「少し進んだ?」
ドアが開いて、少女が顔を出す。
「おいおい——」
伊波は苦《く》笑《しよう》した。「十五分前に覗《のぞ》いたばかりじゃないか」
「だって気になるんだもの」
少女は、後ろに手を組んで、入って来ると、伊波の肩《かた》越《ご》しに、原《げん》稿《こう》用《よう》紙《し》を覗き込《こ》んだ。
「あら、たったこれだけ?」
と、がっかりしたような声を出す。
「十五分なら、こんなもんだよ」
「でも、一、二……たった十行よ」
「考えながら書いてるんだぞ」
と、伊波は笑《わら》った。「さあ、子《こ》供《ども》はもう寝《ね》るんだ」
「だって、気になるのよ」
と、少女は、ちょっとすねたように、下を向いた。
「何が?」
「私《わたし》が来て、小説書けなくなった、なんて言われたら、困《こま》るもの」
伊波は、ちょっと意外な気がして、少女を見つめた。
「——気持は嬉《うれ》しいがね」
と、伊波は微《ほほ》笑《え》みながら言った。「君が来たことぐらいで、書けなくなったりはしないよ」
「割《わり》と影《えい》響《きよう》力《りよく》ないのね」
と、少女は笑《わら》った。「——分った、寝《ね》るわ!」
「よし」
「おやすみなさい!」
少女は、ドアの所で、ピッと直立して、敬《けい》礼《れい》した。
どこまで真《ま》面《じ》目《め》なのか。——伊波は、閉《しま》ったドアの方を見て、首を振《ふ》った。
今の若《わか》い世代は、真面目かと思うと冗《じよう》談《だん》で、ふざけているのかと思うと、えらく真面目だったりする。
もう、伊波などの理《り》解《かい》を絶《ぜつ》しているのである。
ペンを置いて、伊波は、立ち上った。
あの少女が来てから、小説を書く方は、むしろはかどっていた。外界の刺《し》激《げき》が、新《しん》鮮《せん》だったのかもしれない。
伊波は仕事部屋を出て、そっと少女の寝ている部屋のドアを開けた。
どうせ起きていて、
「あ、狼《おおかみ》が来た!」
と、クッションを投げつけて来るだろうと思ったが、今夜は、スースーと寝息をたてている。
「珍《めずら》しいな」
と呟《つぶや》いてそっとドアを閉《し》めた。
下へ降《お》りて、台所へ行くと、コーヒーが作ってある。
あの少女の、唯《ゆい》一《いつ》の「仕事」であった。
カップにコーヒーを入れ、居《い》間《ま》で一休みする。
「そうか……」
と、伊波は、カレンダーを見ながら、思った。
あの少女がやって来て、もう一週間たっているのだ。
この二、三日は、何となく、「日《にち》常《じよう》のルール」みたいなものが出来始めて、少女も、のびのびと動くようになっていた。
いつまで、こんなことを続けているんだろう?
伊波は、確《たし》かに、この状《じよう》況《きよう》を楽しんでもいた。
この状況、というのは、つまり、少女は相変らず、名前も知らない、と言い張《は》っているし、といって、行方《ゆくえ》不《ふ》明《めい》の届《とどけ》も出ていない、ということだ。
一体、あの少女がどこから来たのか、まるで謎《なぞ》であった。
なぜ、誰《だれ》も、あの少女を捜《さが》していないのだろうか?
