小池は、布《ふ》団《とん》の中で、モゾモゾと動きながら、手を伸《の》ばして、妻《つま》の律子のいるあたりを探《さぐ》った。
どこだ?——ん?
いない。おかしいな。もう、起き出したのかな。
小池は目を開いた。
一人で寝《ね》ているのだった。——そうか、そうだった。
律子は出かけていたのだ。村上の頼《たの》みで、かつての愛人、伊《い》波《ば》に会っている。
小池の方は急な用で戻《もど》って来てしまったが、村上の方の首《しゆ》尾《び》はどうだったのだろう?
いずれにしろ、律子も今夜には帰って来る。
いつもは、自分の方がいなくて、律子が一人で家にいることが多いのだが、ゆうべは逆《ぎやく》だった。
めったにないことだけに、小池は、思いがけないほど、寂《さみ》しい気分を味わったものだ。
「もう若《わか》くもないのに、何を言ってるんだ」
と、独《ひと》り言《ごと》を言って、笑《わら》った。
起き出して、顔を洗う。——もちろん、律子なしでは、朝食の仕《し》度《たく》も、できているわけではない。
どこか、近くへ食べに出ようか、と思った。その方がよほど手っ取り早いし、出前を取るといっても、一つではいやな顔をされるだろう。
今日は非番で、十二時近くまで眠《ねむ》ってしまった。昼飯時で混《こ》んでいるかもしれないが、一人だけだ、何とかなるだろう。
小池は、財《さい》布《ふ》をつかんで、家を出ようとした。サンダルを引っかけていると、電話の鳴るのが聞こえた。
律子かもしれない。
小池は、急いで、電話へ駆《か》け寄《よ》った。
「小池です」
「村上です」
と、あの真《ま》面《じ》目《め》そうな声が聞こえて来た。
「やあ、どうも。いかがでした、首《しゆ》尾《び》は?」
と、小池は訊《き》いた。
「いや、実は、奥《おく》様《さま》にご協力いただいたのに、突《とつ》発《ぱつ》事《じ》件《けん》がありましてね——」
「ほう」
村上が、謎《なぞ》の大男による、トラック運転手と警《けい》官《かん》の殺害事件を、手短に説明する。
「——それは大変だ!」
小池は座《すわ》り込《こ》んだ。「では、まだ、逮《たい》捕《ほ》されていないんですね?」
「私も出くわしたんですよ。それなのに逃《に》げられてしまって。全く面《めん》目《ぼく》ないことです」
小池には、淡《たん》々《たん》と語る村上の胸《きよう》中《ちゆう》が、察せられた。
部下を殺されたのだ。言葉には出てないが、どんなにか苦しいだろう。
「そんなわけで——」
と、村上が続けた。「奥《おく》さんにはむだをさせてしまったことになります。誠《まこと》に申《もう》し訳《わけ》ない」
「そんなことは構《かま》いませんよ。村上さん、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だったんですか?」
「ちょっと肋《ろつ》骨《こつ》にひびが入ったようですが、大したことはありません。いや、馬《ば》鹿《か》力《ぢから》のある奴《やつ》でしてね」
「いけませんね。休まれた方がいいですよ」
「あの大男を逮《たい》捕《ほ》してからですよ」
村上の言葉は、穏《おだ》やかだが、固い決心を感じさせた。止めてもむだだろう。
いや、小池自身、おそらく村上の立場なら、同じことを言うに違《ちが》いない。
「では、くれぐれも気を付けて下さい」
「ありがとう。奥さんは今日、帰られるはずですから」
「私の方は非番ですから、家にいるようにしますよ」
「それは羨《うらやま》しい」
初めて、村上の声に、笑《わら》いが混《まじ》った。「では、またご連《れん》絡《らく》します」
