まるで、足が導いてくれたようだった。
松《まつ》永《なが》は、決して方向音痴というわけではないが、それでも一度行っただけの場所を、すぐに捜し当てることは、ほとんどなかった。それなのに、今日に限って……。
おそらく、見付けられないだろうと思っていたのだ。むしろ、それをあてにしているようなところもあった。それでいて、ほとんど迷いもせずに、あのマンションの前に出てしまったのである。
住所はもちろん、マンションの名前も、気に止めていなかったから、誰《だれ》かに訊《き》くというわけにもいかない。大方、昨日あの〈巨大迷路〉をうろうろと歩き回ったように、この辺りの細い道を歩き回り、疲れ果てて、会社へタクシーで戻ることになるだろう、と……。そう思っていたのである。
ここの三〇七号室。——昨日の少女に会ったのは、その部屋の前だった。
それでも、松永はマンションの入口を入る所で、少しためらっていた。——馬《ば》鹿《か》げたことだった。
昨日の少女が、今日もここへ来るなんて可能性は、至って小さいはずだ。時間だって分らない。それに、三〇七号室には、誰か「客」がいるのかもしれないのだ。
そうだ。——こんな所へ来ても、意味がない。戻ろうか……。
足下に目を落としていた松永は、突然何かの影が自分の上を通り過ぎるのを見て、ドキッとした。反射的に空を見上げたが、もう何も見えなかった。
何だろう、今のは? 鳥か?
そう。大方カラスだろう。今、都会はあの大きな真黒の鳥に悩まされている。
いや、悩んでいるのはカラスの方だろう。次々に木を切られ、住みかを失って、追い詰められている。
あの黒さは、不気味なほど完《かん》璧《ぺき》な黒さだ。自然が、なぜあの鳥にあんな「黒」を与えたのか、不思議になるほどである。
いや——まあ、どうでもいい。カラスのことは。
ただ、今頭上を飛んだのがカラスだったのかどうか、松永にも自信はなかった。その影《ヽ》は、まるで松永に触《ヽ》れ《ヽ》て《ヽ》行ったようだった。そんなに低く飛んでいたのなら、羽音も聞こえただろうし、風を感じただろうが、そんなものは何もなく、ただ、それでいて「何かが触れて行く」のを、感じたのだった。
マンションは、相変らず殺風景な入口を開いて、松永を待っている。——もう、ためらわなかった。
あの少女がいるかもしれない。わずかの可能性に賭《か》けてみるつもりで、松永はマンションへと足を踏み入れた。
三〇七号室のドアの前まで来ると、松永はコートのボタンを外し、ちょっと肩を揺った。ドアを叩《たた》くと、意外なことに、すぐ中で人の気配がした。
ドアが開いて、顔を出したのは、三十五、六歳に見える、当り前のサラリーマン風の男だった。上《うわ》衣《ぎ》を脱いでワイシャツとネクタイ姿。ネクタイはいかにも安物だ。
「失礼」
と、松永は素気ない調子で言った。「誰かと待ち合わせかね」
「ちょっと、ね……」
男はいぶかしげに、「あんた、何だよ? 四時までは俺が借りてんだよ、ここ」
「あと五十分か」
と、松永は腕時計を見て、「相手の子はまだ来ないのか」
「遅れりゃ、その分、値引きさせるさ」
どうやら、そうとう遊びに慣れた男のようだ。ケチで、しつこくて嫌われるタイプだろう。
「罰金を払う時は値引きしてくれないよ」
と、松永は、わざと楽しげな調子で言ってやった。「俺《おれ》は警察の者だがね」
男が真青になって——松永が呆《あき》れている前で、引っくり返ってしまった……。
「やれやれ」
——もう二度とやりませんから、と、ほとんどTVのお笑い番組のギャグみたいにオーバーな身振りで頭を下げ、男が逃げ出すと、松永は部屋へ上ってみた。
1LDKの、安っぽい作りだ。台所は何も置いていない。もちろん、料理することもないわけだ。寝室にベッドがあり、浴室にシャワーが出れば、それで充分なのである。
もちろん、ろくに掃除もしていないのだろう。埃《ほこり》っぽい、湿った匂《にお》いが漂っている。
普段なら、松永はこんな所に五分でもいたいとは思わないだろう。しかし、今の気分には、この不健康な、どこか腐ったような空気はいかにもふさわしいものに思えた。
浴室を覗《のぞ》いて、こんなに狭くちゃ、シャワーを浴びても、頭をぶつけそうだなと思っていると、玄関のドアが開く音がした。
——あ《ヽ》の《ヽ》子《ヽ》だ。
松永は、その少女の姿を見たわけではない。それに、声を聞いてもいなかった。
ただ、走って来たのか、激しく息をついているのが聞こえて来て、それだけで松永には分《ヽ》っ《ヽ》た《ヽ》のである。
「——あ」
松永を見て、少女は目を見開いた。「おじさん……」
松永は、何も言わなかった。——少女は、なぜか目を伏せ、玄関に突っ立っていたが、やがて気を取り直したように顔を上げ、
「昨日はありがとう」
と、微《ほほ》笑《え》んだ。
「上らないのかい」
