電話は、まず交《こう》換《かん》手《しゆ》が出た。
「伊波様ですか」
「そうです」
「東京から、お電話が入っております」
「東京から?」
電話をつなぐ音がした。伊波は、ちょっと少女の方へ目をやった。
少女はベッドの中で、ホテルの案内を見ている。
「もしもし」
と、男の声がした。
知っている声ではないようだ。
「伊波ですが」
「作家の伊波伸二さんですね」
「そうですが……」
「『週《しゆう》刊《かん》A』の者です」
いやな予感がした。早々に切ってしまおう。
「何か……」
「四年前に奥《おく》さんが殺された事《じ》件《けん》がありましたね。実は、その時、先生の愛人だった女《じよ》性《せい》のことなんですが」
律子のことだ。しかし、相手の、何とも無《む》神《しん》経《けい》な言い方は、腹《はら》立《だ》たしかった。
「何ですか、一体。『奥さんが殺された』だの、『愛人』だのと、もう少し言葉を慎《つつし》みたまえ」
「ああ、失礼」
ちっとも失礼には思っていないらしかった。「ところで、その愛人——いや、その女性が今、どうしているか、ご存《ぞん》知《じ》ですか」
「何ですって?」
「何と、当時、捜《そう》査《さ》の先頭に立っていた刑《けい》事《じ》と結《けつ》婚《こん》してるんですよ」
一体、どこでそんなことをかぎつけたのだろう?
伊波は、さり気なく、
「そうですか」
と言った。
「ご存知でしたか?」
「いいや。彼女《かのじよ》がどうしていようと、もう僕《ぼく》には何の関係もないことですからね」
「しかし。何かあるでしょう。何しろ、あのとき、色々、ひどい目に遭《あ》われてるわけですから」
一番ひどい目に遭わせてくれたのは、君らのような、無《む》責《せき》任《にん》なマスコミだ、と伊波は言ってやりたかった。
「ぜひ、ご感想をうかがいたくて、お電話したんですよ」
と、相手は続けた。
知るもんか、と言って、受《じゆ》話《わ》器《き》を叩《たた》きつけてやろうかと思ったが、ふと思い直して、
「一体、そんなことを訊《き》いて、どうするんですか?」
「記事にしようと思いましてね。殺《さつ》人《じん》事《じ》件《けん》の、それも未《み》解《かい》決《けつ》の事件の関係者が、刑《けい》事《じ》と結《けつ》婚《こん》しているというのは、面白い話ですからね」
「しかし——それは彼女《かのじよ》の自由じゃないか。そっとしておいてやりなさい」
「いや、そこが週《しゆう》刊《かん》誌《し》の読者の楽しむところなんですから」
「ともかく、僕は別に——」
「ぜひ、先生の談話をいただきたいんです。そちらの方へうかがいますので、ぜひ——」
「何だって?」
「散々捜《さが》しましてね、やっと捜し当てたんですから」
「待ってくれ。僕は——」
「じゃ、今夜中にはそちらに着くようにします。明日、入《にゆう》稿《こう》しなくちゃならないもので」
「僕は何も言わんぞ!——おい」
伊波が声を荒《あら》らげたときは、もう相手は電話を切っていた。
「何てことだ、畜《ちく》生《しよう》!」
伊波は吐《は》きすてるように言った。
「どうしたの?」
「何でもないよ」
不《ふ》機《き》嫌《げん》にそう言って、伊波は、大きく息をついた。
「——いや、すまん。実は、律子のことなんだ」
「律子さんのこと?」
少女は、伊波の話を聞くと、
「へえ、週《しゆう》刊《かん》誌《し》って物《もの》好《ず》きなのね」
と言った。
「人のプライバシーを金にして暮《くら》してるんだ! 汚《きた》ない連中だ、畜生!」
「怒《おこ》ったって仕方ないわ」
伊波は、少女にそう言われて、ちょっとギクリとした。
「そうだな。怒ってても仕方ない」
「どうするの? 来たら会うの?」
「いや、そのつもりはない」
「でも、ここまで来て、はい、そうですか、って帰る?」
「うむ……。むずかしいな」
「それに、もし、律子さんまでここに来ていると分ったら、大変よ」
伊波は、そこまで考えていなかった。言われてみれば、その通りだ。
向うは、伊波一人がここにいると思って来る。ところが律子も、その夫《おつと》の小池もここにいる、などと分ったら——どうなるだろう?
