「ね、分って」
と、法《のり》子《こ》は言った。「私たち、愛し合ってるの」
法子がしっかりと手を握り合っているのは、も《ヽ》ち《ヽ》ろ《ヽ》ん《ヽ》、関《せき》谷《や》征《まさ》人《と》だった。征人は、小百合《さゆり》に見せたこともない、ぼんやりと夢見るような眼《まな》差《ざ》しで、法子のことを見つめている。
「分ってね、小百合」
と、法子は言った。「だって、征人さんには、あなたより私の方がふさわしいわ。そうでしょう? 誰《だれ》が見たって、そう思うわよね」
そう言って、急に法子は笑い出した。
それは、小百合が今まで聞いたこともない笑い——小百合に対して、勝ち誇った、優越の笑いだった。
「そうなのね」
と、小百合は言った。「法子、いつも私のことを、馬《ば》鹿《か》にしてたのね。ずっと昔から」
「馬鹿になんかしてないわ。憐《あわれ》んでただけよ。大違いだわ。ねえ?」
法子が見上げると、
「ああ。君の言う通りだよ」
と征人は言った。「いつだって、君の言う通りさ。君は可愛《かわい》いもんな」
「そうでしょ? 私は可愛いの。それに頭もいいし、お金持だわ。小百合は、何《ヽ》で《ヽ》も《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》人《ヽ》よ。何でもない人。何でもない……」
そんなことない! 私は私よ! 私は何でもない人間なんかじゃない!
声を限りに、小百合が叫ぶ。しかし、それは声にならずに、ただ小百合の心の中で響くばかりだった。
その代り、小百合は自分が法子に向って話している言葉を聞いた。
「本当よ。私なんか何でもないもの。法子こそ、征人さんにぴったりよ」
嘘《うそ》だ! 嘘だ!
征人と法子が身を寄せ合い、やがて抱き合うと、唇を触れる。小百合は、夢中で、二人に向って、飛びかかって行った。
「やめて! やめて!」
法子の甲高い笑い声が、小百合の耳に突き刺さった。くり返し、くり返し、小百合の胸を抉《えぐ》ったのだ……。
——ハッと、小百合は頭を上げた。
もちろん……。分っていたんだ。夢だってことは。
でも、夢だからこそ、小百合にとって、法子の笑い声は恐ろしかった。もし、本当に法子があんな笑いを浴びせて来たら、小百合は死んでしまうかもしれない、と思った……。
やめてよ。馬鹿げてる! 小百合は頭を振った。
法子があんな笑い方をしたことなんかないじゃないの。一度だって。それをどうして——。
ふと、我に返った。
変な夢を見たのは、祖父の君《きみ》原《はら》耕《こう》治《じ》に付き添って、ベッドのわきの椅《い》子《す》に座っていたせいかもしれない。ずっと、一晩中起きているつもりだったのだけれど、いつの間にか眠ってしまったらしい病室の中は、もちろん、もう明りも消えて、同室の他の患者たちの寝息が聞こえていたのだが……。
「おじいさん——」
目をこすった。しかし、こ《ヽ》れ《ヽ》は《ヽ》現実だった。君原のベッドは、空っぽだったのだ。
どこへ行ったんだろう? お手洗いにでも?
小百合は、そっと立ち上ろうとして、椅子をガタガタいわせて、ドキッとした。静かな病室の中では凄《すご》い音に聞こえてしまうのである。
あわてて押えようとして、却《かえ》って椅子をつかみそこね、引っくり返してしまう。ガシャン、とまるで爆発のような音がした。
腹立たしげな咳《せき》払い、呻《うめ》き声があちこちから、飛んで来て、
「ごめんなさい」
と、小百合は小さな声で言った。
「おい……」
と、低い声で呼びかけて来たのは、ちょうど真向いのベッドに寝ていた、君原と同じくらいの年輩の老人だった。
かなり長患いらしく、髪も真白になって、ずいぶん老けた感じではある。
「君、あんた」
「え?——私ですか」
小百合は、やっと椅子をちゃんと立てると、その老人のベッドの方へと歩み寄った。
「そこに寝てたおっさんの孫かい」
と、その老人が訊《き》く。
「そうです」
「そうか。じいさん、出てったよ」
小百合は当惑した。
「出てった……?」
「うん。目を覚ましたら、ベッドから起き出してな、モゾモゾやってるんだ。何だろうと思って、薄目を開けて、見てたのさ」
「あの……」
「服を着てね。そっと出てった」
「——じゃ、本当に?」
小百合は呆《あつ》気《け》に取られてしまった。「病院から出ちゃったのかしら」
「たぶんそうだろ。——もう三十分はたつと思うよ」
「だけど……。せっかく入院して、私がついてるのに」
小百合はわけが分らなかった。
「早く捜した方がいいよ」
と、その老人は言った。
「すみません。——一体どうしたんだろ、おじいさん」
小百合が離れかけると、
「待ちなさい」
と、老人が呼びかける。「前にも夜中に出歩いたりしたことがあるかい?」
「夜中に、って……。用事で出かけることはもちろん——」
「そうじゃない。気の毒だけどね、君のおじいさん、君がそこに座ってるのも分らない様子だった」
小百合は、全身の血が冷えて行くような気がした。——おじいさんが? そんなことをするなんて!
