やっとパトカーは、現《げん》場《ば》へ辿《たど》りついた。
村上は、外へ出て、たちまち、ズボッと膝《ひざ》まで雪に埋《うも》れてしまう。
「全く、始末に終えんな」
と呟《つぶや》いて首を振《ふ》った。
ヒョイと顔を上げて、ギョッとした。
トラックの窓《まど》から、運転手の頭が、ガクッと外へ落ちていて、雪が降《ふ》りつもっている。
およそ見て気持のいいものではなかった。
「村上さん」
と、声がした。
「君か」
「ご苦労さまです」
あの、血《けつ》痕《こん》を発見した、酒井巡《じゆん》査《さ》である。
「ひどいな」
「ええ、一目見てゾッとしました」
「見付けたのは?」
「ドライバーです。山《やま》越《ご》えの途《と》中《ちゆう》とかで」
「運が良かったな。普《ふ》通《つう》なら、なかなか、こんなときにここを通るまい」
「死後、まだ数時間だろう、ということですが」と、酒井は言った。「でも、こういう状《じよう》態《たい》ですから、はっきり推《すい》定《てい》するのはむずかしいらしいです」
「そうだろうな」
村上は首を振《ふ》った。「——もう運んでもいいよ」
「はい」
酒井が歩いて行く。
村上は、ゆっくりと周囲を見回した。
雪が、犯人の足《あし》跡《あと》も、消してしまっている。しかし、犯人がここから逃《とう》亡《ぼう》したことは、確《たし》かである。
なぜ、ここから?
それが奇《き》妙《みよう》だ、と村上は思った。——強《ごう》盗《とう》にしろ恨《うら》みにしろ、こんな所で人を殺せば、どこへも逃《に》げられないのが、一目で分りそうなものではないか。
それでいて、ここで、運転手を殺している。——なぜだ?
それに、あの、被《ひ》害《がい》者《しや》の不自然な格《かつ》好《こう》のことがある。
どうしてあんな風に、首を外へ突《つ》き出しているのか。そして——
「そうか。窓《まど》をなぜ開けたんだ?」
と、村上は呟《つぶや》いた。
「——やあ、ひどいね」
と、やって来たのは、検《けん》死《し》官《かん》である。
ひどい、というのが、雪のことか、殺人のことか、村上には判《はん》断《だん》がつきかねた。
「ご苦労さんですな」
「犯《はん》人《にん》も、こんなときにやらんでも良さそうなもんだ」
と、検死官が顔をしかめた。
「死《し》因《いん》は?」
「絞《こう》殺《さつ》さ、むろん。凄《すご》い力だ」
「紐《ひも》か何かで?」
「いや、両手だ。指先が食い込《こ》んでいる」
「ほう。すると……」
「妙《みよう》なのは、頭の位置だ」
「それは私《わたし》も考えましたよ。窓が開いていて、犯人は、そこへ運転手を押《お》しつけて——」
「それは、犯人が中にいると思ってるからだろう」
「違《ちが》うんですか?」
と、村上は目を見《み》張《は》った。
「指の跡《あと》のつき方から見て、犯《はん》人《にん》は外に立っていたらしい」
「外に?」
村上はトラックの窓の下へ歩いて行った。
もう運転手の死体はない。村上は両手をのばしてみた。
「こうやって絞《し》めた、と?」
「そうらしいんだ」
「でも、力が入りませんよ」
「だから、もともと、大変な力持ちの男なんだろう」
「それに大男だな。もっと背《せ》が高かったでしょうからね」
「そういうことになる。——用心してかかった方がいいぞ」
村上は肯《うなず》いた。
そんな怪《かい》力《りき》の持主では、警《けい》官《かん》二人でも押《おさ》えられないかもしれない。三人一組にする必要があるな。
しかし、こんな林の中の道で、トラックを襲《おそ》って何になるのか?
