白い原《げん》稿《こう》用《よう》紙《し》のます目が、伊《い》波《ば》を見返していた。
創《そう》作《さく》意《い》欲《よく》の熟《じゆく》しているときは、その白さが、目に快《こころよ》いのだが、何も書くことが浮《う》かばないときには、敵《てき》意《い》を持ってにらみ返して来るような気がする。
今夜の場合は、そのどちらでもなかった。
一《いつ》向《こう》に、原稿の方へ注意を集中できないのである。——気が散っているのだ。
一つには、あの取《しゆ》材《ざい》のせいだった。思い返しても腹《はら》立《だ》たしい。
どんな記事になるか、想《そう》像《ぞう》はついたが、もちろん見る気にもなれない。送って来たとしても、もちろん捨ててしまうだろう。
大体、伊波は、写真を撮《と》られたり、TVに出たりするのを好《この》むタイプではなかった。
面《おも》白《しろ》いもので、割《わり》合《あい》と暗い、深《しん》刻《こく》な作品を書く作家の方が「目立ちたがり」で、マスコミでもてはやされるスター作家には、却《かえ》って派《は》手《で》なことを嫌《きら》うタイプが多い。
伊波などは、その点、作風も地味で、マスコミ嫌いという、珍《めずら》しい例外に属《ぞく》していた。
もちろん、今のマスコミ嫌いには、妻《つま》の死に関する一《いつ》件《けん》が大きく影《えい》響《きよう》している。しかし、もともと伊波は、あまり派手に扱《あつか》われるのを好まなかった。
「やれやれ……」
と、伊波は呟《つぶや》いた。
今夜はどうもだめだ。
立ち上って、伸《の》びをする。——そうだ、知らん顔をしていても、やはり気になっていることは否《ひ》定《てい》できない。
あの少女のことである。
時計は、十二時を少し過《す》ぎていた。
伊波は仕事部屋を出ると、使っていなかった、来客用の寝《しん》室《しつ》のドアに手をかけて、ためらった。
ここに、あの少女を寝《ね》かせているのだ。
別に、入ってはいけないということもあるまい。——ここは自分の家なのだ。
しかし、ためらわれた。何といっても、こっちは男で、向うは女である。
女とはいえ——十五、六の子《こ》供《ども》だが、あのクッキーを拾って食べているときに見た体は、女らしい丸みを見せていた。
当然だろう。昔の十五、六とは違《ちが》う。今は十二歳《さい》ぐらいで、豊かな胸《むね》のふくらみを見せる少女もいる。
そうなると、やはり、入るべきではないかもしれない。
伊波は、ドアのノブから、手をはなした。
「何か用?」
いきなり、後ろで声がして、伊波はびっくりした。少女が、階《かい》段《だん》を上って来たところだった。
「何だ、下にいたのか」
伊波は、息をついて、「いや——ちゃんと眠《ねむ》ってるかな、と思ってね」
と言った。
ちょっと言《い》い訳《わけ》がましかったかな、と思った。
「夕方寝《ね》ちゃったでしょ、目が冴《さ》えちゃって——」
少女はパジャマ姿《すがた》で、立っていた。
伊波のパジャマなので、ダブダブである。何となくユーモラスであった。
「そうか」
伊波は笑《わら》って、「じゃ、下でコーヒーでも付き合わないか?」
と言った。
「うん、いいよ」
少女は、楽しげに言った。「私《わたし》がコーヒー淹《い》れてあげようか」
「じゃあ、頼《たの》もう」
階段を降《お》りながら、伊波は、思った。
自分の名前も、家も、一《いつ》切《さい》憶《おぼ》えていないのに、コーヒーの淹れ方は、憶えているらしい……。
しかし、今、そんなことをつついてみても仕方あるまい。
