人と話をするとき、相手の表情が見えるというのが、どんなに便利なものか、僕は改めて痛感した。
まあ、そんなに大げさに言うほどのことでもないかもしれないが、要するに、凶《きよう》悪《あく》犯《はん》大倉の手で、電気も電話も切られてしまったので、僕は、真っ暗な中で、大倉の話の内容を、添田刑事へ伝えなければならなかったのである。
しかし、添田刑事がどんな顔で聞いているのか分らないので、しゃべっていても不安だった。話の中に、
「分りますか?」
とか、
「聞こえますか?」
とか(目の前にいるのに、だ)挟まなくちゃ気が済まないのだから、妙《みよう》なものである。
話の途《と》中《ちゆう》に向うが、
「なるほど」
とか、
「それは大変だ!」
とか、言ってくれりゃいいのだが、黙《だま》ったまま何とも言わない。
しまいにはイライラして来て、
「分ってんですか? 分ってるなら、何とか言って下さいよ」
と言ってやった。すると、
「ちゃんと肯いてるじゃありませんか」
と来た。
真っ暗な中で、肯かれたって、分るはずがないじゃないか!
添田の顔を見たいと思ったのは、このときが初めてだった。思うぞんぶん殴ってやるのだが。
「どうします?」
と僕は言った。
しばらく、返事はなかった。そして、急にわきの方で、
「これは容易ならん事態ですぞ」
と声がしたので、僕は仰天した。
「どこにいるんです?」
「ソファに座ってるんです。記《き》憶《おく》を頼《たよ》りに見付けたのですよ。私は、記憶力には自信があるのです」
変なところで自《じ》慢《まん》をしている。
チラチラと明りが揺《ゆ》れて近づいて来る。祐子が、ローソクを手に入って来た。
「停電用の太いローソクが何本か台所にあったんです」
と、祐子は言った。「あちこちに立てておきましょうか」
刑事たちよりよほど行動力がある。
「大倉は、あなただけでなく、我々も殺してやると言ったんですね?」
「ええ」
「ふむ……。しかし、おかしい。あなたはともかく、どうして我々を狙《ねら》うのか……」
「僕は殺されてもいい、っていうんですか!」
と食ってかかると、
「いや、そんな意味じゃありません」
と、あわてて言った。
「ともかく、池山さんの手当をした方がいいのじゃありません?」
と、祐子が言った。
そうだった! 池山は顔を血だらけにして、床《ゆか》に座り込んでいるのだ。話をしている間、放ったらかされていたのだった。
「そうだ!」
添田が立ち上ると、池山の方へ駆《か》け寄った。傷を心配してのことか、さすがに多少は部下思いなんだな、と思っていると、添田は、何と傷ついている池山を、
「お前が逃げられたりするからだぞ!」
と言うなり、突き飛ばしたのだ。
これには唖《あ》然《ぜん》とした。他の二人の刑事も愕《がく》然《ぜん》として立ちすくんでいる。
祐子が素早く池山へ駆け寄って、
「けがしている人にそんなことをしてはいけません!」
と、キッと添田をにらみつける。
そのポーズ、正に千両役者の大み《ヽ》え《ヽ》というところで、「早川屋!」と、声をかけたくなった。
添田は、たじたじとなったが、
「しかし——刑事としての責任を取らねばなりません! どいて下さい!」
と応戦する。
「この人を殴るのなら、代りに私を殴って下さい!」
と、祐子が言った。
彼女が殴られちゃかなわない。僕はあわてて、添田の肩へ手をかけ、
「ねえ、今はそれどころじゃないでしょ?」
と声をかけてやった。
「そうです! それどころではない!」
よくまあコロコロ変る男だ。
「——大倉は一人ですよ」
と、少し落ち着きを取り戻した添田が言った。「大したことはできゃしません」
「しかし、現に、ここにいる人間を皆殺しにすると——」