妙《みよう》な事件だ、と村上は思った。
「——村上さん」
酒井がやって来た。「一《いち》応《おう》の手配は終りましたが」
「ご苦労だな。じゃ、全員に伝えてくれ。犯人は大男で、しかも大変な力の持主らしい。三人一組で捜《そう》査《さ》に当れ、と」
「分りました」
「充《じゆう》分《ぶん》に注意しろ、と言ってくれ」
「はい!」
酒井が、雪の中、せっせと歩いて行くのを見ながら、村上は微《ほほ》笑《え》んでいた。
なかなかいい若《わか》者《もの》だ。——素《す》直《なお》だし、よく動く。
骨《ほね》惜《お》しみをしないのが、警官の一番の条《じよう》件《けん》なのである。
さて、と村上は肩《かた》を揺《ゆ》すった。
雪が足下に舞《ま》い落ちて行った。
閉《しま》る時間になって、伊《い》波《ば》はカフェテラスを出た。
律子の部屋へ行こうか? それとも……。
少女の具合が気になった。医者を呼《よ》んだ様子はなかったが。
階《かい》段《だん》を上り、律子の部屋へ行ってみる。ドアのルームナンバーを見て行くと、伊波の部屋は、すぐ斜《なな》め向いだった。
ドアをそっと叩《たた》いてみる。
しばらく間があって、
「どなた?」
と、律子の声がした。
「僕《ぼく》だ」
ドアが静かに開く。セーターにスラックス姿《すがた》の律子が顔を出して、
「しっ!」
と、指を唇《くちびる》に当てた。「眠《ねむ》ってるわ」
「そうか。——具合は?」
「迷《まよ》ったんだけど……、連れて来たときより、熱は下がってるの。服を脱《ぬ》がせて、体を熱いタオルで拭《ふ》いて、私《わたし》の服を着せたわ。よく眠ってて、たぶん、このまま朝まで目を覚《さ》まさない、と思うわ」
「すまないね」
と、伊波は言った。「すっかり君に世話をかけちまって」
「いいのよ」
律子は微《ほほ》笑《え》んだ。「あなた、部屋は?」
「うん、そこだ」
と、ドアを指した。
「すぐ寝《ね》る?」
「いや——どうして?」
「あなたの方に、話があるんじゃなくて?」
律子は、奥《おく》のベッドの方へ、ちょっと目をやった。
そうだ。ここまでやらせておいて、律子に話をしないわけにはいかない。
「分った。説明するよ」
「ここじゃ、彼女《かのじよ》が起きるかも……」
律子は、ベッドの方へ歩いて行くと、少女の上にかがみ込《こ》んでいたが、やがて戻《もど》って来て、
「——あの分なら大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ、下へ行く?」
「もう下は閉《しま》ってる」
「あら、そう」
律子は、ちょっと間を置いて、「じゃ、仕方ないわね」
と言った。
伊波は、自分の部屋のドアを開《あ》けた。
「——少し開けておこうか?」
「大丈夫よ。だって、話を聞かれても困《こま》るんじゃないの?」
それはその通りだ。しかし……。
伊波の中に、ためらいがあった。
「私《わたし》だって人《ひと》妻《づま》なんだから」
と、律子は笑《わら》って言った。
そう。——そうだ。何も、心配することなんかない。
伊波は、律子を通して、ドアを閉《し》めた。
「妙《みよう》な話ね」
と、律子は言った。
「うん」
伊波はじっと天《てん》井《じよう》を見上げながら、言った。
部屋の中は、暗かった。
伊波と律子は、ベッドの中で、身を寄《よ》せ合っていた。——こうなることが分っていたように、律子には思えた。
そのために、ここへ来たのではないか、そう——きっとそうだったのだ。
部屋へ入って、二人はほとんど話もしない内にベッドへと倒《たお》れ込《こ》んだのだった。
しかし、あわただしい情《じよう》事《じ》の後、二人は、そのことは、何も口に出さなかった。専《もつぱ》ら、あの少女のことだけを話していたのだ。
「身《み》許《もと》も、名前も、年《ねん》齢《れい》も不明、か……」
律子は、首を振《ふ》った。「家出して来たにしては、妙な所へ来たものね」
