いい加《か》減《げん》にしてくれよ。
そう言ったところで、相手が聞いてくれるはずもなかった。
相手が手の中に握《にぎ》りしめれば消えてしまう、「雪」なのだから、当り前だった。
鉄《てつ》造《ぞう》は、この山道をトラックで往《ゆ》き来《き》して、もう三年になる。
雪の道を走るのにも慣《な》れていたが、それにしても今夜はひどい。視《し》界《かい》が、ろくにきかないのだ。
ほとんど、カンでハンドルを握っていた。
「畜《ちく》生《しよう》め!」
いくら無《む》鉄《てつ》砲《ぽう》な鉄造でも、この雪の中、スピードは落とさざるを得《え》ない。ということは、向うへ着くのが遅《おく》れるということでもある。
雪の山道をトラックで走るのが、どんなに大変なことか、ぬくぬくと社長室でふんぞり返っている身には分らねえんだ。
しかも、遅れたといっちゃ文《もん》句《く》を言いやがる。——面《おも》白《しろ》くもねえ! 早く帰りついて、一《いつ》杯《ぱい》やろう。それだけを、鉄造は考えていた。
もう夜の九時だ。こんな時間には、通る車もない。
思い切ってアクセルを踏《ふ》む。この辺は、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だ。
——それが目に入ったとき、鉄造には、信じられなかった。
雪が目の前を舞《ま》っているので、何かが見えたような気がしたのかもしれない。
いや——あれは人間だ!
ブレーキを軽く踏《ふ》んでいた。スピードが落ちる。
男が一人、雪の中を歩いていたのである。
黒いオーバーを着ていたが、それも、白く雪がはりついて、まだら模《も》様《よう》になってしまっている。
車がエンコしちまったのかな?
それにしては、男が、こっちへ歩いて来るのではなく、トラックと同じ方向へ歩いているのが、おかしい。
途《と》中《ちゆう》、そんな立《た》ち往《おう》生《じよう》した車には、気付かなかったが……。
もし、ずっとこの雪の中を歩いて来たのだったら、よく倒《たお》れなかったものだ。
鉄造も、さすがに、素《す》通《どお》りするのがためらわれた。
車のライトに気付いたのか、その男は振《ふ》り返った。毛糸の帽《ぼう》子《し》をスッポリかぶっている。
トラックは、その男の傍《そば》で停《とま》った。
窓《まど》を開《あ》けると、雪が吹《ふ》き込《こ》んで来る。凍《こお》りつくような風だ。
「どうした?」
と、鉄造は声をかけた。
男はじっと鉄造の方を見上げていたが、何も言わない。
「乗って行くか? このままじゃ、雪の中に埋《う》まっちまうぜ」
と、鉄造は言った。
男がコックリ肯《うなず》いた。
「じゃ、乗れ」
ドアを開けてやって、「早くしろ。雪が入って来る」
男は助手席に乗り込んで来て、ドアを閉《し》めた。——鉄造は、ちょっと面食らった。
大きな男だった。
いや、鉄造だって、普《ふ》通《つう》に見れば大《おお》柄《がら》な方である。力もあったし、それに、昔《むかし》から喧《けん》嘩《か》にも強かった。
「鉄」と、仲《なか》間《ま》から呼《よ》ばれていた。運転手仲間でも、一《いち》目《もく》置かれている存《そん》在《ざい》だ。
その鉄造から見ても、その男は大きかった。上《うわ》背《ぜい》もあり、がっしりして、幅《はば》もある。
鉄造より、全体に、一回りも二回りも大きかった。
「町まで行ったら、降《お》ろしてやるよ」
と鉄造は言って、トラックを走らせ始めた。
男は、何も言わずに、じっと前方を見つめている。
若《わか》いのか、それとも中年といっていい年《ねん》齢《れい》なのか、判《はん》断《だん》のつかない顔だった。さすがに、雪の中を歩いていたせいか、顔は青白いが、別に震《ふる》えているわけでもない。
