「今でも読者の方から、伊波さんの小説をのせて下さい、と投書があるんですよ」
と、三十代も末に近いと思える女《じよ》性《せい》の編《へん》集《しゆう》者《しや》が、目の回りそうな早口でまくし立てる。
着ている物は、派《は》手《で》で可愛《かわい》く、まるで十代の少女である。
——カメラマンの、顎《あご》ひげを生やしたむさ苦しい男が、伊波の右へ立ったり、左へ動いたりしながら、シャッターを切っている。
久しぶりだな、と伊波は思った。
作家として、一番仕事をしていた時期は、よくインタビューも受け、写真も撮《と》られたものだ。
だが、あの事《じ》件《けん》のときは、まるで事《じ》情《じよう》が違《ちが》っていた。写真は沢《たく》山《さん》撮られたが、伊波は作家としてでなく、妻《つま》を殺した一人の男として、レンズの目にさらされていたのである。
それ以来、カメラを見ただけで、思わず顔をそむけてしまう日々が、どれくらい続いたことだろう。
——そして今。
再《ふたた》び作家として、伊波はカメラにおさまっている。
それは、伊波自身にとっても、意外なほどの快《かい》感《かん》、高《こう》揚《よう》感《かん》だった。
編《へん》集《しゆう》者《しや》の言葉「読者の手紙——」は、口から出まかせのお世《せ》辞《じ》であろう。
しかし、そう分っていても嬉《うれ》しかった。自《じ》負《ふ》心《しん》をくすぐられる快《こころよ》さ。それは、作家としての伊波が、長く忘《わす》れていたものであった……。
過《か》去《こ》の作品について、今、書いている作品についての話が終ると、編集者は、
「どうもありがとうございました」
と、頭を下げた。
そして、傍《そば》にあった紙の手《て》さげ袋《ぶくろ》から、お菓《か》子《し》の包みを出して、
「六《ろつ》本《ぽん》木《ぎ》の店なんです。お口に合いますかどうか」
と差し出した。
「やあ、これは……」
伊波は思わず言った。
東京にいた頃《ころ》、よく食べた、特《とく》製《せい》のクッキーである。
「先生がお好《す》きと、どこかで見たものですから」
と、編集者はにこやかに笑《え》みを浮《う》かべていた。
「ええ、どこかのPR誌《し》に書いた覚えがあるな」
伊波は、我《が》慢《まん》できずに、包みを破《やぶ》って、中の缶《かん》を開けた。「一《いつ》緒《しよ》につまみませんか。紅《こう》茶《ちや》を淹《い》れ直しましょう」
伊波は、すっかり嬉しくなって、立ち上った。
「先生、アルコールはおやりにならないんですの?」
と編集者が訊《き》いた。
「ここではやめてるんですよ」
と、伊波は台所へと歩いて行きながら、答えた。
紅茶を出して、仕事を終えたカメラマンともども、クッキーをつまむ。
その味に、伊波は、激《はげ》しい郷《きよう》愁《しゆう》を覚えた。
——東京へ戻《もど》ろうか、と思った。
俺《おれ》はもう、人に後ろ指をさされる人間ではない。立《りつ》派《ぱ》な作家なのだ。
「お一人で寂《さみ》しくありません?」
と、編集者が訊いた。
「慣《な》れましたよ」
と、伊波は微《ほほ》笑《え》んだ。
「家事はどうなさってるんですの?」
「週に一度、町の人が来てくれます。もちろんお金を払《はら》ってですがね」
「東京へお戻りになればよろしいのに」
「まあね」
——本当にそうだ。そうして何が悪い?
