早川祐子改め、水野智枝の言葉は、僕を驚《おどろ》かせた。
それはそうだろう。いくら何でも、可愛《かわい》い、僕の愛《いと》しの祐子が——いや智枝が、どうも急に名前が変っても、ついていけない——まさか。
「あの人にも死んでもらうしかないわ」
などというセリフを口にしようとは、予想もしていなかったのだ。
僕が目を丸くしたのも当然のことだろう。前の章からずっと丸くしていたので、なかなか元に戻らなくなった……。
「ねえ祐子——あ、いや、智枝か」
「だめよ! 智枝なんて呼んだら、他の人が変に思うじゃないの」
「あ、そうか」
「もう私は生れ変ったから、智枝じゃないの。早川祐子よ」
「なるほど」
彼女の言う通りだ。で、ここからまた彼女の名は早川祐子に逆戻りすることになる。
「でも——ねえ、相手は刑事なんだよ。どうやって死んでもらうんだい?」
「それをこれから考えるのよ」
と智枝——いや祐子は言った。ああ、ややこしい!
僕とて、ここまでの間に、妻の美奈子を殺し、あの浮《ふ》浪《ろう》者《しや》の死体を片付け、狂言誘《ゆう》拐《かい》を計画し、と色々、経験を重ねて来た。何だか、もう、一冊くらいの自伝を出せそうな気さえする。
しかし、その豊《ヽ》富《ヽ》な《ヽ》経験をひもといても、
「刑事に死んでもらう方法」
というのは出ていないのである。
もちろん、すぐにいくつかの方法は思いつく。あの織田という刑事のところへ行って、
「お忙《いそが》しいところすみませんが、ちょっと死んでいただけませんでしょうか」
と頼むのも一つの手である。
もっとも、これで向うが死んだら、こっちがびっくりしてしまうが。
「——ともかくはっきりしていることがあるわ」
と、祐子は言った。
「昼飯を食べてないってことかい?」
「違うわ。この家の中で、今、あの人を殺すことはできないってことよ」
「なるほど」
「刑事があんなにウヨウヨいるんだものね。ここで事件は起こせない。——そうなると、織田刑事に対しては、二つの段階での対応が必要になるわ」
祐子は、いつの間にか、会議でもしているような口調になった。
「一つは?」
「第一は、差し当り、向うの言うなりになると見せかけて、口をつぐんでいてもらうことよ」
「第二は?」
「刑事たちが引き上げて、大丈夫となってから、何らかの方法で、織田を殺すことよ」
祐子は、まるでホットケーキの焼き方でも説明するようにさり気なく、言った。
次は器に盛《も》ります、と彼女がどうして言い出さないんだろう、と不思議な気がした。
「ねえ、私のこと、悪い女だとか、怖《こわ》い女だと思わないでね」
祐子は僕の胸に身を投げ出して来た。「私だって、こんなことしたくないのよ! 怖くてたまらないの、こんなに震《ふる》えてるでしょう?」
確かに、僕の腕《うで》の中で、祐子のか細い、愛しい体はわなわなと震えている。
「もう、私のことがいやになった?」
「とんでもない!」
僕は力を込《こ》めて彼女にキスした。
「私たちが幸福になろうとするのを邪《じや》魔《ま》するものは、何としてでも取り除かなきゃ! そのためには心を鬼《おに》にして、あの刑事を殺すしかないのよ」
「あの刑事を殺すのなら、何も鬼にしなくたっていい。ネズミくらいで充《じゆう》分《ぶん》だよ」
と僕は言った。
祐子は笑ってキスを返して来た。
「頼もしい人ね。大好きよ」
こう言われて、人の一人ぐらい殺せない奴《やつ》がいたら、お目にかかりたいものだ!