居《い》間《ま》にいると、やがて、コーヒーの匂《にお》いが漂《ただよ》って来た。
「お待たせ」
と、少女が、両手に、コーヒーカップを持ってやって来る。「ミルクと砂《さ》糖《とう》は?」
「僕《ぼく》はいらない」
「私も。——ますます目が冴えちゃうかしら?」
「いいじゃないか。別に、早起きする必要もないんだろう?」
「うん」
と言って、少し間を置き、「たぶん、ね」
と付け加える。
「——旨《うま》いね」
一口飲んで、伊波は言った。お世《せ》辞《じ》でなく、いい味だった。
「ありがとう」
少女は嬉《うれ》しそうに言った。
「どうだい? 何か思い出した?」
少女は肩《かた》をすくめて、
「何も。——私は女だってことは、はっきり分ったわ」
どこまで真《ま》面《じ》目《め》で、どこまでふざけているのか、分らない。
明日になれば、警《けい》察《さつ》へ連れて行こう、と伊波は思った。どうせ、家《いえ》出《で》娘《むすめ》か何かに違《ちが》いない。
帰りたくないので、自分のことが分らないふりをしているだけだ。
ただ、家出娘にしても、かなりいい家の娘だろう。見た所もそうだし、物《もの》腰《ごし》が、どことなくおっとりしているのも、そんな印象を与《あた》える。
ともかく、警察に行けば、当然、捜《そう》索《さく》願《ねがい》が出ているはずである。
「ねえ、おじさん」
と、少女は言った。
「何だね?」
「おじさん、作家なの?」
伊波は、ちょっと面食らったが、
「ああ、そこの本を見たんだね?」
と笑《わら》った。
彼《かれ》の旧《きゆう》作《さく》で、カヴァーに写真が出ているのである。
「大《だい》分《ぶ》若《わか》い写真だろう」
「そうね。でも、今でもそう老《ふ》けていないよ」
「そいつはどうも」
「いいなあ、作家って。好《す》きなことして暮《くら》せるんでしょ」
「そう単《たん》純《じゆん》じゃないよ」
と、伊波は苦《く》笑《しよう》した。
「どうしてこんな所に住んでいるの?」
「さあ。——何となく、こういう静かな所が好《す》きなんだよ」
「やっぱり、こういう場所の方が、よく書けるの?」
「いや、そんなことはない」
と、伊波は首を振《ふ》った。「場所じゃないよ、問題は」
「それじゃ、なあに?」
「精《せい》神《しん》状《じよう》態《たい》だな。色々あって気持が乱《みだ》れていると、どんなに静かな所でも書けない。逆《ぎやく》に、書きたいことが溢《あふ》れ出て来るときには、やかましい喫《きつ》茶《さ》店《てん》の中だろうが、列車の中だろうが、書けるよ」
「ふーん。そんなもんなの」
と、少女はコックリ肯《うなず》いた。
「君も何か書くの?」
「分んないな。ただ——そういうことが好きだろうとは思うのよね」
「なぜ?」
「なぜだか知らないけど……」
と、少女は言った。
いい加《か》減《げん》に、下手《へた》な芝《しば》居《い》はやめたらどうだ?——伊波は、そう言ってやりたかった。
しかし、今はいいだろう。どうせ、この一《ひと》晩《ばん》のことだ。
「ねえ——」
と少女が言った。「今日来た人たち、何なの?」
「うん? ああ、あれか。別に大したことじゃない」
「でも、凄《すご》く怒《おこ》ってたじゃないの」
「向うがちょっと失《しつ》敬《けい》なことを言ったからだよ」
少女は、少し間を置いて、言った。
「私《わたし》、聞いてたの、上で」
「そうか」
「奥《おく》さん、死んじゃったの?」
「ああ」
「気《き》の毒《どく》ね」
この少女は、どういうつもりなのだ?
本当に、無《む》邪《じや》気《き》なだけなのか。それとも、とんでもない、ワルなのだろうか?
