村上は起き上った。
まだ、少し胸《むね》が痛《いた》むが、大《だい》分《ぶ》楽になっては来ている。
外は雪だ。——凄《すご》い雪だった。
今夜、何か起りそうだ。村上はそう思った。——永《なが》年《ねん》の勘《かん》というやつである。
しかし、その肝《かん》心《じん》なときに、ベッドから出て行けない。全く、俺《おれ》もくたびれて来たもんだ。
あの「雪男」は、どこにいるのだろう? 一体、何者なのか。
あの怪《かい》力《りき》、人《にん》間《げん》離《ばな》れした体力、そして凶《きよう》暴《ぼう》性《せい》……。
どこにいても、あの男なら、人目につくはずである。時間さえかければ、その素《す》姓《じよう》も知れよう。
しかし、今はそんなことを言ってはいられないのだ。この先、何人、人を殺すか分らない。次の犯《はん》行《こう》を未《み》然《ぜん》に防《ふせ》ぐのが、第一の仕事である。
もちろん、村上は、東京から来たカメラマンと記者が殺されたことなど、知るはずもなかった。
ドアがノックされた。
「どうぞ」
村上は横になって、言った。
起き上ったりしていると、看《かん》護《ご》婦《ふ》に怒《おこ》られるかもしれない。いや、全く、看護婦にかかっては、どんな大物だって赤ん坊と同じことなのだから。
「失礼します」
と、若《わか》い刑《けい》事《じ》が入って来た。「起こしてはいかんと言われてたんですが……」
「眠《ねむ》れるもんか、こんなときに」
と、村上は苦《く》笑《しよう》した。「何の用だ?」
「実は、例の大男なんですが——まだ、手がかりはありません。ただ、どうやら身《み》許《もと》らしいものが分りまして」
「そうか」
村上は目を輝《かがや》かせた。「話してみろ」
「はっきりはしないんですが、TVのニュースを見て、あれはきっと、近所の男だ、という情《じよう》報《ほう》が入ったんです」
「どこだ、場所は?」
「奥《おく》多《た》摩《ま》です。工《こう》事《じ》現《げん》場《ば》の近くに、長く住んでいて、いつも工事の仕事をしていたというんですが」
「何という男だ?」
「武《たけ》井《い》、と名乗っていたそうです。本《ほん》名《みよう》かどうかは分らないようですが」
「大男なんだな」
「ええ。凄《すご》い力持ちで、いつも工事現場では、重《ちよう》宝《ほう》されていたようです。ただ、性《せい》格《かく》的《てき》には、おとなしくて、人と争うことはなかったとか」
「争ったら、殺しちまうからだろう。——それで?」
「ええ、ここ何日か姿《すがた》を見せないので、工《こう》事《じ》仲《なか》間《ま》が、住んでいた家へ行ってみると、空《から》っぽだったそうで」
「一人暮《ぐら》しか」
「いえ、それが——どういう仲《なか》かは分らなかったそうですが、女の子と二人で住んでいたそうです」
「女の子だって?」
「ええ。女の子といっても、もう十四、五とか……」
「十四、五歳《さい》。——名前は?」
「分りません。娘《むすめ》だ、と言っていたようですが、何だかちょっと奇《き》妙《みよう》な関係だったということでした」
「その女の子も、いなくなったのか?」
「実は、その女の子が、少し前から、姿を消してしまったんだそうです。それで、武井はひどく苛《いら》々《いら》していたとか」
「そして自分も姿を消した」
「そうです。どこへ行くとも、何とも……。どう思われます?」
村上は、少し考えて、
「その男にまず間《ま》違《ちが》いあるまい。しかし、差し当り、見付ける手がかりにはならないな」
「その通りです。武井という名も怪《あや》しいですし、すぐに素《す》姓《じよう》が知れるとは思えませんからね」
「うん。——ご苦労だった。ともかく、その情《じよう》報《ほう》を、もう少し、詳《くわ》しく探《さぐ》ってみてくれ」
「はい」
刑《けい》事《じ》は病室を出ようとして、「ああ、そうだ。小池という刑事さんが——」
「ああ、Mホテルにいるよ。何だ?」
「東京から連《れん》絡《らく》が入ってるんです」
「何だというんだ?」
「ええと——」
刑事は手帳を開いた。「柴田という死んだ男の体に、かなり新しい刺《さ》し傷《きず》があったそうです。わき腹《ばら》で、かなりのけがだということでした」
「刺された?」
村上は眉《まゆ》を寄《よ》せた。
「それだけです。——Mホテルへ電話を入れましょうか?」
「ああ、そうしてくれ」
村上は肯《うなず》いた。
刑事が出て行くと、村上は、妙《みよう》な苛《いら》立《だ》ちを覚えた。
何かある。——武井という大男。女の子。——十四、五歳《さい》。
「女の子か……」
柴田。刺《さ》し傷。血が出る。——血。
「そうか!」
と、村上は言った。
あの、かつて柴田のものだった別《べつ》荘《そう》での血《けつ》痕《こん》。あれは、柴田自身の血だったのだ。
柴田が、あそこで刺された。誰《だれ》に?
