「ああ寒い、畜《ちく》生《しよう》め!」
ドアが開くなり、都会が飛びこんで来た。
「いいじゃないの、もう、今日帰るんだから」
と言ったのは、若《わか》い女の子で——たぶん、大学の二年生ぐらいか。
最初にボヤいた男の子ともども、総《そう》勢《ぜい》五人の、にぎやかなグループだった。
「ああ、あったかい!」
女の子二人の内のもう一人が、店に入って来るなり、大げさに息をついて、マフラーを取った。
——山小屋風の造《つく》りの喫《きつ》茶《さ》店《てん》。
カウンターと、テーブルが三つ。それだけの店だった。
カウンターの内側には一人だけ、意外に若い主人が、大きなエプロンをかけて、コーヒーカップを洗っていた。
「いらっしゃい」
と、あまり商売熱心でもなさそうな声を出す。
五人の若者たちは、カウンターの椅子《いす》にてんでんにかけると、
「俺《おれ》、コーヒー」
「私《わたし》も」
「私はココア。熱いのね」
などと、注文した。
店の主人は、別にあわてるでもなく、カップを三種類出して並《なら》べた。
「雪になるんじゃねえのか」
と、細身で寒がりらしい男の子が、かじかんだ手をこすり合せながら言った。「俺、やっぱ、東京の方がいいよ」
「文明に毒《どく》されてんだよね」
と女の子の一人が言った。「自然の寒さっていいじゃない」
「暖《だん》房《ぼう》の入った部《へ》屋《や》にいりゃね」
と男の子がからかう。
「でも、こんな所に住んでる人って、大変だろうね」
と、女の子が言った。「——あ、コーヒーが来た。お先に」
「すぐココアもできるよ」
と、店の主人が言った。
「急いでね、体の芯《しん》から凍《こご》えそう」
と、大げさに手をこすり合せる。
「——東京から?」
「そうよ。ずっと車でね」
「雪になると厄《やつ》介《かい》だから、今夜中に帰ろうと思って」
主人は黙《だま》って微《ほほ》笑《え》んだ。
「——これからは、この辺も寂《さみ》しいんでしょうね」
と、女の子が言った。
「そうだねえ……。この辺に別《べつ》荘《そう》のある人なんかは、週末ごとに来たりするけど。あとは年末に少し来る人もいるね」
「雪、沢《たく》山《さん》降《ふ》るの?」
「年によるね」
と、主人は首を振《ふ》った。「去《きよ》年《ねん》の冬は雪が少なかった。——降れば降ったで、大変だけど、それでも、また降らないと寂しいもんさ」
「俺、雪は映画かTVで見るだけでいいや」
と、寒がりの男の子が言った。
「車、通れなくなるの?」
と女の子が訊《き》く。
「よほどひどい時だね、それは。でも、この辺の人はちゃんと車もチェーンを巻《ま》いて走るし、慣《な》れてるよ」
「おじさん、ここに住んでんの? それとも閉《し》めちゃうの?」
「ここにいるよ」
主人は熱いココアをカップへ注いだ。「はい、お待ち遠さま」
「わあ、助かった!」
と、両手で、熱いカップを包むように持って飲み始める。
「じゃ、ここが家?」
と、もう一人の女の子が訊《き》く。
「いや、この少し先さ。駅に近い方だよ」
「でも、駅まで大分あるでしょう? 買物なんかどうするの?」
「町まで車で出るのさ。雪のときは、ちょっと難《なん》儀《ぎ》だがね」
「へえ。——よく暮《くら》してられるわね」
主人は笑《わら》って、
「住めば都、ってとこかな」
と言った。「——ああ、先生、どうもありがとうございました」
若《わか》者《もの》たちは、びっくりして振《ふ》り向いた。
他に客がいたことに、全く気付かなかったのである。
革《かわ》のハーフコートをはおったその男は、買物をして来たのか、両手に大きな紙《かみ》袋《ぶくろ》をかかえていた。
「ごちそうさま」
と主人の方へ、ちょっと肯《うなず》いて見せる。
「開《あ》けましょう」
店の主人が、走って行って、ドアを開ける。「お気を付けて」
「ありがとう」
