「かしこまりました」
と、フロントの係がメモを取る。
「一《いち》応《おう》、一日だけ延《えん》長《ちよう》ということにしてくれないか。後はまた考えるよ」
と、伊《い》波《ば》は言った。
「お部屋はございますから、どうぞおっしゃって下さい」
「ありがとう」
「あ、ちょっとお待ち下さい」
と、フロントの男が、奥《おく》へ入って行ったと思うと、すぐに、古びた本を手にして、戻《もど》って来た。
「先生のご本なんです。サインして下さいませんか」
伊波はびっくりした。
「よく持ってたね! 懐《なつか》しいな」
伊波は肯《うなず》いて、「いいですよ。サインペンか何かあるかな」
自分の本にサインするというのは、何とも照れくさい気分だった。
「いらっしゃいませ」
と、声がした。
伊波はサインを終えて、何となく振《ふ》り向いた。——四十代の半《なか》ばと見える、いかにも大《たい》家《け》の奥《おく》様《さま》という感じの女《じよ》性《せい》である。
ミンクのコートを着ている。それが一《いつ》向《こう》に高そうに見えない。——本当の金持なら、そういうものである。
本人に「高いもの」という意《い》識《しき》がないから、はた目にも大したものではない、と映るのだ。しかし、よく見れば、いかにも立《りつ》派《ぱ》な毛《け》皮《がわ》だし、靴《くつ》や、さげているバッグも、本物である。
その女性はツカツカとフロントへやって来た。
「柴田ですけどね」
「はい、承《うけたまわ》っております」
とフロントの男が頭を下げる。「スイートルームでございますね」
「そう」
と、そう女性は肯《うなず》いた。「車に荷物があるから、運ばせて」
「かしこまりました。——ご宿《しゆく》泊《はく》は何名様でいらっしゃいましょう?」
「私《わたし》一人です」
と、その女性はあっさり言った。
「さようでございますか。では、このカードにご記入を」
伊波は何となく興《きよう》味《み》をひかれて、その女《じよ》性《せい》が、〈宿泊カード〉に記入するのを見ていた。
柴田徳子か。——一人でスイートルームを使うとは大したもんだな。
大方、どこかの社長の夫《ふ》人《じん》か、そんなところだろう。しかし、大物らしさというか、そういう世界の人間だという雰《ふん》囲《い》気《き》が、身についていて、無《む》理《り》がない。
見ていて顔をしかめたくなるような「成《なり》金《きん》」とは違《ちが》っていた。
ボーイが、車からトランクを運んで来るのを、その柴田徳子という女性は待っていたが……。
「あら」
と、声を上げて、伊波の顔を見た。
「はあ?」
伊波が目をパチクリさせる。
「伊波伸二さんでしょう。小説家の」
「ええ……」
「まあ、少しも変られませんね。私、先生のご本をよく読んでおりましたの」
「そりゃどうも……」
こういうタイプの女性から、「先生」などと呼《よ》ばれるのは、何だか妙《みよう》な気分だな、と伊波は思った。
「こちらにご滞《たい》在《ざい》ですの?」
「いや、この近くに住んでいるんです。たまたま用があって——」
「まあ、そうでしたか」
柴田徳子は肯《うなず》いた。納《なつ》得《とく》した、という表《ひよう》情《じよう》である。
おそらく伊波の妻《つま》が殺された事《じ》件《けん》を思い出したのだろう、と伊波は思った。
ボーイがトランクを両手にさげてロビーへ入って来ると、
「では、失礼します」
と、柴田徳子は軽く会《え》釈《しやく》して、歩いて行った。
「私、もう出て行かないと」
と、少女が言った。
「え?」
律子は、振《ふ》り向《む》いた。
少女はベッドで、週《しゆう》刊《かん》誌《し》をめくっていた。
「どうして?」
と、律子が訊《き》く。
「だって、ご主人が来るんでしょ」
「ああ、そうね」
「呑《のん》気《き》だなあ」
律子は笑《わら》って、
「本当ね。でも——どうせ夜になるわ。急がなくてもいいわよ」
と言った。
「私が伊波さんの部屋に泊《とま》っても、構《かま》わない?」
「もちろんよ。どうして?」
少女は、ちょっと肩《かた》をすくめて、
「やきもちやくかな、と思ったの」
と言った。
「だって、あなた、ずっと二人でいたわけでしょう?」
「そりゃそうね」
少女は週《しゆう》刊《かん》誌《し》を投げ出すように置いて、欠伸《あくび》をした。それから、ふっと真顔になって、
「お礼も言わなかった」
と、言った。
「私に?——そんなこと、いいのよ」
少女は何か言いたげにしていたが、廊《ろう》下《か》に物音がしたので、口をつぐんだ。
律子は、そんな少女の様子には気付かないふりをして、鏡の前に座《すわ》り込《こ》んでいた。
新しい客らしい。
ボーイが、
「こちらの奥《おく》でございます」
と、案内している声が聞こえる。
「非《ひ》常《じよう》口《ぐち》は近いの?」
女の声がした。
「はい、ドアの正面でございます」
「そう。——ともかく、万一のことを、いつも考えておかないとね」
女の声が遠ざかる。
律子は、少女の方を見た。
少女は、不思議な顔をしていた。半《なか》ば、放《ほう》心《しん》状《じよう》態《たい》という感じだ。
「どうしたの?」
律子が声をかけても、少女の耳には入らない様子だった。
しばらくして、ハッとしたように、
「あ——ごめんなさい」
と、急いで言った。「何か言った?」
