「——どうしたの?」
と、祐子が、優しく訊いた。
「うん……」
「元気ないわね」
「そんなことないよ」
「大丈夫?——ショックだったのね、奥さんが大倉に、あなたを殺すように頼んだってことが」
——ここは僕の部《へ》屋《や》で、ドアもきちんと閉っている。もちろん、僕と祐子は、身を寄せ合って、声をひそめて話をしているのである。
「まあ……少しはね」
と僕は言って、ベッドにゴロリと横になった。「だけど、別にそれは、美奈子に未練があったとか、そんなことじゃないよ。ただ……何て言えばいいのかな……」
「分るわ」
と、祐子が言った。「あんなに堪えていたのに、どうして殺されなきゃいけないのか、それが哀《かな》しいのね」
「そう。そうなんだ」
「奥さんに、精一杯尽《つ》くしていたのに、そんな風にお返しをされて、悔《くや》しいのね」
「うん。その通りだよ」
「それに——」
「君の言う通りだよ」
「まだ言ってないわ」
「ああ、そうか」
「元気出して。——奥さんを殺したのも、こうなれば正当防衛じゃないの。却って気が楽になったでしょ」
「そうだね。そう言えば、少し気持が軽くなったみたいだ」
「でも、良心の呵責からは完全に逃《のが》れられない……」
「うん。心が重いよ」
どっちなんだ?——自分でも分らなくなって来た。
「しっかりして……。私がいるじゃないの」
祐子は、僕の上にかがみ込むと、キスして来た。その唇《くちびる》の柔《やわ》らかさ……。
「私……あなたなしじゃ、だめなのよ」
「うん……」
「だから、しっかりして……。私を抱《だ》き止めてね……」
僕は祐子を固く抱きしめ、ベッドの中へと転り込んだ。
ジャーン、と音楽の高鳴る、感動的なラブシーンである。だが、現実はそううまく行かない。
祐子はヒョイと起き上って、
「大倉の話、本当だと思う?」
「美奈子が僕を殺してくれと頼んだ件かい? どうかな」
「奥さんに会ったときのことを、詳しく話してたわ」
「うん。確かに、奴の言ってた服は美奈子のよく着ていたやつだね。特別に注文しているから、同じものはないよ」
「じゃ、やっぱり本当に——」
「でも話の中身が本当かどうか、分らないじゃないか」
「三百万円で、夫を殺してくれ……。あの男なら、引き受けてもおかしくはないわね」
「でも、どうして僕を殺そうなんて、考える?」
と、僕は訊き返した。「美奈子は、それでなくたって、好き勝手にしてたんだぜ。別に僕を殺さなくても、好きなことをやれるはずなんだ。そうだろう?」
「そうね……」
と祐子も考え込む。「だけど、大倉が、あんな嘘《うそ》をついて、得になることなんて、ある?」
「それが分らないんだ」
「嘘をつく理由がないわ」
「やっぱり本当なのかな……」
「待って」
祐子は、ベッドからヒョイと降り立つと、部屋の中を歩きながら、「——あなたが死んだら、どうなるか。それを考えるのよ」
「あんまりありがたくないね」
「仮定の話よ!——あなたが死んで得をする人……」
僕はガバッと起き上った。
「そうか!——僕の財産!」
「あなたの保険金!」
「僕の地位!」
「あなたの貯金!」
「僕のパンツ!」
そんな物、誰も欲しがりゃしないだろうが、ともかく、美奈子は、僕の財産を自分のものにしようとしていたのだ。
「そうよ! いくら奥さんがいばっていても、財産はあなたのものなんですもの」
「それを美奈子は手に入れようとしてたんだな? 畜《ちく》生《しよう》!」
僕は、つくづく美奈子を先に殺しておいて、良かった、と思った。さもなければ、こっちが殺されるところだったのだ。
「でも、大倉は先週の月曜日に奥さんに頼まれたと言っていたわ」
「週末に殺してくれ、と……」
「その間、奥さんはどこかへ旅行に出ていて、アリバイを作る。留守を一人で過しているあなたを、大倉が殺しに来る……」
「でも奴は、気が変った。三百万で殺人は安すぎる」
「それでもう一度交渉しようと思って、この近くへ来た。偶然、昔の仲間に出くわし、一緒に戻った……」
「その間に、肝《かん》心《じん》の依頼主が死んじまったってわけだ」
「納得できないわ」
と祐子が言った。
「僕もだ」
と肯いて、「——何が?」
「それぐらいのことで、あんなに大倉が暴れる? だって、大倉は、奥さんから、あなたを殺してくれと頼まれたかもしれないけど、実際には何《ヽ》も《ヽ》してないのよ」
「うん、そうか」
「ね? そんな話、冗談だと思った、で済むじゃないの。——あんなにしてまで、逃げようとするはずがないわ」
「すると、あいつ、やっぱり何《ヽ》か《ヽ》やらかしてるんだな」
「それしか考えられないわ」
と、祐子は肯いた。「——ああ、残念ね。もっと大倉をここに置いといて、話をさせるんだったわ」
大倉は、池山がついて、連行されて行ったのである。
ドアをノックする音がして、スッと開くと、
「失礼します」
と、添田が入って来た。
どうも、この刑《けい》事《じ》が来ると、ろ《ヽ》く《ヽ》なことがない。
「三千万円の件ですが——」
と、添田が言い出す。
「ああ、そうだ。さっきのメモだと、二千六百三十一万五十円でしたね。三百六十九万円もなくなっちゃったわけだ」
「申しわけも……」
「一つうかがいたいんですが、あの五十円ってのは?」
「はあ。それは私からの、ささやかなお詫《わ》びの気持でして」
五十円じゃ、正にささやかだ!
