「一体、何が起ったの?」
と、小百合は言った。
「分らん」
君原耕《こう》治《じ》は首を振った。「ともかく——人が死に、犯人は捕まった。それだけのことだよ」
君原は、ずいぶんやつれて、何年も一度に年齢《とし》を取ったように見えた。
タクシーは、松永の屋敷の近くに来て、停《とま》った。
「ここから歩こう」
と、君原は言った。「少し運動せんとな」
「大丈夫なの?」
「ああ。もう心配ない」
と、君原は笑顔を見せた。
三月に入って、大分暖かくなっていた。
君原が釈放されたのは、あの少女を殺した本当の犯人が、逮捕されたからだ。同様の暴行事件を起こそうとして、失敗し、パトロールの警察官に見付かったのである。
水《みず》口《ぐち》という刑事は、一言も詫《わ》びるでもなく、面《おも》白《しろ》くもない、という顔で君原を自由にした。
「あのマチ子さんって人……。結局、三人も殺しちゃったわけね」
と、歩きながら、小百合は言った。「林田って刑事さん、神山絹代さん。そして——大内さん」
佐川刑事は重傷だったが、命は取り止めたのだった。
「真《ま》面《じ》目《め》な子だったそうじゃないか。——一歩踏み外したばかりに、次から次だ。怖いもんだ」
と、君原は首を振った。
「法子のおじいちゃんが、あの人を——」
「不思議だな」
と、君原は言った。「人間、悪魔に魅《み》入《い》られる瞬間というものがあるのかもしれないな」
門は開いていた。——玄関の方へ歩いて行くと、待っていたようにドアが開いた。法子が立っていた。
「法子」
「小百合……。来てくれたのね」
「いけなかった?」
「そんなこと……。君原さん、良かったですね」
「ありがとう。小百合にくっついて来てしまったよ」
法子は小百合たちをダイニングへ通した。
「ちょうどデザートを作ってたの。よかったら、どうぞ」
「ありがとう。——おじいさんは、どうなさってる?」
君原の問いに、法子は、ちょっと目を伏せて、
「すっかり老けちゃって……。もう会社の役職も、全部退いて、ずっと家にいます。——マチ子さんも、絹代さんも、自分が殺したようなもんだ、と、時々泣いて……」
「あんまり考えないことだ」
君原は、法子の肩を叩いた。「ちょっと挨《あい》拶《さつ》して来るかな」
「ええ。きっと喜びます。居間に——」
「分った。コーヒーを淹《い》れておいてもらえるかな」
「はい」
法子は、まだ少し青ざめていたが、大分立ち直って来ていた。ショックで眠れない日が何日も続いたのだ。当然のことだろう。
松永は、結局、直接には誰も殺さず、傷つけてもいない。しかし、事件の詳細が明るみに出ると、当然の如《ごと》く、責任は取らねばならなかった。
「——おじいさん、二人とも、一度に年齢《とし》とったね」
と、小百合は言った。
「これからどうなるんだろう」
と、法子は、疲れたように言った。
「法子——ここで暮すんでしょ、これまでの通り」
「うん。だって……やっぱりおじいさんを放っとけないもの。今のとこ、お手伝いさん見付からなくて、私が食べるものとか、やってるんだし」
「お嬢様には大変だね」
と、小百合はからかうように言った。「——ね、法子」
「うん?」
「何があったんだろうね、法子のおじいさんに」
法子も首を振った。
松永は、小百合を二階へ連れて行って、薬を入れたコーラを飲ませ、寝入った小百合を裸にして寝かせておいたのだ。——法子が捜しに来ることを、おそらく承知していたのだろう。
「おじいさん自身も、よく分らないみたいなの」
と、法子は言った。「私と小百合を、憎み合せるのを、楽しんでたみたい……。どうかしてたんだわ。本当に」
「法子の首を絞めて——」
「でも、殺さなかったと思う。きっと。——絶対に、私を殺したりしなかったわよ」
法子は自分へ言い聞かせるように言った。「私のことを、可愛がりすぎたのよ。誰か、他の男の子にとられるのがたまらなかった、って……」
法子は、誰にも話していなかった。——法子がシャワーを浴びた後、裸でいるのを、祖父が見てしまったことを。
あの一瞬が、もしかしたら、祖父をこんなところまで追いやったのかもしれない、と法子は思っていたのだ。
「征人さんと——」
と、小百合が言った。
「え?」
「征人さんのこと。あれから、会った?」
法子はためらっていた。小百合にとっては返事を聞いたのと同じだ。
「慰めてもらえばいいじゃない」
と、明るく言ったが、少し声は震えた。
「ごめんね、小百合」
法子は目を伏せた。「でも——今、どうしてもあの人に会っていたいの。そうでもしないと……」
「構わないのよ」
「でも、小百合が好きになった人なのに」
「本当に、いいのよ」
小百合は、明るい光の射し入る窓の方へと歩いて行って、表を眺めた。
私が好きになっても、向うが好きになってくれなかったら……。
一転して、小百合よりも法子の方が同情を集める立場になってしまった。征人は、きっと法子を優しく慰めているだろう。
小百合の胸が引き絞るように痛んで、思わず息をつめた。——ふと、小百合の顔の上を影がかすめて行った。
鳥? 何だろう?——記憶の奥底で、何かがはばたいた。
こうなることを、予《ヽ》感《ヽ》したあの日のことを、思い出していたのだ。法子が、私の恋人を奪って行く……。
やめて! そんなことしたら、殺《ヽ》し《ヽ》て《ヽ》や《ヽ》る《ヽ》から!
