「誰かが、私たちのやっていることを、どこかから見ているのよ」
と祐子は言った。
さすがに、祐子も途《と》方《ほう》にくれている様子である。それはそうだろう。現に地下室にあるはずの浮浪者の死体が、二階へ上って来ているのだから。
しかも、ベッドの下にだ。ベッドこそ別だが、美奈子の死体を隠したのも、ベッドの下だったことを考えると、これをやった奴は、美奈子の一件の方も知っていると考えるべきだろう。
「ねえ、落ち着いて考えましょう」
と祐子は言った。「確かにこの死体は地下室にあったわよね」
「間違いないよ。君も見たじゃないか」
「ええ。それがいつの間にかここへ移って来ている。誰かが運んだはずだわ。死体が自分で歩くはずはないんだから」
「うん」
「ということは……私たちが計画を立て、奥さんの死体を地下へ運んで、その後、誰かがこれをやったのよ。やっぱりそうよ。——分るでしょ?」
「なるほど」
と僕は肯いた。「よく分らない」
「吉野さんよ! 他にこんなことをする人が考えられる?」
「吉野が……」
「だってそうでしょ? 私の力じゃ、とてもこんな重い死体を運んじゃ来られないもの」
「まさか君がやるわけないよ」
「そうなると、もう吉野さんしかいないじゃないの」
なるほど。彼女の説明は実に論理的で、明快で、僕のように非論理的な人間にも、容易に理解できた。
要するに悪いのは吉野の奴なのだ!
「吉野をクビにしよう」
と僕は言った。
「すぐに経営者的な発想をするのね。それがいけないのよ」
と、祐子は手厳しく言った。
しかし、同じ手厳しさでも、美奈子と祐子では、こうも違うのである。美奈子の場合は殺意を呼び起こしたが、祐子の場合は、抱《だ》いてキスしたくなるのだった。僕はちょっとおかしいのかな?
「吉野さんがなぜそんなことをしたのか、そして目的は何なのか、知る必要があるわ。たぶんお金だと思うけど」
「給料を倍にしてやるか」
と僕はまた経営者的発想になってしまう。
「たぶん、吉野さんは真相を感づいてるのね。だって、浮浪者の死体を見付けたってことは、奥さんの死体も見付けたってことでしょう。だから、あなたの計画を手伝うふりをして、口止め料として身代金をせしめるつもりなんだわ。この死体をわざわざ運んで来たのも、きっと私たちに、何もかも知ってるんだぞ、って分らせるためなのよ」
「そうか。——恩知らずめ! 成敗してくれる!」
今度はTV時代劇の影《えい》響《きよう》だ。どうも、僕の繊《せん》細《さい》な感受性は、すぐに影響を受けてしまうらしい。高感度アンテナみたいなものだ。
「だめよ! 気付かないふりをして、出方を見るの。分った?」
「しかし……」
裏切り者と分っている男に、今まで通り、笑顔を見せていられるほど、僕はす《ヽ》れ《ヽ》て《ヽ》いない。純情なのだ。自分で言うのもなんだけど。
「ね、分った?」
祐子が微《ほほ》笑《え》みながら、僕にキスした。これで分らないと答えるほど、僕はひねくれてはいない。素直なのだ。
「分った」
と、答えて、もう一度祐子にキスをした。
そのとき、
「やってますな、ご両人」
と、声がした。
ハッとして振り向くと、いつの間にかドアが開いていて、背広姿の男が、ニヤニヤ笑いながら立っていたのである。
「いや、どうぞ私に構わず続けて下さい」
男は入って来ると、ドアを閉めた。
「あなた、刑事さんね」
と、祐子が言った。
そうか。どこかで見た顔だと思った。添田刑事の部下の一人だ。ちょっと人相の悪い刑事だった。
「ドアを開けるときはノックぐらいするもんですよ」
僕は、他に何も思い付かないので、多少この際、的外れかなと思ったが、一応文句を言うことにした。
「これは失礼」
刑事の方は、一向に申し訳ながっているようには見えなかった。「しかし、人に見られたくないことをやるのなら、ドアに鍵《かぎ》をかけるとか、気を付けるべきですな」
なるほど、それももっともだ。いや、感心している場合ではない。この男は、僕と祐子がキスしているのを見てしまったのだ。
それはつまり、僕と祐子が恋《こい》人《びと》同士であるということを知られたのと同じである。
日本では、恋人か夫婦以外の男女がキスすることは、商売上必要な俳優などを除けば、あまりないのだから、仕方ない。
そうなると、美奈子を誘拐したのも、実は僕と祐子ではないかと疑われることにもなりかねない。もちろん僕は美奈子を誘拐してはいない。殺しただけだ。しかし、それで警察が納得してくれるとは思えなかった。
「ええと……刑事さん」
何を言うか考えてもいなかったが、ともかく口を開いた。だが、刑事の方は僕のことは気にもしていない様子で、
「やあ、見違えたぜ」
と、失礼なことに、なれなれしく祐子へ声をかけた。
「え?」
「忘れたのかな。それとも忘れたふりをしてるのか、智《ち》枝《え》」
祐子が、ハッと息を呑《の》んだ。
「あなたは……織《お》田《だ》……」
「そう、あの頃は制服を着てたからな。思い出したか?」
何とも感じの悪い男だ。彼女のことをチエとか何とか、漫《まん》画《が》の主人公みたいな名で呼びやがって。
「下で見たときに、どこかで見た顔だと思ったんだよ。ずっと考えて、やっと分った。いや、何とも取り澄《す》ました顔をしてるじゃないか」
織田とかいうらしい、その刑事は、いかにもその下劣な品性を思わせるにふさわしい、いやな笑い方をした。
「あなたも出世したようね」
「多少はね」
織田は肩をすくめ、「しかし、こちらの人のように、億って金をポンと出せるところまでは、とてもとても……」
と僕の方を顎《あご》でしゃくった。
全く、礼儀を知らない奴だ!