「足らない分は、警察で出してくれるんでしょうね」
「その点については、今、上司とも相談いたしまして、全額補償させていただくことになりました」
当り前だ! しかし、僕は心の広い人間である。
「それはどうも」
と、礼まで言っていたのだ。
「そこで一つご相談なのですが——」
「というと?」
「色々と予算の都合もありまして。三百六十九万円を、十年間の分割払《ばら》いではどうだろうか、と……」
僕は、添田を絞《し》め殺したい誘《ゆう》惑《わく》と闘《たたか》わねばならなかった……。
夕方になり、夜になった。——これが逆だと大変なことになるが、まあ、まずは当然の順序である。
住谷秀子を、何とか追い帰し、僕はホッとした。——秘書の吉野も、会社の仕事があるので、午後から社へ行かせた。
家には、僕と祐子、それに添田を初め刑事が三人いるだけであった。
忙《ぼう》中《ちゆう》閑《かん》あり、というか。まあ、平和なひとときであった。
夕食はたっぷりと出前を取って食べさせてやったので——実際、ここへ泊《とま》り込んでいる刑事たちは、少し太ったようだった——みんなソファで高いびきをかいている。
これは僕の作戦で、つまり、祐子と二人、のんびり楽しもうというわけなのである。
「——ああいい気持」
祐子が、バスルームから出て来る。
裸身にバスタオル一枚という軽《ヽ》装《ヽ》で、いとも色っぽい香《かお》りを発散させているのだ。
「すてきだよ」
と僕は言った。
「あんまり見ないで」
と祐子は、照れたように言った。
「ベッドに入りなよ」
「あなたもシャワーを浴びて来たら?」
「うん、そうするか」
僕は裸になって——やはり服を着たままでは風《ふ》呂《ろ》に入れないので——バスルームへ入った。
熱いシャワーをたっぷりと浴びる。——さあ、思い切り祐子を抱いて、一晩中楽しむんだ!
つい口《くち》笛《ぶえ》などが出てしまう。
バスルームを出ると、もう祐子がベッドの中から顔を出して、フフ、と笑っている。これがヒヒヒ、だと赤《あか》頭《ず》巾《きん》を待つ狼《おおかみ》みたいなことになってしまう。
「来て……」
と、祐子が手を出して僕の方へのばして来る。
僕はゴクリとツバを飲み込んだ。ゆっくりと毛布をはいで行くと、祐子の素敵な肌《はだ》が少しずつ露《あらわ》になって来る……。
明りが消えた。
「——何だ、いいじゃないか、明るくたって」
「私、消さないわ」
なるほど、そう言えばそうだ。祐子だってテレパシーでスイッチを押すわけにはいかない。
「どうしたんだろう?」
真っ暗な中で、僕は言った。
「停電じゃない?」
「参ったな」
「いいじゃないの。暗くても困らないわ」
「まあ、そうだね」
僕は笑って、手探りで祐子の体をまさぐった。祐子が僕を抱き寄せる。——突然、ドンドンという、けたたましい音。
「——何かしら?」
「階下だよ」
「ほら……。玄関のドアを叩《たた》いてるのよ」
なるほど、ドンドン、としつこくやっている。——誰だろう?
「こんな時間に。——もう十二時よ」
「押し売りかな」
「まさか」
ドンドン。
「行った方がいいわ」
「そうだね。しかし——裸じゃ——」
「懐《かい》中《ちゆう》電灯は?」
「ええと……。テーブルのわきに下がってるんだけど——どの辺かな?」
暗闇の中では、どこがどれやら分らない。椅《い》子《す》にぶつかったり、スタンドをけっとばしたりして、やっと探し当てる。
「私、持ってるわ。——早く服を着て。まだやってるわ」
「下の刑事たち、何やってんだろう? あれじゃ、暴力団が攻めて来たって起きないぜ」
僕は急いで服を着た。
「待ってて。私も着るわ。——いいわ、早く下へ」
「うん」
僕と祐子は、懐中電灯一つを頼りに、階段を降りて行った。正に玄関のドアを叩き壊《こわ》しそうな勢いで叩いているのに、刑事は一人も起きて来ない。
「全く、たるんでる!」
と僕は言った。「強《ごう》盗《とう》だったらどうするんだ!」
「でも、強盗なら、ドアを叩いたりしないわ」
それもそうだ。——僕は玄関の所へ行って、
「誰だ!」
と声をかけた。
「開けて下さい! 早く!」
と、叫《さけ》ぶような声。
「まあ、池山さんよ!」
僕がドアを開ける。池山が転り込んで来た。光で照らして、祐子が、
「キャッ!」
と声を上げた。
池山は、顔が血だらけだった。
「どうしたんだ!」
「——大倉が——大倉の奴が——」
と、池山が喘《あえ》ぎながら言った。
そのとき、居間の電話が鳴り出した。僕は祐子と二人で、池山を居間へ運び込み、受話器を取った。
「——やあ、大倉だよ」
「何の用だ?」
「約束を果そうと思ってね」
「約束?」
「あんたの奥さんに頼まれた仕事さ」
「仕事って……。おい! 待てよ!」
「ついでにそこにいる刑事さんたちも死んでもらうぜ。いいか。それで電話線も切ってやる。電気も止めた。——ゆっくりと一人ずつ料理してやる。じゃ、後でな」
「おい!——何だっていうんだ! おい!」
電話は切れ、そして、何の音もしなくなった。
僕は呆《ぼう》然《ぜん》として、突《つ》っ立っていた。
「——どうしました?」
暗がりの中で、添田の声がした。