「その内には、と思っていますよ」
「そうですか。——色々とあって、いや気がさされたでしょう。分りますわ」
「そう……。確《たし》かにね」
「あの事《じ》件《けん》は、まだ未《み》解《かい》決《けつ》でしたわね」
伊波は、肩《かた》をすくめて、
「警《けい》察《さつ》が私《わたし》の方ばかり調べて、他の面での捜《そう》査《さ》を怠《なま》けてたんです。本当の犯《はん》人《にん》が早く捕《つか》まっていればあんなこともなかったのに」
と言った。
「そうですねえ。——マスコミは先生のことを犯人扱《あつか》いして」
「あれが仕事なんだろうとは思いますがね、しかし、いやでしたな」
伊波は首を振《ふ》った。
「今でもよく思い出されます?」
「そうですね」
伊波は、ちょっと目を窓《まど》の方へ向けた。
「こちらへ移られるときは、お一人だったんですか?」
「もちろん」
と、伊波は言って、殺《さつ》風《ぷう》景《けい》な居《い》間《ま》の中を見回した。
「こうして、殺《さつ》伐《ばつ》としていますが、一人の方が気が楽です」
「でもまだお若《わか》いのに……」
「そんなことは関係ありませんね」
と、伊波は唇《くちびる》の端《はし》を歪《ゆが》めて笑《わら》った。「もうあんなことは、こりごりですよ」
「女《じよ》性《せい》ファンは大勢いますよ」
「ファンはファンです。ありがたいとは思うが——」
「手を出そうとは思わない、というわけですね」
「もちろん」
「確《たし》か——」
と、編《へん》集《しゆう》者《しや》は目を天《てん》井《じよう》へ向けて、「あの事《じ》件《けん》のとき、先生と一《いつ》緒《しよ》にいらした女の方は、読者の一人でしたでしょう」
「ええ。——そんなこと、もういいじゃありませんか」
伊波は、ちょっと苛《いら》立《だ》って、言った。
やはり女性というのは好《こう》奇《き》心《しん》が強いのだろうか。
ちょうど電話が鳴って、伊波はホッとした。
「失礼」
と立ち上って、受話器を取る。「——はい、伊波です」
「伊波さんですか? こちら東京のS社ですが」
「はあ」
今、インタビューに来ている女《じよ》性《せい》誌《し》を出しているのがS社だった。
「そちらに、『週《しゆう》刊《かん》N』の者が伺《うかが》っていると思いますが、カメラマンと二人で。——おりましたら、ちょっと代わっていただけますか?」
伊波は、戸《と》惑《まど》った。——『週刊N』だって?
同じ出《しゆつ》版《ぱん》社《しや》から出てはいるが、『M』とは違《ちが》って、暴《ばく》露《ろ》的《てき》な記事を中心にした週刊誌である。
「もしもし?——もしもし」
伊波は、表《ひよう》情《じよう》をこわばらせた。
分ったぞ。——そうだったのか。
伊波は受《じゆ》話《わ》器《き》を置いた。
「——この辺は静かですねえ」
と、編《へん》集《しゆう》者《しや》が言った。「ご執《しつ》筆《ぴつ》にはいい所でしょう」
「そこにも『週刊N』の記者は押《お》しかけて来る」
と、伊波は言った。「『M』の編集者などとでたらめを言ってね」
女性編集者が、ギクリとした。
「どういうつもりだ?」
伊波はじっとにらみつけてやった。
「——あの人は今、という企《き》画《かく》です」
と、女性編集者——いや、女《じよ》性《せい》記《き》者《しや》が言った。
「なるほど」
伊波は、怒《ど》鳴《な》りつけたいのを、じっとこらえていた。「あの妻《つま》殺《ごろ》しの作家は、今、どんな暮《くら》しをしているか、ってわけだな」
「みんな知りたがってるんですよ」
と、女性記者は肩《かた》をすくめた。「ちゃんと謝《しや》礼《れい》は払《はら》いますから」
「もういい」
伊波は立ち上った。「帰ってくれ」
「教えて下さいよ。あのときの恋《こい》人《びと》は? 今は付き合っていないんですか?」
「帰れ!」
と、伊波は怒鳴った。
「はいはい」
と、立ち上って、カメラマンの方へ、「怒《いか》り狂《くる》ってるところを一枚《まい》とっといて」
「何だと……」
伊波はカッとなって、クッキーの缶《かん》をはね飛ばした。クッキーが床《ゆか》に飛び散る。