——律《りち》義《ぎ》なことだ。
小池は電話を切って、首を振《ふ》った。
正《しよう》体《たい》不《ふ》明《めい》の大男か。何だか、映画にでも出て来そうだな。
小池は、家を出て、近くの、ファミリーレストランに出かけた。
よく見かけるチェーン店の一つで、この辺にも、ここ二年ほどの間に、三軒もできた。
どこも似《に》たり寄《よ》ったりの味だが、ともかくひどくまずいこともないし、値《ね》段《だん》も安い。
あまりに可愛《かわい》い店の造《つく》りに、最初は抵《てい》抗《こう》を覚えても、その内、つい足が向くようになる。昼は、サラリーマンや、トラックの運転手で、結《けつ》構《こう》混《こ》んでいるのだ。
入って行くと、テーブルは一《いつ》杯《ぱい》で、子《こ》供《ども》連れの主《しゆ》婦《ふ》たちが二、三人、順番を待っていた。
「お客様、お一人ですか?」
主婦のパートらしいウエイトレスが、声をかけて来た。
「うん」
「カウンターのお席で良ろしければ、どうぞ」
「ああ」
後から来て、先に入ってしまうのも気がひけたが、他の客は、みんな三人、四人のグループらしい。
小池は、ちょっと小さくなって、カウンターについた。
こんなときには、ひどく気が弱くなる。むしろ律子の方が度《ど》胸《きよう》がいいのである。
メニューをもらって、ともかく、一番簡《かん》単《たん》なランチを注文する。先にコーヒーが来た。
この手の店は、たいていコーヒーが飲み放題である。その代り、お湯と大差ないほど薄《うす》いコーヒーではあるが。
TVが点《つ》いていた。ニュースが始まったところである。
「死体——」
という言葉で、ヒョイと画面を見る。
やはり、習《しゆう》慣《かん》というものかもしれない。
誰《だれ》だ? 小池は、ふと眉《まゆ》を寄《よ》せた。どこかで見た顔だった。——誰だろう?
「柴《しば》田《た》さんは——」
というアナウンスの声。
柴田! そうか、あの男だ!
村上の依《い》頼《らい》で同行した、あの大《だい》邸《てい》宅《たく》。血《けつ》痕《こん》の発見された別《べつ》荘《そう》の、かつての持主である。
娘《むすめ》が五年前、行方《ゆくえ》不《ふ》明《めい》になってから、父親は異《い》常《じよう》を来《きた》していた。その当の父親が死んだのである。
「二階から飛び降《お》りて……ノイローゼ気味で……」
ありきたりの説明が続く。
ノイローゼ気味だって? あれは、「気味」どころではない。完全なノイローゼだ。
気《き》の毒《どく》に、と小池は思った。薄《うす》いアメリカンコーヒーをすする。
引っかかったのは、一つの言葉だった。
「別《べつ》荘《そう》」
——妻《つま》の徳子は、ちょうど別荘へ行っていて、留《る》守《す》だったのだ。
「別荘か……」
と、小池は呟《つぶや》いた。
偶《ぐう》然《ぜん》だろうか? 柴田家のかつての別荘で、血痕が見付かった。そして、村上と共に柴田家を訪《たず》ね、ノイローゼの夫《おつと》に出会った。
その夫は死んだ。そして、妻は別荘に行っていた、という……。
もちろん、これらの事実に、何か脈《みやく》絡《らく》をつけることは、むずかしい。小池には、とても想像できなかった。
むしろ、村上なら、何かユニークな発想をするかもしれない。
それにしても——「別荘」「行方《ゆくえ》不《ふ》明《めい》の娘《むすめ》」そして、突《とつ》然《ぜん》現《あら》われた「大男」。柴田家の主人の死……。
こんなに、色々な出来事が、ただ偶《ぐう》然《ぜん》で重なるものだろうか?
