伊波は、別《べつ》荘《そう》の前に車を停《と》めて、息をついた。
「やれやれ。お待ち遠さま」
「降《お》りましょう。荷物はないの?」
と律子が言った。
「うん。別にない。——さあ、早く中へ」
正直なところ、無《ぶ》事《じ》に辿《たど》り着けるかどうか、不安だったのである。
幹《かん》線《せん》道《どう》路《ろ》はともかく、わき道へ入ると、いくらチェーンを巻《ま》いた車でも、走るのが厄《やつ》介《かい》だった。
「——あと一時間遅《おそ》かったら、途《と》中《ちゆう》で立ち往《おう》生《じよう》だな」
やっと暖《あたた》かくなった居《い》間《ま》で、伊波は大きく伸びをした。
「静かでいいわ」
と、律子が言った。
「ねえ」
少女が顔を出す。「お腹《なか》空《す》かない?」
「そうね。材料あるの? 私《わたし》、何か作ってあげる」
「二人で作ろう」
と、少女が楽しげに言った。「私、あんまりうまくないの」
「私だって、自《じ》慢《まん》じゃないけど、料理はだめなのよ」
「じゃ、二人でやれば何とかなるかも」
二人の女は、にぎやかに台所へと入って行く。——伊波は、ちょっと苦《く》笑《しよう》して、ソファに横になった。
緊《きん》張《ちよう》して車を運転していたので、やたら手足が痛《いた》むのである。
あの少女と律子。
二人で料理を作るというのだから、妙《みよう》なものだ。
妙な、といえば——ずっと一《いつ》緒《しよ》にいる、あの少女とは一度も寝《ね》てないのに、何年ぶりかで会った律子とは、また寝てしまった。
それも、妙といえば妙である。
これで、明日になれば、律子は帰って行く。——それで、もう会うこともあるまい。
そして、自分と少女は? どうなるのだろう?
少女の過《か》去《こ》がどうであれ、もう、結着をつけなくてはならない。いつまでも、こんな中《ちゆう》途《と》半《はん》端《ぱ》なことをしてはいられないのだ。
——どうせ、俺《おれ》はまた一人になる。
それもいい。元の生活に戻《もど》るだけのことなのだから。
電話が鳴った。伊波は立って行って、受《じゆ》話《わ》器《き》を上げた。
「伊波です」
「あ、ホテルのフロントの者です。先ほどは——」
「やあ、世話になって。何か?」
「実は、そちらの別《べつ》荘《そう》へ向われたお客様がおいでなんです」
「ここへ?」
「はい。車で向われたんですが、雪が大分ひどいので。——お着きになっていませんか?」
「いや、誰《だれ》も。一体誰が来るというんだろう?」
「お一人は、柴田様という女の方です」
柴田。——柴田徳子といった、あの女《じよ》性《せい》か! しかし、なぜ?
「今、『お一人は』といったね。他に誰か?」
「はい。小池様という方が。確《たし》か奥《おく》様《さま》がご一《いつ》緒《しよ》に——」
「うん、来ている。じゃ、ここへ来るんだね?」
「さようです。小池様は大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だと思うのですが、柴田様が……。ホテルの車に、一人で乗って行かれましたので」
「一人で?」
「お止めしたのですが……」
「——どっちが先に出たんだい?」
「柴田様です。実は、小池様も、柴田様のことをお尋《たず》ねになって、そちらへ向われたとお話しすると、自分も行く、と」
小池が? すると、柴田徳子のことを、何か知っているのだろうか?
小池、柴田徳子、律子、そしてあの少女…‥。
「分ったよ」
と、伊波は言った。「その柴田という人がいつまでも着かないようだったら、こっちでも捜《さが》してみる」
「お願いします」
「警《けい》察《さつ》へ電話しておいたら? 非《ひ》常《じよう》線《せん》に引っかかったら、ホテルへ送り返してもらうといい」
「かしこまりました」
「この辺はもう、慣《な》れた人でないと、とても運転できないよ」
「すぐに連《れん》絡《らく》します」
「もし、こっちで見付けたら、電話するからね」
伊波は、電話を切った。
何か起りそうだ。
小池もやって来る。——あの少女のことも、来れば隠《かく》しておくわけにいかない。
いや、そもそも、なぜ小池がここへ来るのだろう? 東京の刑《けい》事《じ》が、何の用事で?