と、松永は言った。
「あ……。ええ、上るけど……。びっくりしたの」
少女は、不安げだった。「どうして私が来るって——」
「知らないさ」
「でも——」
「たまたまだよ」
「そう」
少女は、少し間を置いて、「じゃ、誰でも良かったのね」
松永は、まるで大人のように揺れる女心に笑った。少女はふくれて、
「おかしくない!」
「君が来るといいな、と思ってたんだ。そう怒るなよ」
「でも……」
少女は、鞄《かばん》を下に置こうともしなかった。
「どうかしたのかね」
少女は、ゆっくりと壁にもたれた。
「馬鹿みたいね。——どうせ、見たこともない人がいると思って来たんだから。誰だっていいのに。でも……おじさんだから、却《かえ》って何だか……気がのらない」
「分るよ」
と、松永は言った。「しかし、君のことが忘れられなくてね」
「本当?」
「ああ」
少女は、少し気持がほぐれたようで、笑顔になると、
「おじさん、偉い人みたいね」
と、言った。
「どうして?」
「いい物着てるし……それに感じが——貫《かん》禄《ろく》がある、っていうのかな」
「太ってるだけかもしれないよ」
少女は笑って、それから寝室の方へ目をやって、
「ここで?」
と、訊いた。
「今日はあんまり時間がないんだ」
少女は、ちょっと肯《うなず》くと、鞄を置いて、それから玄関へ下りて、鍵《かぎ》をかけ、チェーンもかけた。
「私って用心深いの」
と、少女は言った。「おじさんは?」
——一時間後、松永は、少女と二人でマンションを出た。
「じゃ、さよなら」
少女は、早口に言って、駆け出して行った。——松永は、少女が泣いているだろうと思った。
乱暴な真似をしたわけではない。松永は少女を優しく扱った。しかし——少女にとっては、まるで父親に犯されているような気がしたのに違いない。
松永はよく分った。あの少女の気持が。
しかし、やめることができなかったのだ。それは滝を泳いで上ろうとするくらい、困難なことだった……。
行こう。——もう社へ戻らなくては。
松永が歩き出す。
その後ろ姿が一つの角の向うに消えると、足早にその後を追って、歩きだした男がいる。——林《はやし》田《だ》刑事である。
やれやれ、何てことだ。
あの松永という男。金も力もあり、社会的な地位もある。女を欲しいと思えば、金に任せて、手に入れることは難しくないだろうに。
よりによって、自分の孫のような、未成年の女の子に手を出すとは!
もちろん、長い刑事生活の経験で、林田もよく知っている。「社会的地位」というやつが、林田のように平凡で無名の人間に比べて、考えられないほどのストレスのもとになるらしい、ということは。
手短に、それを解消するのが、いささか「まともでない形の愛」であっても、多少は同情の余地はあるだろう。
しかし、それにも自《おの》ずと限界はある。ゲームとしての関係なら、「大人の女」を相手にするべきだ。たとえ、お金目当てにやって来たからといって、あんな少女を抱くのは、やはり人間としての限界を踏み越えたもの、としか言えない。
しかし、もちろん林田も、今、松永をどうこうしようというつもりはない。狙《ねら》いは別にある。
長年の勘は、松永という男に何《ヽ》か《ヽ》ある、と告げていた。あの腕時計の件では、マチ子というお手伝いの娘が嘘《うそ》をついている、と見抜いていた。
深夜に少女を待ち伏せしていたのが、松永だったことはまず間違いない。その時は幸い未遂に終っているが、こういう人間は一度やりそこなうと、さらに焦りを増して、自制がきかなくなるのが普通なのだ。
——そう。林田は、君《きみ》原《はら》耕《こう》治《じ》が犯人として逮捕されている、少女の惨殺事件が、松永の犯行ではないか、とにらんでいたのだ。
具体的な根拠があるわけではない。しかし、こうやって、被害者と同じような女学生と、マンションに入っていた現場を押えたのだ。もっと追い詰めて行けば、何《ヽ》か《ヽ》出て来るかもしれない。
林田は、いささか興奮していた。もし、松永が真犯人だったとしたら、あの小生意気な水《みず》口《ぐち》刑事の鼻もあかしてやれるというものだ……。
もちろん、俺はあんな駆け出しとは違う。確実な証拠をつかんでから、一番効果的な方法で、松永に手錠をかけてやるのだ。
——松永は、少し道に迷っているようだった。この辺りに詳しくないのだろう。それは林田も同様だった。
こういう時は用心しなくては、道が分らなくなった松永が、同じ道を戻って来て、出くわしてしまう可能性があるからだ。
見失う心配はあったが、林田は足取りを緩めて、松永との間隔を開けた。
急に曇って、風が出て来た。林田は身震いして、コートのえりを立てた。
最近のコートは、どうしてこんなに薄手なんだ? 昔のやつは、確かに肩がこるくらい分厚くて、重かったが、それでも暖かかった。今は、見ばえがいいだけで、一向に防寒の役には立っていない……。
