近づいてみると、大倉は、立っているというより、よりかかっているのだ、ということが分った。
ドアのわきの柱へ、もたれて、立っているのである。
「おい——」
と、池山が、そっと声をかける。「あの——失礼ですが——」
池山も、いつしか添田の感覚を身につけているらしい。
と——突《とつ》然《ぜん》、大倉は、ヘナヘナと、糸の切れたビスケットのように、いや、マリオネットのように、床に倒《たお》れてしまったのである。
「——見て下さい!」
池山が叫んだ。
「見えますよ」
と僕は言った。
大倉の背中に深々と刺《さ》さっている、肉切り包丁。——これが見えないわけがないではないか!
「不思議ですな」
と、添田が言った。
「何がです?」
と僕が訊《き》くと、添田は首をひねって、
「よく分らないところがです」
お前の方がよっぽど分らない!
「一体誰がやったんでしょう?」
と池山が首をかしげる。
「たぶん犯人がやったんだと思いますね」
と僕も、少しは馬《ば》鹿《か》なことを言ってみることにした。
「——自殺だったら楽ですがね」
と添田は言った。
「背中を刺すんですか?」
「そういう趣《しゆ》味《み》のある奴も、いるかもしれない」
「まさか。——それに動機は?」
「良心の呵《か》責《しやく》、自己嫌《けん》悪《お》、失《しつ》恋《れん》、失業——。色々と考えられます」
「大倉が失恋して自殺?」
「分りませんよ。人間は見かけによらないものです」
僕には、少なくとも、添田の案よりはしっかりした考えがあった。
「犯人は分ってますよ」
と僕は言った。
添田と池山の、唖然とした顔は、見ものだった。——僕も、名探《たん》偵《てい》の気分を、少し味わった。
「大倉を殺したのは、祐子ですよ。早川君です」
少し早過ぎたかもしれないが、言わずにはいられなかったのである。
「そうか!」
池山が目を輝《かがや》かせる。
「それは変ですよ」
と添田が言った。
「どこが?」
「それなら、彼女はどこにいるんです?」
畜生! 他人の意見にはケチをつけるんだから!
「きっと外ですよ!」
と、池山が言った。「大倉のような悪い奴でも、殺したことはショックだったんでしょう」
「なるほど」
「ですから、外へ出て、気を落ちつけてるんです」
「しかし——」
「捜して来ます」
池山はいそいそと玄関へ向う。
池山の理屈にも、種々欠《けつ》陥《かん》はあるが、しかし僕としては、添田の言うことよりは支持してやりたかった。
それにしても、本当に、祐子がやったのだろうか?
可能性としては高いと思う。しかし、確かに、それでいて姿が見えないというのは、変である。
だが、他に大倉を殺せるような人間がいるだろうか?
奇妙な事件だった。
「そうだ——」
もし、本当に祐子が外にいたとしたら、池山へ任《まか》せるのはまずい。
池山も祐子にのぼせている。もちろん祐子は僕一人を愛しているのだが、それだけに、僕が真っ先に迎えに行かないと怒るかもしれない。
「もう私を愛してないのね」
とすねて、「いいわよ、私、池山さんについて行くから」
なんてことになっては一大事である。
僕は、池山の後を追って、玄関へと出た。
池山が玄関のドアを開けようとした。
「待った! 僕も捜しに行く」
と声をかける。
池山はドアを開けて、
「じゃ、早くして下さい」
と振《ふ》り向いたまま、言った。
そのとき、一発の銃声が、夜を切り裂《さ》いて走ると、池山の胸を射《い》抜《ぬ》いた。いや、正確には、弾丸が、射抜いた。
「早くして——下さい」
くり返して、池山はバッタリ倒れた。
僕は目を疑った。——あわてて、ドアを閉める。
かがみ込んで、伏せて倒れている池山の体を起こしてみる。
弾丸は、正に、心臓を射抜いていて、即《そく》死《し》だった。
「——どうしました」
と、添田が、のんびり出て来る。
「撃たれたんです!」
「誰が?」
一体他に誰がいるというのか。
「池山さんですよ」
添田は覗《のぞ》き込《こ》んで、