伊波にはわけが分らなかった。
何もかも、関係があるかのようで、しかもはっきりしない。
「——勝手にしてくれ」
伊波は肩《かた》をすくめて呟《つぶや》いた。
台所の方から、律子と少女の、明るい笑《わら》い声が響《ひび》いて来た。
もう、どうにもならない。
柴田徳子は車を停《と》めて、息をついた。
どこかで、道を間《ま》違《ちが》えたのだが、もう戻《もど》りようもない。道は、どんどん狭《せま》くなり、とうとう車一台、通れない幅《はば》になってしまった。
Uターンもできない。雪の中で立ち往《おう》生《じよう》である。
一人で、こんなときに出て来たのが無《む》茶《ちや》だったといえば、その通りだが、しかし、とても、衝《しよう》動《どう》を抑《おさ》えることはできなかったのである。
そうだろう。五年前に行方《ゆくえ》不《ふ》明《めい》になった我《わ》が子を見付けたのである。
たとえ嵐《あらし》の中、吹雪《ふぶき》の中だって、追いかけて行って当り前だ。
「侑《ゆう》子《こ》……」
と、徳子は呟いた。
——これからどうしよう?
今、自分がどこにいるのかも知らないでは、帰るにも帰れない。
といって、じっとしていては、どんどん雪が降《ふ》り積るばかりである。
タイヤの跡《あと》を辿《たど》って、戻れるだろうか?
今すぐなら?——しかし、途《と》中《ちゆう》で消えてしまったら、それこそ行き倒《だお》れである。
それよりは、この車の中で、朝を待った方がいいかもしれない。
——ともかく、徳子は一《いつ》旦《たん》、車から出てみることにした。
恐《おそ》ろしく寒い。雪がどんどん顔に当って来て、怖《こわ》いようだ。とても、こんな寒さと雪の中を、歩いては行けない。
車の中にいよう。その内、誰かが捜《さが》しに来てくれるかもしれない。
ドアを開けようとして、ふと、暗《くら》闇《やみ》の奥《おく》に、小さな灯《ひ》を見付けた。
あれは? 人家だろうか?
じっと見つめていたが、灯は動かない。
おそらく、どこかの窓《まど》らしい。——もしかすると伊波の別《べつ》荘《そう》か?
そんなにうまく行くだろうか?
徳子は迷《まよ》った。しかし、あの灯までなら、歩いても大したことはないような気がした。
もしかしたら、あそこに、侑子がいるかもしれない。そう思うと、じっとしていられなかった。
ためらいはあったが、車をロックして、歩き出した。膝《ひざ》まで雪に埋《うま》る。
息を荒《あら》く吐《は》きながら、徳子は、小さな灯へ向って、林の中を、歩いて行った。
「ねえ、知ってんでしょ、教えてくださいよ」
と、ホテルのフロントにからんでいるのは、東京からやって来た週《しゆう》刊《かん》誌《し》の記者だった。
後ろに、カメラバッグを肩《かた》から下げて突《つ》っ立っているのは、カメラマン。——まあ、当然のことだ。
カメラがなければ、どこかのヤクザ、という感じで、ロビーを眺《なが》め回している。
「もうチェックアウトされたんですから」
と、フロントの男はくり返した。
「分ってるよ。だから、家を訊《き》いてんじゃないの」
と、記者が言った。
「お教えしても、この雪では到《とう》底《てい》、捜《さが》しに行けませんよ」
「こっちは商売だよ。雪ぐらいで参りゃしない」
「ともかく、お教えできません」
と、フロントの男は粘《ねば》った。
記者の方も、
「東京から、わざわざやって来たんだぜ」
と、食い下る。
「何とおっしゃられましても」
これはだめだ、と思ったのか、記者はカメラマンと共に、ロビーのソファに座《すわ》り込《こ》んだ。
「どうするんだ?」
とカメラマンが言った。「ここまで来て、会わずに帰るのかい? どやされるぜ」
「何とかするさ」
と、記者はタバコに火を点《つ》けた。「あのフロントの奴《やつ》、きっと伊波に金をつかまされてるんだ。あいつがいないときを狙《ねら》って、もっと下《した》っ端《ぱ》に訊《き》こう」
他人も自分と同《どう》程《てい》度《ど》の水《すい》準《じゆん》だとしか考えないのである。
「——何だかパトカーが多いな」
と、カメラマンが言った。