「——もう寝《ね》た方がいいんじゃないかね」
と言ったとき、電話が鳴り出して、伊波は仰《ぎよう》天《てん》した。
こんな時間に、誰《だれ》だろう? 伊波は受《じゆ》話《わ》器《き》を上げた。
「はい、伊波です」
「こんなに遅《おそ》く申《もう》し訳《わけ》ありません」
聞き憶《おぼ》えのない声だ。
「どちら様ですか?」
「警《けい》察《さつ》の者です」
「警察?」
伊波は、その言葉で、少女がちょっと身を固くするのを見ていた。
「実は、近くでちょっとした事件がありまして。——ああ、私、県警の村上と申しますが」
「はあ」
「今、この一帯の、別《べつ》荘《そう》にお住いの方を一軒《けん》ずつお訪《たず》ねしているんです。早い方がいいと思うので、これからそっちへうかがっても構《かま》いませんか?」
「今からですか」
と、伊波は言った。「そんなに急を要することなんですか?」
「そう思うので、お電話したわけです」
村上という男の話し方はていねいだったが、そう簡《かん》単《たん》には後へ退《ひ》かない、という印象を与《あた》えた。
「いいでしょう」
伊波は、少し間を置いてから言った。「どれくらいでおいでになりますか」
「今、何とかいう喫《きつ》茶《さ》店《てん》におります」
——伊波がいつも寄《よ》る、あの山小屋風の喫茶店だ。
「ああ、それなら、そこの主人が道を良く知っていますから」
「そのようですな。先生のことも、うかがいましたよ」
刑《けい》事《じ》から「先生」などと呼《よ》ばれると、妙《みよう》な気がする。ともかく、あの件《けん》以来、伊波は警《けい》察《さつ》というものをあまり信用していないのである。
「では、たぶん二十分もすれば来られるでしょう」
「これからうかがいますので、よろしく」
と、村上は言って、「そうお手間は取らせませんよ」
と、付け加えた。
そうお手間は取らせません、か。
受《じゆ》話《わ》器《き》を置いて、伊波は、思い出していた。あのときも、そう言われて、出向いて行ったら、三《みつ》日《か》三《み》晩《ばん》、睡《すい》眠《みん》も取らずに訊《じん》問《もん》されたのだった……。
「私、警察って嫌《きら》い」
と、少女が言った。
伊波は、少女の、ややこわばった顔を見ていた。
「どうして嫌いなんだね?」
少女は肩《かた》をすくめた。
「分らないけど、嫌いなの」
何があったのだろう?——その村上という男の言う「事《じ》件《けん》」と、この少女と、何か関係があるのだろうか?
「私のこと、黙《だま》っててね」
と、少女は言った。
「しかし、君だって、ちゃんと自分のことが分って家へ帰れた方がいいんじゃないのか?」
「そんなの、まだ先でいい」
少女は勝手なことを言い出した。「ここ、居《い》心《ごこ》地《ち》いいんだもの」
そして、真《しん》剣《けん》な目で、伊波を見つめる。
「言わないで」
と、くり返した。
伊波は、少女の視《し》線《せん》を受け止めていた。
「——分ったよ」
「ありがとう」
少女の表《ひよう》情《じよう》が、やっと緩《ゆる》んだ。
「しかし、刑《けい》事《じ》は、僕《ぼく》が一人《ひとり》暮《ぐら》しだと聞いて来るはずだ。君はここへ顔を出さない方がいいよ」
「分ってるわ。二階でおとなしくしてる」
少女は立ち上って、ダブダブのパジャマでヒョイと飛びはねて見せると、「じゃ、おやすみなさい!」
と声をかけて、走って行った。
「『明日の間《かん》隙《げき》』は、読ませていただきましたよ」
村上の言葉に、伊波はちょっと苦《く》笑《しよう》した。
「それはどうも」
「今でもよく憶《おぼ》えています」
きっとあの喫《きつ》茶《さ》店《てん》で聞いて来たのだろう。——村上という刑《けい》事《じ》、およそ本を読むという感じではない。
「一つお訊《き》きしたいと思っていました」
と、村上は言い出した。
「何でしょう?」
「あの主人公の津《つ》島《しま》という男ですが、あれは一度短《たん》編《ぺん》に登場したことのあるキャラクターと同じですね」
これには伊波がびっくりした。
確《たし》かに、村上の言う通りである。しかし、そのことを他人に話したこともないし、気付いた評《ひよう》論《ろん》家《か》もいなかったのだ。
どうやら、村上は本当に彼《かれ》の本を読んでいるらしかった。
「よくお分りですね」
「いやあ、やはりそうですか。どうも気になりましてね」
と、村上は嬉《うれ》しそうに言った。