僕の言葉を添田は笑って遮った。
「それは、奴の強がりです。つまり——そう、いわば、イタチの最後っぺというやつです」
あんまり上品な比《ひ》喩《ゆ》とは言えないので、僕のように育ちのいい人間は眉をひそめた。
「大体、大倉は一人で、しかも武器もない。どうやってここにいる五人を殺せるというんです?」
僕はちょっと居《い》間《ま》の中を見回して、
「六人でしょ?」
「池山は人間には入りません」
と、添田は冷ややかに言い放った。
「あの……」
祐子の手で、頭にグルグルと白い包帯を巻かれた池山が言った。
「何だ、文句があるのか?」
と添田がにらむ。
まるでやくざである。
「いえ……。でも、大倉は武器を持っているんです」
「武器を?」
「そうです」
「何だ? 棍《こん》棒《ぼう》か、チェーンか、光《こう》線《せん》銃《じゆう》か?」
そんな物、持ってるはずがない!——池山は恐《おそ》る恐る言った。
「僕の拳《けん》銃《じゆう》です」
——添田の顔から、徐々に血がひいて行った。
「貴様……」
と、今度は逆に顔を真っ赤にして池山の方へ近寄る。
池山は、素っ飛んで、祐子の後ろに隠《かく》れてしまった。だらしのない刑事だ。
「早く逃げましょう!」
刑事の一人が言った。
「馬鹿! 敵に後ろを見せる気か?」
ともう一人が応じる。「大倉が来たら、とっ捕まえりゃいいんだ」
「じゃ、お前やれよ」
「やるとも。今から行って、応《おう》援《えん》を呼んで来るからな」
と、さっさと玄関の方へ歩き出す。
何のことはない。逃げ出したいのである。
「待てよ、ずるいぞ!」
と、もう一人が追いかける。
「危いわ」
と、祐子が言った。
「え?」
「だって、大倉はこの家の電話も電気も切ったんでしょ? じゃ、すぐ近くにいるはずだわ。今、出て行くと——」
そうか。僕は、
「おい、待てよ!」
と呼びかけたが、もう、一人は玄関のドアを開けていた。
鋭《するど》い銃声が、響《ひび》き渡《わた》った。先頭の刑事が、弾《はじ》かれるように仰《あお》向《む》けに倒れた。
「ドアを閉めて!」
祐子が走り寄ると、ドアを閉め、鍵《かぎ》をかけた。そして、倒れた刑事の方へかがみ込んだが……。
「——死んでるわ」
と言った。
僕も添田も池山も、もう一人の刑事も、声もなく、その死体を見おろしている。
大倉の拳銃の腕は、かなり確かなようであった。——その刑事の額の真ん中に、弾丸はみごとに命中していたのである。
「大倉は馬鹿じゃありませんよ」
と、添田は言った。
あんたは馬鹿だよ、と言ってやりたかったが、やめておいた。
「少なくとも、ここには刑事が二人もいるのです」
相変らず池山をのけ者にしているのだ。「そう簡単に襲って来るはずはありません」
「でも——そうかしら」
と祐子が不安気に言った。「何しろ向うは人殺しなんか何とも思ってないんでしょう?」
「そこです。一人やれば二人も三人も同じだ、ということになりがちですからね」
「——どういう手を打ちます?」
と僕は言った。
「一つは、このまま油断なく見張っていて、襲って来られないように用心し、朝まで待つという手です」
と添田は言った。「朝になれば交《こう》替《たい》が来るはずで、そうなれば、大倉も手は出せませんからね」
「それまで向うが黙って待ってますかね」
「それです。じっと待っていたのでは相手の出方が予測できないだけに、却って危険とも言える」
「すると——?」
「罠《わな》をしかけるのです」
「罠?」
「わざと一人が囮《おとり》となって、外へ出て行き、大倉を誘《さそ》い出して、逮《たい》捕《ほ》する。前の方法を、消極的対応と名付けるとすれば、こっちは積極的方法とでもいうべきものでしょう」
呼び方なんてどうだっていいのだ!