「そうかい?」
「東京なら珍《めずら》しくないけど、この辺じゃ、こんなに見かけるなんて、めったにないぜ」
「何かあったのかな」
記者は、近くに座《すわ》っていた客を捕《つか》まえて、「ねえ、何か事《じ》件《けん》でもあったんですか」
と訊《き》いた。
「雪男が出るそうですよ」
と、その客が答える。
記者とカメラマンは、顔を見合せた。
「——雪男か」
「そういえば、何だかニュースで言ってたぜ。警《けい》官《かん》を殺したとか……」
「面白そうだな」
と、記者が顎《あご》を撫《な》でた。「そいつに出くわしたら、特《とく》ダネになる」
「命と引きかえじゃごめんだよ」
と、カメラマンが笑《わら》った。
——記者は、トイレに行くふりをして、ボーイを捜《さが》した。
見かけると、一人一人つかまえて、
「伊《い》波《ば》伸《しん》二《じ》の住んでいる所、知らないか?」
と訊《き》く。
四人目に、知っているというボーイに出会った。
「別《べつ》荘《そう》ですよ。かなり奥《おく》の方の」
「場所、教えてくれよ。礼はするから」
「しかしねえ……」
と、ボーイは首をひねって、「この雪じゃ、まず迷《まよ》っちゃうよ、きっと」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》! 俺《おれ》たちはプロだよ。知らない所を捜《さが》し当てるのは特《とく》技《ぎ》なんだ」
記者が言うのは、都会でのことだ。
「でも——危《あぶ》ないですよ」
「君に迷《めい》惑《わく》はかけないよ。地図さえかいてくれりゃ、後はこっちでやる」
しつこく食い下って、やっと、地図をかかせるのに成功した。
「気を付けて下さいよ。凄《すご》い奴《やつ》が逃《に》げてるらしいから」
「OK。どうも!」
記者は、礼など出しもせず、ロビーへと戻《もど》った。
「どうした?」
「手に入れたぞ、行こう」
「大丈夫かな」
「何が?」
「雪男だよ」
記者は声を上げて笑《わら》った。
そして二人は、凍《こお》りつくような戸外へと出て行った……。
柴田徳子は、息が切れ、木にしがみつくようにして、立っていた。
雪が、容《よう》赦《しや》なく肩《かた》や頭に降《ふ》り積って来る。もう足は感覚がない。
ずいぶん歩いたつもりなのに、あの灯《ひ》は一《いつ》向《こう》に近づいて来ない。
幻《まぼろし》なのだろうか? いや、まさか!
進んでいないのだ。ともかく、雪が深くて、一歩進むのにも、大変なのである。
車にいれば良かった、と悔《くや》んだ。しかし、今から戻《もど》るのも、容《よう》易《い》ではない。
動けないのだ。——ああ、このまま凍《こご》え死んでしまうのだろうか?
「侑子……」
焦《あせ》って出て来たことが悔まれた。
伊波に訊《き》けば、居《い》場《ば》所《しよ》も分ったに違《ちが》いないのだ。それを……。
だが、ともかく——何とかしなくてはならない。
ここで死ぬなんて! とんでもないわ!
何としてでも、侑子に会わなくては……。
徳子は、体を動かそうとした。——しかし、力が抜《ぬ》けたのか、それとも雪が重いのか、一《いつ》向《こう》に動けない。
必死に雪を手でかきのけ、片《かた》足《あし》を引《ひつ》張《ぱ》り出す。しかし、それだけだ。
また一歩行けば、スッポリと埋《うま》ってしまうのである。
何とか——何とかして、歩かなきゃ。
何としてでも、侑子の顔を…‥。
ふと顔を上げた。——誰かが立っている。
見上げるような男。徳子は、目を見開いた。
大男は、じっと、徳子を見つめていた。
徳子は、ゆっくりと息をついた。
「やっぱり——」
と、声が洩《も》れた。「やっぱり、あなただったのね!」
大男は、雪を踏《ふ》んで、近付いて来ると、大きな両手を伸《の》ばして、徳子の体をつかまえた。
体が宙《ちゆう》に持ち上げられ、足が雪から抜《ぬ》けた。
「ありがとう……」
徳子が震《ふる》える声で言った。「車が——あっちに」
大男は、まるで三、四歳《さい》の子《こ》供《ども》でも抱《だ》っこするように、徳子をかかえて、車のある方へと歩き出した。