小池は、あとで柴田邸《てい》を訪ねてみよう、と思った。もちろん、本来の職《しよく》務《む》からは離《はな》れてしまうが……。
「お待たせしました」
ランチが、目の前に置かれた。
「ありがとう」
律子はドアを開け、ルームサービスのワゴンを中へ入れた。「サインしましょう」
「お願いします」
若《わか》いボーイが、伝票を取り出す。
律子はボールペンで名前を書いて、ボーイへ返した。
ドアを閉《し》めると、ワゴンを、ベッドの方へ押《お》して行く。
「さあ、スープでも飲んで、元気をつけてちょうだい」
と、律子は少女に言った。
少女は、ベッドに少し起き上った格《かつ》好《こう》で、天《てん》井《じよう》を眺《なが》めていた。
「お腹《なか》、空《す》いてないの?」
と、律子は訊《き》いた。「だめよ、食べなきゃ」
大きなお世話、と言い返して来るかと思ったのだが、少女は意外に穏《おだ》やかな目を、律子の方へ向けた。
「食べる?」
「ウン」
と、少女が肯《うなず》く。
「良かった! じゃ、一《いつ》緒《しよ》に食べましょ。私《わたし》もお昼はまだだから」
律子は、ワゴンを二つのベッドの間に入れた。「サンドイッチとスープ、それに、紅《こう》茶《ちや》。——紅茶は後でいい?」
「うん」
と、少女は言いながら、もうサンドイッチに手を出していた。
律子は内心ホッとした。
もう熱も下がっているし、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だろう。——それに包《ほう》丁《ちよう》で刺《さ》される心配もなさそうだ……。
少女は、十一時近くまで、ぐっすり眠《ねむ》っていた。そのために、律子は、チェックアウトを延《えん》期《き》して、夕方まで、借りておくことにしたのである。
少女の食《しよく》欲《よく》は大したものだった。
何しろ、律子がサンドイッチの一皿《さら》を三分の一も空《あ》けない内に、もう一皿が、すっかり空《から》っぽになってしまったのだから。
「おいしい」
少女は、紅茶を一口飲んで、ふうっと息をついた。
「良かったわ、元気になって」
と、律子も、もう一つのカップに紅茶を注《つ》ぎながら言った。
「あの人は?」
律子は、ちょっと目を見開いた。
もちろん、伊波のことを言っているのには違《ちが》いはないのだが、あの人とは、大人《おとな》びた呼《よ》び方である。
「伊波さんのこと? 他に部屋を取って——でも、もう出てるはずね。きっと下のロビーにでもいるんじゃないかしら」
少女は肯《うなず》いて、
「私のこと、聞いたんでしょう?」
と言った。
「そうね。でも——あなたにも自分のことが分らないんだから、聞いたといってもね……」
律子は曖《あい》昧《まい》に言った。「あなた、記《き》憶《おく》は戻《もど》らないの?」
「ええ」
少女は目を伏《ふ》せた。
もちろん、記憶を失ったというのは、でたらめじゃないの、と問《と》い詰《つ》めることもできたが、律子としては、少女の反感を買いたくないという気持があった。
ここは、少女の話を信用しているという態《たい》度《ど》でいた方がいい。
「のんびり構《かま》えた方がいいのよ、そういうときは」
と、律子は言った。
少女は、何か言いかけて、思い直したように口をつぐんだ。それから、少し間を置いて、
「あの人、奥《おく》さんを殺したって疑《うたが》われてたんでしょう?」
と訊《き》いた。
「ええ、そうなの。でも、犯《はん》人《にん》はあの人じゃないわ」
律子の方も「あの人」と呼《よ》んでいた。
「そうですか」
「私が一《いつ》緒《しよ》にいたんだもの、その時間には。絶《ぜつ》対《たい》に確《たし》かよ」
「あの人、人殺しなんて、できませんよね」
少女は、ホッとしたように言った。
「気の優《やさ》しい人だものね。——分るでしょう?」
「ええ」
少女が微《ほほ》笑《え》んだ。——何となく、律子も微笑んでいた。