「そうなんだ」
伊波は肯《うなず》いた。「どこから来たにしても、あんな山の中の別《べつ》荘《そう》へ、なぜやって来たのか、分らない」
「あなたの所へ、やって来たのか、それともたまたまあなたの所に着いたのか、どっちかしら?」
「分らんね」
と、伊波は言った。「ともかく、あの記《き》憶《おく》喪《そう》失《しつ》は、見せかけだと思うがね」
「でも、それなら、理由があるはずだわ」
「そうなんだ」
「でも、あなたに抱《だ》かれようともしないわけね?」
「そういう趣《しゆ》味《み》はないようだ」
「おかしな子ね」と、律子は言って、少し体を起こした。
「——裸《はだか》にしてみたけれど、見かけよりは年齢《とし》がいってるかもしれないわ。十八ぐらいでもおかしくない」
「そうかい? 十六ぐらいと思ってたけどな」
「あのくらいの一年は大きいわ。私と違《ちが》ってね」
と律子は言って、ちょっと笑った。「こっちも一年毎《ごと》に太くなってるけど」
「丸みができたね、体に」
伊波が、初めて、律子の体のことを口にした。
「しっ、黙《だま》って」
律子は、伊波の口を指で押《おさ》えた。「これはただの挨《あい》拶《さつ》よ」
伊波は肯《うなず》いた。
「分ってる」
「主人はいい人だわ。裏《うら》切《ぎ》りたくないの」
律子は、毛《もう》布《ふ》の下で、膝《ひざ》を立てて、それを両手でかかえ込《こ》んだ。
勝手なことを言ってるわ、と思った。こんなことをしておいて、裏切っていないつもりなんだから……。
でも、一度は——一度くらいは仕方ない。
これが続くことだけは、避《さ》けなくてはならない。
「僕《ぼく》も、ずっと女っ気なしだったからね」
と伊波は言った。
「誰でも良かったんでしょ」
と、律子は笑《わら》いながら、にらんで見せた。
「そうじゃないよ。しかし……」
あの少女だ。——伊波は思った。あの少女に、刺《し》激《げき》され、あの細い体を抱《だ》きしめたいという思いを押えて来た。
それが、律子と二人きりになって、爆《ばく》発《はつ》した……。
そうだ。——これは「挨拶」だ。
少なくとも、よりを戻《もど》した、という気持は、伊波の内には全くなかった。
「これからどうするの?」
と、律子が訊《き》く。
「シャワーを浴びて寝《ね》るさ」
「違《ちが》うわよ」
と律子は笑《わら》った。「あの女の子のこと。ずっと置いてやるつもり?」
「向うが出ていかないんだ。追い出すわけにもいかない」
「こんな季節じゃね」
「そう。——分らないよ、どうなるのか」
「結《けつ》婚《こん》したら?」
伊波は面食らって律子を見た。
二人は一《いつ》緒《しよ》になって笑い出した。——道ならぬ仲《なか》、という暗さは、そこにはなかった。
「さあ、シャワーでも浴びようか」
と、伊波は伸《の》びをした。
「一人ずつ、順番よ」
「そうか。いつも君が先だったな」
「じゃ、お先に——」
律子は、ベッドから脱《ぬ》け出し、バスルームへ入ると、シャワーを浴びた。
熱いお湯の感《かん》触《しよく》が快《こころよ》い。——何もかも、洗い落としてくれるようだ。
伊波との、この一時の情《じよう》事《じ》も。
これが、もし夫《おつと》に知れたら、と、ふと考えてみる。しかし、そんなことは、まず考えられない。
そうだわ。もう、明日には東京へ戻《もど》ってしまうのだから。
——律子が出て、入れかわりに伊波がバスルームへと消える。
「そうだわ、ねえ」
「何だい?」
伊波の声が返って来る。
「あの子、包《ほう》丁《ちよう》を持ってたわよ」
「——うん。つきつけられて、びっくりしたよ」
「あなたに?」
「あれぐらいの年《ねん》齢《れい》の子は分らないよ」
と、伊波の声がして、シャワーの音がかぶさった。
律子は服を着ると、タバコを出して、火を点《つ》けた。——伊波が、バスタオルを腰《こし》に巻《ま》いて出て来る。
「やれやれ、スッキリしたよ」
「あの子、嫉《しつ》妬《と》してるのよ」