もともと青白い顔なのかもしれない。無《ぶ》精《しよう》ひげで顎《あご》の辺《あた》りが黒っぽい。
オーバーと、えり巻《ま》きの雪を、払《はら》い落とそうともしない。手《て》袋《ぶくろ》は、毛糸の古ぼけたもので、いくつかの指先は穴《あな》があいて、指が覗《のぞ》いていた。
不思議なのは、荷物を持っていないことだった。鞄《かばん》一つ、包み一つない。
これは、まともな奴《やつ》じゃないかもしれねえぞ、と鉄造は思った。
しかし、別に恐《おそ》れはしない。腕《うで》っ節《ぷし》にも自信があるからだ。いくら大男でも、力が強いとは限《かぎ》らない。
そうとも、俺《おれ》は筋《すじ》金《がね》入《い》りだぞ。
「えらい雪だな」
と、鉄造が言うと、その男は、ちょっと肯《うなず》いた。
口をきかない気か。——まあいいや。好《す》きにしろ。
鉄造自身も、おしゃべりな方ではない。大体、よくしゃべる男に、ろくな奴はいないもんだ。
鉄造は、ラジオをつけた。黙《だま》っているのも、何だか気づまりなものだからだ。
おあつらえ向きに、演《えん》歌《か》が流れて来た。トラックの運転には、こいつが一番だ。
パチンコ屋にマーチが合うようなもんさ。何となく合う、ってことがあるものなんだ。
少し、雪が小《こ》降《ぶ》りになった。トラックは快《かい》調《ちよう》に飛ばしていた。
男の目が、素《す》早《ばや》く動いて、道の傍《そば》の標《ひよう》識《しき》を捉《とら》えた。
「停《と》めてくれ」
と、男は言った。
表《ひよう》情《じよう》のない、太い声だ。
「何だって?」
鉄造は、ラジオの音を小さくした。
「右へ行くんだ。停めてくれ」
「おい——」
鉄造は、ゆっくりとトラックを停めた。「町まで行かないのか?」
「ここから右へ行くんだ」
と、男は言った。
「右って……」
鉄造は、右を向いた。——道があるわけではない。ただの雑《ぞう》木《き》林《ばやし》だ。
そして、そこも今は白い雪に包まれている。
「どこへ行こうってんだい?」
他人のことに、あまり関心は持たない鉄造だが、つい、そう訊《き》いていた。
「気にするなよ」
男は、静かに言った。男の目が、鉄造を見る。——鉄造は、ゾッとした。
こいつ——まともじゃないぞ!
その目は冷ややかで、無《ぶ》気《き》味《み》な表《ひよう》情《じよう》を浮《う》かべていた。
「分ったよ」
鉄造は、極力、平気を装《よそお》っていたが、笑《わら》って見せても、それは引きつったものにしかならなかった。
「——ありがとう」
と、男が言った。
「気を付けて行きな」
ドアを開《あ》け、男が、外へ出る。とたんに、雪と冷気が吹《ふ》き込《こ》んで来た。
ドアがバタン、と音をたてて閉《しま》ると、鉄造はホッとした。俺《おれ》としたことが……。
いささか腹《はら》立《だ》たしかったが、あれは恐《おそ》ろしい男だ。
「忘《わす》れちまうに限《かぎ》るぜ」
と、呟《つぶや》くと、ラジオのボリュームを上げて、トラックをスタートさせようとした。
右側の窓《まど》を、トントン、と叩《たた》く音がして、見ると、あの男が、道から見上げている。
鉄造は、窓をおろした。
「——どうしたんだ?」
と、声をかける。
男は、
「忘れてたことがあるんだ」
と、下から言った。
「忘れてた? 何を?」
男が何か、ボソボソと言った。鉄造は窓から頭を出した。
「何だ?」
男の両手が、鉄造の首を、ガシッと捉《とら》えた。
鉄造が顔を歪《ゆが》めた。口を開いて、声にならない喘《あえ》ぎを洩《も》らす。
両手で、男の指を引き離《はな》そうとしたが、むだだった。
鉄造の顔が紅《こう》潮《ちよう》する。——男は、更《さら》に、指に力をこめた。
鉄造の手が、バタッと窓《まど》枠《わく》に落ちた。
