やっと自分の別《べつ》荘《そう》が見えて来て、伊《い》波《ば》伸《しん》二《じ》はホッと息をついた。
もっとも、別荘と呼《よ》ぶのは妙《みよう》なものかもしれない。今は、これが伊波の家——唯《ゆい》一《いつ》の家なのだから。
林の奥《おく》まで、道は、伊波の運転している赤い小型車がやっと通れる程《てい》度《ど》の幅《はば》しかない。
「巧《うま》くなったもんだ」
と、伊波は独《ひと》り言《ごと》を言った。
運転のことを言っているのである。
四十近くになって、やっと免《めん》許《きよ》を取った伊波は、あまり優《ゆう》秀《しゆう》なドライバーとはいえなかった。
この別荘に落ち着いて、車で、町や、その道《みち》筋《すじ》にある喫《きつ》茶《さ》店《てん》へ出かけるようになってから、何度、車体を木の幹《みき》に、こすったり、ぶつけたりしたことだろう。
危《あぶ》なげなく、複《ふく》雑《ざつ》微《び》妙《みよう》なカーブを右へ左へと辿《たど》って、一度もこすらずに通り抜《ぬ》けられるようになったのは、本当にここ三か月ほどのことなのである。
自分の家まで無《ぶ》事《じ》に着けるからといって、自《じ》慢《まん》にはならないな、と伊波は自分で笑《わら》ってしまった。
さあ、車をガレージへ入れておこう……。
ガレージの扉《とびら》を閉《と》じて、別荘の方へ歩き出す。——ガレージと別荘は、二十メートルほど離《はな》れていた。
大雪のときなどは、この二十メートルが、途《と》方《ほう》もなく長いのだ。
買って来た品物を、一《いつ》旦《たん》、玄《げん》関《かん》のわきに置くと、伊波は、鍵《かぎ》を開けた。
別荘の中は、当り前のことだが、静かだった。
伊波はまず台所へと大きな紙《かみ》袋《ぶくろ》を運んで行った。
「さて、冷《れい》蔵《ぞう》庫《こ》へ入れるものは、と——」
卵《たまご》、ハム、ソーセージなどを手早く冷蔵庫へ。大分手《て》慣《な》れて来た。
以前は、よく焦《あせ》って、卵を落っことしたものだ。外から戻《もど》っても、冬はしばらく手がかじかんでいるせいもあろう。
——一通り片《かた》付《づ》けると、伊波は息をついて、朝淹《い》れたコーヒーをガス台で温めることにした。
飲んで来たばかりだが、自《じ》宅《たく》で飲むのは、また別《べつ》の味がする。
ポットを火にかけておいて、居《い》間《ま》に入って行く。
——別荘は、そう大きくはないが、二階建《だ》てで、一人で暮《くら》すには、少々広すぎた。
しかし、空間が豊《ほう》富《ふ》にあるということは、気分的に楽である。余《よ》裕《ゆう》、というものができる。
少し古い別荘で、建てて二十年近くたっていると聞いていた。それを一通り修《しゆう》理《り》したのを買ったのである。
木《もく》造《ぞう》というのは、しっかり造《つく》ってあれば、多少古くなった方が、しっくりとなじむものだ。
伊波は、暖《だん》房《ぼう》のスイッチを入れ、ソファに腰《こし》をおろした。ともかく、もう気温は低くなっている。
部屋が暖《あたた》まるのに、しばらくかかるだろう……。
伊波は、さっき、喫《きつ》茶《さ》店《てん》にいた若《わか》者《もの》たちのことを、思い浮《う》かべた。
「先生」
と、店の主人が呼《よ》んでくれたとき、えっ、という顔で振《ふ》り向いていた。
もちろん、伊波伸二の名前を、あの若者たちが知っているとは思えない。——何の先生かな、近くの学校の先生かもしれない、とでも思われるのが、オチだろう。
