「お気を付けて」
と、フロントの男が言った。
「ありがとう。まあ心配ないよ」
と、伊波は支《し》払《はら》いを済《す》ませて、律子の方を見た。
「行こうか」
「ええ」
律子は、フロントへ手紙を預《あず》けた。
電話で夫《おつと》に説明したかったのだが、どうしても、つかまらなかったのだ。
二人は外へ出た。
「また降《ふ》り出したのね」
「うん。——積るだろう」
凍《こお》りつくように冷たい風だった。
もう、夜になっているが、ホテルの明りを、雪が映して、明るい。
「ここにいてくれ」
伊波は、律子をホテルの入口の屋根の下に待たせて、駐《ちゆう》車《しや》場《じよう》へと急いだ。
スイートルームは、建物の端《はし》にあるので、横の窓《まど》からは、建物のわきを見下ろすことができる。
柴田徳子は、窓辺に立って、外を見ていた。特《とく》別《べつ》、理由があってのことではない。
ただ、たまたまそうしていたに過《す》ぎなかった。
「何かしら」
と呟《つぶや》く。
足音らしい。それが下へと降《お》りて行く。
非《ひ》常《じよう》階《かい》段《だん》なのだ。——そういえば、この部屋の近くを通っている。
しかし、どうして、今ごろ、そんな所から?
徳子は、下を見ていた。
誰《だれ》かが、雪の中へ出て来た。——若《わか》い娘《むすめ》だ。
上から見ているので、顔は良く見えないのだが……。
なぜか、建物から、離《はな》れて行く。どこへ行くのかしら、と徳子は眉《まゆ》を寄《よ》せた。
雪明りで、少女の後ろ姿《すがた》がはっきりと見える。
——ふと、徳子の体が震《ふる》えた。
「まさか!」
激《はげ》しく、打ち消す。そんなはずが——そんなことが——。
少女が足を止め、振《ふ》り返った。顔が、見えた。
徳子は、そのまま、凍《こお》りついたように、動けなかった。
「——侑《ゆう》子《こ》」
という呟《つぶや》きが、その唇《くちびる》から洩《も》れた。
「早く乗って」
ドアを開けながら、律子が言った。
少女が飛び込《こ》んで来る。
「寒い!」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》か?」
と、車を進めながら、伊波が言った。
「うん。ぬくぬくとホテルで休んでたから、余《よ》計《けい》に応《こた》えるのよ」
「一《いつ》緒《しよ》に出ればよかったのよ」
と、律子が言った。
「でも、変だもの、何だか」
少女は、息をついて、「雪男をはねないように気を付けてね」
と言った。
「雪男が相手じゃ、車が壊《こわ》れるかもしれないぞ」
ゆっくりと車を走らせながら、伊波は言った。
「まさか」
律子は、ちょっと笑《わら》って、「でも、どういう男なのかしら?」
と言った。
「分らんね。エサを捜《さが》しに来たのかな」
少女は窓《まど》の外を見ながら、
「凄《すご》い雪」
と、言った。
また、雪が降《ふ》り積っている。
一《いち》応《おう》道路は何とか走れる状《じよう》態《たい》だが、別《べつ》荘《そう》まで入れるだろうか? いや、出て来てしまったのだから、何とか辿《たど》り着かねば。
伊波の経《けい》験《けん》からすると、今なら、何とか大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》と思えた。
これが、一《ひと》晩《ばん》降り続けると、どうだろう。——何とも判《はん》断《だん》できない。
しかし、別荘には、食料などは常《つね》に買い置きしてあり、心配はない。
吹雪《ふぶき》にでもなればともかく、この時期、二、三日降り続けば、天候は回《かい》復《ふく》するのが、普《ふ》通《つう》だった。
降ってはいるが、そう風はないので、視《し》界《かい》が悪いということはなかった。
雪の夜は、ライトを雪が反《はん》射《しや》して、かなり明るい。むしろ霧《きり》の方が、よほど危《き》険《けん》である。
伊波も、春先など、山道で霧に包まれて、立ち往《おう》生《じよう》してしまったことが何度かある。