男は、念を押《お》すかのように、もう一度力をこめて、鉄造の首を絞《し》めると、静かに手を離《はな》した。
鉄造の頭が、窓から外へ、ガクッと垂《た》れた。
男は、息一つ乱《みだ》してはいなかった。どうということもない——まるで、びんのふたでも外《はず》したように、ちょっと肩《かた》をすくめただけで、そのまま、トラックを後に、歩き出した。
鉄造に言ったように、右へ林の中へと、足を踏《ふ》み入れる。
雪が、深い所は膝《ひざ》までも来る。それでも、男は、いやな顔もせず、相変らず無《む》表《ひよう》情《じよう》のままに、歩いて行った。
トラックの開いた窓から、演《えん》歌《か》が雪の中へ広がって行った。外へ垂れた鉄造の頭を、白く雪が覆《おお》い始めていた……。
「雪が多いね、今年は」
と、伊波は言った。
「そうなの? 毎年こんな風かと思ってたわ、私《わたし》」
律子は言った。
「いや、もちろん、毎年降《ふ》るけどね、今年は特《とく》に多い」
律子は、ワインのグラスを置いた。
「雪が好き?」
「そうだなあ……」
伊波は、ちょっと微《ほほ》笑《え》んだ。「何もかも隠《かく》してくれるだろう、雪は。あの白さがいいね……」
律子の泊《とま》っているMホテルのレストランである。
古いホテルなので、中の造《つく》りも、どこか昔《むかし》の貴《き》族《ぞく》の屋《や》敷《しき》、という趣《おもむき》がある。
「静かで、いい所だね」
と、伊波は言った。
「時には来てみたら?」
「いや、毎日こんな所で食事してたら、いくら金があっても足らない」
「そうじゃなくて、東京へ出て来たら、ってこと」
「ああ、そうか」
伊波はちょっと笑《わら》った。
「あなた、こんな所に引っ込《こ》んじゃうのは、まだ早いんじゃない?」
と、律子は言った。
コースの食事も終り、二人は、一息ついているところだった。
「カフェテラスへ移りましょう」
律子は、ナプキンを置いて、立ち上った。
「君はいいの?」
「何が?」
「もう九時半だよ。寝《ね》る時間じゃないのか」
律子はからかうように、
「いつから、小学生に戻《もど》ったの?」
と言った。「それとも、早く帰らないとまずい?」
「いや、そんなことはない」
伊波はロビーを歩きながら言った。「女《によう》房《ぼう》がいるわけでもないしね」
カフェテラスは、若《わか》い客たちで、半分近くの席が埋《うま》っていた。
窓《まど》から、雪の降《ふ》りしきる戸外が眺《なが》められるのだ。
「ずいぶん積ったわね」
と、律子は言った。
「車、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」
「ああ。チェーンを巻《ま》いてるし、雪の中を走るのは慣《な》れてるよ」
「じゃあ、ゆっくりしましょう。ここのケーキ、おいしいのよ」
と、律子はメニューを広げた。
「そのせいかな」
「あら、何が?」
「少し太ったようだからさ」
「あら失礼ね」
と、律子は笑《え》顔《がお》でにらんだ。
——今、この間に、村上が、伊波の家を捜《そう》査《さ》しているはずだ。
律子の中には、どこか、すっきりと割《わ》り切れないものがあった。
村上はいい人間だ。それはよく分っていた。
しかし、もし伊波が、かつて妻《つま》殺《ごろ》しの容《よう》疑《ぎ》者《しや》だったという事実がなかったら、果《は》たして、違《い》法《ほう》な家《か》宅《たく》捜《そう》索《さく》までするだろうか?
伊波が妻を殺さなかったことは、律子が良く知っている。
伊波は、むしろ被《ひ》害《がい》者《しや》である。それなのに、今なお、何かがあれば、疑《うたが》われる。
それが刑《けい》事《じ》というものの体質なのだろうか?