——だが、伊波は決して、筆を折《お》ったわけではない。
現《げん》に、月に二、三人は、雑《ざつ》誌《し》や出《しゆつ》版《ぱん》の編《へん》集《しゆう》者《しや》が訪《たず》ねて来るし、伊波も毎日、ほんの一、二時間ではあるが、原《げん》稿《こう》を書き進めている。——せいぜい一日に、原稿用紙十枚《まい》が限《げん》度《ど》だ。
それも毎日書くわけでなく、しばらく書いては、気に入らなくて書き直す、といったことをくり返しているから、今取りかかっている長編が、いつ完成するかは、神のみぞ知る、というところだった。
電話の音に、伊波は、ちょっと飛び上りそうなほど、びっくりした。
もちろん、電話はあるのだが、めったにかかって来ることがないので、つい、あるということまで忘《わす》れてしまいそうになる。
本当に鳴っているのかな、と、伊波は耳を傾《かたむ》けた。——空《そら》耳《みみ》ではない。本当の電話のベルなのだ。
「誰《だれ》だろう?」
と呟《つぶや》きながら、受《じゆ》話《わ》器《き》を取る。
電話というのも、慣《な》れない内は、つい出るのが面《めん》倒《どう》になる。
「はい、伊波です」
と、少し大きめの声で言う。
電話といえば、ほとんどが東京からなので、大きな声で話す癖《くせ》がついているのだ。
「伊波先生ですか」
いやに大きな声だった。ちょっと早口に、まくし立てるような女の声。
たぶん、雑《ざつ》誌《し》の仕事か何かをしている女《じよ》性《せい》だろう、と伊波は思った。
「伊波ですが」
「突《とつ》然《ぜん》申《もう》し訳《わけ》ございません。私《わたし》、女《じよ》性《せい》雑誌の『M』の編《へん》集《しゆう》部《ぶ》にいる者でございますが——」
「何でしょう?」
「実は、先生にぜひともインタビューさせていただきたいのですけれど」
「私にインタビュー?」
伊波は面食らった。
女性雑誌からインタビューに来たことなど一度もない。
「はい、ご多《た》忙《ぼう》とは存《ぞん》じますが——」
「いや、それは……」
時間ならいくらでもある。しかし……。
「一体、何のインタビューなんですか?」
と、伊波は訊《き》いた。
「先生のご近《きん》況《きよう》をぜひ読者の方々に知っていただきたくて——」
読者の方々、か。伊波は苦《く》笑《しよう》した。そう大勢読者がいるとも思えないが。
伊波としては、あまり見知らぬ人間に会って話すのは気が重かった。
「それで、いつ頃《ごろ》そのインタビューを?」
「はい、実は、大変勝手なんですが、今日、これからそちらへお邪《じや》魔《ま》しようかと——」
「今日、ここへ?」
と、伊波は思わず訊き返していた。
「実は駅前まで来ているんです」
伊波は驚《おどろ》いた。——呆《あき》れた、と言った方が近いかもしれない。
この手の押《お》しの強さが伊波は苦《にが》手《て》である。しかし、現《げん》実《じつ》に、相手がすぐ近くまで来ているというのに、断《ことわ》るわけにはいかない。
もちろん、それが向うの手なのだろうが。
——結局、伊波も、
「じゃ、来て下さい。道は分りますか」
と言わざるを得《え》なかったのである。
それから伊波は、この別《べつ》荘《そう》までの道順を、三回も説明しなくてはならなかった。
「やれやれ」
電話を切って、ため息をつく。
もしこっちが留《る》守《す》だったら、どうするつもりなのだろう?
