居間へ駆け戻ると、あの某《ヽ》刑事が、うめきながら倒れている。
「大倉が——畜生!」
足を撃《う》たれている。
祐子が、ソファへ寝《ね》かせた某刑事の足を、布できつく縛《しば》った。
「大倉の奴、また外へ行きましたよ」
と某刑事が言った。「わ《ヽ》ざ《ヽ》と《ヽ》足を狙いやがったんです。あの野郎! どうせなら殺せばいいのに!」
本当にいいのかしら、と僕は思った。
「あの煙は、注意を引きつけるためだったんですわ」
と、祐子は言った。「やっぱり何か手を打たなくては。このままじゃ、みんな殺されてしまいますわ」
「うむ……」
添田は腕組みをした。「一時的に休戦を申し入れ、その間に逃げますか」
「そんな呑《のん》気《き》なこと……」
「じゃ、どうしようってんです?」
添田に訊かれて、僕は頭に来た。そういうことを考えるために刑事がいるんだろうが! 税金泥《どろ》棒《ぼう》め!
「待って下さい」
と、祐子が言った。
みんながシンとする。——添田が何か言い出すときは、ろくに聞いていなくても、祐子となるとみんなの態度が違《ちが》うのである。
「——私が囮になります」
と祐子は言った。
みんなが唖然とした。
「だめだよ、そんなこと!」
と、僕は思わず言った。
「大丈夫ですわ」
と祐子が微《ほほ》笑《え》む。「大倉だって、女をすぐには殺さないかもしれません。それに、万一のことがあっても、私ならそんなに困る人はいませんが、社長に亡くなられては、大勢の社員が困ることになりますもの」
——しばらくは誰《だれ》も口をきかなかった。
みんな、祐子の、崇《すう》高《こう》な言葉に打たれていたのだ。自己犠《ぎ》牲《せい》、などという前世紀の美徳が、ここに残っていたのである!
「——いけません!」
と叫んだのは、池山だった。「あなたがそんな危険を冒《おか》すことはない。僕が行きます。死んだら、花の一輪でも供えて下さい」
「いかん!」
と、添田も、さすがに進み出て、「花より団子にすべきだ」
ともかく、何か言わなきゃいけないと思っているらしいのだ。
「いいえ、ご心配なく」
祐子は穏《おだ》やかに、「私に任せて下さいな」
と言った。
「でもね——」
「社長、こちらへ……」
祐子が僕を促して、食堂の方へと入って行く。——二人になると、
「一体どういうつもりだい?」
と僕は声を殺して言った。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。任せて」
「だめだよ! 殺されたら死んじまうんだぞ!」
と僕は厳《げん》粛《しゆく》な事実を述べた。
「ねえ考えて。大倉がただ行き当りばったりに、何人もの人間を殺すはずがないわ。あの男、そんなに馬鹿じゃないわよ」
「しかし現に——」
「あの刑事は、あなたと間違えられたんじゃないかしら。ともかく、私が行けば、大倉はすぐには撃って来ないと思うの」
「もし撃って来たら?」
「大丈夫よ」
祐子は素早く僕にキスした。「——私、大倉を死なせたくないの」
「というと?」
「あなたの奥さんに、あなたを殺すように頼まれたと言ってたけど、本当のことを聞き出したいのよ」
「なるほど。でも、危いと思うけどな……」
「私は運が強いのよ。心配しないで」
と、祐子は微笑んで、もう一度キスした。
心配する度にキスしてくれるのなら、一日中でも心配していたいと思った。
「——じゃ、ここにいて下さい」
と、玄関のドアへ手をかけて、祐子は言った。
「安心しなさい。奴の姿が見えたら、一《いつ》瞬《しゆん》の内に仕止めてやる」
と、添田がまた出まかせを言っている。
「それじゃ、行きます」
祐子は、まるで近所へ買物にでも行くという様子で、ドアを開けた。
僕は息を呑《の》んだ。——凄い霧《きり》なのだ。
白く、大気が濁《にご》ったように淀《よど》んでいる。これでは大倉の姿など、見えるはずがない。
「おい、待てよ」
と声をかけたときは、もう、祐子の姿は、白い霧の中に飲み込まれていた。
「こりゃ凄い」
と、添田はポカンとしている。
「早く何とかしなさいよ! 刑事でしょう!」
「しかし、霧だけはいくら刑事でも、どうにも……。気象庁のお天気相談所に電話して、いつ晴れるか訊いてみましょう」
「何を呑気な——」
と言いかけたときだった。
霧を貫《つらぬ》いて、鋭い銃声が耳を打った。
僕は凍《こお》りついたように、その場に立ちすくんでいた。——祐子!