いや、もちろん、あの少女が、はっきり何かの目的を持って、伊波の所にやって来ていることも考えられる。
それなら、当然のこと、捜《そう》索《さく》願《ねがい》など出ていないわけである。
しかし、その目的とは何か?——それを考え始めてしまうと、わけが分らなくなって来る。
伊波は、そんなに金持ではない。
それに、作家の愛人になって楽をしようという女にしては、まるで彼《かれ》に好《す》かれようとはしない。
正直なところ、伊波は、あの少女に指一本触《ふ》れてはいないのである。
「子《こ》供《ども》」と、口では呼《よ》んでいるが、体つきは、普《ふ》通《つう》の男《だん》性《せい》の心をそそる程《てい》度《ど》には、充《じゆう》分《ぶん》に女っぽい。
時々、伊波も、このままあの子をベッドへ押《お》し倒《たお》してやりたい、と思うこともある。男なら当然のことだろう。
しかし、実《じつ》際《さい》にはやっていない。
それは、一つには、この謎《なぞ》めいた緊《きん》張《ちよう》の状《じよう》態《たい》を壊《こわ》すのが、惜《お》しいからでもあった。
謎は謎のまま、手をつけずにおきたい。そんな気もしているのである。
「あなた——」
と、律《りつ》子《こ》はそっと夫《おつと》へ声をかけた。「あなた」
「何だ?」
と小池が呟《つぶや》くように言う。
「起きてたの」
「ああ。——どうした?」
「村上さん、もう眠《ねむ》ったかしら?」
「たぶんな。どうしてだ?」
「別に」
律子は、布《ふ》団《とん》の中で、夫の方へ体を向けた。
「——面《おも》白《しろ》い人ね」
「凄《すご》腕《うで》なんだ」
と小池は言った。「見かけは頼《たよ》りないが、とんでもない」
「前にも話を聞いたことあるわ」
「そうだったかな」
「——今ごろ、あの人のことを聞くとは思わなかった」
「伊波のことか」
「ええ」
「あの事件の後、伊波と会ったことがあるのか?」
「いいえ。あれきり。自《し》然《ぜん》消《しよう》滅《めつ》よ」
「——妙《みよう》な縁《えん》だな」
と、小池は言った。
小池が、律子と再《さい》婚《こん》したのは、一年ほど前である。
きっかけは、その半年ほど前に、町でひょっこり律子と会ったことに始まる。
もちろん、律子にしてみれば、ひどい目にあった恨《うら》みがあるが、二年余《あま》りの年月は、律子を大人《おとな》にしていた。
律子が、買物の袋《ふくろ》を両手一《いつ》杯《ぱい》に下げて苦労しているのを見て、小池が駐《ちゆう》車《しや》場《じよう》まで運んでやった。
そのお礼に、律子は小池を車で、近くの駅へと送って行った。ところが、途《と》中《ちゆう》で車がエンコして、結局、小池が油だらけになって修《しゆう》理《り》するはめになったのである。
——そんなことから、小池は律子と時々会うようになって、たちまち恋《こい》へと変って行ったのである。
再《さい》婚《こん》ということもあって、式はごく内《うち》輪《わ》のものだったから、同《どう》僚《りよう》でも、律子が、かつての伊波の愛人と知っている者は、ほとんどなかった。
「——その血《けつ》痕《こん》だけが残っていた事《じ》件《けん》と、伊波の恋人と、どういう関係が、あるのかしら?」
「分らんな」
と、小池は首を振《ふ》った。「しかし、村上さんは、あると思っているよ」
「そうらしいわね」
「そして、あの人のカンは、たいてい、当るんだ」
「私《わたし》のことは当らなかった」
「当り前だ。誰《だれ》だって、思ってもみないだろうさ」
と、小池は笑《わら》った。
「でも、伊波も、妙《みよう》な恋人を見つけたものね」
「変ってるんだろ、当人も」
「そうね」
と、律子は肯《うなず》いた。「やっぱり、ちょっと変ってて、そこが魅《み》力《りよく》だったんだけど……」
「おいおい、ドキッとするようなことを言うなよ」
「馬《ば》鹿《か》ね」
と笑って、律子は、夫《おつと》に軽くキスをした……。
伊波は欠伸《あくび》をした。
もうだめだ。——寝《ね》よう。そろそろ午前四時になる。
これ以上、頑《がん》張《ば》っても、はかどらない、と分ったのだ。
別に締《しめ》切《きり》に追われているわけでもないのだ。
たっぷり眠《ねむ》ろう。——売れない作家の特《とつ》権《けん》だ。
伊波は、明りを消してから、ふと、窓《まど》の鍵《かぎ》をかけたかな、と思った。
気にし出すと気になる性《せい》質《しつ》である。
カーテンを開けた。——鍵は、ちゃんとかけてある。
そのとき、伊波は、表にチラっと動く人《ひと》影《かげ》を見た。
上からなので、はっきりはしなかったが、確《たし》かに、動いたのだ。
誰だろう?
伊波は急いで下へ降《お》り、玄《げん》関《かん》の鍵を確かめた。——外へ出て行くような度《ど》胸《きよう》はない。
武器を持っているわけでもないのだから。
あと二時間もすれば明るくなる。——ちょっと迷《まよ》ったが、起きていることにした。
こういう所で一人でいるのは、常《つね》にある程《てい》度《ど》の危《き》険《けん》と向い合っていることである。
しかし、今まで、そんなことはなかった。
念のため、伊波は、台所から、包《ほう》丁《ちよう》を取って来て、居《い》間《ま》のテーブルに置いた。
——聞こえるのは風の音だけで、別に、怪《あや》しげなこともないままに、時は過《す》ぎて行ったが、その進み方は、いやに遅《おそ》かった。