「ううん、別に」
とは言ったものの、どうしたのかしら、と律子は思っていた。
今の様子はどうも……。
ドアにノックの音がした。少女がギクリとしたようにドアを見る。——やはり、どこか変だ。
「僕だよ」
と、伊波の声がした。
律子がドアを開けると、伊波はキーを振《ふ》って見せて、
「あっちの部屋を延《えん》長《ちよう》して来た。——どうする? 向うに移るかい?」
少女はベッドから出ると、
「うん」
と肯《うなず》いた。「少し眠《ねむ》るわ。眠いの」
「あれだけ寝《ね》て? まだ具合が悪いのかな」
「ううん、そんなことない」
と、少女は首を振った。「寝すぎたせいだわ。却《かえ》って頭がぼんやりしてるの」
「寝だめしとくといいよ」
伊波は微《ほほ》笑《え》んで言った。
伊波が少女を連れて出て行くと、律子は、ベッドの乱《みだ》れを直した。——夫《おつと》が来る前に、ベッドメークを頼《たの》んでおかなくちゃ。
係に連《れん》絡《らく》すると、すぐに伺《うかが》いますとの返事だった。
大ホテルではないので、不便もあるが、こういう点は早い。律子は、カフェテラスに出ていることにした。
廊《ろう》下《か》に出ると、伊波も出て来たところだった。
「眠るからといって、追い出されたよ」
と伊波は笑《わら》った。
二人は一《いつ》緒《しよ》にロビーへ降《お》り、カフェテラスに入って、寛《くつろ》いだ。——中《ちゆう》途《と》半《はん》端《ぱ》な時間なので、客もほとんどいない。
雪は降《ふ》り積っているが、よく晴れていた。窓《まど》際《ぎわ》の席に座《すわ》ると、雪の白さがまぶしいほどである。
「——あの子を、どうするの?」
と、紅《こう》茶《ちや》を飲みながら、律子は言った。
「さあね。いつまでもこのままじゃいけないとは思ってるんだが……」
「もっと大人《おとな》の女《じよ》性《せい》なら、私も心配しないんだけど——」
と言って、律子は、ちょっと笑った。「何だか逆《ぎやく》みたいね。でも、少《しよう》女《じよ》暴《ぼう》行《こう》か何かで捕《つか》まったりしないようにしてね」
「恐《おそ》ろしいことを言うなよ」
と、伊波は目を見開いた。「——あの子に関しては、作家的興《きよう》味《み》しかないんだ。記《き》憶《おく》を失った少女なんて、めったに会えるもんじゃない」
「でも、それが本当かどうか、分らないんでしょう?」
「嘘《うそ》だとしても、何か理由があるはずだからね。面白いよ」
律子が、果《は》たしてその言葉を信じたかどうか、伊波にも分らなかった。
あの少女に対して、男としての関心を持っていないと言えば、それは嘘になる。
ただ、それを理《り》性《せい》で押《おさ》えている内は、どうということもない。それを貫《つらぬ》けるかどうか、伊波にも自信はなかった。
それは——おそらく、律子を久々に抱《だ》いたせいでもある。
忘《わす》れていた女性の肌《はだ》のぬくもりを、伊波は思い出していたのだ。しかし、もう律子と二度とあんなことになってはいけない。
今日、律子の夫《おつと》がやって来るのだ。今夜、たとえ律子が夫に抱かれたとしても、伊波には何の関係もないことでなければならなかった……。
ふと入口の方を見ると、さっきフロントで見かけた、柴田徳子が入って来た。
向うも伊波に気付いて、軽く会《え》釈《しやく》した。
「——どなた?」
と、律子が訊《き》く。
「知らんよ」
伊波は、肩《かた》をすくめて、「さっきフロントで会ったんだ。僕のことを知っている、珍《めずら》しい人だった」
「まあ、そうなの」
律子はちょっと笑《わら》った。「でも、あなた、自分で考えてるほど、世間から忘《わす》れられてるわけじゃないわよ」
「忘れられた方が気が楽さ」
伊波が苦《く》笑《しよう》して、コーヒーカップを取り上げた。
柴田徳子が、席を立って、やって来た。
「先生、先ほどは——」
「ああ、どうも」
「ちょっと、この手帳にサインをいただけますか」
伊波は、ちょっと面食らった。およそ、人のサインをほしがるようなタイプではないのだ。
「いいですとも。——ここでよろしいですか?」
手帳の白ページに、ボールペンでサインをする。
「まあ、ありがとうございます」
と、柴田徳子はにこやかに、「おいでになると分っていれば、ご本を持って来たんですのに」
と言った。
それから、ちょっと外の雪景色へ目をやって、
「何か、怖《こわ》い事《じ》件《けん》があったようですね」
「ええ。この雪の中を、殺《さつ》人《じん》犯《はん》が逃《に》げてるらしいですよ」
「まだ捕《つか》まらないんでしょうか」
「そうらしいです」
「怖いこと。早く捕まってくれないと。とんでもないときに来てしまったようですわ」
柴田徳子は微《ほほ》笑《え》むと、サインの礼を言って、離《はな》れた席の方へ戻《もど》って行った。
律子が、ちょっと声を低くして、
「いかにもいい所の奥様って風ね」
「うん」
伊波は、何だか妙《みよう》な気がした。
あの夫《ふ》人《じん》が、声をかけて来たのは、サインがほしくて、というより、逃げている殺人犯の話がしたかったのではないか、という印象を受けたからだった。
しかし、まさか、あんな「奥様」が、そんな「雪男」と関《かかわ》りのあるはずもないし……。
——外は一日、晴れる気配だった。