ああいう手《て》合《あい》は分らん、と思った。
ちゃんと迷《まよ》わずに着くだろうか? すんなり来たとして、二十分くらいだろう。
——しかし、単調で物静かな伊波の生活にとって、来客があるというのは、一つの事《じ》件《けん》ではあった。
いかに孤《こ》独《どく》を愛する人間でも——いや、それだからこそ、時に人と接《せつ》することは、一つの嬉《うれ》しさになる。
伊波は台所へ行くと、余《よ》分《ぶん》のお湯を沸《わ》かし始めた。
何人来るのか、聞いていなかったな、と思った。分っていれば、紅《こう》茶《ちや》のカップでも洗《あら》っておくのだが。
まあいい。無《む》駄《だ》になるかもしれないが、三組ぐらい出しておこう。
——伊波は、週に一度、通いでお手伝いの女《じよ》性《せい》を頼《たの》んでいる。
いつも同じ女性ではないが、町の方から、適《てき》当《とう》に手の空いた主《しゆ》婦《ふ》が、小《こ》遣《づか》い稼《かせ》ぎに、方々の別荘へ出向いているのだ。
一人住いの伊波は、洗《せん》濯《たく》物《もの》も、洗い物も、量はたかが知れている。週に一日、来てもらえば、掃《そう》除《じ》も含《ふく》めて、充《じゆう》分《ぶん》に用が足りた。
こんな風に、自分で洗い物をするというのは、だから、珍《めずら》しいことだった。
ティーカップを、乾《かわ》いたふきんで拭《ふ》いていると、玄《げん》関《かん》のチャイムが鳴った。
もう来たのか?——伊波はちょっと戸《と》惑《まど》った。
いくら何でも早《はや》過《す》ぎる。といって、他に来る人も思い当らないが……。
伊波は、玄関の方へと歩いて行った。
「はい、どなた?」
と、声をかける。
別に、危《き》険《けん》があるというわけではないが、一人住いだと、つい用心深くなるのだ。
だが、返事はなかった。
「誰《だれ》ですか?」
と、伊波はもう一度声をかけた。
やはり返事がない。これは少し用心した方が良さそうだ。
伊波はチェーンをかけた。めったに使わないのだ。
それから、ロックを外《はず》し、ドアをそっと開けた。——いや、開けようとした。
が、ドアにはほんの二センチほどの隙《すき》間《ま》しかできなかった。
チェーンの長さの分までも開かないのだ。何かがドアを押《おさ》えているようだった。
「何だ一体……」
そっと、細い隙間から外を覗《のぞ》いてみて、伊波は面食らった。
女の足が見えた。——それも、立っているのでなく、横になっている。
ドアの前で倒《たお》れているのだ。
誰だろう? 見えている足は、細く、スラリとのびて、少女っぽい白い靴《くつ》下《した》と、黒のエナメルの靴《くつ》をはいていた。
伊波は迷《まよ》ったが、このまま放っておくわけにもいかず、仕方なく一《いつ》旦《たん》ドアを閉《し》め、チェーンを外した。
ともかく、もう少しドアが開かないことには、出るに出られない。
体重をかけてドアを押すと、ぐぐっと手《て》応《ごた》えがあって、ドアが少し開いた。横になって表へ出る。
やはり、倒れているのは、黒っぽい灰《はい》色《いろ》のオーバーを着た少女だった。
伊波は、スカートが少しまくれ上って、白い足が露《あら》わになっているのを見てギクリとした。——あまり少女趣《しゆ》味《み》はないのだが、この少女は、もう子《こ》供《ども》ともいえない。
小《こ》柄《がら》に見えたが、たぶん十六、七ではあるだろう。
伊波は、そっと少女の傍《そば》に膝《ひざ》をついて、かがみ込《こ》んで見た。
別に、どこかけがをしているという風でもない。
体を横に向けて倒《たお》れているので、伊波は、仰《あお》向《む》けにさせた。——寒さのせいか、顔色は青白く、唇《くちびる》も色を失っていた。
行き倒れかな? それにしても、今どきこんな少女がどうしてここへ来ているのだろう?