「——危い!」
池山が僕をぐいと玄関へ引き戻した。知らずに外へ出ようとしていたらしい。これぞ、僕の純《じゆん》粋《すい》な愛の証《あか》しである。
ドアを閉めて、息を吐《は》き出すと、僕はその場にへたり込んでしまった。
「——やはり危険でしたな」
と、添田が分ったようなことを言い出す。
「こいつ!」
僕はカッとなって、添田につかみかかった。
「な、何をするんです!」
「どうしてくれる! 彼女が死んじまったら、貴様のせいだぞ! この能なし刑事め!」
「そ、そんなことを言われても——」
と、添田は目を白黒させている。
そのときだ。どこかの窓ガラスが派手に割れる音がした。
「何だ、あれは?」
バシャッ、バシャッと水のはねるような音がした。
「おい、見て来い」
と、添田が言った。
池山が居間のドアを開けると、あの某刑事が、よろけ出て来たと思うと、
「大倉が——」
と一言、バタッと倒れた。
その背中に、ナイフが突き立っている。居間は真っ暗だった。
あの水の音から考えて、大倉が浴室あたりから侵《しん》入《にゆう》し、手おけに水をくんで来て、居間のローソクに水をかけて消したのに違いない。
「おい、退《さ》がれ、危いぞ」
と添田が言った。
刑事が二人やられ、祐子も霧の中に消えた。僕と添田と池山の三人という、我ながら頼りないトリオが残ったのである。
「——ど、どうしましょう?」
と、池山が口ごもる。
「こっちは、三人、向うは一人だ! 怖《こわ》くなんかない!」
という添田の声も震《ふる》えている。
「で、でも、どこから来るか分りませんよ」
それはその通りだった。
こっちは、懐中電灯一つだ。照らせる範《はん》囲《い》は限られている。
「——よし、あの地下室へ行こう」
と添田が言った。
「またですか?」
と、池山が情ない顔で言った。
「あそこにいれば、大倉は階段からしか来られない。ここよりは安全だ!」
なるほど、と僕も思った。——うかつにも、添田の言う、もっともらしい理《り》屈《くつ》にのせられてしまったのである。
僕らは、地下へ降りて行った。
「——さあ、これで安心だ」
と、添田が息をつく。
「でも、いつ大倉が来るかも知れませんよ」
「そうだな。お前、見張ってろ」
池山も、ここは文句も言わずに従って、階段の下にうずくまるようにして身構えていた。
少し落ち着くと、やはり後《こう》悔《かい》の念が僕を圧《あつ》倒《とう》した。——祐子を行かせるのではなかった。
今《いま》頃《ごろ》、寂《さび》しく、霧の中で死んでいるのかもしれないと思うと、やり切れない思いだった。
「池沢さん」
と、添田が僕の肩へ手をかけて、言った。「お気の毒だとは思いますが、人間、避《さ》けがたい運命というものはあるものです」
僕はムッとして、
「彼女が死んだとは限りませんよ!」
と言い返した。
「それはそうです」
と、添田は肯く。「負傷しているだけかもしれませんな。しかし、血は止らない。出血多量で徐々に意識は薄《うす》れて行く。——あるいは大倉の手中にあるかもしれません。あの愛らしさです。大倉がどこかに彼女を縛り上げておいて、我々を殺してから、ゆっくりと楽しもうとしているかもしれない。——あるいは——」
「いい加減にしろ!」
と僕は怒《ど》鳴《な》った。
全くどういう神経なのだ、この刑事は?
そのとき、銃声がして、池山が地下室へと転り込んで来た。
「——大倉です!」
「やっつけたか?」
「そう簡単にはいきませんよ」
そこへ、
「おい! 三人ともいるのか?」
と、大倉の声がした。
「何だ?」
と、僕は答えた。「彼女は無事か? どうなんだ?」
大倉は声を上げて笑った。
「——知りたいか。それなら上って来な」
人でなしめ!——僕は歯ぎしりした。
「来ないのか?」
と、大倉がからかうように言った。「それなら追い出してやるぜ」
足音が遠ざかった。
「——何をする気でしょうね?」
と、池山が言った。
「大倉に訊いてみろ」
と添田がふてくされている。「全く、どうして俺《おれ》のように普段から行いの正しい者が、こんな目に遭《あ》うんだ!」
よく言うよ、全く。——しかし、僕とて不安なことに変りはない。
ズルズルと、何かを引きずる音がした。
「何とか届くな」
と、大倉が呟《つぶや》いている。「——おい、喉《のど》が渇《かわ》いたろう。水をやるぜ」
シューッと音がして、階段の下まで水が飛んで来た。
「水ですよ!」
「フン、水責めか」
添田はせせら笑った。「古くさいぞ。たかがホースの水じゃないか。この地下室を水で溢《あふ》れさせるのには朝までかかる」
水は僕らの足もとへと広がって来た。
「ま、せいぜい風邪《かぜ》を引くぐらいだな」
と添田は強がって見せた。
しかし、そううまく行くかどうか。——確かに、我が家には、庭の手入れをするための、長いホースが何本もあるのだ。あれを全部使って、あちこちの蛇《じや》口《ぐち》から水を出したら……。
どうやら、大倉も同じように考えたらしい。少しずつ、流れ込んで来る水の量は増え始めたのだ。
たちまち水はかかとから上まで来て、やがて膝《ひざ》まで来た。
一段と増え方が激しくなる。太ももへ、そして、ついに腰《こし》まで。
「まだ朝まで大分ありますよ」
と池山が言った。
「分っとる!」
添田がわめいた。「ともかく出てみろ」
池山が地下室から階段の方へ頭を出すと、銃声がして、あわてて池山は頭を引っ込めた。
「出て行くと撃たれますよ!」
大倉の高笑いが聞こえた。
「早く出て来いよ。その内、溺《おぼ》れちまうぜ」
水はどんどん増え続けていた。
どうしたらいいんだ? 僕は、祐子が戻って来て助けてくれるのではないか、と漠《ばく》然《ぜん》とした期待を抱いていた……。