「ところで今は早川祐子って名乗ってるようだな。何を企んでるんだ?」
と、厚かましく彼女の顎を指でヒョイと引っかけた。
「やめてよ! 私は何も——」
「いい子ぶったってだめさ。偽《ぎ》名《めい》を使って、しかも雇主と恋仲で、その奥さんは誘拐されている。——偶《ぐう》然《ぜん》とは思えないね」
祐子は黙って唇をかんだ。
「だが、俺《おれ》も昔よりは少々話が分るようになったんだ」
と、織田は言った。「人生は金だ、ってことも身にしみて分ったし、条件次第じゃ、多少のことには目をつぶるのが利口な生き方だってこともね。お前のことも、すぐには添田さんへ報告したりしない。そっちにも色々事情があるだろうからな」
「ありがたい話だわ」
と、祐子は言った。
「じゃ、失礼するよ。ゆっくり相談するといい」
織田という刑事は、およそTVの悪代官役にぴったりの笑い顔を見せて出て行った。
「——何だい今の男は? 税金で食ってるくせに、感じの悪い奴だなあ」
祐子は、と見ると、ちょっと青ざめた顔で、ベッドに腰をかけると、じっと顔を伏せた。
「どうしたんだ?」
と僕は声をかけた。「気分でも悪いの?」
「——もうおしまいだわ」
と、祐子は呟くように言った。
「おしまい? 何が?」
「私たちのこと。——もうお会いできないわ、私」
「何を言ってるんだ?」
「あの男が言った通り……早川祐子というのは、偽名なの」
「ギメイというと……氏名のニセモノのこと?」
ちょっとややこしい説明だったが、祐子はゆっくり肯いた。
「じゃ本当の名前は?」
「水《みず》野《の》智枝というの」
恋人の名前が急に変るというのは、どうも妙《みよう》な気分である。——水野智枝、水野智枝、水野智枝。せっせと頭へ叩《たた》き込む。
「で、あの男は……」
「私、昔、非行少女だったの」
「非行?」
「父は大酒飲みで女遊びがひどくて、母は病気。——私は家がいやで、家出してぐれていたの」
「そう……。でも、それは社会が悪いんだよ」
「そう言ってくれると、余計に辛《つら》いわ。私……補導されて、そのときあの織田という男が担当だったのよ」
「君の過去を知ってるってわけだね」
「そうなの。——でも、私、改心して、それからは何も悪いことなんかしていないわ、本当よ」
「もちろん信じてるよ!」
「でも、もし私が偽名を使ってることが分ったら、私が疑われるわ」
「そんなこと——」
「絶対よ! あなたにまで迷《めい》惑《わく》がかかるわ。別れましょう」
「何を言ってるんだ! 僕は君なしじゃ、何もできないんだよ」
これは正に本音だ。「あの織田って刑事に、君がもう悪いことなんかしていないと納得させりゃいいんだろう?」
「そう簡単じゃないわ。あの言い草を聞いたでしょ? 『人生は金次第だ』とか、『物分りが良くなった』とか。——要するに金をよこせば黙《だま》っててやるって意味なのよ」
「刑事が?——そいつはけしからんじゃないか!」
こっちも人殺しをやっているのだから、あまり威《い》張《ば》れないが、やはり、刑事が口止め料をよこせとは、許せない話である。
「仕方ないわ。こっちは弱味を握《にぎ》られてるんだし」
「どうする?」
祐子は——いや、水野智枝は、しばらく考え込んでいたが、やがて僕を真直ぐに見つめて言った。
「あの人にも死んでもらうしかないわ」