「先生」と呼《よ》ばれた男は、軽く微《ほほ》笑《え》んで見せた。
五十に手の届《とど》こうかとも見える風《ふう》貌《ぼう》だったが、髪《かみ》が白くなりかかっているのを除《のぞ》けば、足下や腰《こし》つきにも、衰《おとろ》えている印象はない。
実《じつ》際《さい》はもっと若《わか》いのかもしれなかった。
——店の主人がカウンターの中へ戻《もど》ると、女の子の一人が、
「ねえ、今の人、何の『先生』?」
と訊《き》いた。
目が輝《かがや》いている。好《こう》奇《き》心《しん》が旺《おう》盛《せい》なのだ。
「あの人は作家なんだよ」
と、主人は言った。
「作家?——何ていう人?」
「伊《い》波《ば》伸《しん》二《じ》っていう……あんまり若い人には縁《えん》がないかもしれないね」
「知らないわ」
と、ココアを飲んでいた女の子が、つまらなそうに言った。「何を書いた人?」
「俺、知ってる」
と、やたら寒がりの男の子が突《とつ》然《ぜん》言い出したので、他の四人がびっくりした。
「知ってんの?」
「伊波伸二。——『明日の間《かん》隙《げき》』を書いたんだ」
「へえ!」
女の子の方は、目をパチクリさせている。
もちろん、その本のことを感心しているのでなく、その男の子が、そんなことを知っているのに面《めん》食《く》らったのである。
「じゃ、有名な人なんだ」
と、至《いた》って単《たん》純《じゆん》な結《けつ》論《ろん》が出る。
「うん、だけど——」
と、伊波を知っていると言った男の子が何か言いかけて、口をつぐんだ。
「ねえ、おじさん、あの人、この辺に住んでんの?」
と、女の子が訊《き》く。
「この裏《うら》手《て》の林の奥《おく》だよ」
「へえ。じゃ、もっと寂《さみ》しい所?」
「そうだね。もちろん車は入れるが、周囲には別《べつ》荘《そう》の一軒《けん》もない。ポツンと建ってるんだよ」
「家族と一《いつ》緒《しよ》?」
主人はなぜか目をそらして、
「いや、一人らしいよ」
と言うと、カウンターから出て来て、「先生」が飲んで行った、カップを片《かた》付《づ》けた。
「こんな所に、よく一人でいられるわねえ」
と、女の子が感心した様子で言った。
「よくお金があるわね」
ココアの子が、現《げん》実《じつ》的《てき》なことを言い出した。
「そりゃあ、本の印《いん》税《ぜい》とか——」
と、言いかけて、もう一人の女の子は言葉を切った。
低いエンジンの音がして、窓《まど》から、赤い小型車が走り出すのが見えた。
「赤い車なんだ……」
と、伊波を知っている男の子が、呟《つぶや》くように言った。
「赤い車がどうしたの?」
男の子は黙《だま》って首を振《ふ》った。
「でも、いいだろうな。こんな所なら静かだしさ、小説書くには最高じゃないか」
「あ、自分でも小説書くようなこと言ってる!」
と、女の子がからかうように言った。
笑い声が、小さな暖《あたた》かい空間に響《ひび》いた。
——三十分ほどして五人のグループは店を出た。
「気をつけて」
店の主人が軽く手を上げた……。
「ねえ、何なのよ」
と、窮《きゆう》屈《くつ》な車の中で、女の子の一人が言った。
「え?」
と、振り向いたのは、伊波伸二を知っていた男の子だ。「何の話?」
「さっき、何か言いかけてやめたじゃない。わけありだったわよ」
「別に——」
と、男の子は窓の外へ目をやった。
「それにさ、赤い車がどうしたとか。——何なの? 教えてよ、ケチ」
「ケチはないだろ」
と、男の子が苦《にが》笑《わら》いした。「いいよ、しゃべるよ」
「ほら、早く白《はく》状《じよう》せい!」
車は、ガラガラに空《す》いた国道を走り続けていた。
両側は、いつ果《は》てるとも知れぬ、樹木の行列だった。——灰色の、寒々とした風景である。
「伊波伸二って、俺《おれ》んちの近くに住んでたんだよ」