そう。そうなのだ。
殺意というものが、あまりにも簡単に生れて来ることを、小百合はあの日、知ったのだった。
友情とか、肉親の愛とか、そんなものはいかに脆《もろ》いものか。たった一人、ついこの間まで見も知らぬ男だった人間が、間に入って来るだけで、友情は敵意に、そして殺意にも変るのだ。
コーヒーを淹《い》れて、法子は自分で紅茶を作った。
「小百合も?」
「うん」
「私、ハチミツ入れるわ。どうする?」
「私、ノーシュガー」
と、小百合はちょっと気取った。
「——固いなあ」
ハチミツのびんを開けられなくて、法子が苦労している。
小百合は、大内のことを思い出した。
大内も、結局、法子を助けて死んだのだ。——新聞などでは英雄扱いだったが、小百合は知っている。
大内は、どこか小百合と似た、寂しい人間だったのだ。その死に方も、寂しくなかったとは言えない……。
——ふと、ダイニングのテーブルにのったフルーツナイフに目が行った。
いかにも高そうなナイフだった。一点のくもりもないくらい、磨かれている。
小百合はそのナイフを手に取って、鏡のような、滑らかな表面に、自分の目を映してみた。
私はこれからどうするんだろう? 法子と征人が、恋人同士になり、婚約し、結婚するのを、見届けるのだろうか。それが私の役目なのか。
法子と征人に、
「おめでとう。お幸せに」
と、言ってやるのだろうか……。
「ふたが固い」
と、法子が手を振った。
法子さえ……。法子さえいなかったら。
そうなのだ。法子がいなければ、征人さんと私は——きっと——。
小百合は振り返った。
法子が、指が痛くて、顔をしかめながらも、ハチミツのびんと取り組んでいる。
小百合は、ナイフを持った手をダラリと下げて、法子の方へ、歩いて行った。
「ハチミツがこびりついてるのよ……。どうしても——」
法子が真赤になって開けようとしている。
法子……。あなたがいなければ……。あなたが……。
小百合は、ナイフを持った手を、静かに上げた。
「だめだ。——どうやったら開くんだろ?」
と、法子がため息をつく。
何も知らない法子。——本当に、だめな人なんだから。小百合は、突然、夢から覚めたように、自分が手にしたナイフを見下ろしていた。
どうするつもりだったんだろう、これで?
「小百合、開けてくれる?」
と、法子が言った。
「うん」
小百合は肯いた。「かしてみて」
ハチミツのびんを手に取ると、小百合はナイフの背で、ふたのへりをトントンと叩きながら、ぐるっと回した。そして、
「これで——ほらね」
と、力をこめて開けて見せる。
「小百合、力あるね」
「頭がない分ね」
と、小百合は言って笑った。
そして、フルーツナイフを静かにテーブルにのせる。
窓の外に、黒く羽ばたく鳥のような影は、高く上空へ舞い上ると、ゆっくりと旋回し、やがて遠くへ消えて行った。
——小百合は、ハチミツを入れた紅茶を飲みながら、親友へそっと微笑みかけたのだった……。