしょ?」
少女はベッドの上に立つと、ちょっと腰に手を当てて、クルッと回って見せた。スカートがフワリと広がる。
「——帰るんだ」
「いやよ」
と、少女は言った。「一一〇番する?」
「いいかい——」
少女はセーラー服のスカーフを外した。
やめろ。——やめてくれ!
止めるんだ。殴ってでも、やめさせるんだ。そうしないと……。
大内は止めなかった。少女は、楽しげに笑って、服を脱いで行く。
大内の顔に、汗が浮かんでいた。
目を閉じろ! 見るな!
しかし、目を閉じると、そこに闇はなかった。四年前、八年前、十二年前に、この手で殺した少女の白い裸像が鮮やかに浮んで見えたのだ。
やめてくれ……。
大内は目を開けた。