「ん?」
林田は足を止め、舌打ちした。
道が複雑に入り組んでいる。松永がどこへ行ったか、見当がつかなかった。——見失ったらしい。
広い道路が陸橋になっていて、その下をくぐる道があった。耳を澄ますと、その暗いトンネルの方から、かすかに靴音が聞こえて来る。
それが松永のものかどうか、判別できなかったが、何もないよりはましだろう。林田は急いで、そのトンネルの方へと歩いて行った。
トンネルといっても、ほんの二十メートルくらいのものだが、照明が全くないので、結構、真中辺りでは暗くなっている。
物騒だな。——町の中のこんな一角が、まるでブラックホールのように、人を吸い込むことがある。特に、昼間のこんな時間には、人通りがほとんどなくなるような場所。
盲点というか、死角、とでも呼ぶのがふさわしいのか……。犯罪というのは、しばしばこんな場所で起るものなのだ。
まるで、その場《ヽ》所《ヽ》そのものに、人を凶暴にする力が潜んでいるかのような、暗黒。
もちろん、林田はそんなことを本気で心配していたわけではない。「危い場所」といっても、一般論として考えていただけで——。
トンネルの向うには、〈産地直送〉という旗を立てたトラックも見えた。トラックの側面の扉を開けると、簡単な「商店」が出来上る。移動販売車というやつである。
トラックは停《とま》っていて、二人の主婦が、玉ねぎを選んでいるところだった。
その主婦のサンダルの音を聞いて、林田は自分が間違えていたことを知った。松永の靴音かと思ったのは、そのサンダルの音だったのだ。
林田は、足を止めた。——まあいい。ここで見失っても、別に逃げられたわけではないのだ。松永が尾行に気付いたのでないことには自信があった。
松永の会社へ行けば、帰宅するところを捕まえられるかもしれない。それとも、自宅の前で、帰って来るのを待つか?
帰宅の途《ヽ》中《ヽ》で何かあるかもしれない。焦るわけではないが、波に乗っている時には、波に任せておく方がいいのである。ただし、波から落ちないようにしなくては。
よし、会社へ行ってみよう。林田はそう決めると、道を引き返そうとした。
ちょうど今、林田はトンネルの真中辺り、一番暗くなった所に立っていた。——なぜ気付かなかったのだろう?
いくら暗いといっても、人の気配は感じ取れたはずだ。しかし、「はずだ」という言い方には何の意味もない。現実の前では。目の前に、突然誰かが立ったという現実の前では。
林田の腹部、中央を刺した刃《やいば》は、深く食い込んで、骨にまで達した。林田は、尖《とが》った切っ先が自分の骨に当る音を、確かに耳にした。刃が音もなく引き抜かれた。
「誰だ!」
林田の声が、意外なほど力強かったのに、相手はびっくりし、怯《おび》えたようだった。もう一度刺そうと構えていた刃物を、素早くコートの下へ、握りしめた右手ごと入れて、林田に背を向けると、駆け出していた。
「逃げるな!」
自分でも、驚いたことに、林田は少しも衰えない語気でその言葉を叩きつけると、拳《けん》銃《じゆう》を抜こうとした。一発は外して撃たなくてはならない、と考えるだけの余裕もあった。
しかし——抜いた拳銃は、手の中から滑り落ち、足下の暗い範囲の中に見えなくなってしまった。右手で、刺された腹を押えたので、血がべっとりと右手についていた。そのせいで、拳銃が落ちてしまったのだ。
しかし、林田は、追いつけると思っていた。拳銃を取り落としたのは、手に力が入らなかったからじゃない。ただ、滑っただけなのだ。
しかし、もうその人影は、トンネルの向うに消えてしまっていた。——逃がしたのか。
畜生! 俺を刺したな! 俺を……。
林田は、傷の手当をしなくては、と思った。もちろん、病院へ——いや、傷はかなりひどいのかもしれない。救急車を呼ぶ必要があるかもしれない。
林田は、あの〈産地直送〉のトラックと、主婦たちのことを思い出した。そうだ、救急車を呼んでくれ、と頼もう。五分か十分でやって来るだろうが、それまでは何とか出血を押えて……。
「おい——」
林田は、そのトラックの方へと歩いて行った。
何《ヽ》か《ヽ》が起ったことを、その二人の主婦と、トラックの陰から姿を見せた、古めかしい「八百屋」という格好の男も、察していたらしい。
「すまないが……」
主婦の一人が、短い悲鳴を上げ、もう一人はポカンと口を開けて、後ずさった。
何だよ、おい。まるで狼《おおかみ》男か吸血鬼でも見たような顔して。俺はそんなにひどいかい?
人相が悪い? よしてくれ。
「救急車を——」
膝《ひざ》から力が抜けた。道に膝をつくと、林田は前のめりに倒れようとして、手をついた。傷口から溢《あふ》れ出た血が、広がって行く。
何だこれは? これは俺《ヽ》の《ヽ》血《ヽ》か? そうなのか?
林田はゆっくりと血の池の中に倒れた。