「まあ、薬のせいかもしれないね。けがしたのか?」
「オートバイにぶつけられて、頭を——」
と、言いかけて、小百合は言葉を切った。
「頭か、気を付けた方がいいね」
と、老人は、枕《まくら》の上で、ゆっくりと頭を左右に動かした。「ぼけちまったら、大変だよ。君も」
「私……捜して来ます」
「ああ、そうしなさい。外へ出たりすると、厄介だ」
小百合は病室を出た。めまいがした。——ショックで、血の気がひいている。
おじいさんが……ぼけて、一人で出かけてしまった?
まさか! そんなこと、信じられない。絶対に。——絶対に!
おじいさんは、きっと息苦しくて、外の空気を吸いたかっただけなんだ。屋上に出るかどうかして……。すぐに戻るつもりだったから、私を起こそうともしなかったんだ。
きっとそうだ。
ともかく——病院の中を捜そう。きっとおじいさんは中にいる。そして、私が見付けると、わざと強がって、
「ちょっとその辺をマラソンしようと思ったんだ」
とか言うんだ。
そうに決ってる……。
しかし、小百合の願いに反して、君原は病院の外へ出ていた。たまたま、誰の目にも留らず、運び込まれて来た急患のことで、ざわついている間に、外へ出てしまっていたのである……。
どこへ行くんだったかな……。
君原耕治は、夜中の町を、歩いていた。はた目にはしっかりした足取りで、何か用事で遅くなり、家路を急いでいる、と見えたかもしれない。
ただ、二月のこんな寒さの厳しい夜にしては、上衣は着ていたものの、コートもはおっていないのが、少し妙ではあった。
「小百合……」
そう。小百合が心配しているだろう、早く帰ってやらなくちゃ。
全く……。あの水《みず》口《ぐち》って刑事には腹が立った。人のことを、ただの「情報マニア」扱いして。
こっちは大ベテランの刑事なんだ。せっかく手がかりを教えてやろうというのに、耳も貸さない……。
ま《ヽ》た《ヽ》誰かが殺されるかもしれないってのにな。その時になって、俺《おれ》の所へ謝りに来たって遅いんだ! 死んだ者は、もう生き返らないんだからな。
全く、今の若い奴《やつ》は、そんな簡単なことも分らないんだ。——ま、文句ばかり言ってるようじゃ、また小百合から、
「おじいさん、嫌われるよ」
と、言われてしまいそうだが。
それにしても……。どうして、こんなに遅くなっちまったんだろう?