「そりゃまあ悪くないとは思いますがね」
と僕は言った。「誰が囮になるんです?」
「そりゃまあ……」
添田が、チラと池山の方を見る。
「い、いやですよ!」
池山がまた飛び上って、祐子の後ろへ隠れる。どういう刑事なんだ?
「僕は若いんです! これから人生を楽しまなきゃいけないんです! こういう場合は年長の人間が行くべきです!」
「馬鹿! 指揮官が最前線に出て死んでしまったらどうなる!」
「今は核《かく》戦争の時代ですよ!」
「だから何だ!」
「指揮官も兵隊もありません! 死ぬときは一緒です!」
あのねえ……。この分じゃ、議論してるだけで夜が明けちまう。いや、無事に明けりゃいいが、明けたときは、一人も生き残ってなかったってことになりかねない。
「——意見があります」
ともう一人の刑事が言った(なぜか名を知らないのだ)。「我々はここになぜいるのでしょう?」
何だか急に哲《てつ》学《がく》的《てき》になって来た。我思う、ゆえに我あり。
「我々は大倉と戦うために来たのではありません」
と、某《ぼう》刑事は、言った。「我々は、池沢夫人誘《ゆう》拐《かい》事件の捜《そう》査《さ》に来ているのです」
それはそうだ。
「しかるに、大倉が池沢氏を狙っているのは、夫人の誘拐とは無関係と考えられます」
「それで?」
と、添田が促《うなが》す。
「従って、大倉と池沢氏との個《ヽ》人《ヽ》的《ヽ》問題に、我々は口を出すべきでないと考えます」
僕は呆《あつ》気《け》に取られた。
「ちょっと待って下さいよ!——個人的問題ですって? 僕が殺されそうだってのを、担当じゃないからって放っとくって言うんですか?」
「論理的には正当だな」
と添田が肯く。
「正当ですって? 冗《じよう》談《だん》じゃない、僕は——」
「いや、決してあなたを見捨てはしません」
「後でお線香を上げてもらっても、一向に嬉《うれ》しくありませんよ」
「いや、こうしようと思うのです」
と添田が身を乗り出す。
こういうときは、ろくなことを言い出さないのである。
「大倉にとって、目標は、まずあなたです。他の人間は、そのついでに過ぎない。あなたが出て行けば、必ず奴は出て来ます。我々がそこを待ち構えて——」
「冗談じゃない! 僕が死にゃいいとでも思ってるんですか?」
「いや、そんなことは——」
「仇《かたき》は討ちますよ」
と、もう一人の某刑事が言った。
「ともかく、誰も死なずに奴を逮捕する方法を考えましょう」
と、珍《めずら》しく池山がまともなことを言い出した。
やはり、いくらかは責任を感じているのかもしれない。
「でも、大倉は言わば自由ですわ」
と祐子が言った。「どこからどうやってでも、攻《こう》撃《げき》して来られます。防ぐのは難しいわ」
「なあに、でかいこと言うだけですよ」
と、添田がまた突然楽観的になる。「あんな奴は頭の中は空っぽですからな。——おい、タバコはやめろ」
誰もが顔を見合わせた。そう言えば、何となく煙《けむり》が漂っている。
「火事だわ!」
と、祐子が叫んだ。「台所よ!」
僕らは台所の方へと走った。
台所は凄《すご》い煙だった。一寸先も見えない。むせ返り、煙が目にしみて、涙《なみだ》を出しながら、必死で火元を捜《さが》した。
シューという音がして、
「消したわ」
と、祐子の声。「——もう大丈夫。ただ、椅子の中の詰め物に火を点《つ》けたんですわ」
「やれやれ……」
添田もホッとした様子で、「我々を焼き殺そうとしたのだろうが、みごと失敗しやがって」
と笑った。
「いいえ」
と、祐子が首を振る。「火事にする気はなかったんですわ。だって、火事にするのなら、カーテンにでも火を点ければいいんですもの。煙を出したかっただけなんでしょう」
「しかし、どうして——」
と僕が言いかけると、祐子はハッとしたように、
「居間に誰かいるんですか?」
と訊いた。
とたんに、居間の方で銃声が響き渡った。