その点は、雪の方が安全なのだ。
「赤い灯《ひ》が見えるわ」
と、律子が言った。
「パトカーか。——停《と》められそうだな」
「非《ひ》常《じよう》線《せん》? この辺にいるのかしら?」
「分らないね」
警《けい》官《かん》がライトを振《ふ》っている。
伊波は、ゆっくりと車を停《と》めた。
「——どこへ行かれますか」
窓《まど》ガラスを下げると、冷たい風が流れ込んで来る。
「この先の別《べつ》荘《そう》です。住んでいるので」
伊波は免《めん》許《きよ》証《しよう》を見せた。
警官は、ちょっとそれを見て、
「分りました。——この辺を凶《きよう》悪《あく》犯《はん》が逃《とう》亡《ぼう》中《ちゆう》なので」
「聞きました。凄《すご》い力持ちだとか」
「警官がまた一人やられましてね」
と、その警《けい》官《かん》は顔をしかめた。「仲《なか》のいい男だったんです」
「それは……。お気《き》の毒《どく》に」
警官が二人も。——これは大変な男だ。
「じゃ、お気を付けて。この辺にいるというわけじゃないんですが、まるで行方《ゆくえ》がつかめないので、至《いた》る所で検《けん》問《もん》してるんですよ」
「ご苦労様です」
「よく戸《と》締《じま》りを確《たし》かめて下さい」
「分りました」
伊波は、窓を閉《し》めた。大分、車の中の温度が下がっている。
「——大変な騒《さわ》ぎね」
と、律子は、車が走り出すと、言った。
「ともかく、えらい奴《やつ》が出て来たもんだ」
「何が目的なのかしら」
——何だか、今度は話が重苦しくなってしまった。
警官が二人も死んだということで、恐《きよう》怖《ふ》が急に身近に感じられるようになったのかもしれない。
「——君はどうする?」
と、伊波が言った。
「どうって?」
「ホテルへ戻《もど》るか?」
「いいえ。まさか、そんなのに出くわすこともないでしょ」
「来たら、捕《つか》まえて、TV局に高く売りつけようよ」
少女がのんびりと言った。
しかし、注意深く聞けば、その言葉の底に、不安げな響《ひぴ》きを、聞き取ることができただろう……。
「——わざわざどうも」
小池は、ホテル前でパトカーを降《お》りると、運転してくれた警《けい》官《かん》に礼を言った。「村上さんへ、よろしく伝えて下さい」
「かしこまりました」
警官が敬《けい》礼《れい》する。
ホテルのロビーへ入ると、小池はホッと息をついた。
まるで別《べつ》世《せ》界《かい》だ。——小池はフロントへ行って、名前を言った。
「あ、小池様。奥《おく》様《さま》が先ほどここを出られまして」
「出た?」
小池は、面食らった。「どこへ行ったんだろう」
「お手紙をお預《あず》かりしてあります」
「ありがとう」
小池は、何があったのだろう、といぶかりながら、ロビーのソファに腰《こし》をおろし、律子の手紙を取り出した。
開く前に、一《いつ》瞬《しゆん》、律子が、伊波と暮《くら》すために逃《に》げたのではないか、という思いが、頭をかすめた。——まさか!
なぜか、唐《とう》突《とつ》に、その考えが浮《うか》び上って来たのである。そんなことがあるもんか!
小池は、手紙を開いた。
手紙は、要《よう》領《りよう》よく、事《じ》情《じよう》が述《の》べてあった。例の雪男の事件があって、伊波もこのホテルに泊《とま》ったこと、週《しゆう》刊《かん》誌《し》が、律子のことを記事にするため、このホテルへ、伊波に会いに来ること……。
小池は、読み終えて、ホッとした。
伊波もゆうべここへ泊ったのだという点は気になったが、手紙の後半、週刊誌がここへ取材に来るというくだりで腹《はら》が立って、そんなことは忘《わす》れてしまった。
だが、別の意味で、伊波の別《べつ》荘《そう》に律子が行くことは、不安ではあった。
もちろん、あの「雪男」の一件だ。
律子のことは信じるとしても、凶《きよう》悪《あく》な殺《さつ》人《じん》犯《はん》が、もし伊波の別荘に侵《しん》入《にゆう》したら、どうなるか?
