「——申し訳ありません」
と、池山刑事は頭をかいた。
「なあに、構いませんよ」
僕は至っておおらかなところを見せた。ワッハッハと笑おうかと思ったが、考えてみたら、僕は今、女房を誘拐されているはずなのだ。笑うのはまずい、と気付いて、
「ワッ」
だけ言って、口を閉じた。
池山刑事が詫《わ》びているのは、要するに、急いで出た電話が、株を買わないかというセールスだったからである。
それにしても、最近のセールスマンは無精になったものだ。
僕は居間を出ようとした。
「失礼——」
と、織田が伸《の》びをしながら言った。「なあ池山」
「はい」
「コーヒーが欲しいところだな」
「そうですね」
「お前、ちょっと車で行って買って来いよ」
「コーヒーをですか?」
「この先のドライブ・インで売ってたぜ」
「でも……電話が……」
「俺がついてる。任せとけよ。こんな物、一人いりゃ充分だ」
「分りました」
池山という若い刑事は、言われるままに、家を出て行った。車の音が遠ざかる。
「——お座りなさいよ」
と、織田が言った。
「僕に話でも?」
「もちろんですよ。でなきゃ、どうして池山を使いに出しますか」
織田はタバコをくわえて火を点《つ》けた。「——どうです、あの智枝は」
「彼女の名は早川祐子です」
「ああ、そうでしたね、今は」
織田は愉《ゆ》快《かい》そうに、「——どんな名前でも、智枝は智枝です。私にとっちゃね」
「刑事さん」
僕は怒《いか》りを抑えて言った。「いいですか、彼女はもう立派に立ち直っているんです。それなのに昔のことを暴き立てることはないじゃありませんか」
この正論の前には、どんな反論もあり得ない、と僕は信じていた。——事実、反論はなかった。
ただ、織田は声を上げて笑ったのだった。
「いいですか」
織田は僕を愉快そうに眺《なが》めながら、「あなたはかなり彼女にいかれておられるようですが、忠告しておきますよ。あの女は、男を手玉に取って生きて来たのです。あなたのような、金のある、単純なお人好しなどは、正に絶好のカモですよ」
「ご心配はありがたいですが——」
と立ち上ろうとした僕の肩《かた》を、織田はぐっと押《おさ》えた。いくら落ちぶれたとはいえ、やはり刑事だ。力はあって、僕はソファにまた座り込んだ。
「悪いことは言いませんよ」
と、織田は言った。「あの女と組むのはおよしなさい。あなたの命にかかわる問題ですよ」
「大きなお世話ですよ」
「なるほど」
織田は肯いて、「これはかなり重症かもしれないな。もう手《て》遅《おく》れでないといいんですがね」
織田は、僕が黙っているのを、しばらく眺めていたが、その内、僕の方へ素早く寄って来た。僕はギョッとして逃げようとした。
「いや、ご心配なく。何もしませんよ」
と織田は軽く笑った。
そして、不意に真顔になって、言った。
「奥さんはどこです?」
僕はギョッとした。しかし、すぐに平静に戻って、
「誘拐犯に訊いて下さいよ」
と言ってやった。
織田は首を振って、
「あなたのためだ。早くしゃべっちまいなさいよ」
「知らないものは——」
「そうですか。せっかくあなたを助けてあげようとしたのに」
「僕より女房を助けてやって下さいよ。仕事でしょ」
「奥さんは……たぶん、もう死んでる」
と、織田が独り言のように言って、「違いますか?」
「知りませんよ」
「誘拐されたことにして、身代金を払う。だが、もちろん受け取るのもあなただ」
「何の話を——」
「とぼけるのはおやめなさい」
織田は遮った。そして、
「何も、全部よこせと言ってるんじゃない、半々でどうです? 五千万だって、安いもんですよ、刑《けい》務《む》所《しよ》暮《ぐら》しのことを考えれば」
僕は何も言わなかった。返事をするだけむだなような気がした。
それに、返事をするにも、下手《へた》なことを言って足を——いや、尻《しつ》尾《ぽ》を出す心配がある。
何といっても、考えるのは、祐子の係である。
「まあいい」
織田は、ニヤリと笑った。「あの女とゆっくり相談するんですな」
しゃくにさわるくらい、こっちの考えていることが分っているのだ!
