「お久しぶり」
あまり思いがけない相手に会うと、人は却《かえ》って、驚《おどろ》かないものである。
伊波も例外ではなかった。——目の前の席に座《すわ》ったのは、律子だったのである。
「君か」
と、伊波は言った。
「変らないわね。——ちょっと、コーヒー下さい」
いつもの喫《きつ》茶《さ》店《てん》。——ここで知った顔に会うとは、伊波は思ってもいなかった。
昨日の雪と違《ちが》って、今日はよく晴れて、外をメガネなしで歩くと、まぶしくてたまらないくらいだった。
伊波は、朝、起き出すと、少女が目を覚《さ》まさない内に、外へ出てみた。
ゆうべ、あの子が悲《ひ》鳴《めい》を上げた窓《まど》の外へ回ってみる。
「なるほど」
——雪の上に、人のいた跡《あと》が歴《れき》然《ぜん》としている。
少なくとも、幽《ゆう》霊《れい》ではなかったわけだ。
しかし、そこからどこへ消えたかは、雪が降《ふ》りつもって、跡を消してしまったので、分らなかった。
窓の下は、上のひさしがあって、跡が残ったのである。
これは考えなくてはならない。
前にも、この家の周囲に、人の気《け》配《はい》を感じたことがあるが、あれは気のせいではなかったのだ。
こうなると、やはりまず自《じ》衛《えい》のための手《しゆ》段《だん》を考えなくてはならない。——といって、ここは日本だから、拳《けん》銃《じゆう》で、というわけにはいかない。
ともかく、何か捜《さが》して来よう、というので、少女と朝食をとってから、また遠い町のスーパーへと行って来たのである。
それは、別に隠《かく》したいからでなく、そこの方が店が大きくて、刃《は》物《もの》などを扱《あつか》っているからだった。
伊波は、散々捜し歩いて、やっとナイフを一本買い込《こ》んだ。
スコップは家にもある。雪をかくのに必要なのだ。
それを居《い》間《ま》にでも置いておこう、と伊波は思った。たぶん、何かのとき、役に立つだろう。
結局、時間がかかった割《わり》には大した物も買わずに、伊波は戻《もど》って来た。
昨日の、ここの主人の話が気になって、日《にち》常《じよう》の買物は近くの店で済《す》ませることにしたのである。
何だか、逃《とう》亡《ぼう》犯《はん》でも、かくまってるみたいだな、と思って、伊波は、苦《く》笑《しよう》した。
そしてここへ寄《よ》り、店の主人と雑《ざつ》談《だん》をして、コーヒーをすすりながら、外を見ていると、店に入って来る足音があった。
その足音は、なぜか伊波のそばで止った。そして、
「お久しぶりね」
という言葉が彼《かれ》の上に降《ふ》って来たのである。——雪の代りに。
「凄《すご》い雪ねえ」
と、律子は言って、手をこすり合せた。
「この辺じゃ、大したことはないよ」
と、伊波は言った。
「そう。——東京も今年はよく雪が降るの。往《おう》生《じよう》しちゃった。でも、さすがに、こっちの雪はサラサラしてるわね」
伊波は、やっと我《われ》に返った、という感じだった。
「おい、律子、君……」
「懐《なつか》しいわね。私《わたし》はどう? 変った?」
——律子は、上等な毛皮のコートを着ていた。
「ちょっと脱《ぬ》ごうかしら。外に出たとき、寒いものね」
コートを脱ぐと、至《いた》って地《じ》味《み》なスーツ。
手《て》袋《ぶくろ》を脱いだ手に、リングが光っていた。
「結《けつ》婚《こん》したの?」
と、伊波は訊《き》いた。
「そうよ」
「そいつは知らなかった」
「そうだった? 私、通知、出さなかったかしら?——でも、あなた、どこにいるか分らなかったものね」
「しかし——よく分ったね、ここが」
と、伊波は言った。
「雑《ざつ》誌《し》社《しや》で聞いたわ」
「そうか。——どうしてわざわざ?」
「あら」
と、律子は、ちょっと目を見開いて、「手紙、読まなかったの?」
「手紙だって?」
「そうよ。出したのよ、会いに行くって」
「——いつのこと?」
「一週間ぐらい前かな」
カウンターの奥《おく》で、店の主人が、
「じゃ、無《む》理《り》ですよ」
と言った。「ここに届《とど》くのには、一週間はかかります。特《とく》に今はね」
「そう! 都会並《な》みに一日でつくかと思ってたわ」
「何か用だったのかい?」