伊波は、作家だから、頭は悪くないのだろうが、残念ながら、暴《ぼう》力《りよく》的《てき》なことは苦《にが》手《て》に違《ちが》いない。
たぶん、二人とも、ひとたまりもなく、やられてしまうだろう。
〈ホテルでゆっくりしていて下さい。明日、電話をします〉
と手紙は結んであり、付け加えて、
〈伊波さんは紳《しん》士《し》ですから、ご心配なく〉
こんなことを書かれちゃ、却《かえ》って心配になるな、と、小池は苦《く》笑《しよう》した。
確《たし》かに、週《しゆう》刊《かん》誌《し》の記者がここへ来ても、伊波がいないとなれば、諦《あきら》めるだろう。
律子の顔を知っている者がいたとしても、小池のことまでは知るまい。
しかし、伊波たちは大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だろうか?
めったなことはあるまい。しかし、今、人の住んでいる別荘は、そう多くはないはずである。
あの「雪男」が、隠《かく》れる場所を捜《さが》そうとすれば、明りの点《つ》いた所を狙《ねら》うことになる。食べ物もあるし、暖《あたた》かい。
いくら何でも人間なのだから、この雪の中、いつまでもさまよってはいられまい。
そうなると、伊波の別荘が目につくことだって、ないとは言えない……。
どうしたものだろう。——伊波の別荘まで行ってみようか、と小池は思った。
いや、顔を出して、却って、村上の捜《そう》査《さ》の邪《じや》魔《ま》になったのでは困《こま》るが。
小池は、そこに多少の不安——律子と伊波の間に、何かあるのではないかという不安があることを、認《みと》めないわけに、いかなかった……。
何といっても、律子は、かつて伊波の愛人だったのである。それは律子を信じるかどうかというのとは、別の次元の問題であった。
「そうだ」
俺《おれ》には仕事がある。——柴田徳子だ。
それを放り出して、女《によう》房《ぼう》の尻《しり》を追いかけることなど、できない。そうとも、村上の、あの頑《がん》張《ば》りを見ろ。
小池は、フロントへ戻《もど》ると、
「じゃ、家内の部屋はもうあけてあるのかな」
と訊《き》いた。
「いえ、ご主人様にお使いいただくように、承《うけたまわ》っておりますが。——どうなさいますか」
「じゃ、そうするか」
「かしこまりました。では、ルームキーをどうぞ」
「ありがとう」
小池はキーを受け取った。「ちょっと訊《き》きたいんだが——」
小池が、ちょっと警《けい》察《さつ》手《て》帳《ちよう》を覗《のぞ》かせる。
「何か?」
「柴田徳子という客が来てるかい?」
「はい」
「そうか」
小池は肯《うなず》いた。やっぱりか。
「今、お出かけですが」
「出かけた? この雪の中を?」
「はい」
「——どこへ?」
「あの——妙《みよう》にあわてていらして、伊波様の別《べつ》荘《そう》の場所をお訊《き》きになり——」
「誰《だれ》だって?」
「伊波様です。作家の方で、たまたまこちらにご滞《たい》在《ざい》で——。ああ、奥《おく》様《さま》とご一《いつ》緒《しよ》に出て行かれた方です」
「その別荘へ、柴田徳子が?」
「はい。雪の中で、捜《さが》すのは大変だ、とお止めしたのですが、どうしても、とおっしゃって」
「一人で行ったのかい?」
「タクシーがございませんので、ホテルの車で。ご自分が運転して行かれました」
「自分で車を?」
「地図は詳《くわ》しく書いて、さし上げたのですが、ちょっとお分りになるかどうか……」
夜道——それも雪の中だ。
柴田徳子が、伊波の別荘へ出かけて行った。
これは何かある!
小池は、キーをカウンターに戻《もど》した。
「ホテルの車は他にもあるか?」
「はあ、お使いですか?」
「伊波の別《べつ》荘《そう》の地図を、もう一度書いてくれ!」
と、小池は勢《いきお》い込んで、言った。