二階の、美奈子の部屋へ行くと、まだ祐子が待っていた。
「遅《おそ》かったのね。何があったの?」
「織田って奴としゃべってたんだ」
僕は、織田の話の中身を伝えた。
「そう……」
と、祐子が考え込む。
「どう思う?」
「少なくとも、織田は、私たちが、美奈子さんを殺したと思ってるわ。でも、証《しよう》拠《こ》は何もない。あくまで想像よ」
「うん、それは確かだ」
「あっちの強味は、私の秘密を握《にぎ》っていることだわ。もちろん、それだけで罪にはならないけど、あれこれ探られるし、その内には、この計画もボロが出て来る」
「じゃ、どうしよう?」
「取りあえず、身代金の一部をやると言って、安心させるのよ。それしかないわ」
「どれくらい?」
「半分でもいいけど——あんまり素直に受け容れたんじゃ、却《かえ》って怪《あや》しむわ。ここは、三分の一ぐらいで手を打つのよ」
なるほど、彼女の言葉は実に理《り》屈《くつ》に基づいていて、説得力がある。しかし、僕はこういう交《こう》渉《しよう》の役というのは、てんで苦手なのだ。
すぐ相手の言い分を鵜《う》呑《の》みにしてしまうくせがある。僕が交渉したんじゃ、身代金を全部、織田へ持って行かれかねない。
「しかし、僕はちょっと……」
と渋《しぶ》っていると、優しい彼女はすぐにそれを察して、
「私に任せて」
と立ち上った。「織田と話をして来るから」
「僕もついて行こうか?」
「いいのよ。一対一の方が話しやすいわ」
「分った。気を付けて」
「大丈夫よ」
祐子は微笑んで、部屋を出て行った。
やれやれ、これで安心だ。——全く、祐子というのは頼りになる。
きっと織田を巧く丸め込んでしまうに違いない。祐子に任せておけば、何もかも巧く行く……。
いささか、我ながら頼りないとは思ったが、人間、向き不向きというものがある。
僕は、仕事や、面《めん》倒《どう》なことが嫌いなのではない。ただ、「向いていない」だけなのである。
——安心したら、少し眠くなって来た。
疲れているのだ。何しろ昨日以来、僕は実に良く働いている。
少し横になろう。——美奈子のベッドに、僕は横たわった。
そういえば、ベッドの下に浮浪者の死体があったっけ。しかし、そんなこと、構やしないのだ。
ともかく寝よう。
僕は目を閉じた。羊を一つ、二つと数えたとしたら、四つと数えない内に、眠り込んでいたのに違いない。
「——社長!」
という凄い声で、僕はベッドにはね起きた。
「吉野か。——何だ、一体?」
「お電話です」
「代りに出とけよ」
「しかし——」
「そのための秘書だろ」
と僕はまた横になった。
「ですが……誘拐犯からなんです」
僕は起き上った。
「どうして、それを早く言わないんだ!」
——居間へ降りて行くと、祐子が、受話器を持って立っていた。
添田たちも戻って来ていた。もちろん、みんな一言もしゃべらない。
僕は祐子から受話器を受け取った。——祐子が、いやに冷ややかな、固い表情をしているのが、ちょっと気になった。
しかし、こんな場合である。そう愉《たの》しげな表情もしていられないだろう。
添田が近寄って来ると送話口を手でふさいで、
「できるだけ長びかせて下さい!」
と囁いた。
僕は肯いた。そして受話器を耳に当てながら、部屋の中に、あの織田の姿が見えないことに気が付いた。
「もしもし……」
と僕は言った。
「やっと出たか」
その声が言った。「時間がない。逆探知されちゃかなわんからな」
「いや、そんなことはしてないよ」
「分るもんか。——いいかね、一億円だぜ」
「分ってる」
僕は、吉野の方をチラッと見た。この電話をかけているのは、やはり吉野ではないのだ。
「美奈子は無事か?」
と僕は訊いた。死人のことを無事か、と訊くのは、何となく照れくさい。
「ああ、元気だぜ」
と向うはでたらめを言う。
そこへ、添田刑事が、何やら紙を僕の目の前に差し出す。鼻をかめ、というのかと思ったら、〈奥さんと話をさせろと言って下さい!〉と走り書き。それにしても下手な字である。
「あ、あの——美奈子と話をさせてくれ」
無茶を承知で僕は言った。
ところが、向うの男は、
「いいとも。待ってな」
と答えたのだ。
これにはびっくりした。
どうやって死人に口を開かせるのか。呆《あつ》気《け》に取られて待っていると、
「もしもし、あなた?」
と、女の声が伝わって来た。
誰《だれ》の声だろう? 確かに、美奈子に似た声ではあっても、明らかに別の女だ。おおかた似た声の持主を捜《さが》したのだろう。
「美奈子、大丈夫か?」
「ええ、私は何ともないわ」
「心配するなよ、落ち着いて——」
男の声が遮る。
「もう切るぜ。じゃ、一億円。一円たりと欠けるなよ」
と凄んで、それで電話は切れた。
僕は添田の方を見た。
「——希望がありますな」
と添田は言った。「あれだけ時間があれば……」
もう一本、警察用に持って来た電話が鳴って、添田がすぐに出た。
「どうだ?——そうか。仕方あるまい」
「だめですか?」
と、そばにいた刑事が訊く。
「うん。——残念だが、もう一歩のところらしい。お手数でした」
「いいえ」
僕は、室内を見回して、「織田さんって方は?」
「それが妙でして……」
と、添田が頭をかいた。「無断でどこかへ行ったっきり戻らないんですよ」
僕は祐子の方を見た。——祐子の表情は相変らず、人形のように動かなかった。