「じゃ、早速殺して来るよ」
と僕はドアの方へ歩きかけた。
「待って! 今はだめよ!」
祐子があわてて僕の腕を取って引き止める。「——いい? ともかく差し当りは、あの刑事を丸め込むのよ」
「どうやって?」
「それは任せて。私が巧くやるわ」
このセリフを聞くと、僕は母の子《こ》守《もり》唄《うた》を聞いた子供のように、安心するのだ。
「問題はこの浮浪者の死体ね」
と、祐子がかがみ込んで、ベッドの下を覗いた。
「まだいるかい?」
「死んでるんじゃ、どこへも行くわけないでしょ」
祐子は立ち上って、「——この部屋は、もう刑事たちが見たの?」
と訊いた。
「いや、まだだよ。昼食の後でってことになってる」
「じゃあ、何とかしなきゃ! 調べられたら、いっぺんに見付かっちゃうじゃないの」
「あ、そうか」
僕としたことが(僕だからこそ、かな)うかつだった! そんなことに気付かなかったのだ。
「じゃ、どうしよう?」
「困ったわね……もうそろそろ下は食べ終るかもしれないわ。地下室へ運ぶには一階を通るから危ないし……」
「どこかへ一時しまっといて……。でも、引出しには入らないからなあ」
「ねえ!」
と祐子が指を鳴らした。「奥さんの寝室は? 調べた?」
「うん、さっきね」
「じゃ、そこがいいわ!」
と、祐子は言った。「一度調べたところですもの。安全よ」
「なるほど」
祐子は天才だ、と僕は感《かん》嘆《たん》した。「じゃ、美奈子のベッドの下に?」
「それが一番いいでしょうね」
「よし、運ぼう」
「早い方がいいわ!」
二人して引っ張ると、かなり楽である。浮浪者の死体は軽くはないが、もう大分硬《こう》直《ちよく》しているのか、ぐったりしてはいないので、却《かえ》って扱《あつか》いやすい。
ドアの前まで引っ張って行って、
「待って」
と、祐子がドアを細く開け、外を覗く。「——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ」
こうして廊下へと、浮浪者の死体を引きずり出す。祐子が、向い合せのドアを開ける。
「早く早く!」
祐子がせかせる。こうして、浮浪者の足を一本ずつ持ち、美奈子の寝室へと引きずり込もうとしたとき、
「——社長、そこですか」
と声がした。
吉野が階段を上って来るのが見えた。
あいつ! 人の邪魔しかしない奴なのだから!
「早く!」
と祐子が声を低くして、「中へ入れるのよ! 早く!」
そうなると、突然、浮浪者の死体が重くなったように感じられる。ズルズルッと音を立てて、浮浪者の死体が、美奈子の寝室の中へ——吉野の頭が見えて来る。
「このままにして!」
祐子と僕が廊下へ飛び出してドアを閉めるのと、吉野の奴が顔を出したのと、同時であった。
「あ、こちらでしたか」
こちらでしたか、もないもんだ! 僕は吉野をぶん殴《なぐ》ってやりたかった。
こんな事態に僕らを追い込んだのは、この吉野に違いないのだ。祐子がそう言っているのだから、確かである。
「落ち着いて」
祐子が囁いた。——僕はハッとした。そうだ。ここは、平静を装わなくてはいけない。
「何か用かね、吉野君?」
いささか気取り過ぎの気はあった。
「下で、あの刑事が呼んでいますが」
「分った。行くよ」
「私、お茶をいれかえてあげなくちゃ」
と、祐子は、先に立って階段を軽やかに降りて行った。
「社長、どうなさいました?」
と吉野が言い出した。
「どうって?」
「息を切らしておられますが」
「う、うん……。今、ちょっと考えごとをしてて疲れたんだ」
「そうですか」
僕は吉野と一緒に階段を降りながら、
「これからどうなるのかな」
と言った。
「脅迫電話をかけたのは、誰なんでしょうねえ」
と、吉野は首をかしげた。
「夕方に、もう一度かかって来る」
「今度は何の連絡でしょう?」
「僕が知ってるわけはないだろう」
「妙ですねえ」
と吉野は、しきりに首をひねっている。——この、タヌキめ!
今に見てろよ、と僕は心の中で呟《つぶや》いた。
居《い》間《ま》に入って行くと、添田刑事がやって来た。
「どうもごちそうになりまして」
「いいえ」
そんなことを言うために呼んだのか?