何だか妙《みよう》だわ、と律子は思った。
いわば、私たち、恋《こい》敵《がたき》なのに。——もっとも、そんなこといったら、伊波は照れるだろうけれど。
「ねえ、あなた——」
と、律子が言いかけたとき、ドアをノックする音がした。
少女が目に見えてビクッとした。律子は、ちょっとびっくりした。
この子は、何かに怯《おび》えている。
「はい」
と律子がドアの方へ歩いて行く。
「僕《ぼく》だよ」
伊波の声だった。
ドアを開けると、伊波が覗《のぞ》き込《こ》んで、
「入っていいかい?」
「どうぞ。食事が終ったところ」
と、律子は言って、伊波を入れた。
「やあ、すっかり元気そうになったな」
伊波は少女に笑《わら》いかけた。
「うん、もう大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》」
少女は、ちょっと幼《おさな》い笑《え》顔《がお》に戻《もど》って言った。
「良かった。どうしようかと思ってたんだ、ゆうべは」
「若《わか》いってのはすばらしいわ」
と、律子が言った。「この回《かい》復《ふく》力《りよく》! 私たちには真《ま》似《ね》できないわよ」
「全くだな」
「もう別《べつ》荘《そう》に戻るの?」
と、少女が訊《き》いた。
「どうしたもんかな」
伊波は、ソファに腰《こし》をおろした。「迷《まよ》ってるんだ」
「私のせいで?」
「いや、それもあるが……。ほら、ゆうべボーイが言ってたろう」
と、律子の方を向いて、「例の殺《さつ》人《じん》事《じ》件《けん》だよ」
「大男とかいう、あれ?」
「そうさ。ゆうべ、僕のよく行く喫《きつ》茶《さ》店《てん》に来たらしい」
「それで?」
「居《い》合《あわ》せた警《けい》官《かん》を殺して逃《に》げた」
「殺して?」
律子が、さすがに目を見《み》張《は》った。
「大変な奴《やつ》だよ。——今、この付近は大《おお》騒《さわ》ぎさ」
「危《き》険《けん》があるのね」
「というより、県《けん》警《けい》の応《おう》援《えん》も来て、大《だい》捜《そう》査《さ》網《もう》を展《てん》開《かい》してる。今、別《べつ》荘《そう》へ戻《もど》ろうとしても、途《と》中《ちゆう》うるさく検《けん》問《もん》されるだろうな」
「それに物《ぶつ》騒《そう》だわ」
と、律子は言った。「あなたとこの子二人きりの所へもし、その大男が来たら——」
「僕じゃ、とても太《た》刀《ち》打《う》ちできっこないからね」
と、伊波は肯《うなず》いた。
「じゃ、捕《つか》まるまで、このホテルにいたらどう?」
と、律子は提《てい》案《あん》した。
「うん、それも考えてるが……」
伊波は少女を見た。「君はどうしたいんだ?」
少女は、ちょっと目を伏《ふ》せて考え込《こ》んでいたが、すぐに伊波を見つめて、
「あなたのいる所なら、どこでもいい」
と言った。
「まあ、羨《うらやま》しいこと!」
と、律子がからかった。「こんな若《わか》い子にそんなこと言われるなんて、生《しよう》涯《がい》に何度もないわよ」
「よせよ」
伊波が苦《く》笑《しよう》した。
電話が鳴り出し、律子は受《じゆ》話《わ》器《き》を取った。
「はい。——あら、あなた?——ええ、寝《ね》坊《ぼう》しちゃってね。——え? 何ですって」
律子は思わず訊《き》き返《かえ》していた。「——分ったわ。——ええ、それじゃ——」
律子は、戸《と》惑《まど》った表《ひよう》情《じよう》で、受話器を戻《もど》した。
「どうした? 早く帰って来いって言われたんだろう」
伊波の問いに、律子は、ゆっくり首を振《ふ》った。
「そうじゃないの。——ここにいろ、と言うのよ」
「え?」
「主人の方が、こっちに来るって。何か、用事ができたらしいの」
律子は、空《あ》いたソファに腰《こし》をかけた。
三人が、何となく黙《だま》り込んだ。——何か新しい不安と緊《きん》張《ちよう》が、そこに生れつつあった……。