正《まさ》に格《かつ》好《こう》のネタを提《てい》供《きよう》することになるだけだ。もちろん、向うが律子に気付かないこともあり得《う》るが、もし気付いたら、とても取材から逃《に》げ切れまい。
「律子さんにも知らせた方がいいわ」
「そうだな。出てこないように忠《ちゆう》告《こく》しておこう。それにフロントにも言い含《ふく》めておかないと」
「でも、あなたは?」
「何かいい方法があるかい?」
「うちに帰るのよ」
伊波は面食らった。そんなことは、考えてもみなかったのだ。
「あの別《べつ》荘《そう》へ?」
「そう。それが一番いいわ。あそこなら、捜《さが》しては来ないでしょ」
いや、あの雑《ざつ》誌《し》の連中はやって来た。しかし、今はこの雪だ。
幹《かん》線《せん》道《どう》路《ろ》を来れば、何とかこのホテルまでは来られる。しかし、ここから、あの別荘までは、とても来られないだろう。
たとえ、場所が分ったとしても、この辺の人間でなければ、無《む》理《り》だ。
週《しゆう》刊《かん》誌《し》の人間は忙《いそが》しい。そう何日も粘《ねば》ることはしないだろう。
なるほど。少女の言う通りかもしれない。
「——いい考えだな。そうしようか」
と、肯《うなず》いたが、「でも、例の大男がまだ捕《つか》まってないんだぜ」
「あんな所まで、来ないわよ」
と、少女は笑《わら》った。
それもそうだ。そんなことを気にしていては、何もできない。
「よし。じゃ、彼女に話をして来る」
「うん」
伊波は、廊《ろう》下《か》へ出た。
「あら、伊波先生」
と、声がして、柴《しば》田《た》徳《とく》子《こ》が歩いて来る。
「このお部屋ですの」
「ええ。そろそろ引き上げようかと思ってるんですが」
「まあ、ゆっくりお話がしたかったのに、残念ですわ」
徳子の言い方は、お世《せ》辞《じ》なのか、本気なのか、判《はん》断《だん》しかねた。
伊波は、律子の部屋のドアをノックしながら、あの女、どこか妙《みよう》だな、と思っていた……。
伊波と柴田徳子の話を、少女は、ドアにぴったりと耳を押《お》し当てて、聞いていた。
そして、話が終ると、そのまま、床《ゆか》に座《すわ》り込《こ》んでしまった。
「週《しゆう》刊《かん》誌《し》が?」
律子は思わず目を見《み》張《は》った。「私《わたし》のことを記事に?」
「そのつもりらしい。僕《ぼく》もコメントを求められてるが、もちろん逃《に》げるよ。——君が、もしここにご主人といると分れば、連中は放っておかないだろう」
「何てことなのかしら!」
律子は、部屋の中を歩き回った。固く、手を握《にぎ》り合せている。
「主人のことが心配だわ。——ほとんどの同《どう》僚《りよう》は何も知らないのよ。それが、みんなに知れ渡《わた》ったら……」
伊波は、椅子《いす》に軽く腰《こし》を下ろした。
「警《けい》察《さつ》から、圧《あつ》力《りよく》をかけるわけにいかないのかい?」
「どうかしら。分らないけど……」
律子は首を振《ふ》った。「ともかく、私と主人がここにいるのは、最悪ね」
「どうとでも書ける。ともかく、創《そう》作《さく》は連中の特《とく》技《ぎ》だからな」
伊波は、ペンの持つ暴《ぼう》力《りよく》の恐《きよう》怖《ふ》を、四年前に、いやというほど味わっている。
「何とか——何とかしなきゃ!」
律子はベッドに腰《こし》を落して、叫《さけ》ぶように言った。それから、ちょっと、伊波に笑《わら》いかけて、
「妙《みよう》ね」
と言った。「——私、主人を裏《うら》切《ぎ》ったのに——」
「それを言っちゃいけない」
と、伊波は言った。「何もなかったんだ。僕らの間には、何もなかったんだ」
「ええ……。分ってるわ」
律子は肯《うなず》いた。「私——主人との生活は守りたいの。主人のために。——いい人なんだもの」
伊波は、ふと胸《むね》が痛《いた》んだ。こんな思いをするのは、初めてだ。
「そうとも。ぜひ守るべきだ」
と、肯いて、言った。
律子は、伊波を見た。
「あなた、どうするの?」
「あの子と、別《べつ》荘《そう》へ戻《もど》る」