胸《むね》は、ゆっくりと、間を置いてだが、上下している。
気を失っているだけなのだろう。
「参ったな、それにしても……」
と、立ち上って頭をかく。
この子を放っておくわけにはいかない。
確《たし》かに、少女のスタイルは、この寒さには不《ふ》充《じゆう》分《ぶん》だろう。だが、倒れてしまうというほどのこともないような気がする。
「仕方ない!」
ともかく中へ入れることだ。
伊波は、少女の頭の方を持ち上げると、両わきの下へ手を入れ、少し持ち上げるようにして引きずった。
外国映画のように、ヒョイと持ち上げるという具合にはいかない。
まずドアの前からどかして、ドアを足で蹴《け》って開け、少女を中へと運《はこ》び込《こ》んだ。といっても、もちろん、引きずっての話である。
ドアを閉《し》め、ロックをかけると、さて、どうしたものかと考え込んだ。
そうか。——雑《ざつ》誌《し》の編《へん》集《しゆう》者《しや》が来るのだ。
こんな所へ寝《ね》かせておくわけにはいかない。
といって——一階には、そう部屋もないのだ。居《い》間《ま》へ入れば、台所の方も目に入ってしまう……。
仕事部屋には入れられない。そうなると、二階へ運ぶしかなかった。
伊波は、考えただけでうんざりしたが、他に方法もないので、諦《あきら》めて、かがみ込んだ。
ぐったりしている人間がこんなに扱《あつか》いにくいものとは、初めて知った。——散々苦労してやっと少女を背《せ》中《なか》に負うと、伊波はよいしょと立ち上った。
立ってしまえば、後は割《わり》合《あい》と楽で、階《かい》段《だん》を上って二階へ。
寝《しん》室《しつ》以外は、まずめったに使わないので、やむを得《え》ず寝室へと入れる。
ベッドの上におろすと、少女は少し身動きした。
気が付いたのか、と見ていると、またそのままぐったりと息をついている。
額《ひたい》に手を当ててみても、熱はないし、おそらく、寒さのせいで——それと空《くう》腹《ふく》のせいもあるのかもしれない——気を失った、というところだろう。
伊波は、腰《こし》の痛《いた》みに顔をしかめて、ウーンと背《せ》筋《すじ》を伸《の》ばした。
改めて、少女を見下ろしてみる。
白く、凍《こご》え切っていた頬《ほお》には、少し朱《しゆ》がさして来ていた。
なかなか、端《たん》正《せい》な顔立ちの少女である。
どこか外国の血でも入っているのかな、と思わせる、目鼻立ち。——こうして眠《ねむ》り込《こ》んでいると、人《にん》形《ぎよう》のように見える。
伊波は、グレーのオーバーの前のボタンを外《はず》してやった。——下から、目の覚めるような赤のセーターが見えて、一《いつ》瞬《しゆん》、ギョッとする。
ほっそりとして、まだ「女」という印象はない。
しかし、考えてみれば妙《みよう》なものだ。
どうしてこの少女は、こんな所へやって来たのだろう?
大きな国道を通っていれば、ここへ迷《まよ》い込むはずがないのだ。
事《じ》故《こ》にでもあったのか? それにしては、どこにもけががない。洋服も、玄《げん》関《かん》で倒《たお》れていたときに少し汚《よご》れた程《てい》度《ど》である。
この近くの別《べつ》荘《そう》に住んでいるのかもしれない、と伊波は思った。
そう。——きっとそうだ。
伊波も、もうここには三年近いが、それでもこの一帯の別荘の持主をみんな知っているわけではない。
特《とく》に、自分から付き合いたいとも思わないから、なおさらである。
そういう別荘の一軒《けん》の娘《むすめ》なのかもしれない。散歩に出て、道に迷い、ずっと歩き回り、ヘトヘトになって、ここへ辿《たど》り着いた。
気が緩《ゆる》んで、そのまま気《き》絶《ぜつ》してしまった。——こんな所だろう。
家の方では、娘がいなくなって、大《おお》騒《さわ》ぎ、ということも考えられる。捜《そう》索《さく》願《ねがい》が出ているかもしれない。
一《いち》応《おう》警《けい》察《さつ》へ連《れん》絡《らく》しておこう。
伊波は一階へと降《お》りて行った。
居《い》間《ま》の方へ歩きかけると、玄《げん》関《かん》の方で足音が聞こえて、すぐにチャイムが鳴った。
そうか。今度こそ雑《ざつ》誌《し》の人間だな。
警察へ電話するのは、これが終ってからでもいいだろう。
伊波は、玄関へと歩いて行った。