夫《おつと》とは関係ないことだったが、それでも、律子は、伊波に対して、後ろめたい思いを抱《いだ》かずにはいられなかったのである。
「——ここでの生活はどんな風なの?」
と、律子は訊《き》いた。
「どんな風って——平《へい》凡《ぼん》なもんさ」
と、伊波は肩《かた》をすくめた。
「仕事で、不便はないの?」
「ないこともない。しかし、どうせ、大した売れっ子でもないんだし」
——コーヒーが来た。
伊波は、あの喫《きつ》茶《さ》店《てん》以外のコーヒーを、久しぶりで飲んだ。いや、もちろん、あの少女が淹《い》れてくれるコーヒーを別にして、の話だが。
「掃《そう》除《じ》、洗《せん》濯《たく》——みんな一人で?」
「うん。といっても一人暮《ぐら》しだし、電《でん》気《き》製《せい》品《ひん》は全部揃《そろ》ってるし、別に不便はないよ」
伊波は、あの少女が来てから、通いの家《か》政《せい》婦《ふ》も断《ことわ》っていた。
「気楽かもしれないわね」
と、律子は、表の雪景色へ目をやった。
「君は?」
「——私?」
「君の主婦業ってのが、どうもピンと来ないんだ」
律子はフフ、と笑《わら》って、
「私もよ」
と言った。「そりゃあ——一《いち》応《おう》、お料理も、掃《そう》除《じ》も洗《せん》濯《たく》もするけど……。でも、時々、ふらっと町へ出るの。何だか、息苦しくなるのね、家の中だけにいると」
そう言って、律子は、それが自分の本《ほん》音《ね》だということに気付いた。
小池との生活は、平《へい》凡《ぼん》だが幸福だ。——同時に、幸福だが、平凡だった。
都会の、いつもせき立てられるようなテンポの生活が、時には懐《なつか》しくなる。
「ご主人の仕事が仕事だから、時間も不《ふ》規《き》則《そく》なんだろう」
「そうね。——暇《ひま》なときなんて、めったにないし、捜《そう》査《さ》本《ほん》部《ぶ》ができれば、一週間ぐらいは帰らないわ」
「寂《さみ》しいね」
「年中だもの。もう慣《な》れたわ」
そうかしら? 寂しくはないか? 一人でベッドに入って、眠《ねむ》れずに何時間も天《てん》井《じよう》を見つめ続けることがないだろうか?
「子《こ》供《ども》はつくらないの?」
と、伊波が訊《き》いた。
「そんな——」
律子は、急に頬《ほお》を染《そ》めた。「もう、若《わか》くないわ」
「そんなことを言う年齢《とし》でもないだろう」
「そうね。でも——」
律子は肩《かた》をすくめて、「作る暇《ひま》もないの」
と言って笑《わら》った。
「ご主人は、欲《ほ》しいとか、言わないのかい?」
「さあ……。どうかしら。訊《き》いてみたこともないわ」
いや、きっと欲しがっているのだろう、と律子は思った。ただ、律子にそう言うのを、ためらっているだけだ……。
年齢が違《ちが》うこと、そして、自分との、特《とく》殊《しゆ》な結びつきの事《じ》情《じよう》。いつも夫《おつと》が自分に遠《えん》慮《りよ》しているところを、律子は感じていた。
「しかし、子供はいた方がいいよ」
と、伊波は言った。
「どうして?」
「僕《ぼく》と女《によう》房《ぼう》のようなことにならずに済《す》む」
「そんなこと、分らないじゃない。子供だって、一つの心配の種になるのよ」
「それはそうだな」
と、伊波は笑《わら》った。
「——あなたこそ」
と、律子が言った。
「僕?」
「隠《いん》居《きよ》するには早いわよ。若《わか》い奥《おく》さんでももらって、子供でも育てればいいのに」
「悪くないね」
と、伊波が言うと、律子は、
「本気じゃない!」
と、にらんだ。
「え?」
「あなた、いつも、ごまかすときは、『悪くないね』と言ってたわ」
「そうだったかな」
伊波は立ち上った。「ちょっと手を洗って来るよ」
「足も洗ったら?」
伊波は笑った。
——昔《むかし》の通りだ、と伊波は歩きながら、思った。
昔、律子と、よくあんな風にしゃべったものだ。
「洗面所は?」
と、ホテルのボーイに訊《き》く。
教えられた方向へ、廊《ろう》下《か》を歩いて行く。角を曲ると、手洗いがあって——ヒョイ、と目の前に、何か光るものが出て来た。
ギョッとするのに、少し時間がかかった。それは、小さな肉切り包《ぼう》丁《ちよう》だった。
律子は、じっと雪を見ていた。
伊波と、まるで以前の恋《こい》人《びと》同《どう》士《し》だったころのように話をし、冗《じよう》談《だん》を言った。
やっと、調子が出て来た、というところか。
古びていたエンジンが、動き出したのだ。
思いもよらないことだった。——いや、それを期待していたのかもしれない。
律子は、自分が怖《こわ》かった。まるで、昔《むかし》へ昔へと、時間を逆《ぎやく》に押《お》し流されているようで……。
赤い光が目に入って、ハッとした。
パトカーだ。——もしかして。
律子は思わず腰《こし》を浮《う》かした。