女の子。——伊波が、若《わか》い女と同《どう》居《きよ》している。
もしその女の子が……行方《ゆくえ》不《ふ》明《めい》になっていた、柴田の娘《むすめ》だったら?
十四、五歳の娘。——武井が一《いつ》緒《しよ》にいたという娘も、同じ娘だったかもしれない!
柴田の娘が行方不明になる。そして、武井と二人で、人目を避《さ》けた暮《くら》しに入る。
そして娘が失《しつ》踪《そう》する。いや——柴田が連れ出したのだとしたら?
そうだ。行方不明になって、何年もたっている。娘に昔《むかし》のことを、思い出させるために、あの別荘へ連れて行った……。
だが、娘の方は、父親のことが分らず、怯《おび》えて、刺した。そして逃《に》げた。
伊波の所へ。そして、住みつく。
武井は、かつてその娘をさらったこの地へと、娘を捜《さが》しにやって来た……。
これで話は合うぞ。
柴田徳子がやって来たのは、それをかぎつけたからだ。いや、おそらく雪男のニュースを見て、びっくりして家を出たということは、武井のことに思い当ったからだ!
徳子は武井を知っている。もし、武井が、娘、侑《ゆう》子《こ》をさらったことも知っていたとすれば?
だが、なぜか、それを徳子は警《けい》察《さつ》に言わなかった。おそらく、裏《うら》には複《ふく》雑《ざつ》な事《じ》情《じよう》があるのだろう。
「よし」
村上は、ゆっくりとベッドから出た。
——廊《ろう》下《か》へ出て、看《かん》護《ご》婦《ふ》の詰《つめ》所《しよ》へ行くと、夜《や》勤《きん》の看護婦が、何人かでおしゃべりをしていた。
「あら!」
と、一人が村上に気付いて、「だめですよ、寝《ね》てなくちゃ」
と、立ち上ってやって来た。
「ちょっと電話をかけるだけだ。見《み》逃《のが》してくれよ」
と、村上はおどけて言った。
「じゃ、どうぞ」
Mホテルへかける。フロントの男が、
「小池様は、伊波様の別《べつ》荘《そう》へ行くといって、出られましたよ」
と言うと、村上の表《ひよう》情《じよう》が、少し固くなった。
「そうか。柴田徳子という女《じよ》性《せい》が泊《とま》ってるだろう」
「その方もです」
「その方も? どういうことだ?」
「伊波様の別荘へ。小池様より前のことでした」
「そうか。——分った。じゃ、そっちへ電話してみる」
「それが、今、雪のせいで架《か》線《せん》が切れたようなんです。あちら一帯、不通になっています」
「不通だって?」
いやな気分だった。——何かある。
伊波の所へ、小池も、柴田徳子も向った。
そしてもし、柴田侑子がそこにいるとしたら……。
一《いつ》旦《たん》電話を切ってから、村上は急いで捜《そう》査《さ》本《ほん》部《ぶ》へかけた。
「村上だ。捜査員を急いで伊波の別荘へ向かわせろ! 伊波伸二だ。——そうだ。あの雪男、そこへ現《あら》われるかもしれん。近い者から急行させろ! 至《し》急《きゆう》だ。俺《おれ》もすぐ行く!」
「あの——」
目を丸くする看《かん》護《ご》婦《ふ》を尻《しり》目《め》に、村上は、病室へと駆《か》け戻《もど》って行った。
寒い。
律子は、ふと顔を上げた。——居《い》間《ま》にいて、冷たい風を感じるというのは、どうしてだろう?