ちょっと一《いつ》風《ぷう》変った刑《けい》事《じ》のようだ。
傍《そば》に控《ひか》えた若《わか》い巡《じゆん》査《さ》は、二人の話を、外国語でも聞くように、ポカンとして書きとめることもできずにいた。
伊波も、その巡査の顔は見たことがあった。名前までは憶《おぼ》えていないが。
「——ところで、あまりご執《しつ》筆《ぴつ》の邪《じや》魔《ま》をしてもいけませんな」
と、村上が言った。
「執筆といっても、別にそう締《しめ》切《きり》に追われているわけでもありませんのでね」
「さっき申し上げたように、空《あき》家《や》になっていた別《べつ》荘《そう》で、血《けつ》痕《こん》が見付かりまして」
「大変ですね」
「ところが、その血を流したはずの人間が見当らない、と来ているのです。もし、何か事《じ》情《じよう》があって、身を隠《かく》しているとしたら、この辺の、別荘の一つへ潜《もぐ》り込《こ》む可《か》能《のう》性《せい》も強い、というわけで」
「なるほど」
と、伊波は肯《うなず》いた。
「今、この一帯で、実《じつ》際《さい》に人が住んでいるのは、そう何《なん》軒《げん》もないのです。そこで、こうして訪《たず》ねて回っているんですよ」
「他に何も手がかりはないんですか?」
「ありません」
と、村上は首を振《ふ》った。「奇《き》妙《みよう》なことですが……」
「何です?」
「血《けつ》痕《こん》は、かなり多い。つまり、小さな傷《きず》とは思われないんです。しかし、この近くの病院に、それらしい人間は来ていません」
「なるほど。すると……」
「どうも、あの血痕というやつも、一《ひと》筋《すじ》縄《なわ》ではいかないようなのです。つまり、何か裏《うら》がある。——こっちの目を、何かからそらす意《い》図《と》で、誰《だれ》かが仕《し》掛《か》けたのではないかという気もするのです」
そばで聞いていた酒井巡《じゆん》査《さ》が、面食らっている。そんな話は初《はつ》耳《みみ》なのである。
「しかし、一《いち》応《おう》は、ごく当り前に、用心していただいた方がいい。パトロールも強化しますが、もし、ちょっとしたことでも、気が付いたら、ご連《れん》絡《らく》下さい」
「分りました」
「——誰か、あまり見かけたことのない人間には気付かれませんでしたか?」
伊波は軽く首を振った。
「いえ、一《いつ》向《こう》に」
「そうですか。——いや、どうもお邪《じや》魔《ま》しました」
「いや、構《かま》いませんよ」
伊波は立ち上った。
「——やはり執《しつ》筆《ぴつ》は夜ですか」
玄《げん》関《かん》の方へ歩きながら、村上が訊《き》く。
「夜の方が何となく筆が進むんです。TVもラジオも、放送が終ってしまうと、仕事しか、することがなくなるせいでしょうね」
「なるほど」
村上はちょっと笑《わら》って、「いや、先生にお目にかかれて、幸いでした」
と頭を下げた。
変った刑《けい》事《じ》だ、と伊波は思っていた。
あの事《じ》件《けん》のとき、会った刑事たちとはまるで違《ちが》う。
——パトカーが走り去《さ》って行くのを見送りながら、ふと伊波は、妙《みよう》だな、と思った。
村上は、伊波の小説を、あれほど詳《くわ》しく知っているのだ。当然、あの事件も、知らぬはずがない。
それなのに、そのことは全く話に出なかった……。
あえて出さなかったのだ。
それが単に村上の気づかいによるものなのかどうか、伊波には、疑《ぎ》問《もん》に思えた。
——パトカーの中では、酒井が、
「あまり得《う》るところはありませんでしたね」
と言っていた。
村上は、少し間を空《あ》けて、
「伊《い》波《ば》伸《しん》二《じ》を見《み》張《は》ってくれ」
と言った。
「どうしてです?」
酒井がびっくりして訊《き》き返す。「何か怪《あや》しいことでも?」
「伊波の妻《つま》が殺されたことは知っているかね」
「ええ、聞いたことがあります」
「そのとき、彼《かれ》は犯《はん》人《にん》扱《あつか》いされて、警《けい》察《さつ》でも相当厳《きび》しくやられたはずだ。当然、警察に対して、いい感《かん》情《じよう》は抱《いだ》いていない」
「そうでしたか」
と、酒井は肯《うなず》いて、「でも、そんな風にも見えませんでしたよ」
「そうだ」
と、村上は言った。「至《いた》って愛想が良かった。——何か我《われ》々《われ》に隠《かく》したいことがあったのかもしれない」