「実は、犯人の電話を待つ間、全員がここにいても仕方ありませんから、二人ほど残して、他の者は、一《いつ》旦《たん》引き上げようと思うのですが」
「帰るんですか?」
僕はいささか心外だった。「可哀《かわい》そうな美奈子が、今、どこでどんな仕打を受けているかもしれないっていうのに——」
「いや、もちろん捜査は進めます」
と添田はあわてて言った。「しかし、ここでじっとしていても仕方ありませんからね」
「分りました」
「夕方、早目にこちらへ戻ります。犯人からの次の電話には間に合うでしょう」
と添田は腕時計を見て言った。「もちろん万一早く犯人からの電話があっても、二人残っていれば、ちゃんと対処できますよ」
「じゃ、どなたが——」
「池《いけ》山《やま》というのと、それから、織田の二人を置いて行きます」
織田だって? あの、祐子を恐《きよう》喝《かつ》しようとしている、悪い刑事ではないか。
「二人ともベテランです。安心して任せておいて下さい」
と、添田が言う。
冗《じよう》談《だん》じゃないよ、全く! 僕は、刑事たちにお茶を出している祐子の方へ目を向けた。祐子は、至って落ち着いた様子で、お茶を注《つ》いで回っている。
全く大した度胸である。
「あの——社長」
と吉野が言った。
「何だ!」
「私はどういたしましょう?」
好きにしろ、と言いたかったが、待てよ、と思い返す。こいつが僕を裏切っているのなら、目の届く所に置いていた方が安心である。
「ここにいてくれると、何かと心強いな」
「では、そういたします」
内心はどう思っているのか、吉野は素直にそう言った。
「——ああ、忘れるところでした」
と、添田が言った。「ご主人の寝室を、ちょっと拝見していいですか?」
「ええ、どうぞ」
と僕は言って、先に立って階段を上った。
「——何もありませんけどね」
死体は片付けましたし、とつい言いたくなる。——僕は天《あまの》邪《じや》鬼《く》なのかな。
「部屋がこんなにあるとは、凄《すご》いですなあ」
と添田が言った。「私の所など、ここに比べたら、マッチ箱ですよ」
添田が、美奈子の寝室のドアを開けようとしたので、僕はあわてた。浮浪者の死体をドアのすぐ前に置いたままだ!
「あの——こっちですよ、僕の寝室は」
「あ、こりゃ失礼」
開きかけたドアを、添田はまた閉じた。「ひどい方向音《おん》痴《ち》でしてね。よくこれで刑事をやってられると思いますよ」
全くだよ! こっちの心臓にも悪い。
僕は、自分の寝室のドアを開けてやった。
添田たちが一旦引き上げて行くのを見送って、僕は、居間へ戻って来た。
池山というのは、まだ若い刑事で、例の、織田がソファに寝そべって雑誌などを眺《なが》めている間も、電話の録音装《そう》置《ち》を点検したりしている。
同じ刑事で、こうも違うものか、と僕は思った。
こうしていても仕方ない。僕は、二階へ上った。あの浮浪者の死体を、美奈子のベッドの下へ押し込んでおかなくてはならない。
美奈子の部屋のドアを開けると、祐子が立っていた。
「——あ《ヽ》れ《ヽ》は?」
「私一人で何とか動かしておいたわ」
祐子は軽く息を弾《はず》ませている。
「大変だったろう!」
「何とかなるものよ、その気になれば」
祐子はベッドに腰をかけた。
「これからどうする?」
「そうね……。まず向うの出方を見ないと。犯人が夕方の電話で何と言って来るのか……」
「金は月曜でなきゃおろせないんだ」
「向うもそれは分ってるのよね。でも、なぜ電話して来るのかしら? 逆探知される危険だってあるのに」
「そうだなあ。——しかし、かけてよこすからには、何か理由があるんだよ、きっと」
「それは待つしかないわね」
と、祐子は言った。「それより、織田との話をつけなくちゃ……」
何かを決心したときの祐子の顔は厳しい。僕の腕の中で甘《あま》えて来る祐子とは別人のようだ。しかし、この祐子もまた、魅《み》力《りよく》的《てき》ではあった。
「池沢さん!」
と、声がした。僕と似た名の池山刑事である。
「——何ですか?」
とドアを開ける。
「電話です! 鳴っています。出てみて下さい!」
「でもまだ時間は——」
「ともかく早く!」
僕はせかされながら、階段を降りて行った。