「君はどうしてここへ来たんだ?」
「ん……む……」
「名前とか——この近くに住んでるの?」
「ま……む……」
「車で来たのかい? それとも歩いて道に迷《まよ》ったとか——」
「ん……ん……」
伊波は諦《あきら》めた。
食べ終るまではだめだ。——少女は、猛《もう》然《ぜん》とカレーライスを平らげていた。
「もう一杯《ぱい》!」
「いいけど、そんなに急に食べると、今度は腹《はら》が痛《いた》くなるぜ」
「死んだっていいから、もう一杯!」
「分ったよ」
伊波は笑《わら》った。
二杯目は、少し落ち着いて食べていたが、それとて、普《ふ》通《つう》の、「早食い」程《てい》度《ど》のスピードではあった……。
「——少しは落ち着いた?」
皿《さら》が空《から》になるのを待って、伊波は訊《き》いた。
「まあね」
少女はフウッと息をついた。「お水もらえる?」
「水? ああ、いいよ」
伊波は、コップに水を入れて、出してやった。「冷たいぞ」
「いいの。——おいしい! 目が覚《さ》めちゃう」
伊波は、少女を眺《なが》めた。
どこから飛び込んで来たのか。——小鳥が一羽《わ》、窓《まど》から入って来た、という感じである。
十六か七、と思っていたのだが、もっと若《わか》いのかもしれない。
特《とく》に、いくらお腹《なか》が空《す》いているからといって、裸《はだか》でクッキーを拾って食べるというのは、まだ大人《おとな》の女としての羞《しゆう》恥《ち》心《しん》に欠けているからではないのか。
「君、いくつだ?」
と、伊波が訊くと、少女はキョトンとした顔で、
「いくつかなあ」
と言った。「忘《わす》れちゃった」
「名前は?」
「さっきから考えてんの」
と、少女は、ちょっと顔にしわを寄《よ》せて、言った。
「どうしても思い出せなくて」
「どこから来たの?」
「それだけは分ってるんだ」
と少女は得《とく》意《い》げに身を乗り出し、「外から!」
と言った。
「大人をからかっちゃいけないよ」
と、伊波がしかめっつらをして見せた。
「本当だよ。からかってなんかいないもん」
少女は、欠伸《あくび》をした。「ああ、眠《ねむ》くなっちゃった」
「いいかい——」
と、伊波は、テーブルに肘《ひじ》をついて、「君がいなくなって、家族の人たちは心配してるぞ。早くここにいると知らせてあげるんだ!」
「だって、家族なんてどこにいるか、分んないんだもん」
「どうして?」
「自分のことも分んないのに、家族のことが分る?」
少女は、理《り》屈《くつ》っぽく言って、「少し寝《ね》る。ベッド貸《か》してね」
と立ち上った。
呆《あつ》気《け》に取られている伊波を、キッチンに残して、少女は、さっさと二階へ上って行ってしまった。
「雪になるかな、今夜は」
と、酒《さか》井《い》巡《じゆん》査《さ》は言った。
「いやだねえ、雪が積ると、一回りするだけでも大変だよ」
もう一人、一《いつ》緒《しよ》に自転車を走らせている、中村巡査は、至《いた》ってリアリストだった。
「だけど、白い雪に覆《おお》われないと、やっぱり気分が出ないぜ」
酒井の方はロマンチストらしい。若《わか》いせいでもあろう。
中村の方はもう四十近い。寒さから来る足《あし》腰《こし》の痛《いた》みも、応《こた》えるのである。
二人は、林の中の道を、ゆっくりと自転車で進んでいた。
両側には、いくつかの別《べつ》荘《そう》が並《なら》んでいる。
道は砂《じや》利《り》道《みち》で、自転車向きではないが、この二人には、馴《な》れた道なのである。
もう夕方近く。
「今日は一日中、夕方みたいだったな」
と、中村が言った。