君原は、首をかしげた。
あの水口という刑事に会いに行って、ずいぶん待たされたのは確かだが、それでも夜になっちゃいなかった。それなのに……今はもう夜中だ。
一体何をやってたんだろ、酔ってたわけでもないのに。
まあいい。ともかく、小百合が心配してるだろう。早く帰ってやらなくちゃ。
横断歩道だった。——信号は赤。しかし、通りかかる車は一台もない。
渡ってしまっても良さそうなものだが、そこはやはり元刑事である。君原は断固として(!)信号の変るのを待っていた。
すると——夜の静けさを縫って、かすかに聞こえて来た音がある。たぶん、普通の人間ならまず、気付かないほど、かすかな音だ。
しかし、君原にとっては、それは懐しい音、彼の人生そのものの象徴のような音だったのだ……。
パトカーのサイレン。
風はそれほどないので、遠かったけれど、君原は、パトカーがどこからどっちの方向へと向っているのか、見当をつけることができた。たぶん、今渡ろうとしている道の先、あまり犯罪とは縁のない場所ではないだろうか。
君原は、いつしか、信号が青に変っているのも忘れて、その音に聞き入っていた。
何て、すばらしい音なんだ……。単純で、力強く、鋭く、それでいて優しい……。
優しい、と感じるのは、自分が刑事だったせいかもしれないが、しかし、あの音は、善良な市民にとっては、力強い味方の呼びかける音、騎兵隊のラッパなんだ。
俺も、あの音を鳴らしながら、パトカーで道を突っ走ったものだ。他の車が左右へ寄せて道を空け、その中を一直線に突っ切る。その快感は、味わった者でなきゃ分らないだろう……。
いつしか、君原は歩き出していた。家へ向ってではなく、まだ大分遠い、サイレンの声にひかれて。——もちろん、君原は自分がサイレンの語源の伝説を再現していることなど、知りはしない。
サイレンの歌声にひき寄せられる者には、破滅が待ち受けていることも、もちろん知るはずがなかったのである。
「着きました」
と、巡査に言われた、水口刑事は目を覚ました。
「ここか?」
と、分り切ったことを訊くのも、パトカーの中で眠っていたのに、いくらかは気恥ずかしい思いだったからだ。
ドアを開けると、まるで氷の壁のように冷え切った空気にぶつかって、一度に目が覚めてしまった。
巡査の一人が、駆けて来る。ひどく興奮している様子だ。
「あの茂みの向うです。パトロールをしておりまして、自分は——その——」
「落ちつけ」
水口は、巡査の肩を叩《たた》いた。「検死官は?」
「——まだです。少し遅れる、と連絡が」
「また酔ってたんだろう」
水口は軽口を叩いて見せたが、なに、水口自身、それほど場数を踏んでいるわけではなかった。ただ、この若い巡査の手前、慣れているふ《ヽ》り《ヽ》をしなくてはならなかったのだ。
「応援は?」
「はい。今、こちらへ向っています」
「着いたら、すぐにこの近辺に非常線だ。まだその辺をうろついてるかもしれないからな」
と、水口は言った。「あの向うか」
「ご案内を——」
「自分で見る。応援が来て、すぐ分るように見ていろ」
水口は、その小さな公園の中へ入って行った。
昼間は、暖かい日なら、子供を遊ばせて、おしゃべりに熱中する主婦たちで一杯になるような、シンプルな造りの公園である。
巡査が言ったのは、ベンチで囲まれた、小さな広場の外側、少し木が伸び放題になって、街灯の光が届かなくなっている一画だった。今は臨時に、木の幹にくくりつけられた照明が、その場所を明るく照らし出している。
水口は、軽く肩を揺すって、チラッと巡査の方を振り向いた。——本当は、死体を見たりするのが嫌いだったのだ。
それに、機嫌も良くなかった。何しろ、事件の報《しら》せが飛び込んで来たのは、最悪の時間——久しぶりに泊りに来た恋人と、ベッドに入っている最中だったのだから。
「仕事だ、仕事だ……」
と、呟《つぶや》くように言って、水口は、用心しながら茂みの向う側へ向った。
一瞬、水口の顔が蒼《そう》白《はく》になる。——思わず目をそむけていた。
白い少女の肌が、血で染まっている様子は、何ともむごいものだった。切り裂かれた傷口は、とても現実のものとは思えない。
しっかりしろ! お前は刑事だぞ!
そう自分へ言い聞かせても、何の役にも立たない。水口は堪え切れなくなって、茂みの陰へ駆けて行くと、吐いた。
——こんなひどい死体を見るのは、初めての経験だったのだ。
あの少女はいくつぐらいだろう? 十六か十七か……。
これは大変な事件になる。おそらく、水口にとって、生涯でそう何度もぶつかることのない事件に……。
——やっと気を取り直した水口は、この事件を自分の手で解決した時の、華やかな成功を思って、自分を励ますことにした。
パトカーが、続けて二台、公園の前に停《とま》った。水口はハンカチで口を拭《ふ》くと、大きく深呼吸をして、歩き出しながら、
「ご苦労さん!」
と、わざと大きな声を出し、手を振って見せた。