「別荘へ? でも——危《き》険《けん》じゃないの?」
「こっちが狙《ねら》われてるわけじゃないからね。まず大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》さ」
律子は、ゆっくりと肯いて、
「そうね」
と言った。
そして、少し考え込《こ》んでいたが……。
「私も連れて行ってくれない?」
と言い出した。
「君を?」
「ここにいなければ、まず分らないはずだわ。それに、いくら部屋に引っ込んでいても、向うが何かの拍《ひよう》子《し》で見付けることだってあり得《う》るでしょう」
「そうだな。しかし——」
「主人には電話するわ。事《じ》情《じよう》を話せば、きっと分ってくれる」
「ご主人も、ここへは来ない方がいいね。まさか週《しゆう》刊《かん》誌《し》の連中も、君のご主人の顔まで知るまいが、名前ぐらいは知ってるだろうから」
「ええ、そうね。——じゃ、連れて行ってくれる?」
伊波は、少し考えてから、
「よし、分った」
と、立ち上った。「両手に花ってのも悪くないさ」
と言った。
「お二人の邪《じや》魔《ま》はしないわ」
「よせよ」
と、伊波は笑《わら》った。
「——では、家内が待っていると思いますので、一《いつ》旦《たん》ホテルへ入ります」
と、小池は言ってドアの方へ歩きかけた。
「わざわざすみませんね」
村上がベッドから言った。
「早く良くなって下さい。それまでに、柴田徳子の方を洗っておきますから」
「私にも少し仕事を残しておいて下さいよ」
と村上が笑《え》顔《がお》で言った。
他の事件の話をしていたので、少し、あの雪男の一《いつ》件《けん》から、気持がそれたのだろう。
もっとも、柴田徳子の一件も、何か関《かかわ》り合《あ》っているのかもしれないのだが、それはまだ推《すい》測《そく》の域《いき》を出ない。
「奥《おく》さんによろしく」
と、村上が言って、小池がドアを開ける。
とたんに、若《わか》い刑《けい》事《じ》が、飛び込んで来た。
「警《けい》部《ぶ》!」
「どうした? 見付かったか?」
村上の顔が、瞬《しゆん》時《じ》にして引き締《しま》った。
「いえ、まだです」
と、刑《けい》事《じ》は息を弾《はず》ませて、「実は——」
「どうした?」
「また一人、やられました」
村上の顔が青ざめた。
「誰《だれ》だ?」
「浜《はま》田《だ》という巡《じゆん》査《さ》です」
「どこでだ?」
刑事が、死体の見付かった状《じよう》況《きよう》を説明した。
「雪の穴《あな》の中でやり過《すご》すなんて、人間とは思えません」
「しかし、人間だ。そして、殺《さつ》人《じん》犯《はん》だ」
「はい」
「三人もやられているんだぞ!」
「すみません」
村上は、必死で息を鎮《しず》めようとした。
「——済《す》んでしまったことは、仕方ない」
「はい」
「その後の足取りは?」
「発見したときは、もう——雪が降《ふ》り出していて……」
「そうか」
村上は、天《てん》井《じよう》を見上げた。「——我《われ》々《われ》をやり過したということは、戻るつもりなのかもしれん。町へ近付くか、それとも、別《べつ》荘《そう》の一つへ身を隠《かく》すか……」
「増《ぞう》援《えん》を依《い》頼《らい》して、パトロールを強化しています」
「用心しろよ。これ以上、犠《ぎ》牲《せい》を出すんじゃない」
「はい」
小池は、ドアのわきに立って、話を聞いていたが、
「村上さん」
と、進み出て、「私もお手伝いしましょうか。こちらの事件にとっても、その雪男は重要ですし」
「いや、警《けい》視《し》庁《ちよう》の方を使うわけにはいきませんよ」
と、村上は首を振《ふ》った。「あなたは、柴田徳子の方を追って下さい」
「分りました」
小池も、無《む》理《り》には言わなかった。
病室で一人になると、村上は、固く、歯を食いしばった。
出来ることなら、起き出して、指《し》揮《き》をしたいくらいだ。しかし、たとえ無理に出て行っても、また倒《たお》れれば、却《かえ》って足を引《ひつ》張《ぱ》ることになる。
今は、じっと辛《しん》抱《ぼう》しているしかないのだ……。