「というわけじゃないの。実は他に用があって、ここに来たのよ。で、ちょうど近くだから、と思って……」
伊波は、律子をまじまじと見た。
やっと、それだけの心の余《よ》裕《ゆう》ができたのである。
変っていない、といえば、そうも言える。しかし、変った、と言われれば、なるほど、と肯《うなず》ける。
若《わか》さは、そのまま保たれているように見えた。
しかし、物《もの》腰《ごし》というか、その動《どう》作《さ》、座《すわ》り方、話し方などが、テンポが落ちて、静かになって来ていた。
結《けつ》婚《こん》したせいかもしれないな、と伊波は思った。
「ご主人と一《いつ》緒《しよ》?」
と、伊波が訊《き》くと、律子は笑《わら》った。
「違《ちが》うわよ。いくら私でも、主人と一緒に、昔の恋《こい》人《びと》の前に現《あら》われたりするわけないじゃない」
伊波は、あわてて咳《せき》払《ばら》いした。店の主人は、わざとらしくそっぽを向いている。
「今は——何という姓《せい》なの?」
「小池。小池律子よ」
「小池か。——よく合った名前じゃないか」
「ありがとう。私もそう思うわ」
「ご主人、何してる人だい?」
「まるで身《み》許《もと》調《ちよう》査《さ》ね」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
律子は、ちょっと笑って、
「主人は刑《けい》事《じ》ですの」
と、気取って言った。
「まさか」
と、伊波は言った。
つい、反《はん》射《しや》的《てき》に言っていた。——二人して声を上げて笑《わら》う。
その笑いが静かになると、律子は少し真《ま》顔《がお》になって、言った。
「刑事。——本当なのよ」
「信じられないね」
と、伊波は、少し固い表《ひよう》情《じよう》で言った。
「そう?」
「信じたくないのかもしれない。——刑事には、お互《たが》い、ひどい目にあってるじゃないか」
「色々な人がいるわ、刑事でも」
と、律子は言った。
「そうかもしれん」
と、伊波は目をテーブルに落とした。「しかし、警《けい》官《かん》は警官だよ。やっぱり、僕《ぼく》は今でも忘《わす》れられない」
「分るわ」
「君の証《しよう》言《げん》がなかったら、どうなっていたか……。考えるだけでも、ゾッとするよ」
「私の証言は、あんまり信用されなかったみたいよ」
「しかし、それのおかげで、僕を見た証人も出て来た。——結局認《みと》めてくれなかったけどね」
「本当にひどかったわね、あのときは」
「それを憶《おぼ》えていて君は——」
と言いかけて、伊波は息をついた。「いや、すまん、俺《おれ》がとやかく言うことじゃなかったね」
「いいのよ。気持は分る。——私だって、今でも信じられないみたいよ」
伊波は、少し笑《え》顔《がお》になった。
「君が幸せなら、それでいいよ」
「その点は大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。いい夫《おつと》なのよ」
「そいつは良かった」
何となく、話が途《と》切《ぎ》れた。
「——どこなの、別《べつ》荘《そう》って」
「ん?——ああ、別荘といっても、今は、そこしかないんだけどね。ここから車で行くんだ」
「一度行ってもいい?」
伊波は、ちょっと迷《まよ》った。
もちろん、律子に来させるわけにはいかない。あの少女といるところを見られたら……。
しかし、あの雑《ざつ》誌《し》のカメラマンが、伊波とあの少女の写真を撮《と》っている。
まだ雑誌が出るには、間《ま》があるだろうが……。
「一度、あなたがどんな暮《くら》しをしてるのか、見てみたいわ」
と、律子は言った。
「それはだめだよ」
と、伊波は言った。「それに、男一人の生活だ。殺《さつ》風《ぷう》景《けい》なものさ」
「どうしていけないの?」
「考えてみろよ。君はもう結《けつ》婚《こん》してるんだ。しかも刑《けい》事《じ》と。——僕が一人でいる所へノコノコやって来たら、ご主人が何と思うか……」
「それはそうね」
と、律子は肯《うなず》いた。「じゃ、遠《えん》慮《りよ》しておくわ」
伊波はホッとした。昔《むかし》の律子なら、もっとゴネていただろう。
やはり、少しは大人になったのかもしれない。
「じゃ、あなたの方から来てくれる?」