「ああ。ちっとも時間が分らなかった。——そろそろ暗くなるだろう」
「日が短いな、一日がアッという間だ」
酒井は、ふと顔を上げ、
「おい、あれ——」
と言った。
キキッとブレーキが鳴る。
「何だよ」
と、中村が言った。
「この別荘だ。空《あき》家《や》だったんじゃないのか、ここは?」
——古びた木《もく》造《ぞう》の、今にも壊《こわ》れそうな別荘である。
「そうだったかな」
中村は肩《かた》をすくめた。「お前、よく憶《おぼ》えてるなあ」
「ああ、まだボケてないからね」
「この野《や》郎《ろう》!」
中村が笑《わら》って、「しかし空家ならどうしたっていうんだ?」
と訊《き》く。
「入口の戸が開いている」
と、酒井は言った。
「え?」
なるほど。——中村も、それにやっと気付いた。
「調べてみよう」
酒井は自転車を降《お》りた。柵《さく》へ自転車をもたせかけると、腐《くさ》りかけている柵が、大きく傾《かたむ》いてきしんだ。
「おっと!」
あわてて支《ささ》えた。
「しかし、あんな家じゃ、浮《ふ》浪《ろう》者《しや》も凍《こご》え死んじまうぜ」
と、中村が言った。
だから却《かえ》って危《あぶ》ない。中で、火でもたかれたら大火事になることもある。二人が警《けい》戒《かい》するのも、その点だった。
中村は自転車をそっと地面へ倒《たお》しておいて、酒井について歩き出した。
「——この前はいつ人が来てたんだろう?」
と酒井が言った。
「さあ。——少なくとも十年はたってるぜ、人が住まなくなって」
「十年か……」
酒井は首を振《ふ》った。十年前の自分のことを思い出しているのかもしれない。
ドアは、半分ほど開いていた。
「破《やぶ》ってある」
と、中村が肯《うなず》いた。
打ちつけてあった板がはがしてあるのだ。酒井がかがみ込《こ》んで、その一枚《まい》を拾い上げた。
「板の裂《さ》け目《め》が新しいよ」
「中にいるのかな」
「入ってみないと……」
酒井と中村は、各《おの》々《おの》、懐《かい》中《ちゆう》電《でん》灯《とう》を手にして、点灯すると中へ入った。
埃《ほこり》っぽい、ムッとするような匂《にお》い。かびくさいのだ。
光の輪が二つ、玄《げん》関《かん》から廊《ろう》下《か》へと走る。
「——何だか気味が悪いや」
と、中村は言った。
「ともかく、入ろう」
酒井は、ちょっと声がこわばっていた。
何か——妙《みよう》な雰《ふん》囲《い》気《き》がある。それを、二人は敏《びん》感《かん》に感じ取っていた。
「どっちがどっちだか分らないな」
と、中村がぼやいた。
「向うが広い部屋らしいよ」
酒井が先に立って歩いて行く。
急に、前が開けた。——リビングルームなのだ。
椅子《いす》やテーブルが、そのままである。
懐《かい》中《ちゆう》電《でん》灯《とう》の光が、ゆっくりと、居《い》間《ま》の隅《すみ》々《ずみ》にまで及《およ》ぶ。しかし、人のいる気《け》配《はい》はなかった。
誰《だれ》でも、侵《しん》入《にゆう》者《しや》があれば、まずこういう部屋へ来るものだ。
「——ここには誰もいないよ」
と、酒井は首を振《ふ》った。
「ワッ!」
と、中村が、酒井の後ろで声を上げた。
「どうした?」
振り向いて、懐中電灯の光を中村の顔に向けて、酒井は目を大きく見開いた。
中村の顔に、血の筋《すじ》が、何本も走っていた。
「どうした!」
「いや——俺《おれ》は大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。落ちて来たんだ」
血を拳《こぶし》でこすって、中村が言った。
「落ちた?」
「うん。上からポトッと——」