「死んでますか?」
と訊いた。
何だか、魚屋で、『イキがいいですか』と訊いているみたいだ。
「そうらしいですよ」
添田は、かがみ込んで調べると、
「なるほど」
と肯いた。「死んでますな」
僕はカッとなった。——祐子がどうなっているか分らない不安や、大倉を殺した、得体の知れない誰《ヽ》か《ヽ》のことなどで、苛《いら》立《だ》っていたのだ。
「それでも、あんたは刑事か? 自分の部下が殺されても平気なのか!」
添田は急いで二、三歩後ずさった。
「いや、そんなことはありません!」
と、首を振る。「心の中では泣いているのです」
怪しいもんだ。
「——それでいて、表面上は平静でなくてはならない。辛《つら》いものですよ」
と、添田は、わざとらしく、ため息をついた。
「それより、これからどうするかを考えましょう」
僕は怒りを抑《おさ》えて、言った。
「全くですな」
と、添田は言った。「これで、我々二人になったわけです」
僕は、池山が死んでいると知ったときより、よほどゾーッとした。
「——また来るでしょうか」
と僕は言った。
添田なんかと話をしたくはないのだが、猿《さる》を相手にするよりはいい。
「そうですね。——来るかもしれないし、来ないかもしれない。どっちとも言えませんね」
あまりにつまらない返事である。
「ともかく、何か対策を立てましょうよ」
「そうですな」
「まず、相手は外にいるんです。——だからといって、中へ入っても来れる。油断は禁物ですね」
「外にいる、か……」
と、添田が意味ありげに呟く。
「何か意見でも?」
「おかしいじゃありませんか。外で殺したり中で殺したり。——どこか変です」
「じゃ何だっていうんですか?」
「私の考えでは——」
と添田は立ち上った。「犯人は、中にいます」
「というと? どこかに隠れているとでもいうんですか?」
「隠れてはいません」
僕は目をパチクリさせた。
「というと?」
「犯人は身近にいるのです」
「どの辺に?」
と僕は振り向いた。
「いや、も《ヽ》っ《ヽ》と《ヽ》近くです」
「もっと?」
「目の前ですよ」
添田が拳銃を取り出し、僕の方へとつきつけたから、仰《ぎよう》天《てん》した。
「な、何をするんです?」
「あなたを殺人容疑で逮捕するんです」
「僕を?」
僕は呆気に取られていた。「——誰を殺したというんです?」
「少なくとも、哀《あわ》れな池山は、あなたが殺したのです」
「そんな——」
「他には考えられません」
考えられない方が、どうかしているのだ!
「さあ、白状しなさい」
「冗談じゃない! いい加減にして下さいよ!」
と僕は文句を言った。
「冗談なんかじゃありませんよ」
どうやら、本気らしい——僕は怒《おこ》るより呆《あき》れてしまった。
この刑事、一体何を考えているんだろう?
「しかし、僕に大倉が殺せたはずがないでしょう」
「それはゆっくり考えます」
「だけど——」
「反《はん》抗《こう》すると射殺しますよ!」
「何もしてないじゃないですか」
「口答えも、反抗の一つです」
ひどい奴だ。——僕は頭に来て、
「馬鹿も休み休み言ってくれ! ともかく、今は、何とか二人で正体不明の犯人と闘《たたか》わなきゃ」
「だから、今、私は闘ってるんですよ」
救い難い男だ。
「いいですか。僕はともかく——」
「後ろを向いて!」
「何ですって?」
「手を上げて。壁の方に向いて立つんです」
僕は仕方なく、言われるままになった。
「いいですか、後であなたの上司に——」
だが、それを言い終らない内に、僕は後頭部をガン、と強打されて、そのまま気を失ってしまったのである。
——ひどい目にあった。
一体この世に正義はないのだろうか?
もっとも、僕が「殺人犯」であるのは、事実だ。
しかし、やってもいない殺人で、捕《つか》まるというのは、どうにも納得できない。一つ、ここは訴えてやろう。
殴《なぐ》られて倒れるまでの間に、これだけのことを、僕は考えていたのである。