「ん? ああ、そうかもしれん。でも、深《しん》刻《こく》なものじゃあるまい」
「気を付けた方がいいわ。深刻じゃなくても、刺《さ》すことはあるわ」
「おどかすなよ」
伊波は苦《く》笑《しよう》した。
服を着ながら、
「そうだ。この近くで殺人があったらしい」
と言った。
「殺人?」
「うん、ホテルのフロントでね——」
伊波が、聞いたことを話してやると、律子は、眉《まゆ》をひそめた。
「怖《こわ》いわね。あなた、帰らなくて良かった」
「うん、詳《くわ》しいことは分らないけど……。ともかく、明るい内に戻《もど》るようにするよ、明日は」
伊波は、ベッドに座《すわ》った。「君は、いつ……?」
「明日帰るわ」
「明日か」
「ええ」
「じゃ、もう会うこともないだろうな」
「そうね」
そうだろうか? 村上が、小池に頼《たの》んだことは、まだ、済《す》んでいない。
しかし、今度頼まれたら、律子は断《ことわ》ろうと思っていた。
やはり、伊波を裏《うら》切《ぎ》りたくはなかったのだ。——たとえ夫《おつと》に叱《しか》られても、いやだ、と言おう。
「——もう二時だわ」
と、律子は言った。「今日帰る、って訂《てい》正《せい》しなきゃならないわね」
「じゃ、あの子は……」
「朝の様子で決めましょうよ」
「そうだな。電話してくれ」
「起こしてあげるわ。五時? 六時?」
「夕方のね」
と、伊波は笑《わら》って言った。
廊《ろう》下《か》へ出て、律子の部屋まで行く。
足音がした。——振《ふ》り向くと、さっきのフロントの男だ。
律子は、ちょっと早口に、
「じゃ、おやすみなさい」
と、伊波に言った。
「あ、どうも——」
フロントの男が伊波に頭を下げる。「さっきの事《じ》件《けん》ですがね」
律子がドアを開《あ》けようとした手を止めた。
「何か分ったのかい?」
伊波が訊《き》く。
「運転手が首を絞《し》められて殺されたそうです。何でも、凄《すご》い力だそうで」
「ほう」
伊波は、内心ホッとした。
まさか、とは思っていたが、あの少女がやったのではなかったわけだ。まあ、腕《うで》相撲《ずもう》をしたことはないが、あの子がそんな怪《かい》力《りき》の持主とは思えない。
「ともかく、犯《はん》人《にん》は大男で、凄《すご》い力の奴《やつ》ということらしいです。もう一度、鍵《かぎ》を確《たし》かめて歩いてるんですよ」
「ご苦労さん」
「おやすみなさい」
フロントの男が行ってしまうと、伊波と律子は、何となく顔を見合わせた。
「——じゃ、おやすみ」
「ええ」
律子は、ドアを開けた。
部屋の中は静かだった。——少女は、ドアの方に背《せ》を向けて、眠《ねむ》っている。
律子は、そっと近《ちか》寄《よ》って、覗《のぞ》き込《こ》んだ。
静かな寝《ね》顔《がお》だ。——これなら大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だろう。
律子は、もう一つのベッドの毛《もう》布《ふ》をめくって、腰《こし》をおろした。
どうせ、もう二時を回っている。——このまま寝てしまおうか。
ゴロリ、とベッドに横になる。
——少女は、律子に背を向けたまま、目を開いた。その目は、つい今まで眠っていたとは見えなかった。
少女の目には、不安があった。
追われる獣《けもの》のような、不安が、暗く光っていた。
伊波は部屋に戻《もど》ると、ベッドに身を投げ出した。スプリングがきしむ。
——律子とああなったことは、後《こう》悔《かい》していない。
明日には、律子は帰って行く。それでいいのだ。
伊波は起き上って、窓《まど》の方へと歩いて行った。カーテンを開《あ》けると、相変らずの雪である。
雪の中を逃《に》げる、怪《かい》力《りき》の大男か。——まるで怪《かい》奇《き》映《えい》画《が》だな、と思った。
「雪男かもしれないな」
そう呟《つぶや》いて、伊波はふっと笑《わら》った。