懐中電灯の光が、天《てん》井《じよう》を照らし出した。
しみだらけの天井に、丸くてどす黒い大きなしみができて、そこから、血が垂《た》れているのだ。
床《ゆか》へ光を落すと、血だまりが広がっていた。
「——上だ」
と、酒井は青ざめた顔で言った。
「こいつは大《おお》事《ごと》だぞ」
と、中村は言った。「さあ、行こう」
相手が死体だろうが何だろうが、はっきりしさえすれば、中村は元気づく。
逆《ぎやく》に、経《けい》験《けん》の浅い酒井が、今度はこわごわついて行くことになった。
階《かい》段《だん》は、狭《せま》く、しかも、ひどくきしんだ。
「下手《へた》をすると踏《ふ》み抜《ぬ》くぞ。用心しろよ」
中村が、先に一歩一歩、踏みしめるようにして上って行く。
「——どの辺かな」
二階の廊《ろう》下《か》を、照らしてみる。ドアが右側に三つ、並《なら》んでいた。
「真ん中ぐらいじゃないか?」
「そうかな。——全部調べてみよう」
手前のドアを開ける。
中は、空《から》っぽだった。——窓《まど》に少し隙《すき》間《ま》があって、少し外の明るさが洩《も》れ入っていた。
「次だ」
と、中村は言った。
二番目のドアは、開かなかった。
「鍵《かぎ》がかかってる」
と、中村は言った。「先に次のドアを開けてみよう」
「うん」
三つ目のドアは、きしみながら開いた。
中はやはり空だ。——少しばかりの埃《ほこり》だけが、開いたドアの起こした風に舞《ま》い上った。
「よし、二つ目だな」
中村が肯《うなず》く。
「破《やぶ》るか」
「うん。お前に任《まか》せるよ」
「分った」
酒井も、仕事ができてホッとしている様子だった。
「体《たい》当《あた》りか?」
「蹴《け》ってみるよ」
酒井は足を上げ、力《ちから》一《いつ》杯《ぱい》、ドアを蹴った。バン、と爆《ばく》発《はつ》のような音が、辺《あた》りに響《ひび》き渡《わた》った。
しかし、ドアは壊《こわ》れなかった。
「意外に頑《がん》丈《じよう》だな」
と酒井は言った。「——よし、持っててくれ」
自分の懐《かい》中《ちゆう》電《でん》灯《とう》を中村へ渡《わた》すと、二、三歩退《しりぞ》いた。
そして、全身の体重をかけて、ドアに体当りした。
ガクン、と衝《しよう》撃《げき》が来て、ドアがパッと中へ開いた。酒井が転《ころ》がり込《こ》む。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》か?」
と中村が声をかけた。
「うん。これぐらい何ともねえ」
「そうか。中をともかく——」
言いかけて、中村はギョッとした。「見ろよ!」
酒井は立ち上って、懐中電灯の光に浮《う》かび上った、部屋の中の様子に目を見《み》張《は》った。
それは——豪《ごう》華《か》な部屋の一室だった。
大きなベッド、そしてテーブル、応《おう》接《せつ》セット。
総《すべ》てが、どっしりとして、本物らしいつやを見せている。
そして、驚《おどろ》かされたのは、それが、つい最近まで——いや、今なお使われているかのように見えたことだった。
「どうなってるんだ?」
と、酒井は言った。
「分らん。——この部屋はまるでずっと使ってたみたいだ。おい、窓《まど》を開けられないか」
酒井は窓に寄《よ》って、調べてみた。
「だめだ。鉄板を打ちつけて完全に塞《ふさ》いじまってるよ」
「どういうことなんだ、これは」
「知るもんか——」
と言いかけて、酒井は、「おい! そこだ!」
と声を上げた。
床《ゆか》に黒々と血が広がっている。——しかしその血を流したはずの肉体は、どこにも見当らなかった。