と、律子が言い出した。
「僕の方から?」
「そう。私、Mホテルに泊《とま》ってるの。一週間くらいいるわ。いつでも訪《たず》ねて来て」
Mホテルは、この辺でも、一番古い、格《かく》の高いホテルである。
もちろん、料金の方も、当然高くなるのだが。
「なかなか豪《ごう》勢《せい》だね」
「私のお小《こ》遣《づか》いよ。実家でせびって来るの」
「そうか。——ご両親はお元気?」
「ええ、元気なものよ」
「僕を恨《うら》んでるだろうね」
「どうかしら」
と、律子は首をかしげた。「たまに、あなたの話も出るけど、別に悪口は言わないわよ、どっちも」
「そうかい?」
もし自分が父親で、娘《むすめ》が妻《さい》子《し》ある男と恋《こい》に落ちたら、たぶん、その相手を恨《うら》むだろう、と、伊波は思った。
「大人《おとな》同《どう》士《し》の恋だったんだもの。今さら相手を責《せ》めても、と思ってるんでしょ」
律子はカップを空《から》にした。
外は、まぶしい白さだった。
二人の間の沈《ちん》黙《もく》も、重苦しいものではなかった……。
〈こんにちわ。
お久しぶりね。
あなたのことを、偶《ぐう》然《ぜん》ある雑《ざつ》誌《し》の編《へん》集《しゆう》部《ぶ》の方から聞いて、びっくりしました。
ずいぶん山の中に引っ込《こ》んだものね。都会っ子のあなたが!
ところで、私、あのあと、結《けつ》婚《こん》して、今は封《ふう》筒《とう》の差出人の通り、「小池」という名になっています。
あなたは、一人でいるとのこと。
どんな生活をしているのかしら、と考えてしまいます。
そこへ、ちょうどあなたの住んでいる所の近くに、出る用事が出来ました。ぜひ一度会いたいと思っています。
近くに行ったら、電話します。
では、そのときを楽しみに。
律子〉
伊波は、手紙を二度読んだ。
間《ま》違《ちが》いなく、律子の字である。
前に、何度か律子から手紙をもらっていたから、よく分る。
といっても、もちろん、この別《べつ》荘《そう》に、ではない。妻《つま》が殺《ころ》される前のことである。
律子……
妙《みよう》な話だ、と伊波は思った。
こんなに単調だった、伊波の生活の中に、突《とつ》然《ぜん》、見も知らぬ少女が飛び込《こ》んで来た、と思うと、今度は昔《むかし》の愛人がやって来た。
どういうことなんだろう?
どうせなら、続けて起きずに、一つ一つ、間を空《あ》けて起ってほしいものだが、なかなか現《げん》実《じつ》はそう行かないものらしい。
——それにしても妙だ。
律子は何をしに、ここへ来たのだろう?
こんな冬の季節、雪の季節に、こんな所に何の用事があるというのか。しかも、刑《けい》事《じ》の妻が、だ。
伊波は、ハッとした。——あの小《こ》包《づつみ》!
あれは律子が出したのではないか?
手紙が同時に届《とど》いていることも考えると、その可《か》能《のう》性《せい》は大きい。
伊波は仕事部屋を出ると、少女を捜《さが》した。
「台所よ」
と、返事があった。
「やあ、何だい、この匂《にお》いは?」
「見ないで。ホットケーキなの」
「へえ、そんなものできるのかい?」
「失礼ね!」
と伊波をにらんで、「——ヘヘ、実は初めてだと思うんだ」
「頑《がん》張《ば》ってくれ。おいしいと言って食べるから」
「ありがとう」
エプロンをかけた少女の姿《すがた》は、なかなか魅《み》力《りよく》的《てき》だった。
「そのエプロンはどうしたんだい?」
「昨日の小包の中にあったの。可愛《かわい》いでしょ?」
誰から来たかなど、まるで考えていないらしい。
「その小包だけど、箱はどうしたね?」
「え?——ああ、燃やしちゃったわ」
「燃やした?」
「うん。まずかった!」
「いや……」
言わなかった自分の方が悪いのだ。
伊波は、居《い》間《ま》に行って、あの小包の宛《あて》名《な》の文字を思い出そうとした。
律子の字だったろうか?——そうだとしたら、分っただろうか?
いや、今の手紙は、律子のものと知っていて読んだから、そう分るので、小包の文字までは分るまい。
もとより、あの小包を、律子が送ったという根《こん》拠《きよ》があるわけでもないし、律子が、あの少女のことを知っていたとも思えない。やはり、これは別のことなのか。
伊波には分らなかった。