その怒りは、もちろん騙《だま》されたことへの怒りでもあり、同時に、騙された自分への怒りでもあった。
口《くち》車《ぐるま》に乗って、気持良くしゃべっていたこと、プライドをくすぐられて、いい気になっていたこと。——総《すべ》てが腹《はら》立《だ》たしい。
「いいじゃありませんか」
女《じよ》性《せい》記《き》者《しや》は、打って変って、人を小《こ》馬《ば》鹿《か》にしたような態《たい》度《ど》になっていた。「何でだって、有名になれば、本が売れますよ」
「帰れ!」
「こんな所で、生活費はどうしてるんです? 奥《おく》さんの遺《い》産《さん》ですか?」
伊波は一歩踏《ふ》み出して、ハッとした。カメラが、その一《いつ》瞬《しゆん》を待《ま》ち構《かま》えている。
〈忘《わす》れられた作家、記者に乱《らん》暴《ぼう》〉
といったキャプションが写真につくのだろう……。
「帰ってくれ。早く出て行け!」
伊波は固く拳《こぶし》を握《にぎ》りしめていた。
「じゃ、失礼しましょ。——お掃《そう》除《じ》が大変ですね」
と言って、女性記者は笑《わら》った。
そのとき、
「もったいない」
戸口で声がした。
振《ふ》り向いて、伊波は目を疑《うたが》った。
さっきの少女だ。——一体いつの間に目を覚《さ》ましたのか。
そして、勝手に二階の浴室を使ったらしい。
バスタオルを体に巻《ま》きつけただけの格《かつ》好《こう》で、立っていたのだ。
——我《われ》に返ったときには、カメラのシャッターがたて続けに落ちていた。
少女を撮《と》ったのだ。
伊波は、青ざめた。こんな所へ、裸《はだか》の少女が出てくれば、向うにとっては、正《まさ》に絶《ぜつ》好《こう》のネタである。
「行くのよ!」
女《じよ》性《せい》記《き》者《しや》が、カメラマンの背《せ》中《なか》を叩《たた》いた。二人が玄《げん》関《かん》の方へ駆《か》け出す。
伊波は、ちょっと、追いかけようかと足を出したが、やめておいた。
むだなことだ。——あの二人からカメラをたとえ取り上げたところで見てしまっているのだから、どうにもならない。
玄関から二人が駆け出して、車に乗る音がした。
エンジンの音が、あわただしく遠ざかる。
ガン、ガン、と音がした。
慣《な》れない道だ。きっと、木にぶつけて、車体を傷《きず》だらけにしているのだろう。
それを思うと、伊波は、いくらか溜《りゆう》飲《いん》を下げた。
「おい、君——」
と、振《ふ》り向いて、伊波は目を丸くした。
少女は、床《ゆか》に四《よ》つん這《ば》いになって、散らばったクッキーを必死で拾って食べていた。
しかも——その拍《ひよう》子《し》に外《はず》れてバスタオルが落ちてしまっている。
丸《まる》裸《はだか》で、食べるのに夢《む》中《ちゆう》だ。
「おい、そんなに腹《はら》が空《す》いているのか?——そんなもの、やめろよ。ちゃんと台所で何か食べさせるから!」
と伊波は目をそらしながら、言った。「おい! 早くタオルを拾えよ」
「わあ、ごめん!」
少女は声を上げると、あわてて、バスタオルをつかんで、体に巻きつけた。
「風邪《かぜ》引くぞ」
「風邪より飢《う》え死《じ》にする方が怖《こわ》いわ」
と少女は言い返した。
「分った。何がいい? カレーなら早い。ただし、ご飯も冷《れい》凍《とう》だぞ」
「そのまま出されるんじゃなきゃ、食べるわ!」
「当り前だ」
伊波は苦《く》笑《しよう》した。「ともかく服を着て来いよ」
「うん」
少女は、駆け出して、その拍子に、またタオルが落っこちた。「いや!」
タオルをつかんだまま、少女は全《ぜん》裸《ら》で走って行った。
白く、細身で、しかしもう淡《あわ》い女らしさを匂《にお》わせた裸身に、伊波はショックを受けていた。
あれは幻《まぼろし》か?
いや、そんなことはない。現《げん》実《じつ》だ。紛《まぎ》れもない現実なのだ。
「そうさ。——このクッキーもね」
伊波は、床《ゆか》一面に散らばったクッキーを眺《なが》め、掃《そう》除《じ》するときのことを考えて、ため息をついた。