「なあんだ。それで知ってたのか」
「うん、だけど、ちゃんと本のことだって知ってたんだぜ」
「分ったわよ、そうむきになんないで。それでどうしたの?」
「あの人な、四年前に奥《おく》さんを亡くしてるんだ」
「四年前?」
「それで引《ひ》っ越《こ》して行っちゃったのさ」
「ふーん。それが何か……」
「奥さんは、殺されたんだよ」
一《いつ》瞬《しゆん》、車の中が静まり返った。
「殺された?」
「ああ、旦《だん》那《な》は若《わか》い恋《こい》人《びと》の所に泊《とま》ってた。で、奥さんは一人で家にいたんだ。死体を見付けたの、旦那だったんだよ」
「あの作家先生ね」
「強《ごう》盗《とう》殺《さつ》人《じん》ってことだったけど、その内、あの旦那が外に恋人を作ってて、奥さんと別れる、別れないで争ってたことが分って、警《けい》察《さつ》が、旦那を疑《うたが》い出したんだ」
「それで?」
と、みんなが身を乗り出す。
「それで——おい! 気を付けて運転しろよ!」
「悪い!」
ハンドルを握《にぎ》っていた男の子は、首をすくめた。
「じゃ、話、終るまで、車をわきへ寄《よ》せとこう」
車は、道の端《はし》に、静かに寄って停《とま》った。
「——警察は、あの人を呼《よ》んで、色々調べてたらしいけど、結局証《しよう》拠《こ》が出ない。ところがそこへ目《もく》撃《げき》者《しや》が出たんだ」
「目撃者?」
「面《おも》白《しろ》くなってきたわ」
と女の子は目を輝かす。
「目撃者といっても、子《こ》供《ども》だった。それも、伊波伸二その人を見たわけじゃない。ただ、ちょうど奥さんが殺されたと思われる時間に、赤い車を見たんだ」
「赤い車?」
「うん。——伊波伸二は、赤い車に乗っていたんだよ」
「じゃあ、やっぱり……」
「彼《かれ》には不利だった。アリバイを証《しよう》言《げん》してくれるのは恋《こい》人《びと》一人。そして赤い車。——でも、警察としても、最後の決め手がなかったんだ」
「そうね。赤い車ったって、一台だけってことないし」
「それに子供の証言だからね、どこまで信用できるか分らない、ということもあった。ともかく、車の色が赤だってことしか分らないんだから。——型もナンバーも分らないんじゃ旦《だん》那《な》の車だとは断《だん》定《てい》できないものな」
「そうねえ。じゃ結局——」
「恋人の証言だって、嘘《うそ》と断定はできない。——ずいぶん長いことかかったけど、結局、不《ふ》起《き》訴《そ》になったんだよ」
「不起訴か……。つまり、もしかすると、犯《はん》人《にん》かもしれない、ってことね?」
「うん。隣《となり》近所では、そう噂《うわさ》されてたね」
「それであんな所に……」
「でも一年近くは、その家に一人でいたんだよ」
「その恋人とは?」
「知らないな。——ともかく、奥さんの一《いつ》周《しゆう》忌《き》をやって、間もなく、引《ひ》っ越《こ》して行った。どこへ行ったのか、誰《だれ》も知らなかったけどね……」
——しばらく、車の中は沈《ちん》黙《もく》していた。
「それでね、さっき、赤い車を見て、あれ、と思ったのさ」
「どうして?」
「だって、普《ふ》通《つう》だったら、そんな殺人の容《よう》疑《ぎ》を受ける原《げん》因《いん》になった車なんか、続けて乗る気しないんじゃないか?」
「そうか。——せめて、色ぐらいは塗《ぬ》り変《か》えるでしょうね」
「だろう? だから、変だなと思ったのさ」
「もし犯《はん》人《にん》だったら……」
と、女の子が言った。「平気で乗ってられるかもね」
——また、みんな沈《ちん》黙《もく》した。
「おい、雪になりそうだ」
と、運転席の男の子が言った。「出かけようか」
車は、また走り出した。
灰色の空は、どんよりと重く、雪をたっぷりとのせているかのようだった……。