立ち上って、ドアの方へ行くと、はっきり、冷たい風が流れているのを感じる。
「どこか開いているんだわ」
玄《げん》関《かん》のドアではない。といって……そうか、二階だ。階《かい》段《だん》の下に来ると、冷たい空気が吹《ふ》き下ろして来る。
少女は、さっきから姿《すがた》が見えない。きっと、二階で何かしているんだろうと思ったのだが。
律子は階段を上って行った。廊《ろう》下《か》は、もうかなり寒くなっている。
ドアが一つ、開いていた。律子は中を覗《のぞ》いた。
「いるの?」
声をかける。中は暗い。ギョッとするほどの冷たい風が吹きつけて来る。
手《て》探《さぐ》りでスイッチを押《お》すと、開け放した窓《まど》と、寒風になびくカーテンが目に入った。
律子は窓辺に駆《か》け寄《よ》った。——そう大した高さではないから、飛び降《お》りようと思えば、難《むずか》しくはあるまい。
でも——この雪の中を出て行ったのか?
なぜ?
こんな雪の中では、凍《とう》死《し》してしまうかもしれない。
「困《こま》ったわ……」
律子は、ともかく窓《まど》を閉《し》めた。——部屋の中は、まるで冷《れい》蔵《ぞう》庫《こ》のようだ。
下へ降《お》りて、律子は居《い》間《ま》の中を歩き回った。夫《おつと》や伊波が早く戻《もど》って来てくれればいいが……。
遠くへは捜《さが》しに行けない。自分も迷《まよ》ってしまいそうだから。しかし、この周囲ぐらいなら。
律子はちょっとためらってから、コートをはおり、手《て》袋《ぶくろ》をはめた。
玄《げん》関《かん》の鍵《かぎ》は?——大体、かけようにも、持っていないのだ。
入れ違《ちが》いで、あの少女や伊波たちが戻って来ることもあるかもしれない。そのためにも、開けておいた方がいい。
寒さは猛《もう》烈《れつ》だった。雪が、見る見る降《ふ》り積っている感じだ。
ともかく、周囲を一回りしてみよう。
律子は都会人で、こういう寒さには至《いた》って弱い。しかし、いくらかは、伊波のために、そしていくらかは、刑《けい》事《じ》の妻《つま》としての義《ぎ》務《む》感《かん》もあって、雪の中へ足を踏《ふ》み出した。
ズボッと、膝《ひざ》近くまで埋《うも》れて、びっくりした。一歩進むのが大変だ。
「よいしょ——よいしょ」
かけ声つきで、何とかよたよたと歩いて行く。
こんな雪の中で、一時間もいたら死んじゃうわ!
あの子、よく出て行ったものだ。でも、どこへ行ったのだろう? そして、なぜ逃《に》げるように出て行ったのか。
「ねえ!——いたら返事して!」
名前が分らないのだから、呼《よ》ぶのにも不便である。
「どこなの!——出て来てちょうだい!」
やっとの思いで、家の裏《うら》手《て》に来た。
出て来るんじゃなかった、と後《こう》悔《かい》していた。あの少女のことも気にはなるが、自分が死んじまっちゃ仕方ない。
でも、今さら戻《もど》っても——ちょうど真裏の辺《あた》りだ。一回りした方が早いかもしれない。
息を弾《はず》ませながら、顔にかかる雪を払《はら》って、また歩き出す。そのとき、林の中で、何か黒いものが動くのが目に止った。
「——ねえ! そこにいるの?」
と、大声で呼んだ。「見えたわよ!——出てらっしゃい!」
確《たし》かにいる。木立ちの陰《かげ》から、少し、肩《かた》らしいものがはみ出していた。
「全くもう! 世話が焼けるんだから!」
律子は、林の中へと、入って行った。木につかまりながらである。
いっそう雪も深く、しかも根につまずいたりして、転《ころ》びそうになるので、たった十メートルほどの距《きよ》離《り》が、いやに遠い。
「もう、いい加《か》減《げん》にして、出て来てよ!」
うんざりして、律子は怒《ど》鳴《な》った。「お尻《しり》を叩《たた》いてあげるからね!」
すると、その人《ひと》影《かげ》が、ゆっくりと木の陰《かげ》から現《あら》われた。——見上げるような大男だ。
「あ——あの——」
律子は我《われ》知《し》らず口走っていた。「人《ひと》違《ちが》いで——失礼しました!」
そして、あわてて逃《に》げ出そうと後ろを向いた。しかし、気ばかり焦《あせ》って、足がついて来ない。
当然の結《けつ》果《か》として、律子は雪の中に突《つ》っ伏《ぷ》すようにして転《ころ》んだ。
大きな手が、律子の肩《かた》をぐいとつかんだ……。